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亡き夫と十七歳で再会しました~無愛想な彼に、今度は私から恋をする~  作者: 熾星


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お兄ちゃん

指されたほうを見ると、二階の隅に、見慣れた白い上着があった。大学の旧キャンパスのそばにあるケンタッキーは広く、一、二階とも床まで届く大きな窓があり、席も多く、明るかった。学生や会社勤めの人が、本を読みによく訪れていた。


 蒼介のテーブルは、窓に接していた。四時過ぎの光が縁へ落ちていた。彼は横向きになり、隣の少年のため、うつむいて解答の手順を書いていた。上着のファスナーは開き、中は黒いTシャツだった。ペンを持つ左手が、少しずつ下へ動いていた。


 休みなのに、どうしてまだ制服なのか。心の中で言いかけ、夏帆は止めた。ずっと着ているからといって、どれほど好きだというのだろう。ほかに、替える服があまりないだけかもしれない。


「お兄ちゃんが教えてる男の子は、誰?」


 何気なく尋ねたのに、千紗は真剣に答えた。


「お兄ちゃんの先生の、おうちの子」


「すごいね」


 少しもお世辞ではなかった。転校して、どれだけ経ったというのか。自分だったら、クラスの名前さえ全員覚えていないかもしれない。それなのに、彼はもう何種類もの仕事を見つけた。のちの大きな事業を思い、その金を手にする前に、一日一日をどう過ごしていたのか、少しずつ見える気がした。


 兄を褒められ、千紗も笑った。脚を揺らし、牛乳を置いて、はにかみながら、しばらく夏帆を見た。


「私、千紗」


 小さな顔を近づけ、期待に満ちた目を向けた。まだ、きちんと紹介していなかったのだと気づき、夏帆も真面目に手を差し出した。


「千紗ちゃん、こんにちは。私は夏帆。夏に、帆船の帆って書くの」


 千紗はスマホを持っておらず、連絡できる子ども用の腕時計もつけていなかった。それでも手を握れば、友達になったということだった。最初は尋ねられたことに答えるだけだったのに、自分から次々話し始めるまで、数分しかかからなかった。


 兄は母より厳しく、氷の入ったコーラは駄目で、辛いチキンウイングも食べさせてくれない。約束してくれたおもちゃつきのキッズセットも、本を読み、宿題を終えてからでないと買ってもらえない。今度のおもちゃには、プリンセスの小さな夜間ライトがある。どれもきれいで、いちばん好きなのは白雪姫だという。


 話すうちに、鼻の先にまで汗が浮いた。夏帆は幼いころからじっとしていられず、授業中も粘土のかたまりひとつで、長いこと遊べた。小学一年の少女とは、案外話が合った。会話を続けながら、警戒心も少し確かめたくなった。


「何でも話してくれるけど、私が悪い人だったらどうするの?」


 千紗は首を傾けて聞き、とうもろこしをひと口かじった。


「でも、違うもん」


「本当に悪い人が来て、連れていこうとしたら?」


「お兄ちゃんを呼ぶ」


 考える間もない答えだった。確信に満ちた小さな顔を見て、夏帆は胸が柔らかくなった。十七歳の蒼介が、どんなふうに妹の面倒を見ているのか、今日、初めてこれほど聞いた。暗くなっても、雷が鳴っても、どんな困り事があっても、ひと声呼べば、きっと何とかしてくれるらしかった。


 千紗はさらに、昼の混んだ地下鉄で、兄が席を見つけてくれた話をした。しばらくすると、声が少しずつ途切れた。


「どうしたの?」


 少女はまばたきをした。長いことためらい、それから小さく言った。


「夏帆お姉ちゃん、電池、なくなっちゃった」


 向かいの表情をうかがい、勇気を出して、片側の髪を上げた。豊かな髪の下で、耳の後ろには汗がにじんでいた。少し大きい補聴器が、肌色の固定バンドで留められ、ランプが点滅していた。


 夏帆は動きを止めた。あまりに自然に話して笑っていたので、忘れかけていた。千紗は、ずっとこの小さな機械を頼りに、人の声を聞いていたのだ。


 高校では蒼介とほとんど関わらず、妹にも会わなかった。結婚したころ、千紗は海外の、聴覚障害のある学生へ手話や学習支援を提供する大学へ行っていた。ふたりが顔を合わせたのは、年末年始など、何度かの食事だけだった。


 記憶の中の義妹は、おとなしく、きれいだった。けれど目の前の子より、ずっと内気だった。普段は口数が少なく、手話で伝えるほうに慣れていた。夏帆を見ても、はにかんで笑うだけだった。蒼介は腕のいい専門家を頼み、妹の人工内耳の手術を手配した。それでも、あとになっても話すのは大変そうで、短い文が多く、ときには七、八歳の子のように聞こえた。


 当時の夏帆は、治療が遅すぎたために、言葉の力が十分戻らなかったのだと思っていた。けれど、どこが傷つき、なぜその時期に手術を受け、術後どれだけ訓練したのか、実際には何も知らなかった。


 最後に会ったのは、蒼介の葬儀だった。千紗が、あれほど取り乱したのを見たのも、その一度だけだった。美津子は体調を崩して療養中で、家族はすぐに知らせられなかった。千紗は丸一日飛行機に乗って帰り、何も言わず、告別式の前の通夜で、夏帆と一晩座っていた。


 そのころ夏帆は意識がぼんやりしていた。どう救助されたのかも、蒼介が最後にどんな顔をしていたのかも思い出せなかった。祭壇の灯りがともり、香炉にはまだ線香が残っていた。百合の花に囲まれた黒い額縁の中で、彼は普段と同じ、冷たい顔をしていた。


 長いこと正座し、いつの間にか眠っていた。晩秋の夜は冷えた。目覚めても、隣に毛布を掛けてくれる人は、もういなかった。服を探そうと立ち上がり、遺影が元の場所からなくなっていることに気づいた。


 棺のそばで、千紗が体を丸めていた。肩甲骨の浮く細い背中だった。白黒の写真を、両腕できつく抱いていた。高価な人工内耳の体外式スピーチプロセッサーは外され、脇へ置かれていた。近づく足音も聞こえず、ただうつむいて、同じ呼び名を繰り返していた。


「お兄ちゃん……」


◇


 向かいのお姉さんは、もう長いこと何も言わなかった。千紗は髪を上げていた手を下ろし、膝できちんと重ねた。それでも顔を見ずにはいられなかった。


 地元の幼稚園では、ほかの子に補聴器を取られ、投げて遊ばれたことがあった。先生が何度か注意しても、やまなかった。最後は兄が授業を二時間さぼって迎えに来て、ようやく取り返してくれた。


 誰も殴らなかった。ただ、かがんで、太った男の子に小声で何か言い、耳へ少し触れただけで、相手は怖がって泣いた。榊野へ移ってから、兄は言った。補聴器は小さな秘密だから、気軽にクラスの子へ見せてはいけない。仲のいい子にも、同じだと。


 ずっと覚えていた。ただ、目の前のお姉さんが大好きで、うれしくなって、怖さを忘れた。千紗は疑ったことがなかった。暗くても、雷が鳴っても、悪い人に会っても、兄さえいれば守ってくれる。いちばん怖いとき、最初に呼ぶのは、いつも兄だった。母は、そのあとだった。


 小学校の女子たちは、声が小さいとか、何度呼んでも気づかないことがあるとか言って、一緒に遊んでくれなかった。兄は男の子だし、忙しい。細々した話を、聞いてもらえる相手がいなかった。今日できた新しい友達は、あんなに長く、真剣に話を聞いてくれた。やめたくなかった。


 耳の後ろのものを見せたら、お姉さんも笑って、もう来なくなるのだろうか。千紗は指をいじり、胸をどきどきさせた。顔を上げると、向かいの目の縁は赤かった。自分まで痛くなったかのように、悲しそうな顔をしていた。


 そんな反応は、思いもしなかった。慌てて手を伸ばし、夏帆の手の甲を、そっとつまんだ。補聴器の電池は切れ、声はもうよく聞こえない。相手の顔を見つめ、声の大きさに気をつけながら言った。


「大丈夫だよ、お姉ちゃん。昨日、充電するの忘れちゃっただけ。充電したら、また聞こえるから」


「お兄ちゃんが、来年、大会が終わったら、東京の大きな病院へ連れていくお金ができるって。電車に乗って、いちばんすごい先生に診てもらうの。そしたら、全部よくなるんだって」

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