鉄錆の味
彼女たちにとって、自分はどれほど都合のいい現金引き出し機だったのか。もう、細かく考えたくなかった。
【いつ、行くって言った?】
相手は少し止まり、疑問符を送ってきた。
【……水岬湖に行かないなら、どこ行くの?】
【塾。授業。】
滝沢は、金を払いたくないだけだと思ったらしい。遠回しな、機嫌を取る言葉をいくつも送ってきた。夏帆はそれ以上読まず、画面を消した。
休み明けには、到達度を確かめるテストがあった。本当に勉強し直したかった。十年開いていなかった教科書を、改めて集中的にさらわなければならない。さもないと成績を見た母に、文系へ引き戻されかねなかった。実乃里が自信たっぷりに勧めた塾なら、高くても通う価値はある。今回は、ためらわず申し込んだ。
いちばん心を引かれたのは、場所だった。榊野大学の旧キャンパスの近くで、音楽大学からも遠くない。建物の下には、あの母子が屋台を出す商店街があった。運がよければ、蒼介にも会えるかもしれない。体育のことがあんなふうに広まり、ずっと気にかかっていた。何も助けられなくても、夜食に焼きそばを二人前買うほうが、何もしないよりよかった。
朝食が並ぶと、夏帆は食べながら、彼が書いたプリントの束をめくり、熱心に見ていた。由紀は頬杖をついてしばらく眺め、思わず手を伸ばし、膨らんだ頬を揉んだ。
「見てよ、こんなに勉強が好きになるなんて。私の娘だって言って、誰が信じるかしら。ノート、自分でまとめたの? 字がきれいだったり、乱れてたりするけど」
頬を揉まれ、うまく話せなかった。それでも正直に首を振った。
「自分じゃないよ」
「じゃあ、誰。実乃里?」
「隣の席の人。新しく転校してきて、数学の大会に出てるの。お母さんは知らない人」
由紀は最初のプリントをめくり、書き添えられた一行で少し止まった。口元をわずかに曲げた。
「あら、また男の子。勉強ができるのを羨ましがるのはいいけど、ひとり諦めたばかりで、また別の子を好きになるんじゃないわよ」
「何考えてるの」
夏帆は呆れた。好きになるどころか、今は嫌われずにいられるだけで、十分だった。
◇
休みの間は、商店街がいちばん忙しかった。美津子は用意した麺を置き、蒼介から受け取った野菜を、種類ごとに保存容器へ入れた。古い共同住宅にはエレベーターがない。蒼介は荷物を担ぎ、四階から何度も下へ運んだ。
最後の油の缶を置き終えると、美津子は屋台のそばで、しばらく息子を見た。
「休みなんだから、私が千紗を連れていけばいいよ。同級生と出かけたいなら、遊びに行っておいで」
「いい。親しくないから。午後は授業がある。ついでに千紗をケンタッキーへ連れていく。昨日、約束したんだ」
黒いTシャツの襟を持ち上げ、汗を拭いた。母は少し驚いた。
「まだ高校生なのに、塾で教えさせてもらえるの?」
「塾じゃない。片岡先生の甥。そんなに高くないけど、手数料も引かれない。大会の成績が出れば、もっと報酬のいい仕事も受けられる」
言い終わらないうちに、少女が階段の入口から駆けてきた。淡い黄色のワンピースに、小さな鞄と水筒を下げ、腕には、もっと大きな黒いリュックを抱えていた。彼を見ると、足取りまで軽くなった。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんの荷物も持ってきたよ!」
「力持ちだな」
蒼介は頭を撫で、上着を取り出して着た。それから、妹の日よけ帽子を直した。母はまだそこに立っていた。蒼介は体を向け、別れを告げた。
「行ってくる。何かあったら電話して」
美津子はエプロンのポケットから紙幣を二枚取り、差し出しかけて、一度止まった。
「持っていって。今日は暑いし、千紗もそんなに歩けないから……」
「地下鉄で行く。子どもの交通カードもあるし」
金を押し戻した。母は少し気まずそうに握り直し、早く帰るように、気をつけるようにと、小声で言った。蒼介は返事をして、妹の手を引いて出た。視界の端で、母はまだこちらを見ていた。こめかみに、もう白髪が混じっていた。
◇
内陸の地元で中学へ通っていたころから、蒼介は通学に乗り物を使わなくなった。はじめは家が近く、歩いて通えた。そのあと文彦が賭け事の借金を残して消え、母子三人は取り立てから逃れるため、借家へ移った。学校までは、バス停にして二十近く離れていた。毎日早く出て、走って通った。
美津子は、息子が節約しているとしか思わなかった。ほかに理由があるとは知らなかった。あのころ、近所の人たちの哀れむような、惜しむような目、酔いが醒めた父が額を床につけて謝る姿、二度と許さないと何度も泣いて誓う母の声が、頭の中で繰り返し混じり合った。息ができなくなるほどの感情から抜け出そうとして、自分を傷つけたことがあった。
文彦が千紗を傷つけ、妹の聴力に問題が起きた。通院と、言葉の訓練へ通う費用を作るため、冷凍倉庫で荷を運んだ。疲れ果てて眠り込み、凍えかけても、迎えに来る人はいなかった。どうしても持ちこたえられないとき、自傷は、ほかに逃れ方のわからない出口になっていた。
けれど長く続くうちに、その損得まで考えるようになった。自分を傷つけて、暮らしはよくなるのか。それとも早く大人になれるのか。何も持っていない。体まで、大切に使わなければならない。傷をひとつ増やせば、必要のない消耗がひとつ増えるだけだった。
いちばん苦しかった年、走るようになった。内陸の冬は、乾いて冷たかった。吸い込む風が肺を刺すようで、心臓が激しく打ち、息が重くなった。喉に血の味がにじむころ、まだ生きていると感じられた。頭の中の考えも、しばらく静かになった。
やがて体が慣れると、それまでの距離では足りなくなり、もっと遠くまで走った。榊野へ来ても、その習慣は続いていた。
ここ数日、学校の噂は耳にしていた。傷は自分でつけたものだとか、刑務所にいたとか。片岡は心配し、金曜の放課後、長いこと彼を残して、何とか対応しようとした。本人は、大して気にしていなかった。人が寄ってこない分、かえって静かだと思うほどだった。
けれど、夏帆は?
手を見ても怖くないと言い、パッドを留め、チョコレートをくれ、油っぽいテーブルを一緒に拭いてくれた。傷の裏にあったことを知れば、どんなに気のいい彼女でも、避けるようになるのだろうか。
◇
夏帆が申し込んだのは、数学、物理、化学の基礎講座だった。午後一時から、一科目一時間。間に十分ずつ休憩があり、四時二十分に終わった。荷物をまとめ、教室を出るころには、四時半近くになっていた。
少人数の講座に高い授業料を払ったので、塾側も熱心だった。最初にテストをし、成績ごとに分けた。同じ教室の大半は、音楽、美術、体育の実績を生かして進学を目指す生徒たちだった。身なりは華やかでも、授業中は、そろって眠そうだった。
夏帆も眠かった。それでも懸命に目を開けていたので、先生がいちばん当てたがる生徒になった。三科目とも、十分おきに指された。午後じゅう、無理やり頭を働かせ、髪まで自分でかき乱していた。
目の前がくらくらし、腹が鳴った。焼きそばの屋台へ行くつもりだったが、今はもう、さらに歩く気力がなかった。修平へメッセージを送り、鞄を背負って、同じ建物のケンタッキーへ入った。
チキンとハンバーガーを食べ、コーラを半分以上飲むと、ようやく少し楽になった。横を見ると、窓際のハイスツールに、黄色いワンピースの少女が座っていた。牛乳を持ち、絵本をめくっている。
千紗だった。この前、商店街で会った妹だ。
少し読むと飽きたのか、目をあちこちへ向け、ちょうど夏帆と目が合った。顔を少し赤くし、五本の指を開いて、はにかみながら手を振った。
まだ覚えてくれていた。前の人生では、何年か義姉だった。十分に気を配ったとは言えなくても、この子には、言いようのない責任を感じた。周囲を見ても蒼介はいなかったので、夏帆は鞄を持って近づき、向かいへ座った。
「お兄ちゃんは?」
千紗は遠くを指した。細い声だった。
「お兄ちゃん、先生してるの」




