私の星
悠人はわざと道を空けずに待った。以前、何度もあったように、夏帆が気づかないふりで少しぶつかり、頬を赤くして笑うのを。けれど数メートル離れたところで、彼女はもう進む方向を変えていた。そのまま階段を駆け上がり、顔を上げることもなかった。
口元の笑みが固まった。振り向くのをこらえる横で、男子が気の抜けた口笛を吹いた。
「お姫様、また新しい手か? 押して駄目なら引いてみろってやつ。お前、知らないだろ。朝、お前が来る前、うちの入口、何回も通ってたぞ。すごい剣幕で。お前がいなくて、機嫌悪かったんじゃない?」
「そうなの?」
「ほかに何があるんだよ。それか、まだ誕生日会のことで、はっきりさせたいとか。もう機嫌取ってやったんだろ。付き合ってもいないのに、何が不満なんだか。気になるなら、あいつのプロフィール見れば。あのぽっちゃり、面白いよな。気持ち、全部書いてる。お前に会うたび、ひと言変えてるし」
男子はボールを上げ、片手で受け止めた。笑いながら、別の男子の首に腕を回した。
「誕生日のころ、何て書いてたっけ?」
「誕生日おめでとう、私の星」
「そうそう。背景はお前が生まれた日の星空の画像。甘すぎて無理。今は失恋ソングにでも変わってるのかな。見てみろよ。気になる」
「向こう行けよ。関係ないだろ」
悠人は肘で相手を押しやったが、少し気が楽になった。夏帆とのチャットを開いた。数週間前、彼女が送ってきたものが、まだ残っていた。誕生日は何が欲しいのか。ケーキの中身はマンゴーとシャインマスカットのどちらがいいか。隣に座ってもいいか。用意したワンピースは可愛いか。
その下に、鏡の前で撮った写真があった。誕生日のために、わざわざ買ったワンピースだった。顔を少し横に向け、小さなえくぼを見せていた。開ききる前のジャスミンの花のようだった。
彼も、ときには可愛いと思った。けれど説明のつかない虚栄心が、認めることも、人に気づかれることも許さなかった。返す言葉まで、わざとぎこちなく硬くなった。
【隣は友達が座る。薄い色の服は太って見えるよ。】
追いかけられることに慣れ、悠人は自分から折れるのが苦手だった。お菓子やミルクティーを届けるだけでも、彼にとっては珍しい歩み寄りだった。今、彼女が連絡してこなくなり、胸のどこかが空いていた。それでも自分から、ひと言も送らずにいた。
周りがまだ急かすので、アイコンを押し、少女のページへ入った。やはり変わっていた。「楽しみ」は「努力中」になり、星空の背景も、女子ふたりの写真へ替わっていた。
芸術・体育棟の練習室で、彼女は短い髪の女子とピアノ椅子へ並んで座り、ピースをして、明るく笑っていた。もうひとりの名前を、悠人は覚えていなかった。オーケストラの後ろで、トライアングルを叩いていたような、かすかな記憶しかない。
新しいひと言も、自分とは何の関わりもなかった。
【百日、真面目に練習する。地域の青少年オーケストラに入る!】
「どう? またお前のバスケの盗撮? それとも歌詞? もう恋なんて信じない、とか」
背後の男子が、のぞこうとした。悠人は無視した。画面を見つめ、ロックする直前、結局、句点をひとつ送った。
メッセージの横に、赤い通知が出た。
【相手はあなたからのメッセージの受信を制限しています。】
疑問符をいくつか送っても、同じだった。手の甲に筋が浮いた。画面を見つめる顔が、ますます険しくなった。
そのあとはバスケットにも身が入らず、間もなく早めに帰った。家の車が校門の外に待っていた。黒いジャケットの秘書が降りて、ドアを開けた。真理子は、もう後部座席にいた。体に合ったスーツに宝石のブローチをつけ、こちらへ向ける目には、いつもの厳しさがあった。
「ピアノのレッスンは、やめると伝えておいたわ。もう行かなくていいから」
悠人は一瞬止まったが、それ以上聞かず、母の隣へ座った。小さな冷蔵庫から水を取り、仰向いて半分ほど飲んだ。
「もうすぐ、学校で地域の青少年交響楽団の候補を推薦するんでしょう。学園では、敵になる子はいないはずよ。進学に使える実績は取っておけばいいけど、それに全部の時間を費やす必要はないわ。休みの二日目、堀内さんとゴルフの約束をしているの。娘さんも来るから、一緒に行きなさい」
「わかった」
彼はうつむき、ボトルの蓋を回した。真理子がこちらを見た。
「どうしたの。宮原家の子に本気になって、悪いと思ってる?」
「違うよ」
「何度言えばわかるの。将来、中央官庁に入って上を目指すなら、一か所ばかり見ていては駄目よ」
声には、軽い嘲りがあった。
「宮原家は服の商売で稼いだけれど、いつまでもうまくいくとは限らないわ。お母様のああいう出自に、女手ひとつで育てた子でしょう。いくらお金があっても、入れない場所はあるの。人に話せば、笑われるだけよ。まだ若いんだから、一時の気分に流されないで。あのぽっちゃりした子が待ちたいなら、待たせておけばいいの。追いかけて機嫌を取る必要なんてないわ」
悠人は喉に渋いものを感じた。口元を動かし、まだ何か言おうとしたが、母が肩を叩いた。
「自分で、よく考えなさい」
◇
その年の学園の秋休みは、十月初めに設けられ、前後の週末を合わせて八日間だった。初日、夏帆は七時に目覚ましで起き、リビングで一時間、エアロバイクをこいだ。
前の人生で、頬の幼い丸みは、二食抜いたくらいでは消えないとわかっていた。あのころは、空腹で脚に力が入らなくなるまで我慢した。それでも人から見れば、元気のあるぽっちゃりが、顔色の悪い、むくんだぽっちゃりに変わっただけだった。割に合わなかった。
今度は、おいしく食べて、よく眠り、健康でいたかった。生理のたびに、つらい思いもしたくない。もう少し身長まで伸びれば、なおよかった。一センチ高くなるごとに、その分、迫力が増す。学校のあの鬱陶しい男子たちには、本当に手を出したくなる。
シャワーを終え、まだ髪を拭いていると、予備のスマホにメッセージが来た。十組の滝沢からだった。
【夏帆、桐谷、休みの二日目に水岬湖でゴルフだって。お母さんもいるはず。友達が予約の話をつかんだから、確実だよ。】
入力中の表示が、点滅し続けていた。夏帆は短く返した。
【ふうん。】
【へへ。行くとき、この前の集まりの飲み物代、ついでに払ってもらってもいい? 私と岸本たち、四人分だけ。大した額じゃないから。】
情報をひとつ渡し、出費をひとつ肩代わりしてもらう。以前は、それが決まりだった。友達なら助け合うべきだし、細かく勘定すれば、関係が傷つくと思っていた。けれど、のちにメディアの前で見せる冷たさを知っている。何度「まだ若いから」と理由をつけても、当時の自分を理解できなかった。
このお金を、寄付していたってよかったのに。




