そばにいたい
彼を見るとき、彼女はいつも顔を上げた。黒髪が頬に沿い、目には彼の姿が、はっきり映っていた。蒼介は唇を結び、彼女の手に触れないように、布巾を受け取った。
「ついてこないで」
「うん」
少女はうなずいた。腹を立てた様子はなかった。蒼介は目を戻し、先へ進んだ。
正午になり、どの学年も午前の授業が終わった。食堂がいちばん混む時間になり、校長たちも上がってきた。別のテーブルへ移ろうと顔を上げると、彼女はまだ二歩ほど先に立ち、小さなバケツを持っていた。
視線を向けると、夏帆はまばたきをし、声を出さず、口の形だけで伝えた。
「ついていってないよ」
通路は混み、食器を集める人たちが行き来していた。夏帆は人の一団を避け、何歩か移って、ようやく彼の隣へ寄った。テーブルにはあさりの殻が積まれ、唐辛子や香菜の茎が散っていた。道具がないので、スプーンを一本取り、慎重にひとところへ寄せた。
「怒らないで。あんなふうに言われるのが、嫌だっただけなの」
大切に守られ、優しい言葉を聞いて育った女子だから、それほど重く受け止めるのだろう。蒼介にとっては、あれでも穏やかなほうだった。聞き流せば、ほとんど残りもしない。
「怒ってない。ここは、来るところじゃないよ」
「でも、そばにいたいの」
蒼介の唇が、さらに固くなった。彼女の手がまだテーブルの縁にあるうちに、バケツを取り返した。
食事をする人が次々に来て、やがて少しずつ減っていった。テレビの昼のニュースが終わり、観光地の広告に変わった。ゆったりした音楽が流れた。蒼介は何気なく振り返った。窓の外は、まぶしいほど青かった。残暑はまだ続き、頭上では扇風機が勢いよく回っていた。
テーブルを二つ隔て、夏帆はまだ後ろにいた。手には、濡れきった紙のかたまりを握っている。ポケットから最後の一枚を出し、広げ、折った。女子の間で流行っている、少し香りのついたポケットティッシュだった。普通のものより、いくらか高い。
うつむいた顔は、真剣で頑なだった。一枚ずつ紙を使い、どうしても絞りきれない水の跡を、少しずつ拭き取っていた。
◇
食堂を出てから、夏帆はずっとそのことを考え、午後は何をしていても上の空だった。音楽の時間、先生が委員長にプロジェクターをつけさせ、クラスで名作の音楽映画を見た。夏帆は後ろの窓際でカーテンの端を持ち上げ、その光を頼りに、校長への意見箱に入れる苦情の手紙を書いた。
幼いころから母に教わっていた。いじめられたら、黙っていてはいけない。話を聞いてくれる人がいるなら、知らせなければならない。ただ、前の人生で目に入ったのは、大半が自分の受けた嫌なことだった。髪を引かれたとか、体力測定の写真を勝手に撮られたとか、男子のグループでひどいあだ名をつけられたとか。
今は、もっと放っておけない人がいた。
食堂を出る前、サービスの案内板の前に長く立っていた。委託運営会社は、責任者の名前、役職、識別番号をそこに載せていた。夏帆は指を伸ばし、並んだ写真をひとつずつ確かめて、あの男を見つけた。
スマホは教室に置いたままで、写真を撮れなかった。名前と番号を何度も心の中で唱え、紙に書いてから、やっと安心した。いずれは著名な卒業生の名簿の、いちばん上に載る蒼介なのだ。たとえ成功せず、普通の生徒として働くだけだったとしても、どうしてあんな嫌がらせを受けなければならないのか。
書き始めたときは、彼の事情を書けば、勝手に気の毒がって代弁することになるのではと迷った。それでも書くほどに腹立たしくなり、最後の句点を打つころには、便箋が一枚埋まっていた。
ペンの蓋を噛みながら何度か読み、三つ折りにした。封筒へ入れる前に手を止め、末尾へ母と、家の会社の名前を丁寧に書き添えた。
ごめんね、お母さん。心の中で手を合わせた。この人は、前の人生で自分を救ってくれた。今回だけ、家の力を借りて、少し守らせてほしかった。
校長への意見箱は、管理棟の前にあった。校章と同じ赤で、小さな投入口は、競技グループの生徒たちが通る場所に面していた。チャイムと同時に封筒を持って駆け下り、入れるとすぐ離れた。蒼介のためにわざわざ来たと気づかれたくなくて、校内の売店へ回り、辛い米菓を二袋買った。
一袋は引き出しへ、もう一袋は実乃里へ渡した。友人は午後じゅう、昼に戻らなかったのはなぜか、具合が悪くて保健室へ行ったのかと尋ねていた。映画が始まって間もないころには、温かい飲み物を作る粉末の小袋まで、こっそり渡してくれた。温かいものを飲むように、と。
こんな優しい人に、隠し事をしている。昔からの友人に内緒で逢い引きしたような、後ろめたさがあった。
実乃里は米菓を抱え、まだ少し不思議そうだった。
「お腹、もう痛くないの?」
「よくなった。辛いもの食べたら、温まるし」
走って汗をかいた額へ、香りのついたティッシュを押し当て、後ろめたさの浮かぶ目を隠した。
母の名前を借りても、対応には時間がかかる。最後の授業が終わると、三階へ行きたいのをこらえ、夕食のあと、教室へ戻った。放課後の自習が始まる前には、いつもどおり英語のリスニングが流れた。
前の人生では、英語はまだ得意だと高をくくり、この時間に録音を聞く以外のことばかりしていた。今、成績を見直せば、得意どころか、一科目でも足を引っ張らずに済めばいいほうだ。今度は真剣に聞いた。
最後の問題で、録音の男女はまだロンドンの天気について話していた。そのとき、何日も空いていた隣の椅子が引かれた。手が机の縁に置かれ、古い黒のリュックが静かに下ろされた。顔を上げた夏帆は、思わず口を開いた。
蒼介が戻ってきた。
前の人生の高校二年では、深い秋になってから、ようやく四組で再び会ったような気がする。彼が来なかった日々に、新しい資料は厚く積み上がっていた。夏帆が、わざわざ取っておいたものだった。何度も助けてもらったのに、取りに来るところを見かけず、尋ねることもできなかった。探しやすいよう、数学と物理をいちばん上へ置いていた。
自習が始まると、彼の机に一時置いていたピンクの保温ボトルを急いで引き取り、片づけるふりをした。蒼介は座り、紙の束を折り曲げて、上の二枚ごと引き出しへ入れた。
夏帆はそれを見て、少し胸が沈んだ。何も言わずに、薄い問題集を一冊出し、左手に黒いペンを持って解き始めた。そこにも数学の記号があったが、問題文は細かく、図も抽象的で、何を尋ねればいいのかさえわからなかった。
この時間は学年主任が見回りに来るため、教室は静かだった。しばらく我慢し、ついに計算用紙の端を小さく破った。書いてから袖口を二度軽く引き、両手を合わせて、紙を差し出した。
【もう仲直りできた? これからも宿題、写させてくれる?】
丸い字で、本人によく似ていた。蒼介は目を落とし、紙を折り戻した。ペンは取らなかった。
「家で書く」
◇
右手で書くには、手首を強く机へ押しつけ、支えにしなければならなかった。それでも、何行か書けば休む必要がある。そんな姿を、彼女に見られたくなかった。
少女の目が輝き、ポニーテールが軽く揺れた。声を出さず、ありがとうと口を動かした。少しして、まだ足りないと思ったのか、ペンケースから付箋を取り、うつむいて書き続けた。
蒼介のほうが背が高く、机の上の紙はよく見えた。頭の上の柔らかな髪、赤くなった耳たぶ、無意識にできるえくぼまで、すぐ目の前にあった。
【優しいね。字もきれいだし。】
彼は何も言わなかった。少女は少し考え、指先で付箋を押さえながら、下へもう一行書き足した。
【きれいじゃなくてもいいよ。三崎は、もう十分すごいんだから。】




