授業が終わるのを待って
そんなに格好いい蒼介は、自分の隣の席で、二週間近くも宿題を書いてくれている。解答と同じくらい決まって現れるのが、きれいに掃かれた担当区域だった。
夏帆の窓際の席からは、卓球台の角がちょうど見えた。何日か見て、もう一度火曜を迎え、やっとわかった。自分の当番の日だけ、先に誰かが掃除を済ませている。じっとしていられなくなった。
少しだけ恩恵にあずかるつもりだったのに、今は、本来自分ですべき仕事まで、人に任せてしまっている。前の人生では、すでにひどい印象を残している。今度は彼に関わることのひとつひとつに、慎重になっていた。本当に戻ってきたとき、少しずつ和らいだ関係が、また元に戻ってしまうのではないか。
学校では、小さな話も瞬く間に広まった。実乃里によると、数学Sグループの転校生の写真は、もうほかの二学年にも回り、匿名掲示板には投票までできているという。
実物を見ていない生徒は、フィルターや加工で、家族にもわからないほど顔を変えてあるに違いないと言った。管理棟へ見に行った生徒は、本人がこの顔なのだと譲らず、加工した人は十五キロ太ればいい、と言い返していた。言い争ううちに、国際コースの女子まで気になり出し、二、三人で腕を組んで、ひと目見るためだけに出かけていった。
夏帆は人混みに加わりたくなかった。中学三年で百六十センチになってから、身長はほとんど変わっていない。牛乳をいくら飲んでも、肉になるばかりのようだった。背の高い細身の女子たちが入口に立てば、勇気を出して教室へ押し入らない限り、姿さえ見えるかわからなかった。
Sグループは、午前の授業が普通のクラスより十分早く終わった。木曜の最後は英語だった。夏帆は授業を聞きながら時計を見て、針が十一時半を指すと、とうとう手を上げた。
「先生、お手洗いに行ってもいいですか」
ポケットは膨らみ、中で手をきつく握っていた。顔も赤かった。先生は、生理で困っているとでも思ったのか、何も尋ねず、手を振って送り出した。
夏帆は、心臓をどきどきさせながら立った。廊下の両側の教室では、まだ授業が続いていた。窓際の生徒が、一斉にこちらを向いた。うつむいて、まずトイレへ入り、それらしく十数秒過ごした。左右に人がいないと確かめてから、階段を駆け下りた。
校内はがらんとしていた。蝉はまだ鳴き、日に照らされたタイルは熱かった。木陰を伝って管理棟まで走ったが、中へは入れず、掲示板の陰にもたれて、ゆっくり息を整えた。
Sグループの練習の終わりには、チャイムが鳴らない。やがて男子たちが、二、三人ずつ出てきた。夏帆は背伸びをし、あちこちを見た。子どもの下校を待つ、小さなお母さんのようだった。しばらくして、ようやく蒼介が階段に現れた。そばには亮太がいて、肩へ腕を回しかけ、遮られていた。
転校初日、手を振り払われたことを思い出した。何となく笑いたくなって、大きく手を振った。
◇
ガラスの扉が開くと、残暑の熱気がまともに押し寄せた。亮太は顔をぬぐい、まだ尋ねていた。
「さっき片岡先生が言ってた少人数講座、行く? 大学の数学科の先生が教えるやつ」
「行かない」
「高いから? 確かに安くないけど、前に問題作りにも関わった先生で、出題の傾向がすごく当たるらしいぞ。附属のやつも申し込んでるって。あと二日もしたら、埋まっちゃうんじゃないか?」
「予想しても意味ないよ。解けないものは、解けない」
「そんな強気に言わなくても」
蒼介は、扉の外を見上げた。
「先に行って」
亮太が何か言う前に、数歩先へ出て、まだ手を振っている女子の前に立った。知らない女子が見物に来るのを、あれほど嫌がっていたのに。今日は、どうして自分から迎えに行くのか。
周りの生徒は、もう先へ行っていた。少女は蒼介の横について歩き、亮太を何度か見た。向き直ると、少し笑った。
「友達?」
走ったせいで頬が赤く、口元には浅いえくぼがあった。蒼介は半歩横へずれ、彼女を自分の後ろへ隠した。
「同級生」
亮太は彼を見たまま、何を言えばいいのかわからず、ひとまず食堂へ向かった。
◇
亮太は派手な雰囲気をしていた。黒々とした眉と目に、蛍光色の靴がよく目立った。前の人生で、夏帆は何度か一緒に食事をしたことがある。そのころは、蒼介の会社の共同経営者だとしか知らなかった。高校からの知り合いだったのだ。あの長い年月にも、彼のそばには友人がいた。それを知り、少しほっとした。
小道には、ふたりだけが残った。蒼介は脚が長く、歩くのが速い。ついていくのが大変だった。
「三崎、もう少しゆっくり」
振り向かなかったが、歩みは緩んだ。夏帆はやっと息を整え、ずっとポケットで握っていたチョコレートを差し出した。
「まだいっぱいあるから。食べて」
鞄には、お菓子が山ほど入っていた。けれど授業を抜け出すのに、鞄ごと持っていくわけにはいかない。小さな物を、こっそりいくつかつかんだだけだった。ピンクの箱は、前の苺のウエハースと似た色で、白い文字が一行、印刷されていた。
【雪のように軽く、キスのように甘く。】
前の人生では、さらに七、八年後、アニメをきっかけに人気が出た商品だった。若い人たちは告白の贈り物に使い、「どの冬も、そばにいてほしい」という意味を込めた。けれど、ふたりとも十七歳の今は、夏帆がおいしいと思い、分けてあげたくなったお菓子にすぎなかった。
蒼介は、一度目を落とした。
「チョコは食べない」
「溶けて、おいしくなくなるのが嫌? 教室はずっと扇風機が回ってたし、外でも長く待ってないよ。開けてみて。柔らかくなってたら、別の箱に替えるから。ね?」
手を差し出したまま、受け取るまで引っ込めないつもりのようだった。蒼介は少し間を置き、結局、箱を取った。
「どうして授業が終わる前に出てきたの?」
彼が自分から夏帆のことを尋ねたのは、初めてだった。長く妹の世話をしてきたからだろうか。前の人生の地位をまだ持たない今も、ごまかしにくい雰囲気があった。何年も、大小さまざまなことを管理されていた感覚が戻り、夏帆は少しうつむいた。
「だって、ずっと戻ってこないんだもん」




