本当に格好いい
Sグループは十数人で、幼いころから競技数学に取り組んできた者ばかりだった。みな少なからず自負がある。授業中に傘を差す者もいれば、ヘッドホンでラップを聞きながら頭を揺らす者もいて、サングラスをかけて居眠りする者までいる。亮太の知る変人が、ほとんどここへ集まったようなものだった。蒼介のように無口なだけの人間が、今ではずいぶんまともに見えた。
一年もいると、普通に練習できる相手が欲しくなった。今日はちょうど、ふたりで答案を届ける当番だった。道すがら少し話そうと思って顔を上げたら、相手はもう枚数を確かめ、扉を開けて出ていった。
亮太は慌てて立ち上がり、小走りで追いつくと、肩を軽くぶつけた。
「何で待ってくれないんだよ」
蒼介は横へ避けた。
「これだけなら、ひとりで運べる」
「片岡先生に言えよ。あとで、お前だけ届けて、俺だけ呼ばれて怒られたらどうするんだ。何を急いでるんだよ。このあと用事でもあるの?」
「うん」
「下で羽鳥見るのか?」
「誰?」
亮太は何度もその顔を見て、驚いて一歩止まった。
「嘘だろ。学校の紹介動画で、真ん中で踊ってる子。校門でずっと流れてるじゃん。見たことない?」
「覚えてない」
「じゃあ、さっき誰見てたんだよ。岸本? 滝沢? それとも六組の相沢?」
チアの前列にいる女子を、ひとりずつ挙げてみた。隣の人間は、どれにも反応しなかった。男子同士の話のきっかけなど、そのくらいしかない。なのに、蒼介はまるで乗ってこない。
指導室まで、あと数歩だった。窓の外で、丸々とした白い猫が室外機の台へ跳び上がり、赤煉瓦の手すり沿いを二歩ほど歩いた。亮太はどうしてもわからず、自分で話を収めるしかなかった。
「わかったよ。猫見てたってことにしとく」
蒼介は歩みを止めなかったが、猫へ一瞬、目を留めた。
「そんなところ」
◇
白い猫を見て、蒼介は、いつも水気を帯びたような目を思い出した。
どの女子が可愛いとか、誰が誰を好きになったとか。そんな話は、あまりに遠かった。物心ついたころから、家にあったのは、美津子の泣き声や悲鳴、針金のハンガーや酒瓶が振り下ろされる鈍い音だった。千紗を守らなければならず、昼も夜もなく仕事を探し、借金を返す方法を考えた。一日を持ちこたえるだけで、心も体も使い果たしていた。
人を好きになるとは、どんな感じなのか。愛されるとは、どういう気持ちなのか。想像できなかった。自分には、贅沢すぎるものだった。
十七歳、榊野で初めて迎えた夏の終わりに、自分では飼えない、きれいな子猫に出会ったような気がした。あれほど大切に世話されている彼女は、自分の暮らしとは何の関わりもなかった。そばに置けるとは考えもしない。どうすれば喜ぶのかさえ知らない。それでも、小さくひと声鳴かれたら、できるだけかなえてやりたくなった。
手元に残っているものなら。自分にできることなら。
◇
学生のころは、早く学校を出たかった。あとになって、あのころの悩みは、十分に単純だったのだと知った。夏帆は高校生活へ少しずつ馴染み、今週は戻ったばかりのころより、ずいぶん気楽に過ごせた。いちばん難しい数学と物理には、助けてくれる人がいる。少なくとも、宿題を出せるかどうか、毎日悩まずに済んだ。
学校のオーケストラの先生は、以前からよくしてくれていた。そのつながりを頼り、実乃里も、地域の青少年交響楽団を目指す校内候補者の連絡グループへ入れてもらった。ふたりは毎日、夕食を終えると芸術・体育棟の小さな練習室へ行き、放課後の自習の一時間目が終わるまで練習して、一緒に教室へ戻った。
チェロは夏帆が自分で背負ってきたものだったが、ピアノはずっと練習室に置かれていた。初日、赤いビロードのカバーを外すと、真新しいスタインウェイのグランドピアノが現れた。照明を受けて艶めく姿に、実乃里は目を丸くし、触ることすらできずにいた。
「これ、桐谷がいつも練習してるピアノじゃない? 私たちが使って、本当にいいの?」
「誰が、あの人のピアノだって言ったの?」
夏帆は小さなソファへ体を預け、胸を叩いた。
「この建物だって、お母さんの寄付で建ったんだよ。由紀さんがいないから、娘の宮原が代わりに許可します。予約した時間は、好きなだけ弾いていいの。誰が来ても、譲らなくていいから」
実乃里の目に、涙が浮かびそうになった。
「夏帆、優しすぎるよ」
「今さら? そんなに大げさに言うなら、罰として私の名前、百回書いてもらうよ」
新しい練習室は防音がよく、換気設備の音も静かだった。少し座れば、居心地がよくて動きたくなくなる。戸棚には、夏帆が以前持ち込んだお菓子もあった。ポテトチップス、ビスケット、チョコレート。以前、悠人のために選んだものが、ひと通り揃っていた。
好きでなくなったからといって、いい物まで全部捨てるつもりはない。調べたうえで、わざわざ選んだ輸入品だ。無駄にするのは惜しかった。よさがわからなかったなら、損をしたのは相手のほうだ。
気を散らすものだらけの部屋で、四十五分きちんと練習を続けるだけでも、十分に大変だった。残りの時間は食べながら話した。校内で目立つ人たちをひと通り話題にして、最後は夏帆の隣の空席へ戻った。
「大会に出る人は時間割が違うって、聞いてはいたけど。普通のクラスには、ほとんど帰ってこないんだね。このままだと、次に三崎くんを見るの、卒業写真のときだったりして」
「そこまでじゃないと思うけど」
夏帆は何気なく答えた。隣の特進クラスにも、物理の大会を目指す生徒が何人かいる。校内で練習したり、外の少人数講座へ行ったりして、姿を見ないことが多かった。そういう仕組みには慣れていた。けれど前の人生の蒼介は、夜の自習には、実際かなり四組へ戻ってきていた。
あのころ、眠りから覚めて窓を閉めようとすると、最後列のゴミ箱の隣に、人が座っていることがよくあった。大会も、外での合宿もない日には、そこにいた。長袖の制服の上着は、洗いすぎて色褪せていた。ファスナーを上まで閉めた肩は、広いのに痩せていた。
四組の引き違い窓は、長いこと壊れていた。以前は後ろに人がいなかったため、修理の連絡もされずにいた。夏帆の側をきっちり閉めると、蒼介のそばに隙間ができた。夏ならまだよかったが、雨の降る冬の夜には、冷たい風が入り、吐く息まで白くなった。
それでも彼は、めったに何も言わなかった。目を伏せて、競技数学の模擬問題を解いていた。照明が白い横顔を照らしていた。夏帆が窓を何度引いたり戻したりしても、文句を聞いたことは一度もなかった。
「あと何日かしたら、戻ってくるかも」
「それか、見に行くこともできるよ。管理棟の一階の物理グループに友達がいるんだけど、この間言ってた。三崎くん、今、すごく有名なんだって。Sグループは私たちと授業の区切りが違うから、休み時間に見に行く女子も多いらしいよ」
「校長室がすぐそばなのに。度胸あるね。見つかっても怖くないんだ」
そのあたりは、記憶と大差なかった。ただ、見物の場所が四組から管理棟へ移っただけだ。前の人生で、そんな話を聞いたとき、自分はどう反応したのだろう。具体的には思い出せない。きっとまた悠人と比べ、あの友人たちの前で、散々にけなしたのだろう。
今は聞いていると、なぜか少しうれしかった。夏帆は目を輝かせ、顔を上げた。
「みんな、見る目あるね。言ったでしょ。本当に格好いいんだよ」




