真夏の果実
火曜から、蒼介は四組の授業に来なくなった。ロッカーには、白い猫の錠が掛かっていた。夏帆のものと上下に並んでいる。宿題も変わらず書いてくれた。早く来ても遅く来ても、席に着けば、あの見慣れた文字があった。すっきりと整っている。余分のプリントを、どこで手に入れているのかもわからなかった。
最初は恩返しのつもりなのだろうと思ったが、数日経つと、夏帆のほうが申し訳なくなった。沢田先生は毎日、課題に問題のある生徒を職員室へ呼んでいた。そのたびに名前を呼ばれずに済み、あの日、椅子を引いておいてよかったと思った。
自分が渡すのは、金を出せば買える小物ばかりだった。一画ずつ書かれた解答には、実際に時間がかかる。十七歳の蒼介は、思っていたより付き合いやすいのかもしれない。冷たい顔で、お礼のひと言も惜しむくせに、引き受けたことはひとつも忘れなかった。
もう少しよくしてあげれば、これから難しい問題が出ても、聞ける相手ができるのではないか。数学が終わると、隣のきれいな机を見ながら、考えはどんどん膨らんだ。十年先のことなど、誰にもわからない。成功するまでには、まだ大学の数年間もある。そのころには、自分のことなど忘れているかもしれない。今、少しくらい恩恵にあずかってもいいだろう。
心の中で、長々と褒め言葉を用意した。空が晴れても、本人に言う機会は訪れなかった。
木曜の最後の授業は体育だった。日はすでに傾き、運動場はまぶしくなくなっていたが、一日じゅう日を浴びたトラックに立つと、靴底まで熱かった。半周も走らないうちに汗が出る。夏帆は実乃里を連れて用具室へ行き、台車にバレーボールをいっぱい積んだ。すぐには出ず、冷気に当たって少し休んだ。
四組の体育係はふたりだった。男子が準備運動の先導をし、夏帆は点呼と用具を担当していた。母が学校へ寄付をしていたので、学校側からも気にかけるよう言われていた。とはいえ、成績がよくないのに、みんなの勉強をまとめる役を与えても、納得されない。担任があれこれ考えた末、この仕事が回ってきた。
夏帆は、結構気に入っていた。用具を取りに行けば、その分だけ走る周回を減らせる。集合のときに笛を持つのも、少し威厳がある。準備運動をさぼるのは慣れたものだったが、初めて付き合う実乃里は、ときどきデジタル時計を見た。五分を過ぎたところで、台車を出そうと急かした。
用具室の小さな扉は、体育館の脇にあった。向かいはバスケットコートだった。フェンス越しに、チアの女子たちが音楽に合わせて練習していた。十数人が白いプリーツスカートを揺らして揃って動き、中央の羽鳥は細い体で、ひときわ目立っていた。
通りがかる人は、ほとんどが目を向けた。遠ざかってからも、顔を赤くして振り返る男子がいた。バレーコートはすぐ隣だった。実乃里は台車を置き、思わず感心したように言った。
「羽鳥、きれいだね。夏帆もきれいだけど」
「後ろのひと言、足さなくてもいいよ」
「本当だって。変なあだ名つけてる男子たちも、こっそり夏帆のこと好きなんじゃないかって、ずっと思ってた」
「お願い、それ以上言わないで。余計つらくなる」
実乃里は一瞬戸惑い、夏帆が笑っているのを見て、冗談だと気づいた。つられて顔が赤くなった。
◇
夏帆をきれいだと思っているのは、本当だった。以前は柔らかく、はにかむようなところがあったが、今はずいぶん明るくなった。同じ人なのに、仕草のひとつひとつが少し違って、つい見てしまうことがあった。
何より、上着を脱いでも、ちゃんと背筋を伸ばすようになった。半袖のシャツはすっきりしていて、髪は高くまとめてある。動いてほどけた数本が耳の後ろへ張りつき、運動で頬は赤く、目は日差しをたたえたように輝いていた。
実乃里の目には、羽鳥は流行りのラブソングに出てくる、優しいヒロインのように映った。夏帆はもっと生き生きと、にぎやかで、真夏の枝に実った果実のようだった。男子たちは盗み見ながら、大げさに笑ってごまかしていた。先に好きだと認めたほうが、次にからかわれるのだとでもいうように。
ボールを抱えた実乃里は、男子たちの普段の無遠慮な言葉を思い出し、また声を落とした。
「今日はサーブレシーブみたい。夏帆、気をつけてね。あの人たちに写真撮られないように」
◇
「好きにさせておけばいいよ」
夏帆は口元を緩めた。十年経っても、一人ひとりの視線を気にしているのなら、その年月が無駄になる。言葉は立派だったが、いざ練習が始まると、長くは続かず、さぼり始めた。
コート脇の男子の声とは関係ない。ただ体力がなく、跳ねると体もつらかった。母が運動用の下着を買ってくれた気がする。あのときは可愛くないと嫌がり、タグも取らずにクローゼットの奥へ押し込んだ。心の中でため息をつき、帰ったら探そうと覚えておいて、実乃里へ手を振った。
「まず、その場でパスしよう。先生が言ってた五十回、終わらせようよ」
「うん」
◇
管理棟三階、数学Sグループの実力テストは、残り五分になっていた。二時間半の本選形式の模擬問題が、机に載っている。夕日がカーテンを金赤色に染め、聞こえるのはペン先が計算用紙を擦る、小さな音だけだった。
練習は習熟度別で、S、A、Bの各グループが、毎週のテストで入れ替わった。参加できる他校との交流や少人数の講座も違う。遅れを取りたい者はいない。残り数分になっても、みな計算を続けていた。
亮太は最後の問題を三度読んだ。頭は煮詰まって、何も残っていないようだった。仕方なく前の空欄へ戻り、何とかならないか試した。しばらく貧乏揺すりをし、また左へ目をやった。新しい隣席の生徒は、とっくにペンの蓋を閉めていた。
蒼介は左手で答えていた。文字を見れば、慣れていないことがわかった。書くのが遅い分、省ける手順はすべて省いている。ぱっと見ると、半分ほど手つかずに見えた。亮太は何度もそれに騙された。自分と大差ないと思っていたのに、点数が出ると、大きく引き離されていた。
格好いい男子を見ただけで動けなくなる女子とは違う。顔がいいだけで、感服するわけではない。前にいた地域で最高点だったから、何だというのか。わざわざ大して書いていないように見せ、先生が採点してから、ほかの人間を引き立て役にする。
亮太は答案をめくりながら、心の中でぼやき続けた。そのうち、今日は隣が妙に静かだと気づいた。いつもならこの時間も、ペンを軽く走らせて、答えを確かめている。今は、その音すらしない。
顔を向けると、彼はぼんやりしていた。目を伏せ、窓の外のどこかを、長いこと見ていた。最後の数分になって顔をそらすと、唇をきつく結んでいた。耳の先が赤かったが、夕日のせいかもしれない。
テストが終わり、答案が列ごとに前へ送られた。蒼介が向きを変えた隙に、亮太はすぐ立ち上がり、さっきの視線の先へ身を乗り出した。バスケットコートの脇では、まだチアが練習していた。
冷たい顔ばかりしているかと思えば、ちゃんと盗み見もするらしい。




