これならわかる?
雨上がりの空はまだ曇り、風は涼しかった。教室へ戻ると、もう半分近い生徒が来ていた。火曜の午前は、数学と物理が続く。必死に宿題を片づけているのは、夏帆だけではなかった。あちこちで、勢いよくページをめくる音がしていた。
隣の席は空いていた。机も椅子も整えられ、蒼介はいない。隣の列では、男子たちが話しながら、ときどきこちらを見ていた。「三崎」という名前が何度か聞こえ、夏帆は耳を澄ませた。
どうやら時間割が調整され、数学と物理の授業の一部は、別の発展学習に置き換えられるらしかった。その分は学校が別に評価し、空いた半日をいくつか、大会の訓練に使うという。男子たちは競技数学の問題など見たこともないのに、普通の授業に出なくていいと聞くだけで、羨ましがって騒いでいた。誰もが自分も行ってみたいとでもいう様子だった。
夏帆はすぐに机へ目を落とした。二枚のプリントが、きちんと重ねられ、ペンケースで押さえられていた。上は物理、下は数学。昨夜の宿題だった。
先週の金曜に見た、ほとんど白紙の用紙とは違った。記述問題には一問ずつ解答の手順が書かれ、選択問題にも補助線が引かれている。唇を結び、上から読んでいった。最後のページをめくり、右下で目が止まった。
解答のすぐ隣に、一行だけあった。昨日の情けない言葉への、返事のようだった。黒いゲルインクの線はすっきり整い、筆運びにもぶれがなかった。
【これならわかる?】
◇
朝八時、二年生の校舎からは、少しずつ朝の音読の声が聞こえ始めていた。一方、管理棟の外は静かで、枝葉の擦れる音に、鳥の声が一、二度混じるだけだった。二階の数学競技指導室で、片岡は手元のファイルをめくっていた。小さな文字の一行で目を止め、眼鏡の上から、目の前の少年を見た。
「一年のときに日本数学オリンピックの予選に出て、本選の出場資格を取ったんだね。前にいた地域でも、成績がよかったと?」
「はい」
「そのときは、何位だった?」
「前にいた地域では、同学年の最高点でした」
蒼介はまっすぐ立ち、声は大きくなかった。それでも近くの教師たちが、そろって顔を上げた。片岡は感心した様子で、もう一枚めくった。
「それほどよかったのに、どうして本選に出なかったんだい? あの調子を保てていれば、代表選考合宿も狙えたと思うけど」
日本数学オリンピックは、予選のあとに本選がある。さらに成績優秀者が代表選考合宿へ進み、最後に国際大会へ出る六人が選ばれる。競技の実績は、一部の大学の特別選抜で評価材料になることもあるが、それだけで入学が決まるわけではなかった。
榊野学園が競技数学の指導を始めたのは遅かった。近隣の伝統校には、早くから優秀な生徒が集まっていた。実績を伸ばすため、今年になって募集の範囲を遠方まで広げた。蒼介も、その一環で転校してきた生徒だった。
声をかけたのは、同僚の野上だ。片岡の持つ資料は簡潔で、読み進めながらも、惜しいという気持ちが消えなかった。そこまで進んでいながら、なぜ途中でやめたのだろう。
蒼介は睫毛を伏せた。
「家でいろいろあって、退学しました」
資料にも、その記載はあった。淡々とした口調で、それ以上話すつもりはなさそうだった。片岡はファイルを閉じ、下ろされた右手へ少し目をやった。
「お父さんのことは、野上先生が現地で調べて、教えてくれた。学校では慎重に扱うし、話の種にしたりはしない。勉強でも生活でも、困ったことがあれば相談してほしい。今、手の具合はどうかな。字は書ける?」
「リハビリには、あまり行けていません。左手で練習しています。右ほどうまくは書けませんけど、十一月の全国予選には支障ありません」
「今も右手で書くことはあるの?」
「ほとんどありません」
片岡は眉を寄せた。指導室には、ほかの人もいた。周囲を見渡し、ファイルを置いた。
「まだ沢田先生のところに顔を出しただけで、こっちには来ていなかったね。行こう。案内するよ」
この建物は、以前は事務や管理の仕事だけに使われていた。ここ二年ほどで、競技の練習室も移されてきた。数学の最上位はSグループと呼ばれ、斜め向かいには校長室がある。学校が力を入れていることが、よくわかった。片岡はひと通り案内し、最上階には長居せず、また下へ降りた。
階段のそばには、歴代の生徒の大会実績が貼られていた。チームを作ってから日が浅く、数年前までは本選の出場資格を取る者がひとりいれば、大々的に取り上げるほどだった。蒼介が見上げていると、片岡は少し居心地が悪くなった。それでも少年の表情が変わらないのを見て、先へ進んだ。
「さっき、リハビリにはあまり行けていないと言っていたね。でも野上先生は、転校に伴う生活支援金は、もう渡したと言っていたよ。少ない額ではなかったはずだけど」
彼に来てもらうため、学園は榊野大学附属高校を上回る条件を提示した。学費の減免に加え、入学当初の生活支援金が四十万円。本選の出場資格を得れば、さらに六十万円。代表選考合宿に進めば、二百万円。学校間の選抜で上位二十人に入った場合も、学園独自の報奨があった。
いずれも学園との特待支援の約束で、資金を出すのは学校だった。大会で一律に支給される賞金ではない。入学条件には、妹の転校と、聴覚面の支援を引き継ぐ手助けも含まれていた。野上は自ら付き添い、条件のいい小学校へ話を通した。それだけの支出がほかにあるとしても、リハビリまでためらわなければならない理由が、片岡には思いつかなかった。
「地元に、まだ借金があるので」
掲示板の前で、ふたりは足を止めた。少年の整った横顔に、影が落ちていた。片岡が口を開く前に、蒼介は続けた。
「妹のほうが、このお金を必要としています。学校の支援条件は、全部読みました。できないことを、引き受けたりはしません」
片岡は言葉に詰まった。同じくらいの年の甥は、宿題をするにも急かさなければならない。目の前の子は、自分の体のことを、何よりあとへ回しているようだった。
「……じゃあ、君の手はどうするんだい?」
以前いた地域でいい成績を取ったことと、ここで強豪校の生徒に競り勝つことは、同じではない。仮に左手で答案を最後まで書き、本選の資格を取れたとして、その先はどうするのか。リハビリにも通わず、手を放っておいて、今後の暮らしをどうするつもりなのか。
片岡は、やがてひとりで暮らす日のことを考えた。誰かと付き合い、家庭を持つこともあるだろう。自分でさえ、あの手を初めて見たときには胸が痛んだ。周りが避けることはないだろうか。けれど、初めて会った子に、そんなことをどう言えばいいのか。
結局、それ以上強くは言えず、何度もその手を見た。
「先の人生は長いんだ。目の前の二年だけで考えないように。自分のことも、よく考えておきなさい」
蒼介は少し黙り、それから目を上げた。
「先生の甥御さんが中等部にいて、来年のジュニアの数学大会を目指していると聞きました。必要なら、週末に問題演習を見られます」




