覚えた
学園の生徒には、ひとりにつきひと区画、ロッカーが割り当てられていた。四組はもともと人数が定員に届かず、いちばん上の段は高すぎて誰も使いたがらなかったので、夏帆が自分の錠をもうひとつ掛けていた。
この年、身長はやっと百六十センチを超えたところだった。普段は背伸びが面倒で、よく使う物は下の段へ入れていた。上の段には、悠人にまつわる細々した物ばかりしまっていた。かつての少女らしい宝物も、今は見るだけでつらい。蒼介に譲って、気分を変えたほうがよかった。
淡いピンクの小さなダイヤル錠が、手のひらに載っていた。リボンをつけた白い猫が描かれている。蒼介はそれを見てから、彼女の後ろへ目を向けた。すぐ下の段にも、まったく同じ錠が掛かっていた。くすんだ金属の扉の上で、ひどく目立っていた。
長いこと見ていたが、受け取るでも、断るでもなかった。夏帆の声が、次第にためらいがちになった。
「使ってほしいのは、ロッカーのほうだから。錠が気に入らなかったら、自分で替えてもいいよ」
後半は、あまり気が進まない口調になった。母が婦人服の商売をするのを見て育ち、何よりおしゃれが好きだった。幼いころはシーツを羽織るだけで家じゅうを妖精になって歩き、大きくなってからは、クローゼットをきれいなスカートでいっぱいにした。制服がどれほど堅苦しくても、週末に脱いだあとは、好きな色を選んで着たかった。
ほかの子ほど細くもないし、勉強も得意ではない。おとなしく上品な女の子の真似はできないから、いっそ好きなものを着ることにした。ピンク、緑、鮮やかな黄色。明るい色は、かえって顔色をよく見せてくれた。
前の人生では、高校三年になって少しずつ痩せた。いちばんひどく笑っていた男子たちも、次第に黙るようになった。チアの女子まで、卒業公演で着た緑のドレスをどこで作ったのか、尋ねてきた。同じような一着を、榊野でいちばん腕のいい仕立て屋に頼みたいと言っていた。
太っていると言われるのは、まだ我慢できる。趣味が悪いと言われるのは、絶対に嫌だった。前の人生の二十七歳の蒼介は、あれほど金持ちになっても、自分が選んだネクタイをしていた。それが十七歳の今になって、どうして選り好みするのか。
心の中でさんざんぼやいていると、手のひらがふっと軽くなった。蒼介が錠を受け取っていた。左手にはまだモップを持っていたので、右手を使った。ざらついた指の腹が、手のひらをかすめた。この年齢とは思えない厚いまめに、夏帆は少し手を縮めた。
◇
「暗証番号は?」
きれいな手ではない。蒼介はわかっていた。二本の指が曲がり、甲にはやけどが残り、手のひらは重い仕事で擦り減っていた。手を下ろし、白い猫の錠を親指と人差し指の間に挟んだ。ダイヤルを二度ほど動かし、さっき触れた温度を思い返さないようにした。
「四、一、五。私の誕生日。番号は変えられるよ。つるを九十度回して、下まで押してから数字を回せばいいの。一、二、三でも、四、五、六でも、好きなのにして」
彼は短く答えた。少女は何度か彼の顔を見て、息を吸った。
「三崎、私、こんなによくしてるんだから、ちょっと助けてくれない? 明日の数学と物理、ほんとにわからないの。また星印つけられたら、沢田先生のところに行かなきゃ」
◇
先生に残されて、問題を教わるのが怖いわけではない。ただ、職員室は十組の隣にある。あの廊下を思い浮かべるだけで、落ち着かなかった。実乃里のノートは、一度借りたばかりだ。せっかく友達になれたのに、毎日答えをせがむわけにもいかない。
「明日だけでいいから。先に自分でやって、それから答え合わせさせてもらいたいの。本当だよ」
母は言っていた。商売では、買うかどうかを尋ねるばかりでは駄目で、どれを選ぶか聞いたほうがいい、と。夏帆は表情の動かない蒼介を見て、おそるおそる続けた。
「先週、プリントやってたでしょ。途中の式とか、あんまり書かないの? それでも大丈夫。考えてみたら、三崎の解き方、私にはたぶん読んでもわからないし」
蒼介は錠を握ったまま、まぶたを少し上げた。
「うん。覚えた」
ふたりは、まだ親しいとはとても言えない。夏帆も、それ以上聞けなかった。寝る前になっても、いったい何を覚えたのか、わからないままだった。布団へ潜ってしばらく悩み、結局起き出した。「解」とひと文字書いただけの問題を一問ずつ調べ、答えを写し終えた。
◇
夜の十二時、由紀が帰ってきた。娘の部屋の扉を開けると、夏帆はパジャマ姿でヘッドホンをつけ、机に向かっていた。人が入ってきたことにも、まったく反応しなかった。
高校へ入ってから、この子はよく眠るようになった。母が遅く帰った日には、十回のうち八回は、もうぐっすり寝ていた。残りの二回は、こっそりスマホをいじるか、あの男の子のことで泣いているかだった。夜更かしして勉強する姿など初めて見て、由紀はしばらく入口にもたれて眺め、思わずスマホを取り出した。
シャッター音が何度か鳴り、夏帆が驚いて振り向いた。
「……こんな夜中に、何撮ってるの?」
「よほど立派な神様でも来てくださったのかと思って。何とかして、うちにいていただきなさい。帰られないようにね」
由紀は唇を突き出し、寝間着から出た娘の腕をつまんだ。
◇
翌日、夏帆は前の日より早く学校へ着いた。掃除当番が組み直され、実乃里とふたりで、校舎の下にある屋外卓球台の周りを担当していた。
小さな広場には赤い煉瓦が敷かれ、青い卓球台が二台並んでいた。榊野は湿気が多く、埃はさほど積もらない。厄介なのは、周りの竹と頭上の古い楠だった。一年じゅう葉が落ちてくる。ふたりは鞄を置き、箒と塵取りを持って下りた。小道へ入ったところで、同時に足を止めた。
「実乃里、昨日の午後、掃除した?」
「したとしても、今日は葉っぱだらけになるはずだよ」
何度か口を開いてから、ようやく声が出た。昨夜は小雨が降った。ここへ来るまでに通ったほかのクラスの担当区域には、水たまりに黄色い葉が浮いていた。四組の場所だけ、草の切れ端ひとつ落ちていない。卓球台の下まで、きれいだった。
こういう天気の日が、いちばん大変だった。水に浸かった葉は箒で掃けず、一枚ずつ拾わなければならない。腰が痛くなるし、手は泥だらけになる。誰かが場所を間違えて全部やってくれたのなら、あまりに割に合わない。
夏帆は袖をまくったまま立ち、実乃里と顔を見合わせた。どちらも、何が起きたのかわからなかった。好きな女子のため、何年も食堂の列に代わりに並び続けた男子の話なら、聞いたことはある。けれど濡れた落ち葉拾いのような、汚れて疲れる仕事で気を引こうとする人は、見たことがなかった。
そもそも今の自分の評判で、ひそかに好かれているとも思えない。考えても見当がつかず、ふたりは結局、使わないままの掃除用具を持って戻った。




