もう怒ったの?
悠人の声に、夏帆の意識は廊下へ引き戻された。
「前は、ずっと僕と一緒に授業を受けたがってたでしょ。隣の席、まだ空いてるよ。文系に戻りたいなら、先生に聞いてあげる。去年の誕生日の願い、今ならかなうよ」
悠人は声を和らげ、口元にもかすかな笑みを浮かべた。彼女ほどお人よしの女子など、ほかにいないのだろう。
◇
夏帆の誕生日は四月十五日で、一年のあの体育祭とは、一週間しか離れていなかった。あの春の遠足は、前の人生でも忘れられなかった。学年全体で隣の市の山へ出かけた。松やヒノキの間に仏塔がいくつか見え、山頂には参拝客の絶えない古寺があった。
何千段もの石段を登り、生徒たちは次々に展望台の手すりへもたれて休んだ。ケーブルカーは運休していて、そこから山頂までは、さらに三十分歩かなければならなかった。担任が、参拝に行きたい人はいるかと尋ねても、顔を上げる者は少なかった。悠人も展望台に残った。
帰りの集合時刻、夏帆は遠くから走って下りてきた。山の中は蒸し暑く、風もなかった。頬は真っ赤で、ポニーテールも崩れ、汗に濡れた後れ毛が首に張りついていた。普段は体力測定で八百メートル走るだけでもへとへとになる。三十分の山道で、残っていた力までほとんど使い果たしていた。
列へ戻りきらないうちに、前にいた男子が声を裏返し、女子の口調を真似て叫んだ。
「十六歳になりました。仏様、どうか桐谷と隣の席にしてください!」
上まで行った女子は、もともと少なかった。普段から騒がしい数人を除けば、夏帆しかいない。ばらばらに並ぶ生徒たちの間から、笑いが弾けた。誰を真似ているのか、聞けばわかった。
誕生日の願い事は特にかなうと聞き、わざわざ絵馬を買った。願いを書き、背伸びをして掛けたが、高いところには手が届かず、下のほうに結ぶしかなかった。暇を持て余した男子たちが寄ってきて、その一行をしっかり読んでいた。笑いながらスマホで撮る者までいた。
引率の先生が笛を吹き、点呼を始めた。夏帆は息を切らし、ゆっくり列へ走って戻った。目の縁が少し赤かった。けれど悠人と目が合うと、うつむいて手の甲で顔を拭い、すぐにまた顔を上げた。まだ目に涙が残っているのに、彼へ小さく笑いかけた。
◇
認めたくはなかったが、あの日、目が合った一瞬、悠人の鼓動は確かに二拍ほど速くなった。
ただ、それだけのことだった。それでも今、思い出すと気分がよくなった。午後の光が、目の前の少女の髪の先に落ちている。ひどく柔らかそうに見え、無意識に手を上げた。
「明日、十組に戻ってきなよ。そうしたら、僕が隣の――」
「今の隣の席の人、気に入ってるから」
夏帆は横へ避けた。悠人の手が宙で止まり、口元の笑みも固まった。
◇
「一年以上前にしたお願いでしょ。言われなかったら、忘れたままだったよ。今日、何のために来たのかわからないけど、誕生日のことを謝りたいなら、もう怒ってないって言ったよね。戻っていいよ」
夏帆は唇を結び、彼を見た。早口にはならなかった。
「お願いしたときは本気だったし、理系を選んだときも本気だった。この先、勉強がうまくいくかどうかも、自分で選んだことだから。勝手に決めつけて、私のことまで決めようとするの、失礼だと思う」
「失礼?」
悠人は、聞き間違いを疑うように彼女を見た。夏帆はうなずくと、彼の横を通り、ロッカーの前でダイヤル錠を回した。背筋はまっすぐ伸びていた。
開いた金属の扉が、ふたりを隔てた。悠人からは顔が見えず、ときおり手が伸びて、中から物がひとつずつ取り出されるのだけが見えた。昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。入口で長いこと迷っていた委員長が出てきて、丁寧な口調で、そろそろ教室へ戻るよう促した。悠人はしばらく立ったあと、身を翻して去った。
◇
三メートルほど先で、蒼介は洗う前のモップを手に、曲がり角の陰へもたれていた。もう、しばらくそこにいた。先週末に掃除当番の表が組み直され、彼は月曜の昼、廊下と階段教室の前だけを担当することになった。運動場の作業は割り当てられなかった。
早く来たので、隣のクラスの生徒が箒を持って出てきたころには、もう掃除を終えていた。他人の私事には興味などなかった。けれど夏帆が女子と腕を組んで戻り、あの窓の前へ立ったときから、話が次々に耳へ入ってきた。
誕生日の願い事。怒っているかどうか。クラスを移るかどうか。
夏帆という少女は、誰にでも簡単に気を許すようだった。転校生が来れば、自分から椅子を引く。商店街を通れば、見知らぬ人のために出ていく。彼の手を見ても怖がらず、睫毛を伏せてパッドを留め、机にビスケットやキャンディーを置いていく。
恋人がいたり、以前好きだった相手がいたりしても、何も不思議ではない。それなのに、あの澄んだ甘い声が聞こえると、眉を寄せずにはいられなかった。
水が、勢いよく流しへ落ちた。蒼介は目を伏せたままモップを洗い、蛇口を閉めた。「今の隣の席の人、気に入ってる」という言葉を、頭から追い出した。
教室の入口へ行くと、夏帆はまだロッカーを片づけていた。上の段なので、少し背伸びをしている。動くたびにスカートの裾が揺れた。足元の大きな紙袋には、今出したばかりの物が詰まっていた。お菓子、飲み物、スポーツ用のウェットシート。それから、剥がしたばかりのテープが縁についた、何枚かのインスタント写真。
いちばん上は、ピアノを弾く男子の写真だった。かなり離れたところから撮られ、左下にピースをした手が入り込んでいる。小さな手で、甲には浅いくぼみがあった。今朝、彼に触れ、痛いかと優しく尋ねた手だった。
夏帆はロッカーの奥から男物のマフラーを引っ張り出し、腰に手を当てて息をついた。振り向いて彼を見ると、驚いて肩をすくめた。
「そこで何してるの?」
「掃除当番。廊下に物、置かないで」
モップを持ったまま、蒼介は彼女の足元へ目を落とした。
「……うん」
悠人が去ったばかりだった。こうして比べると、前の人生の夫は、あの人より背が高かったらしい。同じ十七歳なのに、この淡い茶色の目で冷たく見られると、ずっと圧迫感があった。夏帆は少し下がり、おとなしく紙袋を抱えた。
「すぐ捨てるから。もう使わない物ばっかりだし……全部、黒歴史」
声がだんだん小さくなった。蒼介は短く返事をしたが、足は動かなかった。
◇
怒ったのだろうか。掃除したばかりの廊下を、散らかしたから? もう、ちゃんと片づけたのに。
紙袋を抱え、夏帆は朝のことを思い出した。あのときも冷たい顔をしていたけれど、最後には苺のウエハースを受け取ってくれた。ほかに機嫌を取れそうなものはないかと、懸命に考えた。空になったロッカーへ目を巡らせ、小さな錠を見つけた。
背伸びをして取り、彼へ差し出した。
「ロッカー、使う? クラスが分かれたとき、ひとつ余分に使わせてもらったの。ここ、あげる」




