有名なお姫様
いくつもの昔の出来事が胸に押し寄せ、夏帆はすぐに返事をしなかった。目の前の相手が、少し顔を下げた。
「怒ってる?」
「別に。早く行って。これからも来ないで。恥ずかしいから」
昼休みはもうすぐ終わる。生徒会の見回りもあり、廊下に集まって騒ぎすぎれば、先生が来る。学級委員長が入口の内側に立ち、両腕を広げて、見物に出ようとする男子たちを止めていた。
はやし立てる声が何度も届き、夏帆は恥ずかしさで頬が熱くなった。悠人はそんな彼女を見て、かすかに笑った。
◇
宮原家が裕福なのは、学校中が知っていた。普段はほかの人にろくに取り合わない少女が、一年以上も彼のあとを追い、目が合うたび、しばらく顔を赤くしていた。
朝晩の挨拶のメッセージは、ほとんど途切れなかった。夏休み前の学年のバスケットボール大会では、彼が出場するたび、コート脇に氷入りのミルクティーがずらりと並び、控えの選手まで一杯ずつもらえた。
先週の誕生日会もそうだ。ある選手とのコラボスニーカーを何気なく褒めたら、彼女は隅に座り、一晩中スマホで探していた。数十万円もする限定品なのに、注文するときにためらいもしなかった。
悠人の両親は、どちらも中央官庁で要職に就いている。好意を示してくる女子には困らず、こういう、まだ頬に幼さの残るタイプが好みというわけでもなかった。友人たちに「お姫様の婚約者」とからかわれるたび、不愉快だった。ほかの人に本気にされては困る。
それでも、こんなふうに追いかけられれば、虚栄心はくすぐられる。幼いころから両親の人付き合いを見てきたので、人脈と財力がどれほど物事を楽にするかも知っていた。彼女と同じくらい裕福な家の娘は、大抵、彼女よりずっと機嫌を取るのが難しい。それも、はっきり断らずにいた理由だった。
ところが先週末から、メッセージが来なくなった。家の近くで、偶然通りかかったふりをする姿も見ない。誕生日の夜のことが気に入らず、拗ねているのだろう。
悠人は辛抱強く、声を和らげた。
「誕生日の日、運転手に送らせようと思ってたんだ。でも、お開きになったら見当たらなくて。聞いたら、飲みすぎて先に帰ったって」
彼女はまだこちらを見て、何も言わなかった。彼は二秒ほど間を置き、話題を変えてみた。
「持ってきてくれたケーキ、あいつら、店が用意した物だと思ってたんだって。それでふざけて塗り合ったらしい。あとで、ちゃんと注意しておいたから」
少し目を伏せた。
「……自分で作ったの?」
あのケーキは、ひどい見た目だった。土台は傾き、クリームはでこぼこで、絞った飾りや果物も潰れて混じり合っていた。彼女の手作りなら、納得できた。返事を待っていると、夏帆は一瞬きょとんとしてから、首を振った。
「買ったに決まってるでしょ」
◇
少し申し訳なさそうな目の前の顔を見て、夏帆はただ疲れた。いくら好きでも、自分が台所に立てば、余計な手間を増やすだけだとわかっている。好きだと示すために、わざわざ手作りのケーキにこだわるつもりもなかった。
あの日は雨だった。配達の人が店の下で車を停め損ね、少し滑って、箱の中のケーキまで崩れてしまった。仕方なくそのまま持って上がり、見た目の悪さに、数分間も引け目を感じたのだった。
「ほかに用がある? 授業についていくの大変だから、戻って予習したいんだけど」
彼に帰ってもらえるなら、勉強さえ面白そうに思えた。けれど悠人は彼女を見つめ、少し眉を寄せた。
「僕を避けるためだけなら、そこまで無理しなくても」
「え?」
「あいつらの言い方は、配慮がなかった。傷つけたことは、代わりに謝る。でも、どれだけ腹が立ったからって、自分の将来がかかってるのに意地を張っちゃ駄目だよ。今の成績で理系を続けるのは、この先つらくなると思う」
低く、穏やかな声だった。けれど夏帆には、だんだん入ってこなくなった。さっき食堂で実乃里が話したことと、目の前の彼がつながり、忘れたつもりでいた光景が、いくつも鮮明になった。
十組は文系だった。高校二年の春にクラスが分かれるまで、夏帆と悠人は同じ教室にいた。
一年の春の体育祭で、十組の入場プラカードを持つ役に推されたことがある。学園の入場行進はいつも華やかで、衣装は各クラスで用意した。プラカードを持つ女子たちは、みんなきれいに着飾っていた。話を聞いた母は張り切り、早くからピンクのドレスを注文してくれた。肩が出て、裾は足首まであるものだった。
ドレスだけを見れば、それほど露出は多くない。けれど夏帆が着ると、胸元がきつく張った。当時は人目が気になり、出る直前になって、上から制服のジャケットを羽織った。
強い日差しの下、体に沿うドレスの上に長袖を着ていた。暑くて前髪まで汗に濡れ、巻いた髪が頬に張りついた。入場行進を終えて席へ戻ると、悠人は何も言わなかったが、周りの男子はずっと笑っていた。
冷たくなった手を握りしめて座った。すると女子がひとり寄ってきて、そっと教えてくれた。誰かが勝手に写真を撮り、別のクラスの生徒を装って、校内の生徒がよく見る匿名掲示板に載せていた。
投稿には、正面や横からの写真が三枚ついていた。その下に、少しずつ書き込みが増えていった。
【体育祭に装甲車が入ってきたんだけど。】
【十組のプラカード持ってたの、誰? さっきまでの女子が通ったあとに、あれが出てきてびっくりした。ピーナッツみたいに包まれてる。ドレスに制服って新しい流行? それとも中のファスナーが弾けて、上着で隠すしかなかった?】
昼間、学校で堂々とスマホを見られる生徒は少なく、最初の書き込みは多くなかった。けれど夜になると、返信は何ページめくっても終わらなくなった。
【その勇気は認める。あとで投稿消しときなよ♡】
【お姫様のことなんて言っていいの? 桐谷がついてるんだから、殴られないようにね。】
【身体測定、ほんとに六十キロだけ? こっそり数字変えただろ。あれ、桐谷が抱えられる? 手の骨折れたら、ピアノ弾けなくなるぞ。】
【十組だけど、あいつ一度も認めてないから。お姫様の婚約者って言われるたび、すごい顔してる。相当嫌なんじゃない。】
【わざと変に見える角度で盗撮するほうは、そんなに立派なわけ? 普通に可愛いと思うけど。夏に短いスカートはいてると、脚もすごく白いし、そばを通るといい匂いする。】
【上、いい人ぶって何なの。豚だって太ってるほど白いだろ。】
【スカート折るの、チアの羽鳥の真似? あの子のウエスト、この子の太腿より細いじゃん。真似する前に、二十キロ落としたら?】
【お姫様、見てる? 脚見せて金ばらまく前に、脂肪吸引してきなよ。】
十六歳だった。布団の中に隠れ、気にしないようにと何度も自分に言い聞かせた。けれどスマホを数行スクロールしただけで、それ以上見られなくなった。画面を消し、一晩中泣いた。
その後、学校へ戻り、次の学年のコース希望を書くとき、迷わず理系に印をつけた。
あのころも、まだ悠人が好きだった。自分で自分を慰めることにも慣れていた。それでも、あの教室には、もう一日だって長くいたくなかった。クラスが分かれたら、少しでも遠くへ行けることだけを願っていた。




