果汁のような濃い甘さ
夏帆には、その補助線にどんな意味があるのか、わからなかった。ただ、ずいぶんまっすぐ引けるものだと思った。
「すごいね」
彼はうつむいて机を整えていた。ときどき顔を見ても、喜んでいるのかどうか、やはりわからない。クラスの、考えていることがすぐ顔に出る男子たちとは違った。若いころから、こんなにわかりにくい人だったのだ。前の人生で大人になってから見せた冷淡さも、その場だけで取り繕っていたものではないらしい。
予鈴が鳴っても、まだ相手をしてくれなかった。自分の頭の悪さに呆れ、もう手伝うのは嫌になったのかもしれない。少し不安になり、夏帆は思い切って、最後のウエハース一袋を机の下から差し出した。
「これ、食べて」
内緒話のような小声だった。それでも、機嫌を取ろうとする気持ちは隠せなかった。
◇
蒼介は目を落とした。ピンクの袋には、白い小犬と桜が描かれていた。その甘い雰囲気は、彼女がいつもまとっている苺の匂いによく似ていた。身を寄せてきた拍子に、数本の髪が風で袖のそばへ流れ、濃い甘さまで一緒に落ちてきたようだった。
押し返すなら、手を少し動かすだけで済む。彼は唇を結び、それでもウエハースを引き出しへしまった。
◇
月曜の午前中は国語と英語で、沢田先生の授業よりは気が楽だった。昼休みのチャイムが鳴ると、夏帆は実乃里を引っ張って、食堂へ走った。
学校は近ごろ評判を上げようと、校内設備にかなり金をかけていた。食堂の中華コーナーにまで、四川料理が得意な料理人を呼んでいた。小皿料理は高くなく、痺れる辛さと豊かな香りが食欲をそそる。人気の品は、遅く行くと売り切れた。
ふたりは向かい合って座った。テーブルには何皿も料理が並び、肉の入っていないものは、キャベツ炒め一皿だけだった。支払いを済ませた夏帆が箸を出そうとすると、実乃里はトレーを見つめ、箸袋を指で握りしめていた。
「……委員長が貼ったお知らせ、見た? 生徒会が今学期、食べ残しを減らす活動してるの。たくさん残すと、呼び止められて注意されるんだって」
「全部食べればいいよ」
夏帆は水煮肉片の肉を一枚つまみ、向かいの細い体を見て、先にその茶碗へ入れた。実乃里はぽかんとして、箸を持ち上げもしなかった。
「前は、こういう油っぽいの、嫌いって言ってなかった?」
「言ってた。格好つけてたの」
食の好みは母に似て、辛いものが好きだった。どんな高級な洋食の店へ行くより、熱々の辛い鍋を食べるほうがうれしかった。前の人生では、痩せるために肉も唐辛子もやめた。皿の上はいつも白と緑ばかりで、油のついたおかずは、ご飯の上のほうに一度こすりつけ、最後に下のほうを数口だけ食べた。
今思うと、あまりに馬鹿だった。空腹でくらくらしながら、一日中あんなからかいを受けていたのだ。機嫌よくいられるはずがない。
夏帆はうつむいて食べた。噛むたびに、頬が少し膨らんだ。実乃里はしばらく見つめ、それから茶碗の中のもやしを二本つまみ、ゆっくり噛んだ。
「宮原、全然太ってないよ。桐谷のために、あそこまですることなかったのに」
夏帆の箸が少し止まった。向かいの声が、慌てて続いた。
「前の体育祭で、クラスのプラカードを持ってたとき。あの人の周りの男子が、勝手に写真を撮って、ひどいこと言ってたでしょう。桐谷も見てたのに止めなくて、あんまりだよ。あのころは、まだ私たち知り合ってなかったし、あとで聞いたこともあるんだけど……あの、見る目がなかったって笑ってるわけじゃないから」
実乃里は、さらに念を押そうとするように、そっとこちらを見た。夏帆は肉をつまんだまま、軽く手を振った。
「わかってる。そんなに緊張しなくていいよ。昔は見る目なかったんだから、かばってくれなくてもいいの」
十数年ぶりに食べる学食の料理は、ほかのことが気にならないほどおいしかった。まだ遠慮している様子を見て、夏帆は辣子鶏も何切れか分けた。
「実乃里こそ、ほんとに細いね。もっとお肉食べなよ。それと、友達になってくれるなら、これからは名前で呼んで。夏帆って」
辣油のついた唇が赤く艶めき、頬や首筋の白さを際立たせていた。実乃里は耳の先を少し熱くし、うつむいた。しばらくして、ごく小さな声を出した。
「……夏帆」
「うん」
口元を緩めると、浅いえくぼが二つできた。向かいの少女は茶碗の肉を食べきり、ほかの料理も何口か食べて、少し表情を和らげた。けれど何かを思い出したように、また眉を寄せた。
「でも、転校生もちょっと合わない気がする」
「どうして?」
「三崎、格好いいけど、目がちょっと変っていうか。うまく言えないけど、性格が極端そうで」
「……どうだろうね」
夏帆は曖昧に答えたが、内心では少し感心していた。のちに榊野夕報で働く、あの勘の鋭い記者は、十代のころから人を見る目があったのだ。
食堂の出口のそばには、学校の補助で安く食べられる定食のコーナーがあり、そのすぐ横でスープを無料でお代わりできた。夏帆はトレーを返し、実乃里の腕に自分の腕を絡めて、外へ向かった。近くの長いテーブルをいくつか見渡したが、蒼介は見つからなかった。
校舎へ戻ると、ロッカーのそばに人影があった。昼休みは短く、机に伏せて少し休むくらいしかできない。新しい同級生はそれに慣れず、息抜きに出てきたのだと思った。
近づいてから、悠人だとわかった。
十組は別の階だ。何のために来たのか、想像はついた。食事から戻ってきた男子たちが肩を組み、通り過ぎながら意味ありげに笑った。
「珍しいじゃん。お姫様に会いに来たの?」
誰かが口笛を吹いた。実乃里は先に教室へ滑り込んだ。夏帆は一歩遅れ、気づかなかったふりをしようとしたが、差し出された手に行く先を遮られた。
記憶の中の彼と、ほとんど変わらなかった。何不自由なく育った様子で、口元には自然と笑みが浮かんでいる。黒く明るい瞳は、目尻が少し上がっていた。かつてはその目に、どうしようもなく惹かれていた。学校の女子が冗談で、犬を見ているだけでも、いかにも愛おしそうに見えると言っていた。
「僕を避けるのはいいけど、オーケストラの選考合宿まで出ないの?」
「いつ?」
「秋の連休のあと。先週末、グループに連絡が来てたでしょ。返事をくれてないの、君だけだから。先生に聞いてくるよう頼まれたんだ」
夏帆は思い出した。高校時代、練習はいい加減だったが、母はずっと学校のオーケストラを支援していた。自分も二年間、チェロの首席を務めていた。普段は校内の演奏会に出るくらいで、さほど目立つ楽団ではなかった。それでも毎年、地域の青少年交響楽団の選考へ、ふたりを推薦できた。
その楽団に入れば、レベルの高い公演や海外交流に参加できる機会があった。音楽活動の実績を生かして大学へ出願するときにも役立つ。もちろん、学科の勉強や各大学の選考も、通らなければならない。
実乃里も、学校のオーケストラにいた。最初はピアノで入ったが、気が弱く、少しずつ居場所を失って、隅のほうでマラカスやトライアングルを任されるようになった。
この少人数のグループは、先生があらかじめ候補として選んだ生徒たちなのだろう。チェロは自分。ピアノは悠人。実乃里には、連絡さえ届いていなかった。




