十七歳に戻って
九月、榊野学園高等部。
真夏の暑さがまだ残る中、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。二年四組の窓の外には濃い緑が茂り、葉の隙間からこぼれる日差しが、眠っている女子生徒の顔に落ちていた。
「……宮原、起きて」
夏帆は眉を寄せ、額の下に敷いた腕をさらに抱えこんだ。低体温になると、暑く感じることもある。それを覚えていたので、またあの悪夢の中にいるのだと思った。
「もう授業始まるよ。起きて」
肩を何度か軽く叩かれ、それから指先でつつかれた。爪はきれいに切られていて、痛くはない。それでもわずらわしくなり、目を開けた。
強い光が視界を刺した。数秒して、目の前にいる女子生徒の顔が、少しずつはっきりしてきた。
「宮原……泣いてたの?」
しばらく、ぼんやりと見つめた。
「実乃里?」
短い髪に、細い眉。顔の造作は小さくまとまり、人混みに紛れれば見失ってしまいそうな子だった。その顔があまりに若くて、現実感がなかった。取材ノートを手に、自分をかばうように前へ立ってくれた、記憶の中の記者と重なる。
高校時代は好きな男子を追いかけることに夢中で、勉強はおろそかになり、幼いころから続けていたチェロさえ、ほとんど投げ出しかけていた。友人は少なく、寄ってくる子の大半は、夏帆の気前のよさが目当てだった。実乃里はクラス替えのあと、最初に知り合った女子生徒だ。気が弱く、ずいぶん用事を言いつけてしまった。
大学卒業後、母の会社で問題が起きると、かつての友人たちは、夏帆がどれほど贅沢で付き合いにくい女だったか、競うようにメディアへ話した。記者になっていた実乃里だけは、夏帆のために言葉を尽くしてくれた。
「……どうしたの?」
目の前の少女は、まだ遠慮がちにこちらを見ていた。
あれから何年も経った。十代のころの顔など、もうはっきりとは覚えていないはずなのに。この夢は、どうしてこんなに鮮明なのだろう。黒板の左にあるデジタル時計を見上げると、十二時四十分を示していた。その下には、九月十一日、金曜日。一番下の年の表示は、教室へ飛び込んできた男子生徒に隠れて見えなかった。
少し遅れて思い出した。数学の課題を集めたり配ったりしていた男子だ。
「起きろ、みんな起きろ! うちのクラス、転校生が来るぞ!」
金曜の午後は三時間だけで、四時前には帰れる。昼食を終えて浮き足立っていた生徒たちが集まり、男か女か、顔はどうか、背は高いかと、一斉に質問を浴びせた。
男子は近くのひとりをつかまえてプリント配りを手伝わせ、わざと半分ほど配り終えてから、もったいぶって話しはじめた。
「数学のコンテストに出てるやつ。さっき鉄仮面の先生のところで見たんだけど、びびった。あんな顔してたら、授業に集中できないだろ。背も高いし。俺、正真正銘百七十あるのに、頭ひとつ近くでかかった」
「そんなにすごいのに四組? ほかの組が取り合いそうじゃん」
二組は特進クラスだった。本鈴が鳴る前から、そちらの廊下はもう静かになっている。男子は入口へ目をやり、指を一本立てた。
「まだ続きがあるんだって。前の学校、辞めたらしい。退学にされたのかもしれないけど、とにかく何かあったっぽい。でも大会の成績がすごいから、学校がかなりいい条件の特待生にしたんだと。そいつに実績出してもらうつもりなんだろ」
午後の一時間目は、担任の数学だった。男子は廊下を気にしながら後ずさり、夏帆の隣の机にぶつかった。机の脚がぎしりと鳴って、足の甲を押した。
制服の決まりは厳しく、クローゼットいっぱいのきれいなスカートは、家に置いてくるしかない。外履きのブランド靴は下駄箱の中で、今履いているのは新しく替えたばかりの上履きだった。その甲に、机の脚が擦れた跡がついた。
男子は両手を合わせ、何度も謝った。夏帆は適当に大丈夫と答えたが、意識は足の指の鈍い痛みに向いていた。
夢の中でも、机の脚に足を押されたら、こんなに痛いのだろうか。
それに、この場面には覚えがある気がした。
机の端のティッシュが風に飛ばされかけ、手を伸ばしてつかんだ。考えがまとまらないうちに教室の騒ぎが収まり、後ろでふざけていた男子たちが、慌てて席に滑り込んだ。
革靴の足音が教卓の前で止まり、授業の資料と教科書が、どさりと置かれた。
「この階、あなたたちの声しか聞こえないわよ。おしゃべりは放課後にしなさい。隣のクラスの邪魔をしない」
「昨日の課題で間違えたところは、授業が始まる前に見直しておくこと。プリントに星印をつけられた人は、授業のあと職員室へ来なさい」
沢田先生は四十代前半で、黒いロングスカートをきりりと着こなし、髪を高くまとめていた。普段は笑顔を見せることも少なく、生徒たちは陰で「鉄仮面」と呼んでいる。成績が下のほうだった夏帆にとっては、親しみよりも畏れを感じる相手だった。それでもクラス分けの際、音楽をやっている女子がなぜ理系を選ぶのか、と疑問を呈する人がいたとき、先生が口を開いてくれたことは覚えている。
「どの道へ進むかは、自分で決めなさい。理系の勉強は努力次第。性別は関係ないわ」
そのとき胸に響いた言葉も、長くは心に残らなかった。授業では相変わらず眠くなり、卒業のときも、先生に近づいて抱きつく勇気さえ出せなかった。
教壇からの視線が教室を一巡し、数十人の生徒が背筋を伸ばした。そこでようやく、沢田先生が廊下へ手招きした。
「入って。みんなに挨拶して」
夏帆は唾をのみ込んだ。なぜか鼓動がどんどん速くなる。顔を上げると、呼吸まで自然と浅くなった。静まった教室に、窓の外から蝉の声がひときわ大きく響く。背の高い、痩せた男子生徒が教壇に上がった。
真新しい白の長袖シャツに、濃い色のズボン。袖口は手首まで覆っていた。けれど上履きのスニーカーとリュックは古びていて、新しい制服とはどこか釣り合っていなかった。
三十度を超える午後、濃い緑の木陰が横顔に映っていた。鼻筋、顎の線、わずかに力の入った唇。若すぎて知らない顔のようなのに、目を離せないほど見覚えがあった。
蒼介だ。
十七歳の、蒼介。
足の指はまだ痛い。額を風がかすめ、汗がひんやりした。頬と腕の、髪が押しつけられていたところが、しびれるようにかゆかった。手を上げ、指先でその跡に触れた。
高校二年に戻っていた。彼が榊野学園へ転校してきた、あの日に。




