夫の遺産
薄暗い部屋に、リクライニングチェアが置かれていた。カシミヤの毛布は暖かく、ふんわりと体を包んでいる。夏帆はゆっくり揺れる金属の振り子を見つめていた。まぶたが重くなり、催眠療法士の声に導かれるにつれ、周囲の気配が少しずつ遠のいていく。
「三崎さん、もう少し前に戻ってみましょう。まずは、怖い思いをする直前のところで止めてください」
「ご主人と、山のふもとのヘリポートに着きました。あなたはご主人の手を引いて歩いています。遠くには雪山が見えます……空は何色ですか?」
毛布の下で、夏帆は両手を組んでいた。
「……青。とても澄んだ青です」
蒼介が亡くなって三年。夏帆は三年間、不眠に悩まされていた。
あの事故から生還し、何度生まれ変わっても使いきれないほどの財産を相続した。何かにつけて自分を束縛する夫からも解放されたのだから、気ままに暮らせるはずだった。けれど、自宅にいても、南の島で休暇を過ごしても、新しく買った豪邸に十数人の男性モデルを呼び、友人たちと一晩中騒いでも、よく眠れなかった。
一睡もできない夜もあれば、眠りを助ける薬を何錠か飲んで、ようやく寝つける夜もある。それでも目覚めると、亡き夫に見つめられているような気がした。美しく整いながら、どこか薄情そうな顔。執着を宿し、嘲ってもいるような、暗く沈んだ瞳。その記憶が、ひとりで生き残った日々を心安らかに過ごすことを許してくれなかった。
「そのとき、どんな気持ちでしたか?」
「私……すごく緊張していました。ずっと考えていて、その日に離婚を切り出すつもりだったんです」
幼いころから夏帆を知る人の多くは、何不自由なく生きていける星の下に生まれたのだと思っていた。家業が順調なうちは、大切に育てられたひとり娘。事業が破綻し、婚約していた初恋の相手が去ったあとも、転落を面白がる人たちが集まりかけたところで、蒼介が彼女を妻に迎えた。
そのころ、彼の資産はすでに千億円を超えていた。
ふたりは高校の同級生だった。片方はベントレーで通学し、もう片方は学費や諸経費にさえ頭を悩ませていた。榊野学園で過ごした二年間、彼はさんざん苦労し、華々しく注目を浴びることもあった。それなのに、夏帆は一度も彼をまともに見たことがない。名前にどの漢字を使うのかさえ、彼が成功してから知った。
自分が目当てにしていたのは、彼のお金。では、彼は自分の何が欲しかったのだろう。
優しく家庭的な妻にはなれない。学生時代も、真面目に授業を聞いたことなどほとんどなかった。裕福な家の娘という肩書を取り去れば、残るのは見た目だけのような気がした。経済ゴシップ紙も、夏帆について書くときは、決まってどこか見下すような調子だった。三崎夫人は美しいが、中身があるとは言いがたい、と。
テクノロジー企業の晩餐会に、夫婦で何度か出席したことがある。上座に座る蒼介は、冷たく鋭い雰囲気をまとっていた。ほかの夫人たちは名門大学の出身者が多く、知的で洗練されている。彼の隣に寄り添う自分だけが、ひどく派手に見えた。清楚な蘭の群れに紛れこんだ、牡丹の花のように。
彼は、その顔さえ気に入っていないようだった。
結婚式の誓いのとき、人前で形ばかりの口づけをした。それきり、キスは一度もない。ときおり夜に体を重ねることはあっても、何かをぶつけられているようだった。照明を落とした部屋で、うなじと手首を強く押さえられる。罠に落ちた獲物のように、振りほどくことも、逃れることもできなかった。
欲情した彼がどんな顔をしているのかは見えない。ただ、その視線だけは感じていた。冷たく、じっとりと湿っていて、水底に沈んだ藻の糸のように腰や背中へ絡みついてくる。
自分を恨んでいるのだろう。
かつては目もくれなかったお嬢様が、今では金と庇護を求めて、彼の前でおとなしく従っている。考えるほどに、この結婚は復讐なのかもしれないと思えた。昔は気にも留めなかった相手に、今では生活のすべてを握られている。どれほど許しを請うても手加減してもらえず、痛くても耐えるしかない。涙をこぼすことさえ怖かった。
昔、面白半分に眺めていた出来事は、すぐに忘れた。自分がつらい思いをするようになると、彼を顧みなかった場面ばかりが、次々と思い出された。後ろめたさと恐怖が絡み合い、ますます彼の目を見られなくなった。二年を耐え、どれだけ借りがあったとしても、もう返し終えたはずだと思って、ようやく離婚を切り出す勇気を出した。
事故は、その言葉を口にしたあとで起きた。
「……雪山のいちばん高い峰を越えるとき、下降気流に巻き込まれました」
甲高い警報が鳴り響いた。メインローターのバランスが崩れ、機体が激しく揺れる。体が浮き上がるような感覚が、何度も襲ってきた。ヘッドセット越しに聞こえる操縦士の声は、はじめこそ冷静さを保とうとしていたが、呼吸は次第に荒くなり、しまいには途切れ途切れの嗚咽が混じった。
操縦桿も反応しなくなった。
ガタガタと音を立てて、計器の針が狂ったように震える。窓の外を氷河がものすごい速さで流れた。絶望的な静けさが数秒続いたあと、ヘリは崖へ突っ込み、右前方が尾根に衝突した。前面のガラスを何かが突き破り、操縦士はその場で動かなくなった。
爆発すると思った。けれど機体は、傾いたままそこに止まっていた。
「夫は右側に座っていて、ひどいけがを……全身、血だらけで……」
毛布の下で、夏帆の指が丸まった。
「通信アンテナが折れたみたいでした。機内で一昼夜待ちましたが、無線の応答はなくて。翌朝、明るくなったころ、誰かに話しかけられたような気がします」
金属の振り子が、ゆっくり光を反射した。
「誰ですか?」
「……わかりません」
無線が復旧したのかもしれない。救助のヘリが来ていたのかもしれない。あまりに時間が経ちすぎて、記憶の景色は大まかな色のかたまりにまでぼやけていた。音も匂いも、消されてしまったようだった。
「三崎さん、力を抜いて。あなたはもう助かっています」
催眠療法士の声に重なって、ゆっくりとした呼吸が二度聞こえた。
「今、あなたは救助ヘリの中にいます。あと三十分で近くの街に降り、医療スタッフの手当てを受けます。体が少しずつ温まって、心拍も呼吸も落ち着いていきます」
「窓の外では、雪山が日を浴びて金色に輝いています。外を見て、どう感じましたか?」
「……まだ寒いです。でも、ずいぶん安心しました」
夏帆は唾をのみ込み、背中を再びチェアに預けた。
「手にリモコンを持っていると想像してください。記憶は一時停止もできますし、遠ざけることもできます。救助ヘリの機内で止めて、少しずつ映像をはっきりさせていきましょう」
「周りにはローターの音や、モニターの音が聞こえます。医療スタッフが操縦士と話しています。その雑音を小さくして、窓から下を見てください。日の光と雪景色が見えます。あなたは安全です……ほかには、何が見えますか?」
固く閉じたまぶたが震えはじめた。
砕けた窓。物音ひとつしない操縦席。蒼介が横から覆いかぶさり、夏帆を腕の中に抱えこんだ。荒い息が耳をかすめ、首筋には血管が浮いていた。
冷たい風が雪の粒を巻き込みながら機内へ吹きつける。遠くの低い轟音が、次第に近づいてきた。足元で雪崩が起きているようだった。温かい液体が耳から首へ伝い落ちていく。何なのかわからない。燃料タンクから漏れたのか、それとも別の何かなのか。寒さで嗅覚まで鈍り、吹雪が何度も頬を打った。顔を上げることも、手を伸ばして確かめることもできなかった。
「私、死ぬの……」
息が苦しかった。涙で顔を濡らし、夢中で彼の手をつかんで、その胸に潜りこんだ。彼の右手には古傷があり、薬指と小指はいつも不自然な角度に曲がっていた。普段はじっくり見ることさえためらうその手を、このときばかりは強く握りしめていた。手のひらは汗でいっぱいだった。
蒼介はしばらく見下ろし、喉仏を動かした。
「死なない」
どれだけ閉じ込められていたのか、わからない。雪山の昼は目を刺すほど明るく、夜は底知れず暗かった。応答を待つ一分一分が、命の残り時間を刻んでいるようだった。手をつなぎたがると、彼はつながせてくれた。風の音や山の轟きに怯えると、無事な左手を回し、無理な姿勢で耳を塞いでくれた。
標高三千メートルの寒さが、少しずつ体温を奪っていく。見た目のよさだけで選んだ白いヘリは、広大な雪原に落ちると、ほとんど見分けがつかなかった。震えながら日暮れを迎え、意識がぼんやりしたまま、次の朝を待った。
救助に来た人が最初に何と叫んだのか、忘れてしまった。救助ヘリの色も思い出せない。ただ、後部座席から運び出されたとき、自分が蒼介の防寒着を着ていたことだけは覚えている。ファスナーは一番上まで閉まり、顔の半分を覆っていた。
担架がロープでゆっくり吊り上げられ、崖の縁で今にも落ちそうな残骸から、上空に静止する救助ヘリへ向かっていく。顔を横に向けた夏帆は、機体のそばの雪に、広く凝りついた暗い赤を見た。
途切れ途切れの血の跡が、遠くからでも見分けられる救難信号を形づくっていた。最後の一本だけが長く引きずられている。途中で、もう力が尽きたように。
彼の太腿には、骨に届きそうな深い傷があった。血を取り出すためにつけたようにも見えた。肌着は血に染まり、体は岩棚を支える翼の下に丸まっていた。手足のねじれた姿は、それ以上見ていられなかった。砕けたような体を引きずり、外へ這い出してあの文字を書き、また少しずつ翼の下へ戻っていったのだろうか。夏帆には、その姿を想像することしかできなかった。
夢と現実のはざまで、彼の声を聞いたことを思い出した。
「夏帆」
ふたりの間にいつもあったよそよそしさを捨て、何度も名前を呼んでくれたのは、あれが初めてだった。眠ってしまわないように、雪山の崖の上で、繰り返し、繰り返し。
砕けてもなお岩の隙間に食い込んだピッケルのように、彼は夏帆を支えていた。




