第9話:ラインハルトの誓い
日が傾き、灰色の空が群青色へと沈みかけていた。
黄昏時を迎えたヴァルハイト城の周辺には、昼間のそれとは比較にならないほど鋭利な寒風が吹き荒れていた。北の連峰から吹き下ろす風は、もはや大気というより目に見えない氷の刃だった。城壁の割れ目を抜けるたびに、ヒュウ、ヒュウと甲高い笛のような不気味な音を立て、石造りの城門を容赦なく打ち据えている。
城門の監視台と跳ね橋の周辺では、騎士団長ラインハルト・クラウゼ率いる十名の騎士たちが、一定の間隔を保ちながら周囲の警戒を続けていた。
昼間、神崎志乃がもたらした奇跡の温飯――あの甘辛く煮込まれた肉と炊きたての白米によって、飢餓の極みにあった胃袋と命は確かに繋ぎ止められていた。だが、満たされた腹の温もりをもってしても、容赦なく肉体を削り取る「極寒」の暴力までは防ぎきれなかった。
「……っ、ぐ……」
副官のユーリが、唇を噛み締めながら槍を握り直した。
その指先は赤黒くパンパンに腫れ上がり、ところどころ皮膚が裂けて血が滲んでいる。しもやけの激痛と、感覚の麻痺。彼らが身にまとっているのは、錆びた鎖帷子と薄い鉄の胸当てだけだ。その下に着込んでいるのは、何年もの酷使によって糸がほつれ、所々に穴の開いた粗末な麻布のチュニックが一枚きり。
鎖帷子の冷え切った鉄輪が、隙間だらけの麻布を通じて素肌に直接触れ、体温を容赦なく奪い去っていく。
手足の先から感覚が失われ、息を吸い込むたびに肺腑が凍りつくように痛んだ。
「ユーリ、足を止めるな。小さく足踏みを続けろ。血を巡らせねば、指から腐り落ちるぞ」
背後から低く響いたのは、団長ラインハルトの声だった。
黒髪を短く刈り込んだ二十五歳の青年武人は、大剣の鞘に手を添え、凍りついた石畳の上に不動の姿勢で立ち続けていた。彫刻のように鋭く整った顔立ちは、吹きつける吹雪によって白く霜が降りている。
部下たちに毅然と命じる彼自身もまた、手足の感覚はとうに消え失せていた。
長年の過酷な辺境勤務で痛めつけられた指先はひび割れ、革の長靴の中の足指は紫色に変色している。だが、ラインハルトはその痛みを顔に出すことすら自らに禁じていた。
(……ギルバートの脅迫を退け、領主様と領民は救われた。だが、この寒さだけは誰にも退けることはできぬ)
ラインハルトは唇を引き結び、遠く北の山脈を睨み据えた。
この寒さは、まだ序の口に過ぎない。本格的な冬の嵐が到来すれば、城壁の外は見渡す限りの氷の世界と化す。暖房のための薪すら底をつきかけているこの廃城で、いつまで部下たちの命を守り抜けるのか。
武人としての矜持だけで持ち場を死守しながらも、ラインハルトの胸の奥底には、寒さとは異なる冷たい無力感が澱のように溜まりつつあった。
その時だった。
カタカタカタ……コトン。
カタカタカタ……コトン。
静寂に包まれた城内の石造りの階段から、リズミカルで軽快な金属音が響いてきた。
「……敵襲か!?」
ユーリがハッと槍を構えかける。
「待て、武器を引け!」
ラインハルトが制止した。
薄暗い中庭の回廊から現れたのは、敵兵でも魔獣でもなかった。
動きやすいネイビーの作業服に身を包み、黒髪を後ろで束ねた小柄な女性――神崎志乃だった。
しかも彼女は、銀色に輝く奇妙な台車を押していた。
階段の段差に差し掛かるたびに、後輪に備え付けられた三角形の三連車輪が滑らかに回転し、重そうな荷物を載せているにもかかわらず、段差に引っかかることなく軽やかに階段を滑り降りてくる。
「志乃様……!?」
ラインハルトの黒い瞳が見開かれた。
彼は大剣を鞘に納めるや否や、凍えきった足のもつれも構わずに駆け出した。
「志乃様! いけません、このような重い荷車を、貴女のようなお方が自ら引かれるなど……! 我らにお言いつけくだされば、何百往復でも引き受けましたものを!」
「いいから、ラインハルト。これは階段昇降用の特殊台車なの。力任せに引くより、構造を理解して重心を保つ方が軽いのよ」
志乃は息一つ乱さず、城門の石壁の陰まで台車を滑り込ませた。
台車の上に頑丈なゴムベルトで固定されていたのは、半透明の大型衣装ケースが二つ。
駆け寄ってきたユーリたち十名の騎士が、息を呑んで志乃と謎の箱を見つめていた。
「志乃様、それは……? 帝都から取り寄せられた資材なのですか?」
「帝都? そんな悠長なところじゃないわよ。日本の郊外にある巨大ホームセンターで、さっき買い占めてきたの」
志乃は手際よくゴムベルトのバックルをパチンと外し、衣装ケースの半透明のフタを跳ね上げた。
中には、隙間なくぎっしりと詰め込まれた物資の山。
中世の住人には見たこともない、滑らかな黒い生地の衣類、タグのついた分厚い靴下、樹脂のコーティングが施された手袋、そして銀色や赤色の派手なパッケージに入った正体不明の小袋が、整然と並んでいた。
「全員、武器を置いてここに並びなさい」
志乃は腕組みをし、有無を言わせぬ事務的な口調で命じた。
「昼に温かいご飯を食べたからって安心するのは早いわ。あなたの唇、紫色よ。手足の末端が鬱血して壊死しかけてる。……今から配るものを、私の指示通りに身につけなさい」
「は、はっ……!」
騎士たちが慌てて直立不動の姿勢を取る。
「まず、鎖帷子と胸当てを外して。それと、そのボロボロの麻布のチュニックも脱ぎなさい」
「えっ……!? こ、ここで脱ぐのですか!?」
ユーリが素っ頓狂な声を上げた。氷点下の外気の中で鎧と服を脱げば、それこそ数分で凍死してしまう。
「いいから脱ぐの! 素肌の上に直接着ないと、この服の本来の性能が発揮されないんだから!」
志乃の凛とした眼差しに押され、ラインハルトが真っ先に革ベルトを外し、重い鎖帷子と擦り切れた麻布を脱ぎ捨てた。
露わになったのは、歴戦の傷跡が無数に刻まれた、筋骨隆々の逞しい上半身。しかし、その浅黒い肌は寒気で鳥肌が立ち、青白く震えていた。
「団長さん、はいこれ。上と下、両方よ。3Lサイズを買ってきたから、あなたの体格でも入るはず」
志乃が手渡したのは、漆黒の布地でできた長袖シャツとタイツ――最新の『超極暖ヒートテック・コンプレッション仕様』だった。
ラインハルトはおずおずとそれを受け取った。
指先が触れた瞬間、彼の表情が強張った。
「……な、なんだ、この滑らかさは……!? シルク……いや、シルクよりも吸い付くように柔らかく、しっとりとしている……!」
「人間の身体から蒸発する微量の水分を繊維が吸収して、熱エネルギーに変換する特殊繊維よ。ほら、突っ立ってないで早く袖を通しなさい!」
ラインハルトは促されるまま、黒いインナーに頭を通し、腕を滑り込ませた。
その瞬間――彼の全身がビクリと跳ねた。
「…………っ!?」
締め付けすぎず、それでいて吸い付くように筋肉の凹凸へと密着する信じがたい伸縮性。
そして何より――肌に触れた瞬間のあの「ヒヤリ」とする冷たさが、欠片も存在しなかった。
それどころか、袖を通した箇所から、まるで陽だまりに包まれたかのような、じんわりとした温もりが皮膚の表面を覆い始めていたのだ。
「あ……温かい……? 風を……通さないだけではない。私の肌の温もりが、逃げずに……中に閉じ込められていく……!?」
「タイツも履きなさい。それと、靴下も脱いでこれを履くこと」
志乃は極厚のウール混パイルソックスを手渡した。
続いて、他の九名の騎士たちにもそれぞれの体格に合わせたインナーとソックスを次々と配備していく。
騎士たちが脱ぎ捨てたボロボロの衣服の代わりに、黒い高機能インナーを身にまとう。
「す、すごい……! 寒くないぞ……!」「肌着一枚なのに、鎖帷子を着ていた時より何倍も温かい……!!」
ざわめく騎士たちを見回しながら、志乃は衣装ケースからさらに別の衣類を引き出した。
黒とチャコールグレーのツートンカラーで仕立てられた、分厚いワークジャケットだ。
「インナーの上から、この防寒ジャケットを着て。内側にアルミプリントが施されていて、自分の体温を反射して保温する構造よ。その上から、もう一度胸当てと鎖帷子を着けなさい」
ラインハルトは指示通りにジャケットを羽織った。
驚くほど軽い。羽毛のように軽快でありながら、チャックを首元まで引き上げた瞬間、外の凍てつく寒風が完全に遮断された。
その上から鎖帷子を重ね着しても、滑らかな化学繊維のおかげで鎧が引っかかることもなく、むしろ関節の可動域が以前よりも格段に広がっていた。
さらに、志乃は足元にウレタン内蔵の防水防寒長靴を並べ、指先には防水透湿ウレタン手袋を配備した。
あっという間に、十名の飢餓騎士たちは、頭から爪先までを漆黒のハイテク防寒ギアで包み込まれた「特殊部隊」のような精悍な姿へと生まれ変わっていた。
「……信じられぬ……」
ラインハルトは己の両手を見つめ、グッと拳を握りしめた。
手袋の内側は毛布のように温かく、あんなに疼いていたしもやけの痛みが、嘘のように引いていた。足元を踏みしめても、凍土の冷気が長靴の底を抜けて伝わってくることはない。
だが、志乃の補給はそれだけに留まらなかった。
「さて……ここからが真骨頂よ」
志乃は衣装ケースの底から、赤い炎のイラストが描かれたパッケージを取り出した。
桐灰『貼るマグマ』。冬の屋外作業や過酷な環境での使用を想定した、最高温度約七十度を誇る高熱量タイプの使い捨てカイロだ。
志乃は小袋の端をピッと破り、中から白い不織布のパックを取り出した。
「ラインハルト、ちょっと背中を向けなさい」
「は、はっ」
背中を向けたラインハルトの防寒ジャケットの背部――左右の肩甲骨の間、そして腰のツボ(命門)のあたりを、志乃の掌が探る。
「服の裏地を少しめくるわよ。インナーの、この背中の位置……」
志乃はカイロの剥離紙を剥がすと、黒いヒートテックの背中部分と腰部分に、ペタペタと二枚のカイロをしっかりと貼り付けた。
「よし。もう一枚は、この『貼らないカイロ』ね。これは手袋のポケットに入れておくか、ポケットの中で握りしめていなさい。……袋から出したら、少し揉むのよ」
志乃から手渡された白いパックを、ラインハルトは無骨な指先でおそるおそる揉みほぐした。
不織布の中の鉄粉が、空気中の酸素と触れ合い、急速な酸化還元反応を起こし始める。
――その瞬間。
「…………っ!?」
ラインハルトの眼球が、これ以上ないほど見開かれた。
掌の中で、白い布切れが、みるみるうちに熱を帯び始めたのだ。
ぬるい温もりではない。明確な、はっきりとした「熱」だ。火の粉も散らず、煙も立たず、呪文の詠唱も魔石の輝きも一切ないのに、掌の物体がぐんぐんと温度を上げ、熱湯に近いほどの熱気を放ち始めている。
さらに、背中と腰に貼られた二枚の板からも、皮膚を通じて猛烈な熱の奔流が押し寄せてきた。
「な……なんだ、これは……!? 熱い……!? 背中と腰から……火が……!?」
「ひ、火属性の魔導具……!? 詠唱も魔力回路もなしに、なぜ熱を放つんだ……!?」
副官ユーリをはじめ、カイロを渡された騎士たちが一斉に悲鳴を上げた。
「騒がないの! 火傷はしないように温度調整されてるから大丈夫よ!」
志乃がたしなめる声も耳に入らないほど、騎士たちは錯乱していた。
だが、パニックは数分と続かなかった。
背中と腰のカイロから発せられた強烈な熱が、太い血管を通じて全身へと巡り始めたからだ。
凝り固まっていた背筋が解け、冷え切っていた内臓が温まり、手足の先までドクドクと熱い血液が循環していく。
外気温は零下近いというのに、全身がまるで熱い風呂に浸かっているかのようにポカポカと温まり、額にはうっすらと汗さえ滲み始めていた。
「あ…………」
ラインハルトの喉から、掠れた吐息が漏れた。
彼は胸元に手を当て、自らの心臓の鼓動を確かめていた。
凍傷で千切れそうだった足指の感覚が戻っている。痛みに顔を歪めていたユーリたちが、信じられないものを見るように互いの顔を見合わせ、やがてその口元から、歓喜と安堵の笑みが零れ出していた。
「温かい……団長、温かいです……! 寒くない……風がちっとも怖くない……!」
「ああ……ああ……」
ラインハルトの唇が震えた。
大の男が、二十五歳の歴戦の騎士団長が、その場に立ち尽くしたまま、ポロポロと大粒の涙をこぼし始めた。
雪混じりの寒風の中、何年もの間、寒さと飢えに耐え忍んできた日々。
帝都のエリート貴族たちから「見捨てられた辺境の負け犬」と嘲笑され、穴の開いた靴と薄い布切れ一枚で、凍死の恐怖に怯えながら夜を明かしてきたあの日々。
それを――目の前にいる小柄な異国の女性が、たった一つの荷車と、いくつかの布切れで、完全に終わらせてしまった。
「……志乃様」
ラインハルトの声は、低く、重く、震えていた。
「な、何よ、団長さん。どこかサイズがきつかった?」
志乃が心配そうに尋ねた、その瞬間だった。
ザシュッ――!!
ラインハルトは腰の大剣を一息に引き抜いた。
鈍く青白い光を放つ刃が夕闇を切り裂き、その切っ先が、石畳の割れ目深くにドスンと突き刺さる。
そして――ラインハルトは、凍りついた地面の上に、深々と両膝を突き立てた。
「ちょっ、ラインハルト!? だから膝をつくなって――」
「神崎志乃様」
制止しようとする志乃の言葉を遮り、ラインハルトは両手で大剣の柄を握りしめ、己の額をその柄頭へと押し当てた。
全身から立ち上る、凄絶なまでの覇気。
涙に濡れたその顔には、先ほどの困惑や弱さは微塵もなかった。
そこにあったのは、己の命のすべてを一つの対象に捧げ尽くすことを決意した、絶対的な忠臣の貌だった。
「我が命、我が血、我が肉、我が骨の最後の一片に至るまで……すべて貴女に捧げます」
男の低く澄んだ誓いの声が、寒風を切り裂いて響き渡る。
「凍え死ぬはずだった我らに、生きるための飯を施し、凍てつく魂にこの温もりを与えてくださった。……我が剣は今この瞬間より、領主アシェル様の名においてではなく――神崎志乃様、貴女だけの盾となり、刃となります」
ラインハルトは顔を上げた。
その漆黒の瞳は、燃え盛る黒炎のようにギラギラと妖しく、そして狂おしいほどの忠誠の熱を帯びて志乃を射抜いていた。
「貴女を害そうとする者がいれば、それが何人であろうと、例え中央の皇帝であろうと、天上の神々であろうと――我がこの刃をもって、ことごとく両断し、灰燼に帰してみせましょう。……どうか、このラインハルト・クラウゼを、貴女の足元に侍る生涯の猟犬としてお使いください」
「だ、団長……!」
ユーリたち九名の騎士もまた、一斉に抜き身の剣を地面に突き立て、ラインハルトの後ろに整然と跪いた。
「「「我らの命、志乃様に捧げます!!」」」
十本の剣が、夕暮れの冷たい光を反射して煌めく。
「…………」
志乃は、カイロのゴミ袋を握りしめたまま、硬直していた。
(……ヒートテックと桐灰の貼るマグマを配っただけで、なんで『皇帝を両断する』とかいう物騒な主従契約になっちゃうわけ!?)
日本のホームセンターで数十万円分決済してきただけの元経理OLにとって、この命懸けの重すぎる誓約は、明らかにキャパシティをオーバーしていた。
だが――。
跪くラインハルトの、寒さから解放されて紅潮した逞しい頬と、真っ直ぐに自分だけを見つめてくる混じりけのない瞳を見た時、志乃の胸の奥底で、何かがカチリと音を立てて噛み合った。
(……まあ、いいわ)
誰にも評価されず、理不尽に搾取され続けた十年間の自分。
そして、この見捨てられた極寒の地で、誇り高く民を守りながら使い潰されかけていた彼ら。
彼らを守るために自分の金と物流を使うことに、何の不都合があるというのか。
「……分かったわ、ラインハルト」
志乃はため息を飲み込み、凛とした声で応じた。
「あなたのその剣、確かに預かるわ。……でも、私の盾になるなら、絶対に死なないこと。体調管理と凍傷予防を徹底しなさい。これが私からの最初の命令よ」
「ハッ……! 志乃様の命のままに!!」
ラインハルトの顔に、主の承認を得た忠犬のような、眩いばかりの笑みが咲き誇った。
「よし! 全員立ち上がりなさい!」
志乃は手をパンと打ち鳴らした。
「寒さ対策の第一段階は完了よ。……でも、安心するのはまだ早いわ。今夜から、この城の大掃除大作戦を開始するわよ!」
「大掃除……でありますか?」
首を傾げる騎士たちに、志乃は台車の下段を指差した。
「そうよ。業務用の重曹とセスキ炭酸ソーダ、それに蓄圧式高圧洗浄機! 数百年の埃と煤を、今夜中に全部洗い流して、人間が住める城に叩き直すわよ!」
ホームセンターの資材による、ヴァルハイト城の本格的な衛生革命が、今まさに幕を開けようとしていた。




