第8話:ホームセンター爆買いツアー
クローゼットの樫の木の扉を閉め、ゴム製のドアストッパーがしっかりと噛み合っていることを確認した志乃は、自宅のフローリングの上に立ち、深く息を吸い込んだ。
静かだった。
部屋の中には、二十四時間稼働の全館空調が送り出す清潔で適温の空気が循環し、ほのかに新築の木の香りが漂っている。つい数分前までいた、冷え切った石畳と砂埃、そして血を吐きかけていた美男子たちの熱烈な視線が渦巻くあの廃城とは、完全に切り離された別世界だ。
だが、志乃の手首に巻かれた腕時計の文字盤は、現実の時間を刻んでいた。
午後二時二十分。
「感傷に浸っている暇はないわね。……時間は有限。キャッシュは潤沢。ならば、最速で物流を動かすのが正解」
志乃は洗面台で冷たい水で顔を洗い、手早くメイクを落としてすっぴんに戻すと、髪をきっちりと後頭部でひとまとめにした。
ダイニングテーブルの上に、先ほどアシェルと結んだ契約書の複写を置き、その横にコクヨのキャンパス方眼ノートを開く。
四色ボールペンをノックし、黒いインクでノートの最上部に大きく書き殴った。
『ヴァルハイト領 再生プロジェクト・フェーズ1:生命維持と衛生環境の構築』
元経理OLの頭脳が、猛烈な勢いで優先順位を整理していく。
ギルバートを札束(金塊)ビンタで追い払い、当面の法的な差し押さえと領民の奴隷化は回避できた。だが、それはマイナス一万だった状況が、ようやくゼロ地点に戻っただけに過ぎない。
現場で目にした惨状を箇条書きにしていく。
一、騎士団の防寒具が壊滅的。薄い麻布一枚で極寒の城門に立ち、しもやけと低体温症でいつ倒れてもおかしくない。
二、城内の衛生環境が劣悪。煤と油煙、数百年の埃が堆積し、割れた窓から隙間風が吹き込み放題。病原菌の温床になっている。
三、夜間の照明が枯渇。松明やランプの油すら節約されており、日没後は真っ暗闇。防犯上も作業効率上も致命的。
四、城下の領民たちの生活実態。まだ視察すらできていないが、領主と騎士団があの惨状なら、村の困窮は想像を絶するレベルのはず。
「アマゾンやモノタロウでポチって配達を待つ? ……いいえ、ダメね。明日まで待てない。今夜からすぐに作業に入らなきゃ、あの人たちの体力が持たないわ」
即日、その場で現物を調達し、自分の車で持ち帰れる場所。
志乃の脳裏に、郊外のバイパス沿いに鎮座する「あの巨大建造物」が浮かび上がった。
「行くしかないわね。日本の職人たちの聖地――超大型プロ向けホームセンターへ!」
志乃は即座に近所のレンタカー営業所へ電話を入れた。
「もしもし、神崎です。今から軽トラック、オートマ車で幌付きのアルミコンテナタイプ、空いてますか? ……ええ、当日返却で。すぐ伺います」
財布に運転免許証と、メガバンクのキャッシュカード、そしてプライベートバンクの金庫から引き出しておいた帯封付きの百万円の札束を二束、しっかりと押し込んだ。
*
三十分後。
軽快なエンジン音を響かせ、志乃はレンタルした軽トラックのハンドルを握り、国道バイパスを走っていた。
目指すは、敷地面積数万平米を誇る、関東最大級のプロ向け大型ホームセンター。建築資材、農業用品、工具、作業着、日用品のすべてが一堂に会する、現代日本の物資の要塞だ。
広い駐車場に軽トラを滑り込ませると、平日の昼下がりにもかかわらず、作業着を着た大工や工務店の職人たちのハイエースがずらりと並んでいた。
志乃は入り口に積まれた大型の業務用台車――頑丈なスチール製のカゴ台車を二台連結して引っ張り出し、気合十分に自動ドアをくぐった。
「よし……買い占めるわよ」
まずは【作業着・防寒具コーナー】。
職人用のワークウェアは、ファッションブランドの防寒着とは耐久性と機能性の次元が違う。
志乃は棚の前で立ち止まり、次々と商品をカゴ台車へ放り込んでいった。
「まずは騎士団十名分とアシェル様、それと私の分。……ヘビーデューティー仕様の防寒ワークジャケット。撥水・防風・裏アルミプリントで体温を逃さないやつ。サイズはラインハルトさんたちが着られるように、LとLL、特大の3Lも押さえておこう」
続いて、作業用ワークパンツ。膝部分が二重補強された厚手のカーゴパンツを十数着。
さらに、靴下。極厚のウール混パイルソックスを二十足。防寒ウレタン内蔵の安全長靴をサイズ違いで十足。耐油・耐滑仕様で、氷の上でも滑らないグリップソールだ。
「それからインナー……極暖系の発熱コンプレッションシャツ上下セット。これを鎧の下に着込ませれば、凍える心配は激減するはず。……グローブもね。豚革の作業用手袋と、防水防寒のウレタングローブを箱ごと!」
次に【照明・電気資材コーナー】。
中世の暗闇を制圧するための必須装備だ。
「工事現場用のハイパワーLEDヘッドライト。充電式じゃなくて、あえて『乾電池駆動』のモデルね。異世界にはコンセントがないんだから、現場での電池交換が一番信頼性が高いわ」
頭部にゴムバンドで固定できる防水LEDヘッドライト(五百ルーメン)を十五個。
さらに、置いても吊るしても使える広配光のLEDランタン(千ルーメン)を十台。
そして、それらを動かすための生命線――
「パナソニックの乾電池、エボルタNEO。単三四十本パックを十箱。単四四十本パックを十箱。単一と単二も五箱ずつ!」
ずっしりと重い乾電池の箱が、カゴ台車の底を埋めていく。
続いて【清掃・衛生・ケミカルコーナー】。
あの埃と煤にまみれた廃城を、人が住める環境へ蘇らせるための武器だ。
「手動蓄圧式のガーデンスプレー噴霧器(容量五リットル)。これなら電気も水道直結も要らない。レバーをシュコシュコ押すだけで高圧洗浄ができるわ。……これを三台」
棚から掴み取ったのは、重曹(炭酸水素ナトリウム)の業務用大袋五キロ入りを四袋。セスキ炭酸ソーダの特大パック、クエン酸粉末、激落ちくんの業務用特大キューブブロック、デッキブラシ、伸縮式アルミ柄の水切りワイパー、マイクロファイバークロスのお徳用五十枚入りパック。
「石畳の油煙にはアルカリ性の重曹とセスキ。便所や水回りのカルキ汚れにはクエン酸。科学の力で中世の汚れを根こそぎ中和してやるわ」
さらに【建築資材・養生コーナー】。
「ブルーシートは、薄っぺらい安物じゃダメ。耐候性・防水性に優れた極厚の『#3000番』、十メートル四方の特大サイズを五枚。……それと、これ!」
志乃が目の色を変えて掴み取ったのは、緑色のロールが山積みになった養生テープだった。
「手で真っ直ぐ切れて、糊残りがしなくて、風を完璧に遮断する神のテープ。寺岡製作所とダイヤテックスの養生テープ、一箱三十巻入りを……二箱!」
加えて、耐候性の結束バンド(インシュロック)の大容量アソートパック。太さ、長さ違いで千本以上。壊れた家具の固定、カーテンレールの代用、あらゆる応急補修に使える万能資材だ。
そして最後に、【物流・搬入器具コーナー】。
ここで志乃は、今回の作戦の最大の要となる「秘密兵器」の前に立った。
「あった……! これよ、これ!!」
展示されていたのは、アルミ製の折りたたみ式大型キャリーカート。
だが、ただの台車ではない。
後輪が三角形のフレームに三つの車輪が組み合わされた「特殊六輪機構」――階段の段差を車輪が回転しながら乗り越えていく、『階段昇降式アルミキャリーカート』だった。
「耐荷重百五十キロ。階段の段差も引っかからずに登れる。……クローゼットから城の執務室まで、あの崩れかけた石階段を登り降りするのに、これ以上の相棒はないわ!」
迷わずそのカートを二台、さらに自宅ガレージと物資集積庫用の耐荷重五百キロのスチールラック(幅百八十センチ、高さ百八十センチ、奥行き六十センチ)の組み立てキットを二セット、台車の上に積み上げた。
カゴ台車二台が、山積みの資材でパンパンに膨れ上がっていた。
総重量は優に二百キロを超える。
レジへと向かう志乃の姿に、周囲の職人や店員たちがギョッとした目を向けた。
「あ、あの……お客様? これ、全部お一人でお買い上げですか……?」
レジカウンターの男性店員が、目を白黒させながらバーコードリーダーを構えた。
小柄な女性が、プロ向けの極厚ブルーシートに業務用の乾電池の箱買い、階段昇降台車に防寒長靴を山積みにしているのだ。どう見ても怪しい。
だが、志乃は事前に用意していた完璧な営業スマイルを浮かべ、事も無げに言った。
「ええ。実家の山林開墾と、古民家のセルフリノベーションを親族総出で始めることになりまして。週末にみんなで一気に作業するので、資材をまとめて調達しておきたかったんです」
「あ、ああ〜! 古民家DIYですか! なるほど、それならこの防寒具や養生テープの量は納得ですね! 山は寒いですもんねぇ!」
店員は一瞬で得心がいったように破顔し、猛烈な勢いでバーコードをスキャンし始めた。
田舎の古民家再生。近年流行りのワードを出すだけで、大量の資材購入の理由は完璧にカモフラージュされる。
「合計で、四十八万六千五百二十円になります!」
「現金一括でお願いします」
志乃は財布から、ピン札の百万円の札束を惜しげもなく取り出し、トレイの上に置いた。
店員が息を呑み、慌てて両手で札束を受け取る。
「はい、お釣り五十一万三千四百八十円でございます! 車への積み込み、スタッフをお手伝いにつけましょうか?」
「いえ、運動不足解消を兼ねて自分でやりますので大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
会釈を返し、志乃は一人でカゴ台車を押して駐車場へ向かった。
*
夕方四時三十分。
軽トラの荷台いっぱいに積まれた資材とともに、志乃は自宅ガレージへ帰還した。
電動シャッターを下ろし、外からの視線を完全に遮断する。
ここからは、時間との戦いだった。
「よし……まずは集積庫の構築からよ!」
志乃は電動ドライバーを手に取り、購入してきた大型スチールラックの組み立てに着手した。
元経理だが、オフィスのレイアウト変更や書架の組み立てなら新入社員時代から何十回も経験している。ボルトを締め込み、棚板を嵌め込み、わずか四十分で頑丈な二台のスチールラックを完成させた。
設置場所は、ガレージから直結するパントリー、そしてウォークインクローゼットの壁面だ。
軽トラの荷台から資材を降ろし、カテゴリーごとに棚へ仕分けていく。
上段には、軽量な防寒インナーや手袋、靴下。
中段には、LEDヘッドライト、ランタン、乾電池、養生テープ、ケミカル洗剤。
下段には、重たいブルーシート、重曹の大袋、蓄圧式噴霧器。
「完璧……。動線に無駄がない。必要なものを三秒でピックアップできるわ」
整然と並べられた現代文明の物資たちを眺め、志乃は満足そうに息を吐いた。
これらはすべて、ホームセンターで誰でも買える「非軍事用・一般流通品」だ。銃や爆薬のような違法なものは何一つない。だが、中世の生活水準に置かれれば、これらはどんな魔法よりも確実に、何百人もの命を救い上げる「奇跡の神器」へと変貌するのだ。
志乃は組み立てたばかりの階段昇降式アルミ台車を引き寄せた。
下段の荷台に、特大の衣装ケースを二つ固定する。
その中に、まずは第一弾として搬入すべき物資を詰め込んだ。
騎士団十名分とアシェル用の極暖ヒートテック上下セット、裏アルミ防寒ジャケット、極厚ソックス、防寒手袋。
そして――。
「ふふっ、これがないと始まらないわよね」
志乃がケースの隙間に敷き詰めたのは、桐灰の「貼るマグマ」「貼らないカイロ」の大容量パック、合計三百個。
ケースを含めた総重量は、約二十八キログラム。
「『自身が持てる範囲』のルール内。重心は低め。車輪の回転よし」
志乃は台車のハンドルを握りしめ、ウォークインクローゼットの奥――樫の木の扉の前に立った。
扉の隙間からは、相変わらず冷え切った異世界の風が微かに漏れ出してきている。
だが、今の志乃には何の恐れもなかった。
手元には、圧倒的な資本力と現代の物流ネットワーク。
そして扉の向こうには、自分を待ち侘びている、不憫で愛おしい美男子たち。
「待たせたわね、ラインハルト。……あなたたちの寒さと痛みを、今すぐこの手で終わらせてあげるわ」
カチリ、とドアストッパーを外し、志乃は階段昇降台車を押して、凍てつく廃城の中庭へと踏み出した。




