第7話:名目領主と最高執行官の契約
悪徳商人ギルバートとその傭兵たちが、悲鳴を上げながら脱兎のごとく城門の彼方へ逃げ去ってから、どれほどの時間が流れただろうか。
木枠の歪んだ窓から吹き込む寒風が、床に散らばった羊皮紙の破片をカサリと揺らす。
部屋を支配していたのは、耳が痛くなるほどの完全な静寂だった。
先ほどまでその空間を満たしていた暴力的な威圧感も、年利三百パーセントという理不尽な搾取の呪縛も、すべて跡形もなく消え去っていた。ただ、分厚い樫の執務机の天板に、二キログラムの純金インゴットが叩きつけられた際に生じた、微かな窪みだけが生々しく残されている。
「…………」
部屋の中央で、アシェルは床にへたり込んだまま、微動だにできずにいた。
先代の形見である濃紺の正服は泥と埃に汚れ、白銀の髪は乱れ、その彫刻のように整った顔は驚愕と畏怖によって完全に蒼白となっていた。自らの首を差し出し、奴隷として売られる覚悟まで決めていた青年は、目の前で起きたあまりにも非現実的な光景を処理しきれず、呼吸の仕方すら忘れたように唇を半開きにしている。
一方、大剣の切っ先を地面に突き立てた姿勢のまま凍りついていたラインハルトもまた、大きく見開かれた黒い瞳を志乃から離せずにいた。鍛え抜かれた屈強な武人の肩が、かすかに震えている。
「……終わった……のか……? あのギルバートが……負債の消滅を認め……逃げ帰った……?」
アシェルの喉から、夢うつつのような掠れた呟きが零れ落ちた。
「ええ、終わったわよ」
志乃は何事もなかったかのように平然とした声で答え、机の上のソーラー電卓を鞄へ収めた。
それからポケットからアルコール除菌シートを一枚引き出し、インゴットを触ってわずかに金属粉のついた自らの指先を丁寧に拭き取る。
「受領印と債権放棄の署名を取り付けた上で、借用書の原本を目の前で破棄したわ。相手が商会の公式な実印を押した以上、帝国法に照らし合わせても債権は法的に完全消滅よ。万が一あいつが『あれは脅迫によるものだ』と蒸し返そうとしても、手切れ金として余分に渡した三本――約三千万円相当の純金が『正当な対価以上の清算金』として機能する。司法の場に出ても、相手の勝訴率はゼロパーセントよ」
淡々と告げられる法律と経理の論理。
だが、アシェルとラインハルトにとって、そんな説明は何一つ頭に入ってこなかった。
目の前にいる小柄な黒髪の女性が、たった数分前、現代の旅行用キャリーケースから無造作に取り出した金属の塊で、何世代にもわたってヴァルハイト領を苦しめ抜いてきた絶望の負債を、文字通り粉砕してしまったのだ。
「志乃……殿……」
ラインハルトが、絞り出すような重い声で呼びかけた。
「貴女は……天上の神が遣わされた使徒なのですか……? それとも、遙かなる東方の太古の王朝から現れた、富を司る女王陛下であられるのか……?」
「ただの日本の元経理OLだって、さっきから何度も言ってるでしょうが」
志乃は小さくため息をつき、眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。
「神でも女王でもないわ。残業代の出ないブラック企業で十年仕込まれた、ただの平民の人間よ。……それよりアシェル様、いつまで床に座り込んでいるの? 石畳は冷えるわ。胃潰瘍が再発したらどうするのよ。ほら、立ち上がって」
「あ……っ、す、すまない……だが……」
アシェルは立ち上がろうと腕に力を入れたが、ガクガクと膝が笑い、情けない声を上げて再び尻餅をついた。
「……腰が、抜けて……力が入らないんだ……。情けない話だが……あまりの衝撃に、全身の筋肉が強張って……」
「まったく、世話が焼けるわね」
志乃は苦笑し、ラインハルトに目配せをした。ラインハルトは慌てて駆け寄り、巨躯を屈めてアシェルの脇を支えると、埃を払って長椅子へと座らせた。
アシェルは肩で息をしながら、濡れた碧眼で志乃を見つめた。
「……志乃。君が何者であろうと……君が我が領地と、領民五十名の命を救ってくれたことに変わりはない。……だが、恐ろしい。私は、君に何を返せばいい? 帝国金貨八百枚……いや、あの神聖な黄金の価値を考えれば、金貨千枚、二千枚を優に超える大恩だ。この痩せ細った寒村のどこを切り売りしても、君に返せる対価など、逆立ちしたって存在しない……!」
アシェルの声には、救われた歓喜と同時に、底知れない負い目と恐怖が滲んでいた。
タダより高いものはない。特に、政治と金の世界を生きてきた貴族にとって、見返りのない施しほど恐ろしい毒はないのだ。
だが、志乃はそんなアシェルの懸念を鼻で笑うように、あっさりと頷いた。
「ええ、その通りね。慈善事業で八億円相当の金をドブに捨てるほど、私はお人好しじゃないわ」
「……え?」
「貸したものは回収する。投じた資本には、それ相応の配当とリターンを求める。それがビジネスというものよ」
志乃は真顔に戻ると、肩にかけていた自前のビジネスリュックから、一冊の革張りのバインダーを取り出した。
パチン、と金具を外し、中から引き抜いたのは、純白の上質紙に印刷された書類だった。
志乃が昨夜、現代の自宅パソコンでWordを駆使して作成し、インクジェットプリンターで打ち出してきた契約書。日本語と、この世界の公用語が完璧に対訳となって二段組みで印刷された、複写式の正式な契約書だった。
「アシェル様。あなたとギルバートの間の債務関係は消滅した。けれど、それは私があなたの借金を『一括で肩代わりした』だけに過ぎないわ。つまり現在の債権者は、ギルバートから私――神崎志乃へと移行したの」
「君が……私の、債権者……」
「そう。そして、あなたには今すぐその債務を一括返済する現金も、担保となる資産もない。だからこそ、私とあなたの間で、新しい『統治および債務弁済契約』を締結していただきます」
志乃は書類を長机の上に広げ、滑らかな書き味のジェットストリーム四色ボールペンをカチリとノックして机に置いた。
「読んでちょうだい。条項はすべて、あなたにも理解できるように公用語で併記してあるわ」
アシェルはおずおずと手を伸ばし、その純白の紙を手に取った。
触れた瞬間、アシェルは息を呑んだ。
羊皮紙のようにゴワゴワしておらず、絹のように滑らかで、寸分の狂いもなく均一な厚みを持つ紙。そして、手書きのインクの滲みではなく、まるで神の版画のように精密に並んだ漆黒の活字。
そこに記されていた表題は、こうだった。
『ヴァルハイト領 終身包括的統治委託および財政再建に関する基本合意契約書』
「……包括的、統治委託……?」
アシェルが掠れた声で読み上げる。
「条項を要約するわね」
志乃は指を一本立てた。
「第一条。形式上、アシェル・フォン・ヴァルハイト卿は、今後もヴァルハイト領の『領主』の座に留まること。帝国の貴族籍を維持し、対外的な代表者としての職務を継続する」
「……私が、領主のままでいいのか……? これほどの金を払ってもらったのに、領地を君に明け渡すのではなく?」
「明け渡したくても、できないでしょうが」
志乃は冷徹に現実を指摘した。
「私はいわば、この世界の常識から見れば『出自不明の平民の外国人』よ。帝国貴族法において、平民や他国の人間が直接帝国の封土の領主になることは厳格に禁じられている。もし私が『今日から私が領主です』なんて名乗り出れば、中央の帝国騎士団から不法占拠者として討伐対象にされるわ。そんなリスク、経理として絶対に冒せない」
「あ……なるほど……」
アシェルは目から鱗が落ちたように呟いた。
「だから、アシェル様には『名目上の領主』というお神輿に乗っていてほしいの。帝国からの査察や近隣貴族への対応、貴族としての外交窓口はすべてあなたが担当して」
「し、承知した。それならば、私にもできる。……では、君の立場は?」
「第二条よ」
志乃は二本目の指を立てた。
「私、神崎志乃は、ヴァルハイト領の『筆頭債権者』であり、同時に『領地最高財政執行官(事実上のオーナー)』に就任する。領内の財政権、人事権、物資調達権、インフラ整備計画の策定権、および商取引に関する最終決定権――すなわち、領地経営に関する『実質的な全権』を私が掌握します」
「全権を……志乃様が……」
背後で聞いていたラインハルトが、低く息を呑んだ。
「第三条。領内の全収入は一度すべて私の管理下に置かれ、そこから領民への生活保障、インフラ投資、騎士団の給与、およびアシェル様の生活費を配分する。第四条。本契約は終身とし、債務が完済された後も、双方が合意しない限り解除されない。……どうかしら? あなたにとっては、領主としての実権を完全に奪われ、私という謎の女の操り人形になるような屈辱的な契約かもしれないけれど」
志乃は試すようにアシェルを見つめた。
名門貴族の誇りを持つ男にとって、「自分の領地の全権を異国の平民女に明け渡す」というのは、死ぬより耐え難い屈辱であってもおかしくはない。断られる可能性も想定し、志乃は次善の策を脳内で組み立てていた。
だが――。
「…………っ」
アシェルの反応は、志乃の予想を遥か斜め上から粉砕するものだった。
書類を握りしめていたアシェルの手が激しく震え、その白銀の髪がバサリと前へ垂れた。
次の瞬間。
アシェルは長椅子から滑り落ちるようにして床へ膝をついた。
「ちょっ、アシェル様!? だから床は冷えるって――」
「屈辱などと……とんでもない……!」
アシェルの喉から絞り出されたのは、嗚咽交じりの、狂おしいほどの歓喜と安堵の声だった。
アシェルは両膝を石畳につき、志乃の足元へと平伏するように身を投げ出していた。
「操り人形……? 実権の剥奪……? そんなものが、何だというのだ……! 私は……私はずっと、一人でこの重荷に押し潰されそうだったんだ……! 父の遺した借金に怯え、民が飢えていくのをただ見つめることしかできず、泥水をすすりながら、毎夜『早く殺してくれ』と神に祈っていた無能な男だ……!」
アシェルは顔を上げた。
その深い碧眼には、先ほどの絶望は微塵も残っていなかった。
瞳の奥で燃え盛っていたのは、漆黒の夜の海に突如として現れた灯台を仰ぎ見るような、圧倒的な崇拝と、底なしの依存の光だった。
「君は……私の命を買い取ってくれた。我が領民を救い、私に生きる理由を与えてくれた。……全権など、初めから君のものだ。君の敷くレールの外へ、私が一歩でも踏み出すものか……!」
アシェルは震える両手を伸ばし、志乃の右手をそっとすくい上げた。
男の指先はまだ冷たかったが、その肌に触れる熱量は、火傷しそうなほどに切実だった。
アシェルは自らの両手で志乃の小さな手を包み込み、壊れやすいガラス細工を扱うかのように、その甲にそっと額を押し当てた。
そして――。
チュッ、と微かな吸熱音が静かな執務室に響いた。
アシェルの薄く冷たい唇が、志乃の手の甲へと、祈るように落とされたのだ。
「ひゃっ……!?」
志乃の背筋に、ゾクッと電流のような痺れが走った。
「な、何してんのよ!?」
「志乃。我が主、我が命の光」
アシェルは顔を上げないまま、志乃の手の甲に唇を押し当てた状態で、熱い吐息を漏らしながら囁いた。
「契約書などという紙切れすら生ぬるい。私の心も、魂も、この身体を流れる血の一滴すらも……すべて君に捧げよう。君が私を領主と呼ぶなら領主を演じよう。君が私を犬と呼ぶなら、君の足元に侍る犬になろう。……私は、君の所有物だ。どうか……生涯、私を捨てないと誓ってくれ……!」
「しょ、所有物って……あなた一応、名門貴族の領主でしょうが!?」
志乃は手を引っ込めようとしたが、アシェルの両手は、縋り付く子供のように固く志乃の手を離さなかった。碧眼からポロポロと涙が零れ落ち、志乃の手の甲を濡らしていく。
美貌の青年貴族が、全身全霊で一人の女性に依存し、絶対の服従を誓う姿。
女性向けの恋愛小説なら読者が悶絶するであろう至高のシチュエーションだが、現実の経理OLからすれば――。
(……ひ、重い……! 感情の負債比率が高すぎる……!!)
志乃の脳内貸借対照表が、過剰な情念の流入によって激しく警告音を鳴り響かせていた。
さらに、背後から追い打ちがかかる。
ジャランッ!
重厚な鎖の擦れ合う音とともに、ラインハルトがアシェルの隣へと進み出て、ドスンと片膝を床に突き立てた。
「志乃様。領主様の仰る通りです」
ラインハルトは胸に右手を当て、鋼のような眼差しで志乃を見上げた。
「我が剣はすでに志乃様に捧げました。領主様が志乃様の従僕となられるのであれば、ヴァルハイト騎士団の全兵力もまた、志乃様の私兵として身命を賭して従います。我が領のすべてが、今この瞬間より貴女のものです」
「ちょ、ラインハルトまで……! 私兵とか物騒なこと言わないで!」
志乃は引き気味に半歩後ずさろうとしたが、アシェルに手を握られているため逃げられない。
二人の不憫で誇り高い美男子が、揃って自分を「救世主」として崇め、重すぎる忠誠を注ぎ込んでくる。
十年間、誰からも感謝されず、社内のコストカットの矢面に立たされて愚痴と罵倒ばかり浴びせられてきた元経理OLにとって、この過剰なまでの肯定と執着は、いささか劇薬が過ぎた。
「……はぁぁぁぁぁぁ……」
志乃は天を仰ぎ、特大のため息を吐き出した。
それから、無理やりビジネス用の冷徹な表情を作り、アシェルの頭に空いている左手をポンと置いた。
「……分かりました。契約の趣旨は理解していただけたようね」
「志乃……!」
頭を撫でられたアシェルが、まるでご褒美をもらった捨て犬のように碧眼を輝かせる。
「ただし! 私の所有物とか犬とか、そういう変な主従プレイみたいな発言は対外的には禁止よ! あくまで『最高財政執行官と名目領主』、ビジネスの共同経営者としての関係を徹底すること。いいわね?」
「あ、ああ……! 君の望む通りに!」
アシェルは弾かれたように立ち上がり、机の上のボールペンを握りしめた。
インクを浸す必要もなく、ノック一つで滑らかに文字が書ける現代の多色ボールペンの書き味に一瞬驚きの表情を浮かべたものの、躊躇うことなく契約書の末尾に自らの名を刻み込んだ。
『アシェル・フォン・ヴァルハイト』
続いて、自らの親指を小さく噛み切り、朱肉代わりに鮮血の拇印を押す。
「これで……契約完了だ。私のすべてを、君に売り渡した」
満足そうに微笑むアシェルの顔は、泥水をすすっていた時とは別人のように艶めいていた。
志乃は複写された契約書の一枚を回収し、バインダーに挟んでリュックへと戻した。
「よし。これで法的な統治基盤は整ったわ。……さて、アシェル様、ラインハルト。感傷に浸っている時間はこれっぽっちもないわよ」
「え……?」
アシェルが目を丸くする。
志乃は窓の外――鉛色の空からチラチラと舞い落ちる、雪の結晶を指差した。
「外敵の借金を片付けただけで、領内の問題は何一つ解決していないわ。城壁はボロボロ、城内は埃と煤まみれ、騎士団の装備はガタガタ、そして何より城下の領民たちの食糧と防寒具が壊滅的に不足している」
志乃は腕時計に目を落とした。時刻は午後二時を回ったところだ。
「冬の本番が来る前に、まずはこの城と領民の『生活基盤』を徹底的に立て直す。……これから、現代の最強の補給基地へ買い出しに行ってくるわ」
「買い出し……? 帝都の市場へ行くのか?」
首を傾げるラインハルトに、志乃は不敵な笑みを返した。
「帝都? そんなチンタラしたところへ行くわけないでしょう。……日本の郊外にある、職人御用達の『超大型プロ向けホームセンター』よ!」
作業着、長靴、工具、養生資材、高圧洗浄機、そして大量の防寒具。
当せん金百億円の資本力と、現代日本のホームセンターの物流が、滅亡寸前の極貧領地を根底から塗り替えようとしていた。




