第6話:札束(金塊)ビンタの爽快感
正午を告げる鐘の音は、かつてヴァルハイト城の時計塔にあった真鍮の鐘が打ち鳴らされるわけではない。
薄氷の張る曇天の空から、冷たい風が廃城の胸壁を通り抜け、低く湿った唸り声を上げるだけだった。
執務室の空気は、吐き出す息がそのまま白く凍りつくほどに張り詰めていた。
室内の長机の向こう側には、銀髪をきっちりと撫で付け、先代領主の遺品である濃紺の正装をまとったアシェルが座っていた。顔色はまだ紙のように白い。だが、その背筋は折れそうなほど真っ直ぐに伸ばされ、深い碧眼には自らの命を投げ打ってでも民を守るという、悲壮なまでの覚悟が宿っていた。
その斜め後ろには、黒髪の騎士団長ラインハルトが、直立不動で控えている。
昨日の飢餓状態からは脱したものの、手にした大剣の鞘を握る指先は白く強張り、全身から剥き出しの殺気が立ち上っていた。
ガタゴト、と城門の跳ね橋を乱暴に揺らす荷馬車の車輪の音。
それに続いて、雪混じりの泥を踏み荒らす複数の重い軍靴の足音が、階下から徐々に近づいてくる。
「……来たか」
アシェルの喉から、乾いた掠れ声が漏れた。
「領主様。どうか、私にお命じください。奴らの喉笛を掻っ切る覚悟はできております」
「駄目だ、ラインハルト。ここで私兵を使って商人を害せば、帝国法においてランカスター伯爵軍が治安維持を名目に介入してくる。そうなれば、我が領民は一人残らず皆殺しだ……。私が、終わらせる。私の命と引き換えに、民を解放させるんだ」
「そのような屈辱、私が耐えられません……!」
二人の悲痛なやり取りを断ち切るように、執務室の重い扉がドカンと乱暴に蹴破られた。
踏み込んできたのは、十名ほどの屈強な傭兵たちだった。
毛皮の外套の下に無骨な鉄の鎧を着込み、腰には反りの深い蛮刀を佩いている。爛々と下卑た光を宿した瞳で部屋の隅々を品定めし、嘲笑を浮かべていた。
そして、その中央を割るようにして、一人の肥満体の男が悠然と姿を現した。
ボッシュ商会会頭、ギルバート・ボッシュ(五十)。
あぶらぎった丸顔に、細く裂けた豚のような小角の目。贅肉に埋もれた首元には悪趣味な金と宝石の首飾りが何重にも巻かれ、肥満した指のすべてに大粒の指輪が嵌められている。
ギルバートは鼻を鳴らし、絹のハンカチで鼻口を押さえながら、部屋の埃をあからさまに嫌悪するように扇いだ。
「ふぅ、相変わらず悪臭の漂う吹き溜まりですな、ヴァルハイト卿。先代がくたばってからというもの、この城の貧乏臭さには拍車がかかったようだ」
「……無駄口を聞きに来たのではないだろう、ギルバート」
アシェルが低く、震えを押し殺した声で告げる。
ギルバートは口元を三日月のように歪め、ニヤニヤと下品な笑みを深めた。
「ええ、ええ、滅相もない。本日は神聖歴四〇六年・霜月十五日、正午。先代様から引き継がれた債務、および利息の最終決済期日でございます。……元本および遅延損害金、締めて『帝国金貨八百枚』。ご用意はできておりますかな?」
ギルバートが懐から取り出したのは、禍々しい赤い封蝋の押された羊皮紙の借用書だった。
アシェルは唇を噛み締め、血が滲むほどに拳を握りしめた。
「……返済が、不可能なことは……貴殿も百も承知のはずだ」
「カッカッカ! ええ、ええ! 重々承知しておりますとも! こんな痩せ細った寒村のどこに、帝国金貨八百枚などという大金が転がっているものですか!」
ギルバートは下卑た哄笑を上げ、大股で執務机へ近づくと、ドカッと分厚い肉の手を叩きつけた。
「ならば契約書通り、担保を執行させていただく! まずは城下の村から、健康な若者五十名……男は隣領の硫黄鉱山へ送り、女は王都の娼館へ売り飛ばす! そしてこの城と領地全域の支配権を我が商会へ引き渡していただく! ……ああ、それからヴァルハイト卿、お前だ」
ギルバートのねっとりとした視線が、アシェルの美しい銀髪と青白い貌を舐めるように這い回った。
「その美しい顔立ちなら、王都の好事家の貴族どもに高く売れる。今日こそその高慢な銀の首に、奴隷の鉄輪を嵌めてやるわ! 安心せい、貴様の身体の使い道はたっぷり教えてやるからなぁ!」
「貴様ァッ!!」
ラインハルトの怒号が轟き、鞘から大剣が半分引き抜かれた。
青白い刃が閃き、傭兵たちが一斉に蛮刀に手をかける。
「やめろ、ラインハルト!」
アシェルが叫び、立ち上がった。その瞳には涙が浮かんでいた。
「ギルバート……私の身柄はどうとでもしろ。王都へ売ろうが、肉を削ごうが構わない。だが頼む……領民の子供たちだけは……見逃してくれ……! この通りだ……!」
誇り高き名門貴族の青年が、下劣な悪徳商人の前で、膝を屈しようとした――その瞬間だった。
ガラガラガラガラ……。
静まり返った部屋に、あまりにも場違いで、乾いた軽快なプラスチック車輪の回転音が響いた。
「な、なんだ……?」
傭兵の一人が眉をひそめて振り返る。
廊下の暗がりから、静かな足取りで一人の女性が入ってきた。
身にまとっているのは、ネイビーの作業用ワークパンツに動きやすい長袖シャツ。黒髪をポニーテールにきっちりと束ね、鼻梁には銀縁の眼鏡。
右手には、銀色に鈍く輝くジュラルミン製の大型スーツケースのハンドルが握られていた。
神崎志乃だった。
「志乃……!?」
アシェルが息を呑み、ラインハルトが驚愕の声を上げる。
ギルバートは怪訝そうに眉を吊り上げ、志乃の上から下までを無礼に見下ろした。
「あん? なんだこの小娘は。奇妙な平民の服を着て……ヴァルハイト卿、お前の新しい愛人か? ほう、黒髪とは珍しいが、色気もへったくれもない貧相な女だな。小娘、命が惜しければ引っ込んでいろ。ここは大人と大人のビジネスの場――」
「やかましいわね、豚」
「……は?」
ギルバートの動きが止まった。
志乃は一切視線を合わせず、スーツケースを引いたまま、ずかずかと執務机の前まで歩み寄った。
傭兵の一人が威嚇するように前に出ようとしたが、ラインハルトが音もなくその前に立ち塞がり、大剣の切っ先を男の喉仏にピタリと突きつけたため、傭兵は脂汗を流して凍りついた。
志乃は机の前に立つと、懐から取り出したソーラー電卓をパチンと机に置いた。
「債権回収の執行ですって? 笑わせないで。利息計算の基礎もなっていない杜撰な闇金業者が、偉そうにビジネスを語るんじゃないわよ」
「な、なんだと貴様……! 誰に向かって口を利いて――」
「元本は帝国金貨百五十枚。それに対する不当な複利加算と、元本充当を意図的に排除した遅延損害金名目の不当利得。……あなたの提示している帝国金貨八百枚という請求額は、客観的証拠に基づかない完全な詐欺的請求よ」
「ぐ、口先だけの小娘が喚くな! 契約書に先代のサインがある以上、帝国法において絶対だ! 金が払えんのなら、貴様も一緒に鉱山へ売り飛ばしてやるわ!」
激昂したギルバートが唾を飛ばしながら喚き散らす。
「払えない、なんて一言も言ってないでしょうが」
志乃は冷え切った声で遮った。
彼女はしゃがみ込み、スーツケースのダイヤルロックをカチリと回した。
ジッパーが左右に滑らかに開かれる。
志乃は両手で、内部の緩衝材から重厚な黒い専用保護ケースを取り出した。
蓋を開ける。
室内に差し込むわずかな冬の陽光を受け、その物体は、この中世の廃城の誰もがかつて目にしたことのない、神聖なまでの純粋な光を放った。
志乃は白手袋をはめた手で、その黄金の角柱を二本、掴み上げた。
そして――。
ドサッ、ズゥゥゥン!!
執務机の分厚い樫の天板が、悲鳴のような軋み音を立てた。
石造りの床を伝って、重い振動がその場の全員の靴底へと響き渡る。
「……ひっ!?」
ギルバートが短い悲鳴を上げて飛び退いた。
机の上に叩きつけられたのは、山吹色に輝く二本の金属塊。
長さ十一センチ、幅五センチ、厚さ一センチ。
掌に収まるほどのサイズでありながら、一本あたり正確に一千グラムの圧倒的な比重を持つ塊。
表面には、寸分の狂いもない精緻な刻印――『999.9』、そして『1000g』の文字が、鏡のように磨き上げられた鏡面に刻まれていた。
「な……な、なんじゃ……これは……!?」
ギルバートの目が点になった。
「純金インゴットよ」
志乃は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、事務的なトーンで告げた。
「重量は各一キログラム。二本で合計二キログラム。……ギルバート、あなたの濁った目でよく見なさい。不純物含有率は一万分の一未満。純度九十九・九九パーセントのフォーナイン・ゴールドよ」
「じゅ、純度九十九……!? ば、馬鹿を言うな! そんなものが存在するはずが――」
「疑うなら、その腰のポーチに入っている貴金属鑑定用の試薬と比重計を使いなさい。商人なんでしょう?」
志乃が冷ややかに顎をしゃくると、ギルバートは震える手でポーチを探り、鑑定用の硝酸試薬と精密天秤、そしてルーペを取り出した。
額から滝のような脂汗を流しながら、ギルバートはインゴットに恐る恐る手を伸ばした。
持ち上げた瞬間、彼の短い腕がガクンと沈んだ。
「お、重い……!? この大きさで、この重量……!? ま、まさか……」
ルーペを目に当て、表面の極印を覗き込む。
気泡一つない。鋳造の巣も、赤銅の混ざりも、銀のくすみも一切ない。まるで太陽の光を液体にして、そのまま冷やし固めたかのような、完璧無欠の黄金。
震える手で硝酸の滴を垂らす。
――反応なし。
一滴の濁りも、変色も起きない。
純金であることの、動かしようのない証明。
「ひっ……ひいいっ!? き、傷一つない……不純物が……ない!? 神の御手で鍛えられた聖金塊……!? ば、馬鹿な、帝都の最高造幣局ですら、こんな純度の金など作れるはずがない!!」
ギルバートの膝がガクガクと音を立てて震え始めた。
中世の粗悪な金貨しか知らない男にとって、現代日本の高度な精錬技術が生み出したフォーナインは、もはや人知を超えた「神宝」そのものだった。
「計算してあげるわ」
志乃は電卓をパパパパッと叩いた。
「この国の帝国金貨は、一枚あたり金含有量約十五グラム、純度はせいぜい六割程度。実質的な純金量は九グラム前後よ。このインゴット二本には、純金そのものが二千グラム詰まっている。純金含有量だけで換算しても、帝国金貨二百二十枚分に相当するわ」
志乃はギルバートの鼻先に電卓の液晶を突きつけた。
「さらに、このクラスの超高純度黄金は、異世界の市場において三倍以上のプレミア価値を持つ。王都の貴族や錬金学会に持ち込めば、インゴット一本で帝国金貨五百枚、二本で『千枚』は下らない。……あなたの要求している帝国金貨八百枚など、この二本で元利合計を支払ってお釣りが来る計算よ」
「せ……千枚……!? こ、こんな小さな塊二つで……!?」
ギルバートの顔が急速に土気色へと変わっていく。
要求した八億円の借金に対し、目の前に叩きつけられたのは、十億円を遥かに超える神宝級の資産。
アシェルが呆然と口を開け、ラインハルトが大剣を取り落としそうになりながら目を丸くしていた。
「う、受け取れぬ……! こんな出処の知れぬ怪しげな黄金など……! お前、どこから盗み出してきた!? 帝室の宝物庫か、禁忌の魔女の工房か!?」
往生際の悪いギルバートが喚き立てる。
「盗品? 失礼ね。正規の購入証明書も領収書も完備された、私の清廉潔白な私有財産よ。……それにね、ギルバート」
志乃は冷笑を浮かべ、再びスーツケースへと手を伸ばした。
「二本で足りないと言うなら、まだあるわよ?」
ドサッ!!
ズゥゥゥン!!
ドガァァァンッ!!
三本の純金インゴットが、立て続けに机の上に叩きつけられた。
ギルバートの目の前に、合計五本の山吹色の角柱が、整然と積み上げられる。
総重量五キログラム。
現代レートで五千万円、異世界の市場価値にして帝国金貨『二千五百枚』――日本円にして二十五億円を軽く超える、圧倒的な黄金の壁。
「ひぎゃあああっっ!?」
ギルバートは悲鳴を上げて床に尻餅をついた。
あまりの質量と価値の暴力に、腰が完全に砕け散っていた。
「これで合計五キログラムよ」
志乃は机に片手を突き、床に転がるギルバートを冷酷に見下ろした。
「最初の二本で借金八百枚は全額一括完済。……そして残りの三本はね、お釣りはいらないから、手切れ金よ」
「て……手切れ金……!?」
「ええ。二度とその薄汚い靴でこの領地に足を踏み入れないための迷惑料、そしてアシェル様と領民に対する精神的慰謝料としてくれてやるわ。……持って行きなさい。その代わり、この場で借用書に『完済』の受領印を押し、債権放棄の公正証書にサインすること。一文字でも渋ったら、その首をラインハルトに刎ねさせるわよ」
「ひ、ひいっ! か、書きます! 書きますううううっ!!」
ギルバートは這いつくばりながら借用書を取り出し、震える手で羽ペンを走らせた。『完済・債権消滅』の文字を殴り書きし、商会の実印を血眼で押し付ける。
志乃は手際よくその借用書を奪い取ると、アシェルの目の前で、ビリビリと真っ二つに引き裂いた。
「契約終了。……さあ、傭兵どもを連れて、その金塊を抱えて今すぐ消えなさい!」
志乃が一喝した瞬間、ラインハルトがギルバートの首筋すれすれに大剣を突き立てた。
「志乃様の命が聞こえなかったか、豚めが。……三秒以内に失せねば、両足を切り落とす」
「ひいいいいっ!! た、助けてくれええええっ!!」
ギルバートは五本の重たいインゴットを必死に抱え込み、股間を濡らしながら、転がるようにして部屋から這い出していった。傭兵たちも主人を見捨てて我先にと逃げ出し、ドタバタと騒がしい足音が城門の彼方へと遠ざかっていった。
*
嵐が去った後の執務室には、ただ完全な静寂だけが残されていた。
破られた借用書の紙片が、冷たい風に乗って床を舞っている。
「ふぅ……」
志乃は小さく息を吐き、スーツケースの蓋を閉じると、ポケットからウェットティッシュを取り出して指先を拭いた。
「やっぱり、悪徳業者には正面から数字と資本で殴りつけるのが一番すっきりするわね。……あー、すっきりした」
満足そうに微笑む志乃。
だが、部屋にいた二人の男は、呼吸をすることすら忘れたように硬直していた。
「…………」
アシェルは、机に手をついたまま、ガクガクと全身を震わせていた。
その碧眼は信じられないものを見るように見開かれ、美貌の顔は驚愕と畏怖で硬直し、声すら出ないようだった。
そしてラインハルトは、大剣の柄を握りしめたまま、その場に崩れ落ちるように膝をつき、志乃の足元を見つめていた。
「……し、志乃……」
ようやく絞り出されたアシェルの声は、掠れ、震えていた。
「君は……君は一体……何者なんだ……? 帝国金貨八百枚を……あのような、神の純金で……一瞬にして……」
「言ったでしょう? ただの元経理OLよ」
志乃は悪戯っぽく笑い、胸ポケットから新しい複写式の書類を取り出した。
「さて、アシェル様。外敵の排除は終わったわ。……次は、私とあなたの『新しい契約』を結ぶ番よ」




