第5話:現代の銀座へ(フォーナインの黄金調達)
通話を終えたスマートフォンの画面を伏せ、志乃は深く息を吐き出した。
都内郊外に購入したばかりの我が家は、しんと静まり返っている。二十四時間稼働の全館空調が送り出す適温の空気が肌を撫で、柔らかな間接照明が真新しいフローリングを照らしていた。
ほんの数分前まで、零下近い冷気と埃にまみれ、血を吐く美貌の領主や飢えに震える騎士たちと対峙していたことが、まるで遠い夢のように思える。だが、スニーカーの靴底にこびりついた乾いた泥と、鼻腔の奥に残る異世界の冷涼な空気の匂いが、それが紛れもない現実であると告げていた。
「……さてと。明日までに八億円相当の決着をつけるなら、段取りを完璧に整えないとね」
志乃はバスルームへ向かい、自動給湯のボタンを押した。
湯船にたっぷりと張られた湯に肩まで浸かると、凝り固まっていた筋肉がじわりと解けていく。ブラック企業時代は、終電帰りでシャワーを三分浴びるのが関の山だった。湯船に浸かる時間すら惜しんで睡眠を優先していたあの日々を思えば、蛇口を捻るだけで清潔な湯が溢れる現代の生活は、それ自体が奇跡のような贅沢だった。
だが、安らぎに浸りながらも、志乃の頭脳は休まることなく損益計算とリスクヘッジを巡らせていた。
(百億円の宝くじ当せん金。これは所得税法第九条に基づき、完全に非課税。銀行発行の当せん証明書原本も手元にある。ここまでは完璧よ)
問題は、その資金の動かし方だった。
日本国内において、一度に数千万円から数億円規模の現金を動かせば、当然ながらマネー・ローンダリング防止法や税務署の監視システムに引っかかる。出処の怪しい現金引き出しや不透明な貴金属取引は、即座に銀行のコンプライアンス部門から当局へ疑わしい取引として報告されてしまうのだ。
だからこそ、志乃は正規のルートを徹底した。
メガバンクのプライベートバンキング担当者を介し、資産ポートフォリオの一環として「正当な個人資産による金地金の購入」という名目を立てる。正規の地金商から購入証明書と領収書を発行してもらい、自宅の耐火金庫に厳重に保管する。これならば、将来いかなる税務調査が入ろうとも、一分の隙もなく資金の流れを証明できる。
「自分の身の安全と社会的信用を守れなくて、何が領地の立て直しよ。経理の基本は、証憑書類の完全保全から」
湯から上がった志乃は、手早く髪を乾かし、ベッドに入った。
明日、あの不憫な領主と騎士たちを救い出すために。睡眠による体力回復もまた、明日の決戦に向けた重要な準備作業だった。
*
翌朝、午前九時十五分。
冬晴れの澄んだ青空の下、志乃は銀座の中央通りに面した、創業百年を超える老舗地金商の重厚なエントランスをくぐっていた。
身にまとっているのは、過度に着飾らない上質なチャコールグレーのウールコート。だが、その足元には昨夜手配したドイツ製・リモワのジュラルミン製スーツケースが静かに佇んでいる。
自動ドアを抜けると、すでにエントランスで待機していたメガバンクのプライベートバンキング担当者――仕立ての良いスーツを着た五十代のベテラン行員が、深々と頭を下げて出迎えた。
「神崎様、おはようございます。昨晩は急なお申し付けでしたが、すべて滞りなく手配が完了しております。奥の特別応接室へご案内いたします」
「迅速なご対応、感謝します。朝早くからお手数をおかけしました」
「とんでもございません。神崎様のような大口のお客様のご要望にお応えするのが、私どもの務めでございます」
一般の顧客が貴金属ジュエリーを眺めるフロアを通り抜け、志乃は重厚な防音扉に守られた特別応接室(VIPルーム)へと通された。
毛足の長い絨毯の上に置かれた本革のソファ。壁には抽象画が飾られ、静謐なクラシック音楽が流れている。出された淹れたての玉露に口をつけると、上品な甘みと渋みが舌に広がった。
間もなくして、地金商の役員とおぼしき白髪交じりの男性が、白手袋をはめた手で黒塗りの木箱を恭しく抱えて入室してきた。
「神崎様、お待たせいたしました。本日ご注文いただきました、フォーナイン(純度九十九・九九パーセント)の金地金、一キログラムバーでございます」
カチリ、と真鍮の留め具が外され、蓋が開けられた。
その瞬間、室内のダウンライトの光を浴びて、目も眩むような山吹色の輝きが溢れ出した。
黒いビロードの敷物の上に、整然と並べられた五本の黄金の角柱。
一本あたり、正確に一キログラム。
幅約五センチ、長さ約十一センチ、厚さ約一センチ。掌に収まるほどのサイズでありながら、そこに凝縮された物質的価値は、一本あたりおよそ一千万円。五本合わせて、五千万円相当の純金インゴットだった。
「……美しいわね」
志乃は思わず感嘆の声を漏らした。
表面には、ロンドン地金市場協会(LBMA)公認の溶解業者による極印、品位を示す『999.9』の刻印、重量表記『1000g』、そして一本ごとに異なる厳密なシリアルナンバーが、寸分の狂いもなく刻み込まれている。
傷一つなく、鏡のように周囲の光を反射する純金の肌。
白手袋を差し出され、志乃はそのうちの一本を両手で持ち上げてみた。
「……っ、重い……」
見た目のコンパクトさからは想像もつかない、ずっしりとした強烈な比重。密度の塊。地球の引力をそのまま掌に閉じじ込めたかのような、圧倒的な実体感。
「神崎様のご指定口座より、代金五千百三十五万円(手数料および消費税込)のお引き落としを確認いたしました。こちらが正規の購入証明書、計量証明書、およびインボイス対応の領収書原本でございます」
差し出された書類に、志乃は認印を押し、複写を受け取った。
「ありがとう。間違いなく受領いたしました」
地金商のスタッフの手によって、インゴットは一本ずつ専用の保護ケースに収められ、志乃の持参したリモワのスーツケース内部のクッション材の間にパッキングされていった。
五本の合計重量は、正確に五キログラム。
スーツケース自体の重量が約三・二キログラム。合わせても総重量は八・二キログラム程度。
片手で持ち上げても、少し重めの旅行鞄といった程度であり、階段の昇降やスーツケースのキャスター走行には何一つ支障がない。
(『自分が持てる範囲』というクローゼットの通過制限……。このサイズと重量なら、物理法則の制約にも完全に適合しているわ)
志乃は心の中で小さくガッツポーズを作った。
何百キロもの金貨を運ぼうとすれば台車でも骨が折れるが、純度を極限まで凝縮した現代の工業用純金バーなら、たったこれだけの体積と重量で、莫大な経済的破壊力を持ち運べるのだ。
丁寧に見送られながら地金商を後にした志乃は、待たせていたハイヤーに乗り込み、自宅へと直行した。
*
午前十一時。
自宅ガレージに車を滑り込ませ、電動シャッターを完全に下ろした志乃は、スーツケースを転がしてリビングへと入った。
まずは購入証明書と領収書一式を耐火金庫の最深部へ格納し、電子ロックを施す。証憑の保全は完了。
続いて、作業用のネイビーのワークパンツと動きやすい長袖シャツに着替え、髪をきっちりとポニーテールに結び直した。
そして、ダイニングテーブルの上に置いたスーツケースを開け、五本のインゴットを眺めながら、手帳と電卓を広げた。
(さあ、ここからが本当の『為替レートと純度の歪み』の計算よ)
志乃は昨日のアシェルの証言と、異世界の金貨に関する情報を頭の中で整理した。
アシェルが持っていた手持ちの金貨を以前見せてもらったが、その金貨は色がわずかに赤黒く、表面が不揃いで、現代の基準から見れば極めて質の低い鋳造貨幣だった。
異世界の一般的な金貨は、精錬技術の未熟さゆえに、銀や銅といった不純物が三十パーセントから四十パーセントも混ざり合っている。すなわち、実質的な金の純度はせいぜい六十パーセントから七十パーセント程度。
それに対して、目の前にあるのは――純度九十九・九九パーセントのフォーナイン。
不純物が一万分の一未満という、現代の高度な電気分解技術と化学精錬によってのみ生み出される、中世異世界の技術水準では「神の錬金術」と呼ぶほかない奇跡の結晶。
(帝国金貨一枚が、純度六十パーセントの金約十五グラムだとして……。この純金インゴット一キログラムには、純金そのものが千グラム詰まっている。純金含有量だけで換算しても、インゴット一本で帝国金貨百枚分以上の価値があるわ)
だが、話はそれだけに留まらない。
不純物のない「純度九十九・九九パーセントの黄金」は、貴金属市場においてそれ自体が超希少なプレミアム資産として扱われる。異世界の造幣局や高位の錬金術師、あるいは大貴族たちが喉から手が出るほど欲しがる、加工用の最高級原資となるのだ。
(実質的な換算価値は、額面重量のさらに一・五倍から二倍。……つまり、このインゴット二本だけで、ギルバートが要求している帝国金貨八百枚(約八億円)の元利合計を遥かに凌駕する価値を叩き出せる計算になる)
志乃の電卓を弾く指先が、確信に満ちて止まった。
ギルバートの要求額は、法外な複利計算によって膨らませた帝国金貨八百枚。
インゴット二本で元本と不当利息を全額叩き返しても、手元にはまだ三本のインゴット――三千万円相当(異世界換算で十億円以上の購買力)が丸々残る。
「八億円の借金取り立てに対して、即金で十数億円規模の純金を叩きつける……。ふふっ、想像しただけでゾクゾクするわね」
志乃の唇に、冷徹で好戦的な笑みが浮かんだ。
ブラック企業で理不尽な経営陣に頭を下げさせられ、不当なコストカットを押し付けられてきた十年間。
その鬱憤を晴らすかのように、今、彼女の手には悪徳業者を正面から粉砕できる「圧倒的な資本の暴力」が握られていた。
志乃はスーツケースのジッパーをしっかりと締め、ハンドルを握った。
そして、リビングの奥、ウォークインクローゼットへと向かう。
スチールラックの奥に鎮座する、あの重厚な樫の木の扉。
扉の隙間には、志乃が挟み込んでいったゴム製のドアストッパーが、狂いなく挟まったままだった。
腕時計の針は、午前十一時三十分を指している。
約束の正午まで、あと三十分。
「待っててね、アシェル様、ラインハルト。……あなたたちの尊厳ごと買い叩こうとした豚商人に、本物の『黄金の鉄槌』を下してあげるから」
ギィィィ……。
重厚な扉を開け放ち、スーツケースを引いて一歩を踏み出す。
ひやりとした異世界の冷気が、志乃の頬を撫でた。
その先には、理不尽な運命に抗おうとする美男子たちと、滅亡寸前の領地を賭けた、人生最大の「札束ビンタ」の舞台が待っていた。




