第4話:抱えきれない借用書
冷風の吹き込む回廊を戻り、再び執務室の重い扉を開けると、室内にはまだ微かに白粥の甘い穀物の香りが漂っていた。
長椅子の上に横たわっていたアシェルは、足音を聞きつけてハッと身を起こした。銀糸のような髪が肩から零れ落ち、碧眼が不安げに揺れている。
「志乃……! それに、ラインハルト……! 無事だったのか……?」
「ええ。城門の彼らは全員、温かい食事とブドウ糖を補給して無事よ。今はユーリ君の指示で、風の当たらない詰所に避難させてあるわ」
志乃が歩み寄ると、アシェルは安堵のあまり胸を撫で下ろし、その場に崩れ落ちそうになった。
「よかった……本当によかった……。ラインハルト、お前が無事で……」
「領主様」
志乃の斜め後ろに直立していたラインハルトが、革の手袋を外して深々と一礼した。その頬にはまだ生々しい涙の跡が残っていたが、眼差しには先ほどまでの絶望の濁りはなく、鋼のような精気が宿っていた。
「私の無様な醜態をお見せし、申し訳ございません。……すべては、この志乃様のお慈悲によるものです。志乃様が奇跡の温飯を我ら全員に施してくださいました」
「奇跡の……温飯……?」
目を丸くするアシェルに、志乃は苦笑しながら手を振った。
「ただのレトルト牛丼よ。大げさに言わないで。……それよりアシェル様、さっきの残りの白粥、冷めないうちに全部食べてしまいなさい」
志乃は耐熱マグカップからパウチを取り出し、残っていた半分の白粥をスプーンですくってアシェルの口元へ運んだ。アシェルは素直に唇を開き、一口ごとに噛みしめるように味わいながら、ゆっくりと飲み下していく。
空っぽだった胃袋に温かい粥が満たされるにつれ、青白かったアシェルの肌に、うっすらと健康的な血色が戻ってきた。
「……ありがとう、志乃。身体の芯が、こんなに温かくなったのは……何年ぶりだろうか」
「お礼はいいわ。……さて、身体が少し落ち着いたなら、本題に入りましょうか」
志乃は長椅子の傍らにあった木製の丸椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
そして、胸ポケットから愛用のブルーライトカット眼鏡を取り出して鼻梁にかけると、バッグから取り出したコクヨの方眼ノートと四色ボールペンを膝の上に広げた。
「アシェル様。あなたの命を繋ぎ、騎士団の飢えを一時的に凌ぐことはできた。でも、これは対症療法に過ぎないわ。この領地がどうしてここまで困窮し、あなたが泥水をすすらなければならないほど追い詰められたのか……その『病巣の根本』を洗い出したいの。帳簿を見せていただけるかしら?」
「帳簿……?」
アシェルは一瞬、戸惑ったように目を瞬かせた。
それから、自らの無力さを恥じるように俯き、消え入りそうな声で呟いた。
「……私の執務机の、一番下の引き出しだ。鍵は……壊れて久しいから、そのまま引けば開く」
志乃は立ち上がり、埃の積もった執務机へと向かった。
引き出しを開けると、中には湿気と虫食いで端がボロボロになった、分厚い羊皮紙の束が何十枚も押し込められていた。表面には黒いインクで、乱雑な数字と見慣れない文字が書き殴られている。
異世界の公用語文字。幸いなことに、この世界に足を踏み入れた瞬間から、なぜか耳にする言葉も目にする文字も、脳内で自然と日本語に翻訳されて理解できるようだった。
「……これは、酷いわね」
志乃は羊皮紙を一枚ずつ机の上に並べ、目を走らせた。
そこにあったのは、およそ近代的な会計とは程遠い、中世の大福帳のような「単式簿記」の残骸だった。
『神聖歴四〇三年・収穫月:ライ麦収穫高、平年比六割減』
『同・降雪月:城壁修復費として銀貨四十枚出金』
『同・萌芽月:帝国税納付のため金貨三十枚出金……』
一行ごとに収支が殴り書きされているだけで、現金の流れと債務の残高、資産の評価が全く連動していない。二重計上された支出、日付の抜けた使途不明金、回収不能になった売掛金の放置。
「先代……私の父が急死したのは、三年前のことだ」
長椅子から身を起こしたアシェルが、絞り出すように語り始めた。
「長引く異常気象で農地は痩せ衰え、凶作が続いた。そこへ追い打ちをかけるように、北の山脈から魔獣の群れが雪崩れ込み、城下村の半分が焼き払われたんだ。城壁を直し、領民に配る小麦を買い、帝都へ納めるべき重い税を工面するために……父は、方々から金を借り集めた」
「それが、この借用書の束ね」
志乃の指先が、一際分厚く、上質な羊皮紙で設えられた一束の書類の上で止まった。
紙の最下部には、禍々しい赤い蝋で封印が押され、豪奢な花文字でこう署名されていた。
――ボッシュ商会会頭、ギルバート・ボッシュ。
「……ギルバートか」
その名を耳にした瞬間、背後に控えていたラインハルトが、ギリッと奥歯を噛みしめる音が響いた。漆黒の瞳に、抑えきれない憎悪の炎が宿る。
「隣領のランカスター伯爵領を拠点にする、悪名高き高利貸し商人です。飢饉に喘ぐ我が領に甘言を弄して近づき、法外な条件で金を貸し付けました。帝都の銀行が貸し渋る中、先代様は背に腹は代えられず、奴の手を取ってしまった……!」
「アシェル様、この借入金の元本はいくらだったの?」
志乃が尋ねると、アシェルは苦痛に顔を歪めながら答えた。
「……最初は、帝国金貨で百五十枚だったと聞いている」
志乃は頭の中で素早く貨幣価値の換算を行った。
アシェルたちから聞き取った情報によれば、この帝国の通貨体系は以下の通りだ。
銅貨一枚=約百円(パン一個、粗末な串焼き一本)。
銀貨一枚=銅貨百枚=約一万円(一般的な宿の一泊二食付き、平民の数日分の生活費)。
金貨一枚=銀貨十枚=約十万円。
そして「帝国金貨」は、中央帝国の刻印が打たれた大判の金貨で、通常の金貨十枚分の価値を持つ。つまり、帝国金貨一枚で約百万円。
「元本が帝国金貨百五十枚……日本円にして約一億五千万円ね。領地の立て直し資金としては妥当な規模だわ。問題は、その後の返済履歴と金利設定よ」
志乃はポケットからソーラー電卓を取り出し、カチリと机の上に置いた。
液晶画面に「0」が表示される。
志乃の細い指先が、ブラインドタッチで猛烈な速度でキーを弾き始めた。
カタカタカタカタッ、タアン!
カタカタカタッ、タアン!
「な……なんだ、その板は……!? 指で叩くたびに、妙な数字が浮かび上がって……!?」
目を見張るアシェルとラインハルトを無視し、志乃は羊皮紙の条項を冷徹に読み解いていく。
読めば読むほど、志乃の眉間の皺が深くなり、瞳の奥に氷のような冷気が宿っていった。
「……悪質。あまりにも悪質極まりないわ」
「志乃……?」
「アシェル様、これを見て。借用書の第三条。『元利金の返済が一日でも遅延した場合、翌月以降の残債すべてに対し、月利十パーセントの遅延損害金を複利にて加算する』」
「げ、月利……十パーセント……?」
アシェルが呆然と呟く。金融教育など受けていない中世の貴族には、その数字の持つ真の恐怖が理解できていないようだった。
「単利じゃないのよ、『複利』よ! 年利に換算したら三〇〇パーセントを軽く超えるわ! トイチ(十日で一割)どころの騒ぎじゃない、明白な出資法違反――いえ、この世界に利息制限法がないとしても、明白な詐欺的搾取契約よ! しかも見て、過去三年間であなたが必死に工面して返済した銀貨の記録……これ、すべて『遅延損害金の利息』に充当されていて、元本が金貨一枚分たりとも減っていないわ!」
「な……なんだと……!?」
アシェルが息を呑んだ。
「私が……血を吐く思いで城の宝飾品を売り払い、先祖伝来の武具を手放して納めた金が……元本に一文も届いていなかったというのか……!?」
「そうよ。それどころか、雪だるま式に利息が利息を生み、元本の五倍以上に膨れ上がっている。……現在の請求総額は、帝国金貨『八百枚』」
電卓の液晶に表示された数字は、
『800,000,000』。
日本円にして、およそ八億円。
「はっ……八百枚……!?」
アシェルはその場に崩れ落ち、両手で顔を覆った。
「そんな大金……我が領地を丸ごと売り払っても、到底工面できるはずがない……! 帝都の豪商ですら、即金で用意できる額ではないぞ……!」
「そして、極め付けがこれね」
志乃は羊皮紙の束の最後に挟まれていた、赤い封蝋が押された書状を拾い上げた。
ギルバート・ボッシュからの、最後通牒。
「『神聖歴四〇六年・霜月十五日――すなわち明日正午までに、利息および元本の合計・帝国金貨八百枚を一括にて返済されたし。万が一、期日までに支払いがなされぬ場合、担保条項に基づき、領内の健康な若年男女五十名を鉱山採掘奴隷として引き渡すこと。併せて、ヴァルハイト城および領地全域の統治権をボッシュ商会へ永久譲渡すること』」
「五十人の……領民を、奴隷に……!?」
ラインハルトが絶叫した。
握りしめた拳から血が滲み、床の石畳にポタリと落ちる。
「ふざけるな……! あの下劣な豚めが! あの子らは……親を飢えで亡くし、それでも懸命に畑を耕して生きようとしている、我が領の宝だぞ! 鉱山奴隷など……過酷な労働と落盤で、一年と生きて戻れぬではないか!!」
「……私のせいだ」
アシェルの喉から、魂の抜けたような掠れ声が漏れた。
銀髪を乱し、床に額を擦り付けるようにして、アシェルは震えていた。
「私が……無能だったからだ。父の遺した負の遺産を精査することもできず、ただ言われるがままにサインを重ね……。民を守るべき領主が、民を地獄へ売り飛ばす契約を結んでしまった……」
「アシェル様……」
「ラインハルト、もういい……」
アシェルは涙で濡れた顔を上げた。その碧眼には、絶望の果てに自暴自棄となった、痛々しい光が宿っていた。
「明日、ギルバートが来たら……私の首を差し出す。領主である私の身柄を奴隷市場に売れば、金貨百枚にはなるだろう。それで子供たちを見逃すよう……奴の足元に縋り付いて乞う。それしか……もう手はない……」
「滅多なことを仰るなッ!!」
ラインハルトが叫んだ。
「領主様を売るくらいなら、私が今夜のうちにギルバートの屋敷へ斬り込みます! 奴の首を刎ね、我が首を差し出して獄に繋がれる方が、百倍ましだ!!」
「やめろ、ラインハルト! それでは私兵を使った暗殺として、帝国騎士団が押し寄せて領民が皆殺しにされるだけだ!!」
絶望と無力感に苛まれ、互いを庇い合って破滅へと突き進もうとする主従。
その痛々しいまでの絆と、あまりにも不憫な境遇。
その時――。
パチンッ!!
乾いた鋭い音が、重苦しい執務室の空気を切り裂いた。
アシェルとラインハルトが驚愕して顔を上げる。
音の主は、志乃だった。彼女は四色ボールペンを勢いよくノックし、手帳をバチンと閉じたのだ。
「……茶番はそこまでよ」
志乃の声は、低く、静かだった。
だが、その声には二人を芯から震わせるほどの、冷徹で絶対的な重みが宿っていた。
「志乃……殿……?」
「首を差し出す? 奴隷になる? 暗殺に走る? ……馬鹿馬鹿しいにも程があるわ。そんな感情論の破滅願望で問題が解決するなら、世の中の倒産企業はみんな救われてるわよ」
志乃は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、冷たい瞳で羊皮紙の借用書を見下ろした。
その胸の内に渦巻いていたのは、猛烈な、そして極めて理知的な怒りだった。
(……思い出すわね)
深夜残業代をごまかし、タイムカードを定時で切らせ、経営陣の放漫経営のツケを現場の減給とリストラで埋め合わせようとしていた、あのブラック企業の役員たち。
弱い立場にある者を数字のトリックで煙に巻き、逃げ場を奪って尊厳ごと搾取し尽くす、あの薄汚い構造。
(数字を愛し、数字で生きてきた人間として……こういう不正と搾取だけは、絶対に許せないのよ)
志乃は椅子から立ち上がり、アシェルの前に歩み寄った。
そして、床にへたり込んでいたアシェルの顎を、指先でクイと持ち上げた。
「ひゃ……っ?」
突然の接触に、アシェルの白い頬がカッと赤く染まる。至近距離で見つめ合う黒い瞳と碧の瞳。
「アシェル様。よく聞きなさい」
志乃は一言一言、言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「あなたが泥水をすすってまで守ろうとした領民を、誰が一歩たりとも渡すものですか。あなたが誇りを捨てて奴隷になる必要なんて、これっぽっちもないわ」
「し、志乃……だが、帝国金貨八百枚だぞ……? 明日までに、どうやって……」
「明日正午、そのギルバートという商人は、この城へ直接取り立てに来るのね?」
「あ、ああ……。契約書の最終執行確認のため、配下の護衛を連れて正午きっかりに来ると通告されている……」
「そう。現場に来てくれるなら、話が早くて助かるわ」
志乃はふっと口元を緩め、獰猛な笑みを浮かべた。
それは、長年ブラック企業で魑魅魍魎の監査法人や国税局と渡り合ってきた元経理OLが、悪徳業者を法と資本の力で完膚なきまでに叩き潰す時に見せる、最高に冷徹で美しい笑みだった。
「利息の計算が滅茶苦茶な悪徳業者にはね、相応の『お礼』をしてあげるのがビジネスの礼儀よ。……アシェル様、ラインハルト」
志乃は踵を返し、執務室の出口へと向かった。
「私は一度、自宅へ戻るわ。明日の正午までに、必要な『資材』を揃えて戻ってくる」
「志乃様! 私もお供いたします!」
ラインハルトが慌てて立ち上がろうとするが、志乃は片手を上げて制した。
「いいえ、あなたたちはここで体力を温存していなさい。アシェル様を寝かせて、騎士団のみんなに温かい白湯を飲ませてあげて。……いいこと? 明日の正午まで、相手がどんな挑発をしてきても、絶対に手を出さないこと。すべて私が片付けるから」
志乃はクローゼットへと続く回廊へ足を踏み出し、最後に振り返った。
「帝国金貨八百枚……日本円にして約八億円、ね。私の全財産の、十分の一にも満たない端金だわ。……明日、あの豚商人の顔面に、本物の黄金の重みを思い知らせてやるから楽しみにしていなさい」
バタン、と扉が閉まり、志乃の足音が遠ざかっていく。
静まり返った執務室の中で、アシェルとラインハルトは、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「……八億円……端金……?」
意味の分からない単語が混ざっていた。
だが、去っていった小柄な黒髪の女性の背中に漂っていた、あの絶対的な覇気と自信。
アシェルは胸元をぎゅっと握りしめ、熱く高鳴る心臓の鼓動を感じていた。
「……ラインハルト」
「はっ……」
「私は……とんでもない御方を、この城にお迎えしてしまったのかもしれないな……」
「御意。……我が命に代えても、あの方をお守りせねばなりません」
二人の美男子の瞳に、志乃への狂おしいほどの信仰と熱情が、静かに、だが決して消えない炎となって灯っていた。
*
一方、クローゼットの樫の木の扉をくぐり、現代日本の自宅へと帰還した志乃は、洗面台の鏡の前で髪を結び直していた。
「八億円……うん、キャッシュで動かすには銀行の手続きが面倒ね。でも、現物の地金なら話は別よ」
志乃はスマートフォンを手に取り、メガバンクのプライベートバンキング担当者の直通番号をタップした。
「もしもし、神崎です。……ええ、お世話になっております。急ぎでフォーナインの金地金――純金インゴットを数キロほど手配していただきたいのですが。明日の朝一番で、銀座の地金商で引き取れるように準備をお願いできますか?」
受話器の向こうの担当者が平伏するような声を聞きながら、志乃は冷ややかな笑みを深めた。
反撃の時間は、すぐそこまで迫っていた。




