第3話:餓死寸前の黒髪騎士たち
ガラン、ガラン、と城壁の彼方から響き渡った乾いた金属音は、敵襲を告げる警鐘などではなかった。
それは、風化した鉄の鎖が寒風に煽られて千切れ、城門の落とし格子に激突しただけの、いわば死に体の城が上げた悲鳴のような音だった。
「……ラインハルト……騎士団の……者たちが……」
執務室の古びた長椅子に身を横たえたアシェルが、青白い唇を震わせながら、なおも身を起こそうともがいていた。志乃が現代から持ち込んだ毛布代わりのフリースブランケットを肩まで引き上げ、その胸元を優しく、だが力強く押し留める。
「動かないで。胃に物を入れた直後に起き上がったら、せっかく落ち着いた胃壁がまた痙攣するわ。アシェル様はそこで目を閉じて、体力の回復に専念して」
「だが……あいつらは……三日前から、一粒の麦すら口にしていないんだ……。私のような無能な領主のために……持ち場を離れようとせず……」
「話は後。私がこの目で見てくるわ」
志乃は手早くアシェルの枕元に、先ほどの経口補水液の残りと清潔なタオルを置き、執務室の扉を引いた。
外へ出ると、回廊の隙間から吹き込む冷気が一段と鋭さを増していた。肌を刺すような冷たさの中には、微かに雪の結晶が混じり始めている。灰色の空は重く垂れこめ、まるで今にも大地を押し潰しそうだった。
石造りの階段を駆け下り、崩れかけた中庭を抜けて城門へと向かう。
中庭の土は霜柱で白く盛り上がり、踏みしめるたびにザクザクと硬い音を立てた。かつては馬場や訓練場だったとおぼしき広場には、折れた槍の柄や錆びついた兜の破片が散乱し、放置された荷馬車の木枠が寒風にさらされて朽ち果てている。
そして――正面城門のアーチをくぐった瞬間、志乃の足がピタリと止まった。
「……っ、嘘でしょう……」
思わず声が漏れた。
城壁の監視台と跳ね橋のたもとに、十名ほどの男たちがいた。
いや、「そこに立っている」と表現することすら躊躇われる光景だった。
彼らが身にまとっているのは、あちこちの留め具がちぎれ、泥と錆で変色した粗末な鎖帷子と鉄の胸当て。その下に着込んでいる麻のチュニックは襤褸布のように擦り切れ、吹き曝しの寒風が素肌を容赦なく打ち据えている。足元の革靴には無数の穴が開き、しもやけで赤黒く腫れ上がった足指が覗いていた。
彼らの顔には生気というものが一切存在しなかった。
眼窩は深く落ち窪み、頬骨が浮き上がり、唇は紫色に変色してひび割れている。手にした槍や剣の刃先はことごとく欠けており、男たちはその刃こぼれした武器を杖代わりに地面へ突き立て、辛うじて両足の震えを支えて直立不動の姿勢を保っていた。
まるで、立ったまま凍りついた亡霊の群れだった。
その中央、跳ね橋の正面に仁王立ちしていたのは、一際体躯の逞しい黒髪の青年だった。
短く刈り込まれた漆黒の髪に、彫刻刀で削り出したかのような鋭く精悍な顔立ち。年齢は二十代半ばほどだろうか。ボロボロの装備の上からでも分かる、極限まで鍛え抜かれた鋼のような筋肉の持ち主。だが、その逞しい身体は今や飢餓によって極限まで削ぎ落とされ、皮膚の下の骨格が浮き彫りになっていた。
彼が握りしめる大剣の切っ先は地面の凍土深くに突き刺さり、両手でその柄を握りしめることで、辛うじて崩れ落ちる肉体を繋ぎ止めているようだった。
「……誰だ……貴様は……」
志乃の足音に気づき、黒髪の青年がぎょろりと視線を向けた。
その瞳は、深淵の闇のように黒く、飢えと疲労で血走りながらも、獲物を絶対に逃さない野獣のような研ぎ澄まされた光を放っていた。
「城内に……何用だ……。領主様に……仇なす者ならば……我が首が飛ぼうとも……ここで叩き斬る……」
「団長……もう、やめてください……! 剣を抜く力なんて、俺たちには……」
背後で、金髪の若い騎士――副官のユーリ(二十一)が、雪の上に膝をつきながら掠れた声で叫んだ。
「黙れ、ユーリ! 我らは……ヴァルハイト騎士団だ……!」
黒髪の青年――団長のラインハルト・クラウゼ(二十五)は、血を吐くような怒号を絞り出した。しかし、その声は風にかき消されそうなほど弱々しい。
「中央の連中が……兵糧を打ち切り、給金を奪い……我らをこの寒村に捨て置こうとも……! 領民が城壁の下で震えている限り……我らは最後の一兵まで……持ち場を死守する……! 領民に……指一本……触れさせは……しな……い……」
言い終えた瞬間、ラインハルトの膝がガクリと折れた。
大剣が凍土から抜け、彼の巨体がゆっくりと前のめりに傾いでいく。
「団長――ッ!!」
仲間たちが悲鳴を上げたが、誰も助けに駆け寄ることができない。全員がすでに、自らの体重を支えるだけで限界だったのだ。
「ちょっと! しっかりしなさい!!」
志乃は反射的に駆け寄り、倒れ込んできたラインハルトの分厚い胸板を両腕で受け止めた。
ドサリ、と重い衝撃が志乃の小柄な身体を圧迫する。鉄の鎧の冷たさと、その奥にある男の肉体の、凍てつくような体温の低さに背筋が凍りついた。
「……っ、重……! 筋肉の塊じゃないの、この人……!」
志乃の肩口に、ラインハルトの熱い息が荒く吹きかかった。彼の瞳はすでに焦点が合っておらず、白目を剥きかけている。極度の低血糖と低体温症。放置すれば、あと数時間で心不全を起こして確実に全滅する。
「女……? すまない……だが……退いてくれ……私は、倒れるわけには……」
「黙って座りなさい! 立ったまま死ぬのが騎士の誇りだとでも思ってるの!? そんなのただの犬死に、損益計算書で言えば完全なる特損よ!!」
志乃はラインハルトの巨体を強引に引きずり、城門の風除けとなる石壁の窪みへと背中を預けさせた。
「全員、武器を置いて座りなさい! 今すぐ温かい物資を持ってくるから、一歩も動かないで! いいわね!?」
怒声に近い志乃の気迫に圧されたのか、ユーリをはじめとする騎士たちは呆然と武器を取り落とし、雪の上にへたり込んだ。
志乃は踵を返し、城の中庭を猛ダッシュで駆け抜けた。
息が切れ、喉が張り裂けそうに痛む。だが足は止めなかった。
石造りの階段を駆け上がり、廊下を抜け、ウォークインクローゼットの樫の木の扉をくぐる。
カチリ、と暖房の効いた現代の我が家へ帰還した瞬間、志乃は床に置かれた大型スーツケースへ飛びついた。
「冷静になれ、神崎志乃! 物流の基本は『重量制限』と『即効性』よ!」
志乃は自らに言い聞かせた。
クローゼットを通過できるのは「自分一人で持ち運べる範囲」だけ。
生身で抱えられるのはせいぜい十五キロ。だが、キャスター付きの頑丈なスーツケース――ドイツ製の大型リモワ(容量約九十リットル)を使えば、平坦な床と台車搬入ルールを適用して、一度に二十五キロから三十キロの物資を軽々と搬送できる。
志乃はパントリーの扉を全開にし、備蓄していた防災用物資をスーツケースへ次々と詰め込んだ。
選定基準は三つ。
第一に、火や電気のない現場ですぐに温められる「発熱剤付きの防災ミリタリー戦闘糧食(レスキューフーズ系)」。紐を引くだけで生石灰と水の化学反応により蒸気が噴き出し、熱々の食事が完成する加熱式弁当だ。
第二に、極限の飢餓に即効でカロリーを届ける大塚製薬の「カロリーメイト(ブロック&ゼリー)」。
第三に、電気ケトルで急速沸騰させた熱湯を注ぎ込んだ、真空断熱サーモスマグボトル数本と、使い捨てのプラスチック製スプーン、除菌ウェットティッシュ。
「よし……重量は二十四キロ! キャスターよし、重心バランスよし!」
ジッパーを一気に締め切り、スーツケースのハンドルを引き伸ばす。
志乃は階段昇降用のアルミステップを足元に構え、ガラガラと車輪を鳴らしながら、再び樫の扉の向こう――凍てつく異世界の廃城へと突き進んだ。
*
城門の石壁の陰で、騎士たちは死を待つように身を寄せ合っていた。
雪は次第に粒を大きくし、彼らのボロボロの鎧の上に薄く積もり始めている。
「ユーリ……」
壁に寄りかかったラインハルトが、微かに唇を動かした。
「……はい、団長……」
「悪かったな……。お前たちのような若い者を……こんな見捨てられた辺境に巻き込んで……。帝都の騎士団に残っていれば……飢えることなど……なかったものを……」
「やめてください……。俺は、団長についてくると自分で決めました……。後悔なんて……」
ユーリの瞳から涙が零れ落ち、頬の途中で冷たく凍りついた。
その時だった。
ガラガラガラガラ――ッ!!
静寂に包まれた中庭の石畳を、聞いたこともない軽快で鋭い回転音が引き裂いた。
騎士たちが驚愕して顔を上げる。
降りしきる雪の向こうから、一人の女性が銀色に輝く奇妙な直方体の箱を転がしながら、猛然とこちらへ突進してくる姿が見えた。
「全員、生きてるわね!? 今から配るから、絶対に慌てて飲み込まないこと!」
志乃はスーツケースを石壁の前にピタリと止めると、ロックを解除してガバッと左右に開帳した。
整然と並べられた銀色のアルミパウチ、樹脂製の角型ボックス、カラフルな箱の数々。中世の人間には何一つ理解できない、現代の工業テクノロジーの結晶がそこに詰め込まれていた。
「な……なんだ、その箱は……? 貴女は一体……」
ラインハルトが警戒と困惑の入り混じった目を向ける。
志乃は答えず、スーツケースから取り出した直方体の容器――防災用『発熱式牛丼弁当』を手に取った。
「講釈は後! 胃袋を満たすのが先! ……いい、よく見てて」
志乃は容器の横から飛び出している黄色いナイロン紐を、思い切り真横に引き抜いた。
シュッ――ボシュウゥゥゥゥッ!!
「なっ……!?」
「ひ、火属性の魔導具……!?」
騎士たちから悲鳴が上がった。
容器の底から、けたたましい蒸気の噴出音とともに、純白の熱い湯気が勢いよく立ち上ったのだ。生石灰が水と反応し、容器内部の温度は瞬く間に九十度を超えていく。
凍てつく寒風の中に、突如として立ち込める圧倒的な熱気。
志乃は手際よく十個の牛丼弁当の紐を次々と引き抜き、石畳の上に並べていった。十本の白い湯気の柱が立ち上り、周囲の氷を溶かしていく。
「三分待ちなさい。その間に、まずこれを喉に通して!」
志乃が配ったのは、カロリーメイトゼリー(アップル味)だった。キャップを回して開け、騎士たち一人ひとりの手に握らせる。
「吸い口をくわえて、少しずつ押し出すの。噛む力がないなら、ゼリーで糖分を補給しなさい!」
ユーリがおずおずと銀色のパウチに口をつけ、チューブを吸った。
その瞬間、ユーリの全身がビクンと跳ね上がった。
「……甘い……! リンゴの……果実の味がする……!? 喉に……すっと入って……冷たくない、優しい甘さが……!!」
「う、うまい……! なんだこれ、噛まなくても腹に落ちていくぞ……!」
他の騎士たちも貪るようにゼリーを喉へ流し込み始めた。数日間にわたり固形物を受け付けなかった胃袋に、ブドウ糖と必須ビタミンが急速に染み渡っていく。虚ろだった男たちの瞳に、みるみるうちに生命の光が宿り始めていた。
そして――三分が経過した。
「よし、温まったわよ」
志乃は手袋をはめた手で、湯気を上げる牛丼弁当のフタをパチンと外した。
その瞬間。
冷え切った城門の一角を、暴力的なまでの芳醇な香気が制圧した。
濃口醤油と本みりん、純米酒が織りなす甘辛いタレの香り。じっくりと煮込まれた玉ねぎの甘み。そして何より、脂の乗った柔らかな牛肉が放つ、抗いようのない肉の匂い。
下には、真っ白に炊き上がった国産コシヒカリのふっくらとした熱々の湯気。
「…………っ!!」
騎士たちの喉が一斉に鳴った。
ゴクリ、という唾を飲み込む音が、重なるように響く。
「牛丼よ。牛肉と玉ねぎを甘辛く煮たものをご飯に乗せてある。スプーンを使って、こぼさないように食べなさい」
志乃がプラスチックのスプーンを添えて手渡すと、ユーリは震える両手で容器を受け取り、山盛りの肉と白米をスプーンですくい取った。
そして、たまらず大口を開けて頬張った。
「…………っっっ!!!!」
ユーリの顔がくしゃくしゃに歪んだ。
咀嚼するたびに、柔らかくほどける牛肉の繊維から上質な脂と甘辛いタレが溢れ出し、熱々の白米の甘みと混ざり合って口内を満たす。
パサついた青カビのパンでもない。泥臭い野草のスープでもない。
生まれてこの方、王都の高級宿ですら口にしたことのない、完璧な調和を誇る極上の「肉飯」。
「う……うまい……うまいです、団長……っ!! 温かい……肉が……米が……こんなに……っ、うわあああん!!」
二十一歳の青年騎士が、子供のようにボロボロと大粒の涙をこぼしながら、掻っ込むように牛丼を貪り食った。
他の騎士たちも我を忘れ、無我夢中でスプーンを動かした。誰も言葉を発しない。ただ、熱い飯を胃袋へ流し込む音と、嗚咽だけが響いていた。
志乃は最後に残った特盛の牛丼弁当を手に取り、石壁に背を預けたまま動けないラインハルトの前へしゃがみ込んだ。
「団長さん。あなたも食べなさい」
ラインハルトは、差し出された湯気立つ牛丼を見つめていた。
その黒い瞳が激しく揺れている。
「……私は……部下を守ることもできず……領主様を支えることもできなかった、無能な男だ……。このような……神の供物のような美酒佳肴を……口にする資格など……」
「馬鹿言ってんじゃないわよ」
志乃はピシャリと言い放ち、スプーンに牛肉と白米をたっぷり乗せて、彼の口元へと強引に突き出した。
「部下を守りたいんでしょう? 領民を守りたいんでしょう? なら食べなさい。空腹の兵士が振るう剣なんて、ただの鈍らよ。あなたが倒れたら、あの子たちは誰を信じて生き残ればいいの?」
「志乃……殿……」
「食べなさい。これは命令よ。……はい、口を開けて!」
志乃の凛とした眼差しに射抜かれ、ラインハルトの喉が震えた。
彼は抗うことを諦め、おずおずと口を開いた。
熱々の牛丼が、彼の舌の上に滑り込む。
「…………っ」
ラインハルトの瞳がカッと見開かれた。
噛みしめた瞬間、脳天を貫くような強烈な旨味の奔流。
甘辛いタレが、干からびていた味蕾を激しく覚醒させ、柔らかな牛肉の脂が喉を通って、冷え切っていた胃の腑へ熱い塊となって落ちていく。
熱い。
美味い。
五臓六腑が歓喜の悲鳴を上げ、全身の血管に猛烈な速度で熱い血が巡り出す。
「……ああ……っ」
ラインハルトは奪い取るように容器を受け取ると、無言で、だが凄まじい気迫でスプーンを動かした。一口、また一口。最後の一粒の米、一滴のタレに至るまで綺麗に平らげ、容器が空になった時――。
ズゥン、と重い音が響いた。
ラインハルトが、雪の積もる凍土の上に、両膝を深々と突き立てていた。
「……え? ちょっと、何してるの?」
驚く志乃の前で、ラインハルトは自らの大剣を地面に突き立て、その柄の頭に己の額を押し当てた。
そして――鍛え上げられたその肩を激しく震わせながら、嗚咽を漏らした。
「……飢えと寒さの中で……部下が一人、また一人と倒れていくのを見ながら……私は、自分の無力さに絶望していた……。いっそ敵の刃に倒れ、楽になりたいと……誇り高き騎士にあるまじき弱音を抱いていた……」
男の掠れた声が、雪の降る空へ響いていく。
「だが……貴女は現れ、我が部下の命を救い……この無様な男に、生きるための熱を与えてくださった……」
ラインハルトは顔を上げた。
その黒い瞳から、とめどなく涙が溢れ出していた。しかし、その眼差しには先ほどの死の気配は微塵もなかった。
代わりに宿っていたのは、一人の女性に対する、魂の底からの盲信と、絶対の忠誠だった。
「我が名はラインハルト・クラウゼ。ヴァルハイト騎士団長! 我が剣、我が血、我が肉、我が魂のすべては――今この瞬間より、神崎志乃様、貴女だけのものです!」
ラインハルトは志乃の冷たいスニーカーの爪先に己の額を擦り付け、誓いの言葉を吼えるように紡いだ。
「貴女を害する者がいれば、それが皇帝であろうと、神仏であろうと、我が刃をもって両断いたします! どうか……どうか私を、貴女の生涯の盾としてお使いください……!!」
「だ、団長……!」
完食して息を吹き返したユーリたちも、次々と雪の上に跪き、志乃に向かって一斉に剣を捧げた。
「志乃様……! 我らの命をお救いいただき、ありがとうございます!!」
十本の剣が、志乃の足元に平伏するように並べられる。
「…………」
志乃は空になった牛丼の容器を見下ろし、それから平伏する屈強な美男子たちを見つめ、深々とため息をついた。
(……牛丼十杯とカロリーメイト数箱で、騎士団丸ごと一個が忠犬になっちゃったんだけど……どういうことなの?)
ブラック企業の経理時代、残業代も出さずに社員をこき使っていた経営陣に見せてやりたいほどの、圧倒的かつ安上がりな人心掌握。
だが、志乃の胸中には冷や汗とともに、ある確信が芽生えつつあった。
(……とりあえず、この人たちを餓死させるわけにはいかないわね。そのためには……この領地の『本当の赤字の元凶』を叩き潰さなきゃ)
志乃はラインハルトの肩をポンと叩いた。
「分かったから、全員立ち上がりなさい。雪の上に膝をついてたら、せっかく温まった身体がまた冷えるわよ。……団長さん、アシェル様のところへ案内して。領地の台帳を、一から全部見せてもらうわ」
「ハッ……! 仰せのままに、我が主よ!!」
ラインハルトのあまりにも迷いのない返事が、雪降る廃城の中庭に力強く木霊した。




