第2話:泥水をすする美貌の領主
冷え切った石造りの廊下は、まるで墓場の底のように静まり返っていた。
志乃は手にした充電式LED懐中電灯の光量を一段階上げ、足元を慎重に照らしながら歩を進める。
背後を振り返れば、クローゼットの樫の木の扉は、自ら挟み込んだ頑丈なゴム製ドアストッパーによって十センチほど開いたまま固定されていた。隙間から漏れ出す自宅のダウンライトの温かなオレンジ色の光が、この異様な空間における唯一の命綱だ。
「退路よし。視界よし。……自分の安全確保を最優先。巻き込まれ事故は労災の基本」
小声で業務確認のように呟きながら、志乃は石畳に点々と続く赤黒い染みを追った。
風化した石壁には、湿気と寒気で白く浮き出た硝石の結晶がびっしりとこびりつき、足を踏み出すたびに埃と砂利が擦れる乾いた音が響く。どこか遠くで、ゴオォと不気味な風鳴りが吹き抜けていた。
染みは、廊下の突き当たりにある重厚な両開きの扉の前で途切れていた。
扉の表面には、かつては何かの紋章が彫り込まれていたのだろうが、刃物で削り取られたような深い傷が無数に刻まれ、もはや原型を留めていない。蝶番は歪み、扉はわずかに半開きになっていた。
その隙間から、先ほど耳にした苦悶の呻き声が、今度は途切れ途切れの荒い呼吸音となって漏れ聞こえてくる。
「……っ……ゲホッ、う……」
志乃は息を潜め、懐中電灯の光を直接当てないよう斜め下に向けながら、指先でそっと扉を押し開けた。
そこは、かつて執務室として使われていた広大な部屋だった。
だが、その有様は執務室というより、打ち捨てられた書類のゴミ捨て場に近かった。部屋の四隅には黄ばんだ羊皮紙や破れた台帳がうずたかく積み上がり、天井近くの高い窓はステンドグラスが割れ、冷たい寒風が容赦なく吹き込んでいる。暖炉はあるものの、灰すら残っておらず、凍てつくような冷気が部屋全体を支配していた。
そして――部屋の中央。
脚の歪んだ巨大な執務机の上に、一人の男が折り重なるように突っ伏していた。
「……人、よね……?」
志乃はおそるおそる歩み寄った。
男の背中は激しく波打ち、肩が小刻みに震えている。
身にまとっているのは、上質なビロード地であった名残を感じさせる濃紺の上着だが、袖口は擦り切れ、至るところに泥と埃がこびりついていた。
そして何より、机の周囲を照らした志乃は、思わず息を呑んだ。
男の頭部からこぼれ落ち、埃だらけの羊皮紙の上に広がっていたのは、驚くほど艶やかで、月光をそのまま紡いだかのような白銀の髪だった。
物音に気づいたのか、男がピクリと反応し、重そうに首をもたげた。
「…………誰……だ…………」
掠れ切った、今にも消え入りそうな声。
露わになったその横顔を見た瞬間、志乃の思考が一瞬だけ停止した。
(……え、何この人……?)
絵画から抜け出してきたのかと錯覚するほどの、息を呑むような美貌だった。
彫刻のように鋭く整った鼻梁、長いまつ毛に縁取られた涼やかな目元。年齢は二十代半ばか、二十代後半といったところだろうか。しかし、その肌は死人のように青白く透き通り、頬は極度の飢餓と疲労によって痛々しいほどに削げ落ちていた。唇はひび割れて血が滲み、口元には黒ずんだ吐血の痕が生々しくこびりついている。
男は焦点の定まらない瞳を彷徨わせ、志乃の姿を捉えた。
その瞳は、深海の底のように冷たく澄んだ、だが絶望に濁りきったエメラルド――深い碧眼だった。
「……幻覚……か……? 妙な……身なりの、女……。迎えに来た……死神にしては……ずいぶんと……奇妙だな……」
自嘲気味に口元を歪めようとして、男は激しく咽び泣くように咳き込んだ。
ゴホッ、と吐き出された唾液には、再び鮮血が混ざっている。
「ちょっと、喋らないで!」
志乃は思わず駆け寄っていた。
男の視線が、机の端に置かれた粗末な陶器のカップへと向けられる。指先を小刻みに震わせながら、男はその器を引き寄せようとしていた。
志乃は無意識に懐中電灯でその器の中身を照らし――絶句した。
器の中に波打っていたのは、水などではなかった。
底に茶色い土と砂が沈殿し、表面には濁った油膜のようなものが浮いている、まごうことなき「泥水」だった。
「……っ、胃が……焼けるようだ……水……水を……」
男が震える手でその泥水を口に運ぼうとする。
「駄目! やめなさい!!」
志乃は考えるよりも先に手を伸ばし、男の手首を掴んで器を叩き落とした。
ガシャン、と陶器が石畳に砕け散り、濁った泥水が飛び散る。
「な……にを……する……私の……水を……」
奪われたことに絶望したのか、男の碧眼に涙が滲み、悔しげに志乃を睨みつけようとする。だが、その腕には志乃の手を振り払う力すら残っておらず、糸の切れた操り人形のように力なく机へ崩れ落ちた。
「泥水なんて飲んだら急性腸炎を起こして一発で終わりよ! ストレス性の胃潰瘍で胃壁がやられて吐血してるのに、雑菌だらけの汚水を流し込むなんて自殺行為以外の何物でもないわ!!」
志乃は怒鳴りつけていた。
脳裏に、かつてのブラック企業の光景が蘇っていた。
深夜残業が続き、胃に穴が空いて血を吐きながら「納期が……」と這いずり回っていた経理の後輩。過労で倒れ、救急搬送された同僚。理不尽な環境で極限まで追い詰められた人間特有の、あの自己破壊的な自暴自棄の匂い。
目の前のこの美青年は、まさにそれと同じ目をしていた。
「……放って……おけ……。どうせ……我がヴァルハイト領は……終わりだ……。領民を飢えさせ……金も……麦も底をつき……私一人、生き恥を晒して……何になる……」
アシェル・フォン・ヴァルハイト。
机の上に散乱する書類の署名に、その名が記されていた。領主。この廃城と荒れ果てた土地の、すべての責任を背負わされた男。
「終わりにするかどうかは、人間らしい食事を摂ってから決めなさい!」
志乃はきっぱりと言い放つと、男の肩を掴んで椅子に深く座らせた。
「そこで一歩も動かないで。すぐ戻るから!」
志乃は脱兎のごとく廊下を駆け戻った。
石畳を蹴り、冷気の通路を抜け、開け放たれた樫の扉をくぐり抜ける。
一瞬で、新居のウォークインクローゼットの温かな空気が肌を包んだ。
「落ち着け、神崎志乃。深呼吸。棚卸しと初動対応よ」
胸を強く押さえながら、志乃はクローゼットを飛び出し、キッチンのパントリーへ急行した。
引っ越しの際に万が一の災害用として買い込んでおいた備蓄棚を開く。
選んだのは三点。
第一に、大塚製薬の「経口補水液OS―1」の五百ミリリットルペットボトル。脱水症状と電解質の補給にはこれが最強だ。
第二に、味の素の「白がゆ」レトルトパウチ。刺激物が一切入っておらず、弱り切った胃腸に最も優しい流動食。
第三に、熱伝導率の良いステンレス製のスプーンと、パウチを温めるための大きめの耐熱マグカップ、そして電子レンジの横にあった電気ケトル。
志乃は電気ケトルのスイッチを押し、わずか一分で沸騰した熱湯を耐熱マグカップに注ぐと、そこにレトルト粥のパウチを袋ごと突っ込んだ。
「よし、これで現地に着く頃には人肌に温まるはず」
さらに清潔なタオルを二枚掴み、OS―1のボトルと、マグカップに浸したパウチ、スプーンを小さなトートバッグに詰め込む。
準備にかかった時間は、わずか三分。
志乃は再びクローゼットの奥の樫の扉へと飛び込んだ。
*
再び冷気と埃の漂う執務室へ駆け戻ると、アシェルは先ほどと同じ姿勢のまま、机に額を押し付けて荒い息を吐いていた。
「アシェル様、戻ったわよ。顔を上げて」
志乃はトートバッグを机に置き、タオルで彼の口元の血糊を優しく拭い取った。
アシェルがビクリと身を竦める。他人に触れられること自体が久しぶりであるかのように、その銀髪が怯えたように揺れた。
「……貴女は……本当に、死神ではないのか……?」
「経理事務の経験が十年あるだけの、ただの無職よ」
志乃はキャップを開けたOS―1のボトルの口に、清潔なタオルの端を当てて少し湿らせると、アシェルのひび割れた唇にそっと押し当てた。
「まずはこれ。いきなりガブ飲みしちゃ駄目。唇を湿らせて、少しずつ舌の上で転がすように飲み込んで」
アシェルは警戒するように眉を寄せたが、乾ききった喉が本能的に水分を求めていたのだろう。恐る恐る舌を伸ばし、ボトルの口から滴る透明な液体を含んだ。
その瞬間、彼の碧眼が大きく見開かれた。
「……っ!? な……んだ、これは……? 水……なのか? ほんのり甘く……塩気があって……すっと、身体の芯に染み込んでいく……」
「電解質とブドウ糖が計算された経口補水液よ。細胞が干からびてる証拠ね。ほら、もう一口」
志乃がボトルを少し傾けると、アシェルは喉を小さく鳴らしながら、ゴクリ、と液体を飲み下した。
泥水とは違う、純粋で清潔な水分。
それが食道を通って荒れ狂う胃袋へ届いた瞬間、アシェルの全身から張り詰めていた強張りが抜け、深く長い吐息が漏れた。
「あ……ああ……喉が……焼けるようだった胸が、静まっていく……」
「よし、水分が通ったわね。次はこれよ」
志乃は耐熱マグカップから引き揚げたレトルト粥のパウチの封を切り、スプーンでひとすくいした。
湯気とともに、ふわりと炊きたての米の甘い香りが冷たい執務室に広がった。
異世界のこの地には存在しない、日本の精白米が放つ、混じりけのない純白の湯気。
「……な、何の匂いだ……? 白く輝いている……麦の粥ではないのか……?」
「米のお粥よ。余計な味付けは一切なし。塩分もごく微量。胃潰瘍の人間にはこれが一番の薬なの。ほら、あーんして」
「あ……あー……?」
名門貴族としての誇りが一瞬だけ抵抗を示したのか、アシェルの白い頬が屈辱と羞恥で微かに朱に染まった。二十七歳の大人の男が、見知らぬ異国の女に口移しのように食事を与えられるなど、正気の沙汰ではない。
だが、彼の肉体はすでに限界を突破していた。
志乃がスプーンを唇に近づけると、立ち上る温かな香気に抗えず、アシェルはおずおずと薄い唇を開いた。
人肌に温められた、トロトロの白粥が、アシェルの舌の上に滑り込む。
「…………っ!!」
アシェルの身体が硬直した。
噛む必要すらないほど滑らかに裏ごしされた米粒が、優しく舌を包み込み、噛みしめるほどに穀物本来の上品な甘みが口いっぱいに広がる。
ざらついたライ麦のふすまも、砂利の混ざった泥の臭みも、青カビの酸味も何一つない。
ただひたすらに温かく、清らかで、慈悲深い穀物の塊。
ごくり、と喉が鳴った。
温かな粥が胃の腑へと落ちていった瞬間、キリキリと引き絞られるようだった痛みが、まるで奇跡のようにじんわりと解けていく感覚に、アシェルは息を呑んだ。
「……うそ……だろ……。こんな……こんなに温かくて……優しい食べ物が……この世にあるのか……?」
「あるわよ。日本の食品加工技術を舐めないで。はい、もう一口」
「……ん……っ」
二匙目。三匙目。
アシェルはもう、拒むことすら忘れていた。
志乃がスプーンを差し出すたびに、素直に唇を開き、貪るように、だが壊れ物を慈しむようにゆっくりと粥を味わい、飲み込んでいく。
一口ごとに、死人のようだった頬に微かな赤みが差し、冷え切っていた指先に温かな血が巡り始めていた。
やがて、パウチの半分ほどを食べ終えたところで、志乃はスプーンを止めた。
「はい、今のところはここまで。急に全部食べたら、縮みきった胃がびっくりして戻しちゃうからね。残りは一時間後にまた温めてあげる」
「あ…………」
名残惜しそうにスプーンを見つめたアシェルだったが、志乃の言葉に従い、静かに口を閉じた。
そして――。
ふと、アシェルの長いまつ毛が震えたかと思うと、その大きな碧眼から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「えっ!? ちょっと、どこか痛む!? 胃が刺激された!?」
志乃が慌てて身を乗り出すと、アシェルは首を横に振った。
ポタポタと、埃だらけの羊皮紙の上に涙の染みが広がっていく。彼は両手で顔を覆い、肩を激しく震わせながら、子供のように泣きじゃくり始めた。
「……すまない……すまない……。ただ……温かくて……」
絞り出すような、掠れた嗚咽。
「父が死に……莫大な借金を背負わされ……領民たちに配る麦すら底をつき……。私は……領主失格だ。皆が飢えているのに、私だけが何かを口にすることなど許されないと……そう思って……。喉が渇けば、窓から吹き込む泥水をすすって……早く死んでしまえば楽になれると……そう、思っていたのに……」
泥水をすすりながら、一人で城の暗闇の中で領地の滅亡に怯えていた青年の、張り裂けんばかりの告白。
誇り高き貴族の仮面が完全に剥がれ落ち、そこにはただ、責任の重さに押し潰されかけていた一人の不憫な青年がいた。
「……泥水を飲んで死んだら、それこそ残された領民はどうなるのよ」
志乃は静かに溜息をつき、持ってきた乾いたタオルをアシェルの手に握らせた。
「泣く元気があるなら、まだ大丈夫。……とりあえず、最悪の『命の損切り』だけは回避できたみたいね」
アシェルはタオルを握りしめ、濡れた瞳で志乃を見つめた。
その瞳の奥には、先ほどまでの絶望と死の気配は完全に消え去っていた。
代わりに宿っていたのは――自分を泥水の底から引きずり上げ、命を吹き込んでくれた名も知らぬ異国の女性に対する、信仰にも似た烈火のような光だった。
「……貴女は……どこの国の……誰なのですか……? 私のような……無力な男に、なぜこれほどの奇跡を……」
アシェルの震える声に、志乃はいつもの冷静な経理の顔に戻り、胸ポケットからボールペンをカチリと鳴らした。
「名乗りが遅れたわね。私は神崎志乃。……とりあえず、あなたの領地の現状を精査しに来た監査役、とでも思っておいて」
その時だった。
ガラン、ガラン、と城壁の彼方から、鈍く不吉な警鐘の音が響き渡ったのは。




