第1話:当選金100億円と、クローゼットの先にある廃墟
午前三時四十二分。
カタカタと乾いたキータッチの音と、電卓のキースイッチを叩く無機質な打鍵音だけが、深夜のオフィスに響いていた。
神崎志乃は、ブルーライトカット眼鏡の奥の濁った瞳で、ディスプレイに並ぶ無慈悲なスプレッドシートを睨みつけていた。目の下にはメイクでは到底隠しきれない濃い隈が張り付き、右の手首には湿布が二重に巻かれている。
今月の残業時間は、今夜の分を足せば百三十時間を突破する。
東証スタンダード上場の某中堅メーカー。聞こえだけはいいが、その実態は絵に描いたような同族経営のブラック企業だった。役員報酬の数字だけが前年比三割増しで跳ね上がる一方で、現場の経理部員は次々と鬱病で倒れ、いつの間にか志乃一人に決算と税務申告のほぼ全行程がのしかかっていた。
「神崎ぃ、まだ終わらんのか? 明日の役員会までにこの修正予算組んどけって言ったろ。お前の仕事が遅いからみんなが迷惑してんだよ」
夕方、そう言い捨てて銀座のクラブへ消えていった経理部長の脂ぎった顔が脳裏をよぎる。殺意すら湧かない。心臓を針で刺されるような鈍痛と、ただ底知れない疲労が、泥のように全身へ沈殿しているだけだった。
「……検算終了。貸借一致。差異、ゼロ」
プリントアウトした試算表に認印を押し、ファイルを閉じる。
志乃はふらつく足取りで給湯室へ向かい、ぬるくなったインスタントコーヒーを口に含んだ。胃がひどく痛む。
ふと、ポケットの中でスマートフォンが微かに震えた。
業務用のチャット通知ではない。個人のプライベート用端末だった。画面を点灯させると、画面上に表示されていたのは、宝くじ購入アプリからの自動通知だった。
『当せん結果をご確認ください』
志乃は無感情に画面をタップした。
年末ジャンボの時期に、友人の真由から「運試しに買いなよ、ネットなら並ばなくていいし」と勧められ、ノリで海外メガ富豪くじの特別代行枠やら年末くじやらをセットで一口ずつ買っていたものだ。どうせ下二桁の数百円が当たって終わりだろう。
画面が切り替わり、当せん金受け取り口座の残高確認ボタンが点滅する。
志乃は機械的に生体認証を通した。
次の瞬間、彼女の網膜に飛び込んできたのは、経理として見慣れた桁数を遥かに逸脱した数字の羅列だった。
『受取可能当せん金総額:¥10,000,000,000』
「……は?」
声にもならない音が喉から漏れた。
志乃は眼鏡を外し、指の腹でまぶたを強く擦った。眼精疲労による幻覚を疑い、もう一度ディスプレイを見つめる。
一、十、百、千、万、十万、百万、千万、億、十億、百億。
ゼロが十個。
海外の超巨大キャリーオーバーくじの特等賞金と国内枠が複合して成立した、天文学的数字。国内の正規銀行代行経由で、確かに志乃の個人名義口座に着金が確定していた。
「…………」
志乃は一度画面を伏せ、洗面台の蛇口を捻って冷水で顔を洗った。
タオルで水滴を拭い、再び画面を見る。
やはり、¥10,000,000,000。
その瞬間、彼女の頭の中で張り詰めていた一本の細い糸が、音を立てて千切れた。
志乃はデスクへ戻ると、Wordを開き、極めて冷静に退職届を作成した。退職代行など使う必要もない。民法第六百二十七条に基づき二週間後の契約解除を明記し、有給消化の申請書と、後任者が絶対に困らない完璧な引き継ぎマニュアルの目次を添えて、プリントアウトした用紙を部長のデスクのど真ん中に糊付けした。
荷物をトートバッグに詰め込み、社用携帯の電源を落としてデスクの引き出しに放り込む。
午前四時十五分。
夜明け前の冷たい外気へ踏み出した瞬間、志乃の背中から鉛の重りが消え去っていた。
*
それからの行動は、元経理OLらしく極めて迅速かつ合理的だった。
まずメガバンクのプライベートバンキング部門を訪れ、担当のファイナンシャルプランナーと弁護士同席のもとで「当せん証明書」の原本を取得。日本の所得税法第九条に基づき、宝くじの当せん金は完全非課税である事実を公的書類として完璧に固めた。税務署からの不当な突撃を未然に防ぐためだ。
その上で、志乃は都内郊外の閑静な住宅街にある、築浅・鉄筋コンクリート造の大型邸宅を現金一括で購入した。
選んだ理由は三つ。
第一に、周囲が高い塀に囲まれ、近隣の視線が一切届かないこと。
第二に、大型の電動シャッター付きガレージがあり、トラックやハイエースを直接乗り入れて荷物の積み下ろしができること。
第三に、大手警備会社(SECOM)の防犯システムが網羅されており、外部からの侵入が物理的に困難であること。
長年の激務と理不尽な人間関係で削り減らされた志乃の心は、完全に乾ききっていた。贅沢なブランド品を買い漁る気力もなければ、高級レストランに通う意欲もない。彼女が何よりも欲したのは、「誰にも脅かされない絶対の安全」と「自立した生活基盤」だけだった。
引っ越しを終えて三日目の午後。
リビングにはまだ開梱していない段ボールが積み上がっていた。
志乃はジャージ姿に髪を後ろで束ね、カッターナイフを手に新居の奥にあるウォークインクローゼットへと入った。
約六畳ほどの広さを持つその空間は、大量の衣類や備蓄品を収納するために設計された部屋だった。志乃はここを「生活物資の集積庫」にするつもりで、ホームセンターで購入した耐荷重スチールラックを壁沿いに組み立てていた。
「……ん? ここ、図面と少し奥行きが違わない?」
メジャーを伸ばしていた志乃は、クローゼットの最奥部、石膏ボードとクロスで仕上げられているはずの壁面に違和感を覚えた。
中央の壁に、不自然な継ぎ目がある。
手を伸ばして壁紙の端を触ると、カサリと紙が剥がれ落ちた。
その下から現れたのは、現代の住宅建材ではあり得ない、重厚な一枚板の「樫の木」だった。
「……何これ。隠し扉? 前のオーナーの悪趣味なリフォーム?」
志乃は眉をひそめた。
黒く錆びついた鉄の取っ手と、古風な鍵穴。だが鍵はかかっていないようで、取っ手を握ると、ズシリとした本物の金属の重みが掌に伝わってきた。
経理として培われた危機管理能力が警鐘を鳴らす。
不審な構造物。建築基準法上の瑕疵の可能性。不動産仲介会社への損害賠償請求の要件が頭を巡る。
だが同時に、扉の隙間から漂ってくる「空気」が、あまりにも異常だった。
新築の匂いでも、埃っぽい屋根裏の臭いでもない。
それは、湿った冷たい石の匂いと、乾いた風に混ざる微かな土煙、そして嗅いだことのない草木の青臭さだった。
「…………」
志乃は無言のまま一度クローゼットを出た。
そしてキッチンから、万が一に備えて「ゴム製の頑丈なドアストッパー」と「大型の充電式LED懐中電灯」、そして手首に巻くスマートフォンストラップを持ってきた。
もし開けた瞬間に閉じ込められたら命に関わる。退路の確保は業務の基本だ。
クローゼットに戻った志乃は、足元にドアストッパーを蹴り込める体勢を整え、意を決して鉄の取っ手を引き下ろした。
ギィィィィ……。
数百年ぶりに動かされたような、重苦しい蝶番の軋み音が静かな部屋に響き渡った。
ひやりとした突風が吹き込み、志乃の前髪を揺らす。
目の前に広がっていたのは、隣の部屋でも、ガレージの裏手でもなかった。
「……嘘でしょ」
志乃は絶句した。
床は無骨に削り出された巨大な石畳。見上げるほど高い天井には、煤で真っ黒に汚れたアーチ型の梁が渡されている。崩れかけた石壁の裂け目からは、灰色の雲が垂れ込める荒涼とした空が見えていた。
志乃は即座に振り返り、クローゼットの内側から持ってきたドアストッパーを樫の扉の根元に力任せに噛ませた。扉が勝手に閉まらないことを手で押して確認する。
懐中電灯のスイッチを入れ、光の筋を前方に伸ばしながら、おそるおそる一歩を踏み出した。
ザッ、と靴底が乾いた砂埃を踏みしめる。
部屋の中央には、脚の折れた木製の長い机と、ボロボロに引き裂かれたタペストリーが放置されていた。壁の燭台には使い古された蝋燭の残骸がこびりつき、蜘蛛の巣が部屋の隅を覆っている。
志乃は壁の崩れた大窓へと歩み寄り、外を見下ろした。
「……何よ、これ……」
視界いっぱいに広がっていたのは、日本国内では絶対にあり得ない光景だった。
窓の真下に連なるのは、崩壊した城壁と、半ば打ち捨てられた巨大な中庭。城壁の向こうには、痩せ細った灰色の山脈がどこまでも続き、麓には粗末な掘っ立て小屋が点々と集まった、限界集落のような貧しい村が見える。
緑はほとんどなく、凍てつくような寒風が吹き荒ぶばかり。
文明の利器を示す電柱も、舗装された道路も、車のヘッドライトも、何一つ見当たらない。
胸ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を確認する。
当然のように、アンテナピクトは「圏外」。
時刻は午後四時を指しているが、この空の暗さと冷気は、まるで冬の夕暮れのようだった。
「中世の……廃城? テーマパークにしては風化の仕方がリアルすぎる……」
志乃はこめかみを押さえた。
普通ならパニックを起こすか、夢だと頬をつねる場面だろう。
だが、月百三十時間の残業を耐え抜き、理不尽の極みの中で決算書をまとめ上げてきた元ブラック企業の経理OLの脳細胞は、驚くほど冷静に現状を分解し始めていた。
事実一:自宅のクローゼットの奥が、未知の空間に物理的に直結している。
事実二:扉を開放したままストッパーを噛ませておけば、いつでも現代の自宅へ即座に退避できる。
事実三:この場所は現代日本ではなく、電気も通信網も通じていない中世風の異世界、あるいはそれに類する閉鎖環境である。
事実四:自分の銀行口座には、使い切れない百億円の資金と、自宅ガレージという無敵の補給基地が存在する。
「……とりあえず、不法侵入で警察を呼ばれるリスクは低そうね。そもそも法律が通じている気配すらないわ」
志乃は独り言を呟き、懐中電灯で足元を照らし直した。
砂埃に覆われた石畳の上に、新しい痕跡を見つけたからだ。
誰かが引きずったような、かすかな足跡。
そして、石畳に点々と落ちている、赤黒く乾いた染み。
「……血痕?」
志乃は息を呑んだ。
足跡は、部屋の奥へと続くアーチ状の崩れかけた扉の先へと続いていた。
逃げるべきか。
安全を考えるなら、今すぐクローゼットに戻って樫の扉を閉め、鍵を南京錠で三重にロックするべきだ。関わる義理など何一つない。
だが、冷たい風に乗って、奥の通路から微かに聞こえてきたのだ。
「…………う……っ…………」
絞り出すような、今にも途切れそうな、人間の苦悶の呻き声が。
志乃の脳裏に、激務で倒れ、救急搬送された同僚たちの姿が一瞬だけ重なった。
「……はぁ。損益計算的には完全に大赤字の行動ね」
志乃は自嘲気味に呟きながらも、懐中電灯を握り直し、足跡の続く暗がりへと慎重に歩みを進めた。
滅亡寸前の極貧領地と、そこに生きる男たちの運命が、一人の元経理OLの手によって激変しようとしていることなど、この時の彼女はまだ知る由もなかった。




