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当せん金100億で滅亡寸前の極貧領地を買いました 〜札束とホームセンターの力で立て直したら、不憫な美男子たちに執着されています〜  作者: ヒデコ


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第10話:廃城の大掃除と重曹無双

極寒の城門で騎士団への防寒装備と使い捨てカイロの配備を終えた志乃は、ラインハルトを伴って城の奥部へと戻っていた。

黒い高機能防寒ジャケットとヒートテックに身を包んだ騎士団長は、背中と腰に貼られたカイロの強烈な熱に全身を包まれ、先ほどまでの死に瀕した武人とは思えないほど軽快で力強い足取りで志乃の後ろに従っていた。その眼差しは、主の斜め後ろを片時も離れまいとする大型の忠犬そのものである。

「志乃様、城内の見回りでしたら、まずは西翼の居住区へ参りましょう。あちらには古いリネン室や厨房がございます」

「そうね。……でもその前に、執務室の近くで誰か倒れていないかしら? さっきアシェル様が『執事が……』って心配そうに呟いていたのが気になっていたのよ」

志乃が歩みを早め、執務室へと続く薄暗い石造りの回廊を曲がった、その時だった。


「……う、うう……領主様……お許し……ください……」

冷え切った石畳の隅、崩れかけた柱の陰に、丸まった襤褸切れのような人影が倒れていた。

「バルトロ……!?」

ラインハルトが鋭く息を呑み、即座に駆け寄ってその身体を抱き起こした。

そこに倒れていたのは、白髪を乱した一人の老爺だった。

年の頃は六十代前半。ヴァルハイト家に代々仕えてきた老執事、バルトロ(六十二)である。

その身体は痛々しいほどに骨と皮ばかりに痩せ衰え、仕立ての良いはずの執事服は泥と煤で薄汚れていた。唇は青白く乾ききり、意識を失いかけて荒い息を繰り返している。アシェルを一人で支えようと城内を駆け回り、自らの食事を極限まで削った末に、ついに力尽きて行き倒れてしまったのだ。

「しっかりしろ、バルトロ! 私だ、ラインハルトだ!」

「だ、団長……どの……? ああ……申し訳、ございませぬ……。領主様に……温かい白湯の一杯すら……運んで差し上げられず……。私は……執事失格……でございます……」

「喋るな、息を整えろ!」

焦るラインハルトを制し、志乃が膝をついた。

「ラインハルト、その人の頭を少し高くして支えてあげて。気道を確保するのよ」

「ハッ!」

志乃は手早くビジネスリュックを開いた。

買い出しの際、万が一の高齢者や病人用として、ホームセンターに隣接する大型ドラッグストアの介護・シニア用品コーナーで仕入れておいた「救急物資」を取り出す。

選んだのは二点。

第一に、大正製薬のリポビタンD(タウリン・ビタミンB群配合の滋養強壮ドリンク)。

第二に、医療・介護現場で重宝されるネスレの『アイソカルゼリー・ハイカロリー(あずき味)』。わずか六十六グラムの小さなカップの中に、百五十キロカロリーのエネルギーと高良質なたんぱく質が凝縮された、嚥下困難者向けのハイテク食品だ。

「バルトロさん、聞こえるかしら。無理に噛まなくていいから、舌の上にこれを乗せるわよ」

志乃はプラスチックのスプーンで、滑らかなあずき色のゼリーを少量すくい取り、老執事のひび割れた唇の間へそっと滑り込ませた。

バルトロの喉が、微かに動いた。

「……ん……っ……?」

舌の熱でとろりと溶け出す上品なあずきの甘みと、濃厚なミルクのコク。固形物を受け付けないほど弱り切っていた喉を、ゼリーは何の抵抗もなく滑らかに通過し、乾ききった食道へと滑り落ちていく。

「あ……甘い……。これは……小豆の……菓子……?」

「一口ずつ、ゆっくり飲み込んで。はい、もう一口」

志乃は丁寧にスプーンを運んだ。スプーン五杯分を飲み下したところで、茶色い小瓶のキャップをひねり、栄養ドリンクの黄金色の液体をスプーンに垂らして口元へ運ぶ。

「これは滋養強壮の薬よ。少し独特な匂いがするけれど、ビタミンがたっぷり入ってるわ」

ゴクリ、と喉を鳴らした瞬間、バルトロの落ち窪んでいた瞳がカッと見開かれた。

カシスとパイナップルを思わせる独特の甘酸っぱい刺激が、乾いた口腔を潤し、胃の腑へ到達した瞬間から、カーッと熱いエネルギーが四肢の末端へと駆け巡り始めたのだ。

「な……なんという、強烈な薬効……! 腹の底から……力が……湧いてまいります……!」

数分前まで死に体だった老執事の肌に、みるみるうちに赤みが差し、荒かった呼吸が穏やかに整っていく。

バルトロはラインハルトの腕から自力で身を起こすと、信じられないものを見るように己の震える両手を見つめ、それから志乃の前へ両手をついて深々と平伏した。

「あ、貴女様は……? まさか……天から舞い降りられた、慈悲深き女神様であらせられますか……?」

「ただの元経理OLよ。……それよりバルトロさん、少し落ち着いた?」

「は、はい……! まるで十歳も若返ったかのように、身体が軽く……! しかし、何たる無礼を……! 先代様よりヴァルハイトの家督をお預かりする身でありながら、見苦しい醜態をお見せいたしました……!」

バルトロは床に額を擦り付け、恥じ入るように声を詰まらせた。

そこへ、騒ぎを聞きつけたアシェルが執務室から姿を現した。すっかり体力を回復し、志乃が支給した黒いワークジャケットを羽織った若き領主が、驚愕して駆け寄る。

「バルトロ! 無事だったのか……!」

「おお、アシェル様……! ご無事で……! ああ、しかしこの城の有様は……! 先代様が遺された由緒ある居城を、このような薄汚れた廃墟にしてしまい、申し訳ございませぬ……!」

すすり泣く老執事の背中を見下ろしながら、志乃はゆっくりと立ち上がり、腕を組んだ。

「……謝る必要なんてないわ、バルトロさん。飢えと寒さの中で、あなた一人でこの広大な城を維持できるわけがないもの」

志乃の視線が、大広間の天井と石壁、そして曇りきったステンドグラスへと向けられた。

数百年の歴史を持つ石造りの城。だが、その壁面は暖炉から吹き出した煤と油煙で真っ黒に変色し、床の石畳には乾いた泥と埃が分厚く堆積している。蜘蛛の巣が梁を覆い、割れた窓からは隙間風が吹き込み、湿気とカビの不快な臭いが充満していた。

これでは、いくら温かい食事を摂っても、空気感染による呼吸器疾患や皮膚病の温床になるのは時間の問題だ。

「アシェル様、ラインハルト、そしてバルトロさん」

志乃は眼鏡のブリッジを押し上げ、全員を見渡した。

「借金取りを追い払い、防寒具を整えた。……次にやるべきことは決まっているわ。今夜から、この城の『徹底的大掃除大作戦』を決行します!」

「お……大掃除、でございますか……?」

バルトロが目を丸くする。

「ええ。埃と煤にまみれた城で暮らしていては、心まで荒んでいくわ。衛生環境の改善は、業務効率化と健康維持の基本中の基本。……現代の化学の力で、この城を新築同然に蘇らせてあげるわよ!」


*

志乃は一度クローゼットへと戻り、ガレージに運び込んであった「清掃用特殊資材」を、階段昇降台車を使ってピストン輸送した。

大広間にずらりと並べられた現代の資材の数々。

・業務用重曹(炭酸水素ナトリウム)五キロ入り×四袋。

・セスキ炭酸ソーダの特大パック。

・クエン酸粉末ボトル。

・激落ちくん(メラミンスポンジ)の特大キューブブロック三箱。

・手動蓄圧式高圧ガーデンスプレー噴霧器(五リットル)×三台。

・デッキブラシ五本、伸縮式アルミ柄の水切りワイパー三本。

・マイクロファイバークロス五十枚入りパック×二箱。

・業務用ゴム手袋十組。


大広間に招集されたのは、アシェル、バルトロ、そしてラインハルト率いる十名の騎士たち。

全員が黒い防寒インナーとワークウェアに身を包み、カイロの温もりで体力も気力も満ち溢れている。

「志乃様、この白い粉末の山は一体……? 何かの錬金薬でしょうか?」

ラインハルトが重曹の大袋を覗き込み、不思議そうに眉をひそめた。

「これは『重曹』と『セスキ炭酸ソーダ』よ。弱アルカリ性の性質を持っていて、油汚れや皮脂、酸性の煤をドロドロに分解してくれるの。そしてこっちの酸っぱい粉は『クエン酸』。アルカリ性の水垢やアンモニア臭を中和して分解するわ」

「……酸と、アルカリ……?」

アシェルがポカンと呟く。中世の貴族や騎士たちにとって、汚れ落としとは「砂で擦る」か「動物性油脂の粗悪な石鹸で泡立てる」程度の認識しかない。

「掃除の極意はね、力任せに擦ることじゃないの。『汚れの性質の逆の性質を持つ薬品をぶつけて、化学反応で中和して浮かせる』ことよ!」

志乃は手際よくゴム手袋をはめ、カセットコンロで沸かしたぬるま湯をバケツに注ぐと、そこに重曹とセスキを豪快に投入してかき混ぜた。

「水温四十度前後が一番反応が良いわ。……これを、手動蓄圧式噴霧器のタンクに注入する!」

タンクのフタを閉め、上部の大型レバーを両手で握る。

シュコッ、シュコッ、シュコッ、シュコッ!

リズミカルにピストンを二十回ほど押し込むと、タンク内部の空気圧が限界まで高まり、パンパンに張った手応えが返ってきた。

「ラインハルト、見てて」

志乃はノズルの先端を、油煙で真っ黒に染まった暖炉の上の石壁へと向け、トリガーを引いた。


プシャァァァァァァッ――!!


鋭い噴射音とともに、霧状の重曹・セスキ溶液が、猛烈な水圧で石壁に吹き付けられた。

「なっ……!?」

騎士たちからどよめきが上がった。

溶液が吹き付けられた瞬間、数百年の歴史が堆積した頑固な黒い煤が、見る見るうちに茶色い泥水となってドロドロと浮き上がり、石壁の表面を滑り落ち始めたのだ。

「浮いてきたわね。……そしたら、これを使うのよ!」

志乃が手渡したのは、白い直方体のスポンジ――『激落ちくん(メラミンスポンジ)』だった。

「水を含ませて、軽く撫でるように擦りなさい。研磨剤も洗剤も要らないわ。ミクロの網目構造が、石の微細な隙間に入り込んだ汚れを根こそぎ掻き出してくれるから」

ユーリがおずおずとスポンジを受け取り、重曹液で濡れた石壁を擦ってみた。

キュッ、キュッ。

力を入れたわけでもないのに、スポンジが一撫でされた部分だけ、まるで魔法のように真っ白な大理石の地肌が露出した。

「……う……うわああああっ!?」

ユーリが絶叫した。

「白くなった……!? 石が……石が新品みたいに光ってるぞ!!」

「本当だ……! 削り取っているんじゃない、汚れだけが消えている……!?」

騎士たちが蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

「騒いでないで手を動かしなさい!」

志乃が一喝した。

「ラインハルトとユーリは噴霧器の加圧担当! 石壁全体に満遍なく重曹水を吹きかけなさい! 他の騎士たちはデッキブラシで床の石畳をブラッシング! アシェル様とバルトロさんは、水で濡らしたマイクロファイバークロスで浮いた汚れを拭き取る係よ!」

「ハッ……!!」

「承知いたしました、志乃様!!」

男たちの目が、一斉に狩人のように鋭く輝いた。


そこからは、まさに熱狂のるつぼだった。

シュコシュコと響く噴霧器の加圧音。

プシャァァッと吹き荒れる高圧ミスト。

ガシガシガシッ!と、鍛え抜かれた騎士たちの筋力で振るわれるデッキブラシの快音。

重曹とセスキが分解した黒い汚水が、石畳の上を川のように流れていく。それを水切りワイパーで一気に排水溝へと掻き出すと、現れたのは、かつてこの城が建造された当時の、息を呑むほどに美しい灰白色の敷石だった。

「楽しい……! なんだこれ、めちゃくちゃ楽しいぞ!!」

副官ユーリが我を忘れてデッキブラシを走らせている。

「志乃様、噴霧器の圧力が下がりました! 私が加圧いたします!」

ラインハルトが驚異的な腕力でピストンレバーを瞬時に押し込み、絶え間なく高圧ジェットを壁面に浴びせ続ける。

アシェルもまた、膝をついてマイクロファイバークロスを握りしめ、必死になって壁を拭き上げていた。白銀の髪を振り乱し、銀の瞳を輝かせながら、汚れが消え去っていく石肌を愛おしそうに撫でる。

「……ああ……こんなに美しい壁だったのか……。私の祖父が誇っていた城の姿が……戻っていく……!」

そして――。

誰よりも鬼気迫る表情でデッキブラシを振るっていたのは、他ならぬ志乃自身だった。

(……消えろ! 消えろ、消えろ、消えろ!!)

ザッ、ザッ、ザッ、ザッ!

一心不乱にブラシを前後させながら、志乃の脳裏にはかつてのブラック企業での日々がフラッシュバックしていた。

深夜残業代の未払い。経理部長の理不尽な怒号。「お前の代わりなんていくらでもいる」という役員たちの冷たい視線。理不尽に耐え、胃を痛め、ただ電卓を叩くしかなかったあの日々の心の澱。

それらが、重曹の泡とともにドロドロに溶け出し、水流によって一気に洗い流されていく。

(……ああっ、たまらないわ!! 汚れが落ちていくのを見るのって、なんでこんなに最高のアドレナリンが出るのかしら!!)

経理事務で溜まりに溜まった十年間分のストレスが、凄まじい勢いで昇華されていく。志乃の額に光る汗は、充実感そのものだった。


広間の清掃が大詰めを迎えた頃、志乃は脚立を立て、大窓のステンドグラスの前に立った。

「最後は、これね」

志乃が手にしたのは、クエン酸をぬるま湯に溶かしたスプレーボトルだった。

窓ガラスにこびりついているのは、雨水に含まれるカルシウムや硝石、鳥の糞などの「アルカリ性汚れ」だ。重曹では落ちないこの汚れには、酸性のクエン酸が特効薬となる。

シュッ、シュッ、とクエン酸水をガラス全体に吹きかけ、五分ほど放置して汚れを中和。

そこへ、水を含ませたメラミンスポンジを軽く滑らせる。

キュッ、キュッ、キュッ……。

「……あ……」

下で見上げていたバルトロが、息を呑んだ。

数十年間、煤と埃で灰色に濁り、外の光をほとんど通さなくなっていたステンドグラス。

スポンジが通り過ぎた後から、ルビーのような深紅、サファイアのような鮮青、エメラルドのような深緑のガラスが、まるで今作られたばかりのように、鮮烈な極彩色を取り戻していったのだ。

志乃は仕上げに、乾いたマイクロファイバークロスで水滴を一気に拭き上げた。


その瞬間――。


東の空から、雲の切れ間を縫って、黎明の柔らかな朝陽が一筋、射し込んできた。

朝の光が、磨き上げられたステンドグラスを真っ直ぐに透過する。

広大な大広間の空間に、目も眩むような虹色の光の帯が幾筋も降り注いだ。

赤、青、金、緑の光のプリズムが、塵一つなく磨き上げられた大理石の床に美しく反射し、純白に蘇った石壁を優しく照らし出していく。

澄み切った空気。

重曹が嫌な臭いを完全に吸着し、微かな柑橘系(クエン酸)の清涼な香りが漂う室内。

そこにあったのは、もはや呪われた廃城などではなかった。

威厳と温もりに満ちた、堂々たる名門貴族の白亜の城砦そのものだった。


「…………っ」

バルトロの膝が、カクリと折れた。

老執事は大広間の中央に崩れ落ち、ステンドグラスから降り注ぐ虹色の光を両手で仰ぎ見ながら、嗚咽を漏らした。

「先代様……先代様……! 見ておられますか……! 城に……我がヴァルハイトの城に、温かな光が戻りました……! 人の住まう、生きた城の息吹が……蘇りましたぞ……!!」

涙で顔をぐしゃぐしゃに歪め、床に何度も額を擦り付けて拝む老執事。

アシェルもまた、胸元を強く握りしめ、美しく輝く大広間を見つめていた。その深い碧眼には、熱い涙が溢れ返り、朝陽を浴びて宝石のように煌めいていた。

「……志乃……」

アシェルが歩み寄り、志乃の手をそっと包み込んだ。

男の指先は、掃除で動かしたおかげで温かく、その眼差しには先ほどの契約の時以上の、熱烈な崇拝と愛慕が宿っていた。

「君は……私の命だけでなく、我が一族の誇りまで……洗い清めてくれたんだね。……ありがとう。本当に……ありがとう……」

ラインハルトもまた、デッキブラシを握りしめたまま直立し、感動に打ち震える黒い瞳で志乃を見つめていた。

「志乃様……我が命、いかようにもお使いください。貴女の歩む道に、一片の汚れも残さぬよう、私が露払いとなりましょう」

「ちょ、大げさよ、みんな」

志乃は照れ隠しに笑い、額の汗を拭った。

「掃除なんて、道具とケミカルの知識があれば誰でもできるわ。……でも、これでようやく第一段階クリアね」

志乃は窓の外を見下ろした。

朝日を浴びる城壁の向こう側――山裾に点在する、煙の上がらない寒々とした城下村。

城の環境は整った。

だが、あそこで暮らす領民たちの困窮は、依然として手つかずのままだ。

「アシェル様、ラインハルト。一息ついたら、次は城下の村へ視察に行くわよ」

志乃の凛とした声に、二人の美男子が力強く頷いた。

領地再生の戦いは、いよいよ城壁の外――限界集落の領民たちの救済へと向かっていくのだった。

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