第11話:領民たちの困窮
一夜明けたヴァルハイト城の大広間には、ステンドグラスから差し込むやわらかな陽光が満ちていた。
数百年の煤と油煙を重曹とセスキ炭酸ソーダで根こそぎ洗い流し、クエン酸で磨き上げた空間は、昨日までの陰鬱な墓場の底のような気配を完全に払拭していた。石畳は清潔な灰白色を取り戻し、微かに漂う清涼な柑橘系の香りが、人の住まう場所としての尊厳を取り戻したことを告げている。
老執事バルトロは、志乃から支給された高たんぱくゼリーと栄養ドリンクですっかり生気を取り戻し、背筋を伸ばして城内の厨房やリネン室の点検に勤しんでいた。
だが、城がどれほど輝きを取り戻そうとも、問題の本丸はまだ何一つ解決していなかった。
「……さて。城の中の掃除と防寒が一段落したところで、本番へ移りましょうか」
執務室の机の前で、志乃はビジネスリュックの肩紐をきゅっと引き締めた。
身にまとっているのは、ホームセンターで調達したネイビーの防寒ワークジャケットと動きやすい厚手のカーゴパンツ。靴は凍結路面でも滑らない耐滑仕様の防寒ワークブーツだ。
その前には、黒いワークジャケットを羽織り、銀髪を整えたアシェルと、漆黒の防刃ジャケットに身を包んだラインハルトが控えていた。二人とも、背中と腰に貼られた『貼るマグマ』の熱によって、血色は極めて良好だった。
「志乃、本当に村へ行くのかい?」
アシェルが、深い碧眼に憂いの色を浮かべて尋ねてきた。
「領民たちの前へ出るのは、君にとって危険かもしれない。……彼らは、極限まで追い詰められている。先代の無謀な借金、終わらない重税、そして毎年のように仲間が飢え死にしていく絶望。領主である私に対しても、いつ刃を向けられてもおかしくないほど、怨嗟が渦巻いているんだ」
「危険だからこそ、この目で確かめなきゃいけないのよ」
志乃は眼鏡のブリッジを押し上げ、きっぱりと告げた。
「帳簿の数字だけを見ていても、現場の実態は分からないわ。どれだけの人間が住んでいて、何を食べていて、あと何日分の蓄えがあるのか。損益計算書の赤字を黒字に変えるには、まず『現場の棚卸し』が鉄則よ。……それに、アシェル様」
志乃は少しだけ口元を和らげ、青年の目を真っ直ぐに見つめた。
「あなたが泥水をすすってまで守ろうとした人たちなんでしょう? 私がその顔を見ないで、どうやってこれからの予算を組むっていうの」
「志乃……」
アシェルの胸が詰まったように、その白い喉が小さく動いた。自分を買い取った債権者でありながら、どこまでも冷静に、そしてどこまでも誠実に領地の現実に踏み込もうとする志乃。その姿に、アシェルはまた一つ、抗いようのない敬愛を深めていた。
「護衛は万全を期します」
ラインハルトが大剣の柄に手を添え、低く鋼のような声で告げた。
「志乃様の髪一本、誰にも触れさせはいたしません。……行きましょう」
*
城門の跳ね橋を渡り、傾斜の急な山道を下っていく。
山肌は凍てつく風に晒され、赤茶けた痩せた土が露出していた。かつては段々畑として開墾されていたとおぼしき斜面も、手入れを放棄されてから久しいようで、ガタガタに崩れた石垣の間から枯草が寒風に揺れているばかりだった。
やがて、山裾に広がる盆地状の平坦地に、城下村の全容が見えてきた。
志乃はその光景を目にした瞬間、思わず息を呑んだ。
「……これが、村……?」
そこにあったのは、「集落」と呼ぶことすら躊躇われる、荒涼たる限界集落の残骸だった。
五十軒ほど並ぶ家屋は、大半が泥壁と粗末な丸太を組み合わせただけの掘っ立て小屋。屋根を覆う藁は腐り落ち、穴の空いた部分にはボロボロの襤褸布や木の板が無造作に打ち付けられている。
何より異様だったのは、その「静寂」だった。
昼前だというのに、煙突から立ち上る煙がほとんど見当たらない。
暖を取るための薪も、煮炊きをするための火も、この村には存在しないのだという事実が、寒々とした空気となって皮膚に突き刺さってくる。
「薪が……ないのね」
「ああ」
アシェルが痛ましそうに目を伏せた。
「山に入って木を伐採する体力すら、領民には残っていないんだ。それに、魔獣の脅威がある山林へ踏み込むこともできず、手近な木々はすでに燃やし尽くしてしまった。今は……倒壊した空き家の柱を崩しながら、辛うじて凍死を免れている状態だ」
志乃たちは泥と霜柱でぬかるむ村のメインストリート――と呼ぶのもおこがましい、轍だらけの狭い小道へと足を踏み入れた。
ザッ、ザッ、と三人の靴底が凍土を踏む音が響く。
その瞬間、周囲の小屋の隙間から、無数の気配が蠢いた。
割れた窓の隙間、半開きになった木戸の陰。
そこから覗いていたのは、人間のものとは思えないほど落ち窪み、血走った、怯えと憎悪に満ちた無数の瞳だった。
「……ひっ……」
「領主様だ……」
「また……また取り立てに来たのか……?」
「もう麦の一粒も残っちゃいねえぞ……子供を……子供をこれ以上奪わないでくれ……!」
小屋の中から、掠れた悲鳴や嗚咽が漏れ聞こえてくる。
道端にうずくまっていた村人たちの姿が、志乃の視界に入った。
身にまとっているのは、汚れと垢で黒ずんだ麻の端切れを幾重にも巻き付けただけの襤褸切れ。足元には靴すらなく、藁を巻きつけた足先はしもやけで赤黒く膨れ上がっている。
小さな子供たちは、あばら骨が皮膚の上から数えられるほど浮き彫りになり、手足は枯れ枝のように細い。
道の隅では、歯の抜け落ちた老人が、凍りついた土を木片で必死に掘り返し、土塗れの雑草の根を引き抜いて、そのまま泥ごと口へ押し込んでいた。咀嚼する力すらないのか、ゴホゴホと激しく咽びながら、泥水をすすって胃へと流し込んでいる。
「…………っ」
志乃は胸の奥を鋭利な刃物で抉られたような痛みを覚えた。
現代日本のブラック企業で「死にそうになりながら働いていた」自分。だが、それはあくまで過労と精神的ストレスの話だ。食べるものがあり、清潔な水があり、温かい風呂があった。
目の前に広がるこれは、純粋な、生物としての「飢餓」と「死」の現場だった。
「……領民たちよ」
アシェルが耐えかねたように前へ進み出ようとした。
だが、その瞬間、小屋の影から飛び出してきた中年男が、泥の塊をアシェルに向けて投げつけた。
「来るなッ!!」
泥はアシェルの足元に落ち、跳ね上がった汚水が彼のズボンを汚した。
「アシェル様! 何をしに来たんだ! ギルバートの豚野郎に俺たちの娘を売り飛ばす算段がついたから、引き渡しに来たのか!? あんたの親父の借金のせいで、俺たちの暮らしはめちゃくちゃだ! これ以上、俺たちから何を奪う気だ!!」
「違う! 私は――」
「下がれッ!!」
ラインハルトが一歩踏み出し、轟くような一喝とともに男の前に立ちはだかった。
防刃ジャケットの下から滲み出る圧倒的な武人の威圧感に、男は悲鳴を上げて腰を抜かした。
「無礼者め! 領主様は貴様らを救うために――」
「やめなさい、ラインハルト」
志乃が静かに、だが決して逆らえない冷徹な声で制止した。
「志乃様……しかし、この者らは領主様に対して……!」
「当たり前の反応よ。責められる筋合いなんてないわ」
志乃は前に進み出た。
村人たちの視線が一斉に、アシェルやラインハルトの背後にいた「見慣れない平民の服を着た黒髪の女」――志乃へと集まった。
その瞳に宿っているのは、好奇心などではない。
深い不信と、警戒と、敵意。
「なんだ、あの女……?」
「異国の服を着ているぞ……帝都の商人か?」
「領主様が連れてきた新しい妾か……? 俺たちが飢えているのに、自分は肥え太った女を侍らせて……!」
無遠慮に投げつけられる棘のある言葉。
ラインハルトが青筋を立てて剣の柄を握りしめたが、志乃は微動だにしなかった。
(当然よね。どこの馬の骨かも分からない女が、身ぎれいな格好をして現れたところで、信じられるわけがない)
ここで「私はあなたたちを助けに来ました」と善人面をして、リュックの中の食糧をばら撒くのは簡単だ。
だが、それは愚策中の愚策だと志乃は知っていた。
無秩序な施しは、群衆のパニックと奪い合いを招き、最悪の場合は暴動に発展する。そして「他人に養ってもらうこと」に慣れた人間は、生活基盤の再建という過酷な労働に向き合えなくなる。
必要なのは同情ではない。
徹底した現実把握と、信頼に足る統治の仕組みだ。
志乃が手帳を取り出し、村の世帯数とインフラの破損状況を記録しようとペンを走らせ始めた、その時だった。
「きゃあああああっ!!」
村の中央、枯れ井戸の広場の方角から、女性の悲痛な叫び声が響き渡った。
「なんだ!?」
ラインハルトが身構え、アシェルが顔色を変える。
「あっちよ、急ぎましょう!」
志乃は手帳をポケットに突っ込み、ぬかるむ泥道を一目散に駆け出した。
広場の中央には、十数名の村人たちが遠巻きに輪を作っていた。
その中心、凍りついた泥の上に、小さな身体が投げ出されていた。
「リディ! しっかりして、リディ!!」
泥の上に膝をつき、必死に少女を抱き起こそうとしていたのは、一人の女性だった。
年の頃は三十代後半。擦り切れた修道服のような粗末なワンピースをまとい、黒髪を後ろで束ねた知的な顔立ちの女性――アシェルの叔母にあたり、この領地で唯一の薬草師にして女医を務めるマーシャ(三十八)だった。
マーシャの腕の中でぐったりと横たわっていたのは、十歳ほどの少女だった。
名前はリディ。
粗末な麻袋を改造したような服を着たその身体は、同年代の子供の半分ほどしかないのではないかと思えるほど小さく、やせ細っていた。
顔は土気色を通り越して真っ白で、唇は乾ききって紫色に変色している。
荒く、途切れ途切れの呼吸。小さく開いた口からは、ヒューヒューと乾いた喘鳴が漏れていた。
「マーシャ先生……リディは……リディはどうなんだ……!?」
近所の母親とおぼしき女性が、泣き崩れながら縋り付く。
マーシャは少女の手首を取り、首筋に指を当てていたが、やがてその表情は絶望に染まり、力なく首を横に振った。
「……駄目よ。熱が……高すぎるわ」
マーシャの絞り出すような声が、冷たい風に乗って周囲へ広がった。
「重度の栄養失調に加えて……右足の傷口から、腐敗の毒(感染症)が全身に回ってしまっている。敗血の熱よ……」
マーシャが少女の右足の裾をめくると、志乃は息を呑んだ。
剥き出しになった脛には、木の枝か何かで深く切り裂かれたような傷口があった。
だが、その傷口は手入れをされることもなく放置されていたため、赤黒くパンパンに腫れ上がり、傷口の中心からは黄色い膿と悪臭を放つ浸出液がドロドロと溢れ出ていた。傷の周囲の皮膚は青黒く壊死しかけ、血管が禍々しい赤紫色となって太ももへ向けて伸びている。
「薬草は……!? 熱を下げる薬草はもうないのかい!?」
「ないわよ……!」
マーシャは悔しさに唇を噛み切り、血を滲ませながら叫んだ。
「解熱の雪見草も、化膿止めの青苔も、先週で全部底をついたわ! ギルバートの商会が薬の流通を止めてから、手に入るのは枯れ草ばかり……! 今の私にできるのは、冷たい泥水で額を冷やすことだけよ! でも、こんな真冬にそんなことをすれば、肺をやられて一瞬で息を引き取ってしまう……!」
マーシャの目から、大粒の涙が零れ落ち、泥の上に落ちた。
「もう……手立てがないのよ。この子は……今夜持たないわ」
宣告だった。
広場を取り囲んでいた村人たちの間に、重く冷たい沈黙が落ちた。
「ああ……また子供が死ぬのか……」
「リディ……あんなにいい子が……」
「神も仏もありゃしねえ……この村は、呪われてるんだ……」
誰も怒声を上げない。取り乱して暴れることすらしない。
ただ、当たり前の日常のように、身近な人間の死を受け入れ、項垂れるだけ。
何人もの家族を、仲間を、子供たちを同じように見送ってきた者たちだけが持つ、底なしの「諦観」の闇が、広場全体を支配していた。
「……私のせいだ」
アシェルが、自らの両手を見つめながら震えていた。
「私が……領主でありながら、薬の一つすらこの村に届けてやれなかったからだ……。子供一人、救えないのか……私は……!」
「アシェル様……」
ラインハルトもまた、奥歯を噛み締め、無力感に拳を震わせるしかなかった。中世の白兵戦でどれほど無敵の剣技を誇ろうと、目に見えない病原菌と高熱の前には、大剣などただの鉄屑に過ぎない。
絶望の波が、リディの小さな身体を呑み込もうとしていた。
少女の瞼がピクピクと痙攣し、呼吸がいよいよ浅くなっていく。心臓の鼓動が、今にも止まりそうだった。
その時――。
ザッ、とぬかるむ泥を踏みしめる音が響いた。
静寂の中、迷いのない足取りで進み出たのは、神崎志乃だった。
「志乃……!?」
アシェルが顔を上げた。
志乃は村人たちの視線を意に介することなく、泥の上に膝をつき、リディのすぐ傍らへとしゃがみ込んだ。
「な……何をする気ですか、貴女は!」
マーシャが警戒の声を上げ、志乃を押し留めようとする。
「この子はもう虫の息です! 見世物ではありません、下がりなさい!」
「見世物にする気なんてないわ」
志乃の声は、驚くほど静かで、そして凛としていた。
志乃は素早く手袋を脱ぎ捨てると、人差し指と中指でリディの頸動脈に触れた。
微弱だが、まだ脈打っている。
額に触れると、まるで焼けた鉄板のように凄まじい熱を発していた。四十度近い高熱。傷口からの細菌感染による急性蜂窩織炎、あるいは敗血症の初期段階。
「重度の脱水、電解質の枯渇、高熱による意識混濁、そして開放創の細菌感染症ね」
志乃は冷静に症状を言語化した。
かつてブラック企業の現場で、不衛生な倉庫作業で釘を踏み抜いて破傷風になりかけた同僚や、過労で高熱を出して倒れた部下たちの応急処置に立ち会ってきた経験が、瞬時に脳内でシナプスを繋ぎ合わせる。
「……諦めるのは、まだ早いわ」
「は……? 何を言って……薬草もないのに、どうやって救うというのよ!?」
マーシャが信じられないものを見るように叫んだ。
志乃は答えず、背負っていた黒いビジネスリュックを勢いよく胸元へ回した。
そして――ジッパーの金属音を響かせ、その口を大きく開いた。
「この世界の薬草が尽きているなら、私の世界の『科学』を使うまでよ」
志乃の手が、リュックの奥深く――現代日本のドラッグストアで買い揃えてきた、最新の医薬品と救急キットへと迷いなく伸ばされた。




