第12話:ゼリー飲料と抗生物質の奇跡
凍てつく泥の上に膝をついた志乃の指先に伝わってきたのは、今にも消え入りそうな、か細く不整脈を打つリディの脈動だった。
少女の胸は小刻みに上下し、喉の奥からはヒューヒューと笛が鳴るような浅い喘鳴が漏れている。四十度近い高熱に晒された皮膚は火傷しそうなほど熱く、乾ききった唇の端には泡立ちかけた唾液がこびりついていた。
「……無駄です、おやめなさい!」
女医マーシャが、悲痛な叫び声を上げて志乃の肩を掴もうとした。
「この子はもう自力で水を飲み込むことすらできないのよ! 薬草を煎じた汁を無理に流し込めば、気管に入って窒息死するだけだわ! 足の毒は……骨の髄まで達しているの! 素人が気休めで弄び、死に際の苦痛を長引かせるなんて……!」
「弄ぶ? 誰がそんなことをすると言ったの」
志乃は振り向くことすらなく、マーシャの腕をピシャリと払いのけた。
その声には、元経理OLが会社の屋台骨を揺るがす致命的な不正会計に直面した時のような、一切の甘えを許さない冷徹な鋭さが宿っていた。
「マーシャさん、あなた医者を名乗るなら、患者が心臓を動かしている間は絶対に『手遅れ』なんて言葉を口にするんじゃないわ。……現場の人間が諦めた瞬間、数字はゼロになるのよ」
「なっ……!?」
言葉を失うマーシャをよそに、志乃は手早く黒いビジネスリュックの底から、プラスチック製の救急医療ボックスを引きずり出した。
日本のドラッグストアとホームセンターの衛生用品コーナーで、万が一の災害や怪我に備えて買い揃えておいた現代の救急物資。
志乃はまず、使い捨ての医療用ニトリルゴム手袋を両手にはめた。パチン、と乾いた音が寒空に響く。
「ラインハルト!」
「ハッ!」
背後で直立していたラインハルトが、即座に志乃の横へ片膝をついた。
「村人たちを下がらせて。埃が舞うと傷口に雑菌が入るわ。アシェル様は、私のリュックから清潔なアルミシートとフリースブランケットを取り出して、リディの身体の下に敷いてあげて。泥の冷気で体力を奪わせちゃダメ!」
「わ、分かった!」
アシェルが素早く動き、銀色の厚手アルミシートを泥の上に広げ、その上にリディの小さな身体をそっと抱き上げて寝かせた。
志乃の指先は、迷いなく動き始めた。
まずは、外傷の処置だ。
右足の脛に刻まれた、木の枝による深い裂傷。傷口は赤黒く腫れ上がり、ドロドロとした黄色い膿が表面を覆い、強烈な腐敗臭を放っていた。
志乃は救急箱から、五百ミリリットルのボトルに入った「医療用精製水」と、茶色いプラスチックボトルの「消毒用エタノール」、そして滅菌ガーゼのパックを取り出した。
「マーシャさん、よく見ていなさい。これが『滅菌』と『消毒』よ」
志乃はまず、精製水を傷口に惜しげもなくドバドバと注ぎかけた。
「ひっ……!? な、何をしているの! そんな貴重な清められた水で傷口を洗い流すなんて……!」
「傷口の泥と壊死組織を洗い流すのは外科処置の基本よ! バイオフィルムと膿を取り除かなきゃ、どんな薬も患部に届かないわ!」
志乃は滅菌ピンセットを使い、傷口の奥に入り込んでいた細かな木の破片と砂粒を手早く掻き出した。
激痛にリディの小さな身体がビクンと跳ね、掠れた悲鳴が漏れる。
「ごめんね、痛いのは今だけだからね……!」
続いて志乃は、消毒用エタノールを染み込ませた脱脂綿をピンセットで掴み、傷口の周囲の皮膚を丹念に清拭した。
ツンとした独特のアルコール臭が、冬の冷気の中に鋭く立ち込める。
「な……なんという、刺激のある匂い……!? アルコール……強い酒の匂いなのか……!?」
マーシャが目を丸くする。中世のこの地では、傷口の消毒といえば粗悪な葡萄酒をぶっかけるか、焼いた鉄を押し当てるくらいしか方法がなかった。高純度のエタノールによる確実な殺菌など、見たことも聞いたこともない。
泥と膿が洗い流され、赤黒い肉が露出した傷口の前に、志乃は一本のチューブを取り出した。
アルミチューブのキャップを逆さにして押し込み、未開封の封膜をブスリと破る。
ドラッグストアで購入した、抗生物質配合軟膏――『テラマイシン軟膏(オキシテトラサイクリン塩酸塩・ポリミキシンB配合)』。グラム陽性菌から陰性菌に至るまで、広範囲の化膿菌を徹底的に叩き潰す、現代薬理学の結晶である。
「これが、化膿止めの塗り薬よ」
志乃は滅菌綿棒を使い、黄色味がかった透明な軟膏を、リディの傷口全体へ分厚く塗り込めた。
さらに、その上から傷口にくっつかない特殊コーティングが施された滅菌ガーゼを被せ、低刺激の医療用サージカルテープで固定。仕上げに、自着性の伸縮包帯をくるくると巻き、優しく脛全体を保護した。
「よし……外側の感染源の封じ込めはこれで完了。次は、内側の戦いよ」
志乃はゴム手袋を脱ぎ捨て、アルコールジェルで自らの指先を清拭すると、リュックのサイドポケットから銀色のパウチ容器を取り出した。
大塚製薬の『オーエスワン(OS―1)ゼリー』、そして森永の『inゼリー・マルチビタミン&エネルギー』。
「リディ、聞こえる? 美味しいゼリーよ。無理に噛まなくていいから、口を開けて」
志乃はリディの顎にそっと触れ、小さく開いた唇の隙間へ、プラスチック製の吸い口を滑り込ませた。
マーシャが息を呑んで見つめる。
「無理よ……意識が混濁している子供に、固形物はもちろん、水だって飲ませられない……誤嚥して気管が詰まるわ……!」
「水じゃないわ、『ゼリー』よ。流動性と粘度が絶妙に計算されているから、嚥下反射が落ちている重症者でも、喉に張り付かずに滑り落ちていくの」
志乃はパウチの腹を指先でごくわずかに押し、とろりとした透明な水分ゼリーをリディの舌の上へと導いた。
冷たすぎず、ほのかに甘酸っぱいリンゴの風味。
リディの乾ききった舌先が、水分を感知してピクリと動いた。
「……ん……っ……」
ごくり。
小さな、だが確かな嚥下音が、静まり返った広場に響いた。
「……の、飲み込んだ……!?」
マーシャが信じられないものを見るように叫んだ。
「奇跡でも何でもないわ。生きるための本能よ」
志乃はゆっくりと、リディの呼吸のリズムに合わせながら、十秒に一口のペースでゼリーを流し込んでいった。
まずは経口補水ゼリーで、失われた水分とナトリウム、カリウムといった電解質を補給。脱水症状による循環血液量の低下を食い止める。
続いて、マルチビタミンゼリーから高濃度のブドウ糖を補給。飢餓によって枯渇していた脳と心臓へのエネルギー源を一気に送り込む。
吸い口から甘いゼリーが喉を通るたびに、少女の乾いた喉仏が健気に上下した。
パウチの半分ほどを飲み終えた頃、リディの荒かった息遣いが、目に見えて落ち着きを取り戻し始めていた。
「そして……最後の一手よ」
志乃は小さなスポイトと、小児用の解熱鎮痛内服薬シロップ(アセトアミノフェン製剤)を取り出した。
イチゴ味の赤いシロップを規定量吸い上げ、リディの口の端からゆっくりと流し込む。
「アセトアミノフェンよ。脳の体温調節中枢に作用して、血管を広げて熱を逃がす。同時に痛みを和らげて体力の消耗を防ぐわ」
薬を飲み干したリディの胸元まで、志乃はフリースブランケットをしっかりと引き上げ、首元を包み込んだ。
「処置終了。あとは……この子の生命力を信じるだけよ」
志乃が立ち上がり、額の汗を拭った。
広場を囲んでいた数十人の村人たちは、何が起きたのか理解できず、ただ息を潜めて倒れた少女と志乃を凝視していた。
処置にかかった時間は、わずか十五分足らず。
だが、その十五分間で行われたことは、中世の常識を何百光年も飛び越えた、現代医学と栄養学の圧倒的な連携プレーだった。
*
それから、二時間が経過した。
リディの容態を見守るため、志乃たちは広場の傍らにある村の集会所――隙間風の吹き込む粗末な板張りの小屋へと移動していた。
室内には、アシェル、ラインハルト、マーシャ、そしてリディの親代わりを務めていた村の長老や大人たちが身を寄せ合っていた。誰もが一言も発しない。重苦しい沈黙の中で、ただ木枠の隙間から吹き抜ける風の音だけが響いていた。
やがて――。
「……あ……」
リディの傍らに張り付いていたマーシャが、小さく息を呑んだ。
マーシャはおそるおそる、自らの震える手の甲を、リディの額へと当てた。
その瞬間、マーシャの全身が硬直した。
「な……に……これ……?」
「マーシャ、どうしたんだ!?」
アシェルが身を乗り出す。
マーシャは信じられないものを見るように、何度も、何度も、リディの額、首筋、そして両頬へと自らの手を滑らせた。
「熱が……引いている……!?」
マーシャの声が、裏返るように震えていた。
「さっきまで……焼けた鉄のようだった額が……冷めているわ……! 汗を……うっすらと良い汗をかいている……! 呼吸も……あんなに浅く乱れていたのに、深く、静かな寝息に変わっている……!!」
「本当か……!?」
村人たちがざわめき、我先にと駆け寄った。
リディの顔からは、あの死人のような土気色が完全に消え去っていた。
頬には、林檎のような健康的な桜色の赤みが差し、紫に変色していた唇は瑞々しい血色を取り戻している。
さらに、マーシャは恐る恐る、右足の包帯の端をめくってみた。
「……っ!?」
包帯を外した瞬間、居合わせた全員が言葉を失った。
傷口の周囲を赤黒く覆い、太ももへ向けて伸びていた禍々しい紫色の血管の腫れが――嘘のように引いていたのだ。
黄色い膿は止まり、傷口の縁は清潔に引き締まり、抗生物質軟膏の油膜の下で、健康な赤い肉肉しい組織が再生を始めようとしていた。
悪臭は完全に消え去り、無機質な軟膏の匂いだけが漂っている。
「う……ん……」
不意に、少女の長いまつ毛が震えた。
リディのまぶたが、ゆっくりと押し開かれた。
その瞳は、濁りのない、澄み切った栗色の輝きを放っていた。
「……マーシャ……おばちゃん……?」
かすれた、だがはっきりとした少女の声。
「リディ……! リディ、目が覚めたのね……!?」
マーシャが少女の手を握りしめ、顔を覆って泣き崩れた。
リディは首を巡らせ、部屋の中にいたアシェルやラインハルト、そして――傍らで腕を組んで立っていた志乃を見つめた。
「……お腹……すいた……。さっきの……あまい、リンゴのやつ……もっと、たべたいな……」
あどけないその一言。
その瞬間、集会所の静寂は、歓喜の爆発によって粉々に吹き飛んだ。
「生きてる……! リディが生きてるぞ!!」
「熱が下がったんだ! 傷が治りかけてる!!」
「神様……神様、ありがとうございます……!!」
村人たちが抱き合い、涙を流して叫んだ。
絶望に支配され、死を当たり前の日常として受け入れていた限界集落の住人たちが、生まれて初めて目の当たりにした「死の淵からの生還」。
その奇跡の中心にいたのは――神崎志乃だった。
「…………っ」
マーシャは膝立ちのまま、ゆっくりと志乃の方へと向き直った。
その瞳からは、とめどなく大粒の涙が零れ落ち、泥と涙で顔を濡らしながら、マーシャは床の板張りに両手を突き、額を深々と擦り付けた。
「……見事な医術……いえ、これは医術などという領域を遥かに超えています……!」
震えるマーシャの告白。
「あんな短時間で熱を下げ、腐敗の毒を完全に消し去る薬など、王都の大聖堂の最高位司祭による奇跡か、太古の失われた神薬でしかあり得ません……! 私は……私は貴女を怪しげな女房と罵り、見下しました……! どれほどの無知と傲慢であったか……!」
マーシャは顔を上げた。その眼差しには、先ほどの敵意や警戒は微塵も残っていなかった。
そこにあったのは、己の信じてきた医術の限界を遥か彼方から打ち砕かれた者の、絶対的な畏怖と、渇望の光だった。
「志乃様……! どうか、どうかこの愚かな私をお許しください! そして願わくば……その奇跡の術を、その薬の理を、私にお教えください! この無知な私を、貴女の弟子としてお使いください……!!」
三十八歳の誇り高き女医が、二十八歳の元経理OLの足元に、弟子入りを乞うて平伏していた。
それに呼応するように、小屋の中にいた村人たちが、そして外で息を呑んで見守っていた数百名の領民たちが、次々と地面に膝をつき、志乃に向かって両手を合わせて祈り始めた。
「聖女様だ……! 城から聖女様が来てくださったんだ!」
「俺たちを……見捨てないでくださったんだ!!」
「聖女様! 志乃様!!」
地鳴りのような歓声と、感謝の祈りが、寒々とした村全体を揺るがすように木霊した。
「…………」
志乃は、平伏するマーシャと村人たちを見下ろしながら、小さく息を吐いた。
(……聖女様、ね。市販のエタノールとテラマイシンとOS―1を使っただけなんだけど)
現代の日本のドラッグストアなら、二千円も出せば誰でも手に入る日用品。
だが、科学と衛生の概念が存在しないこの世界において、それは死者を現世に引き戻す「神の御業」そのものだった。
横を見れば、アシェルが自らの胸元を強く握りしめ、濡れた碧眼で志乃を熱烈に見つめていた。その表情には、自らの選んだ主への狂おしいほどの誇りと愛慕が満ち溢れている。
ラインハルトもまた、大剣の柄を握り直しながら、口元に誇らしげな笑みを浮かべ、村人たちの拝礼をまるで自分のことのように誇らしそうに見守っていた。
「マーシャさん、顔を上げなさい」
志乃は静かに告げた。
「弟子入りなんて大げさなものじゃないわ。でも、消毒と衛生の知識なら、いくらでも教えてあげる。薬の使い方も、帳簿のつけ方と同じよ。正しいルールと用法を守れば、誰だって人の命を救えるようになるわ」
「志乃様……っ!」
マーシャが胸を打たれたように瞳を潤ませる。
志乃は集会所の入り口へと歩み寄り、村人たちの前に立った。
冷たい風が、彼女のネイビーのワークジャケットの裾を揺らす。
だが、その瞳に宿る光は、冬の寒風をものともしないほど力強く、理知的な熱を帯びていた。
「村のみんな、よく聞きなさい!」
志乃の声が、広場全体に凛と響き渡った。
「私は聖女でも神でもないわ。ヴァルハイト領の最高財政執行官、神崎志乃よ! あなたたちの領主アシェル様から、この領地の経営と再建の全権を委託されたわ!」
志乃は腕を組み、集まった領民たち一人ひとりの顔を見渡した。
「私は、あなたたちを見捨てない。借金取りの豚商人は、すでに私が金塊で完全に叩き潰して追い払ったわ! 鉱山奴隷に売られる者なんて、この領地には一人も出させない!」
どよめきが広がった。
「そして、私の最初の仕事は決まったわ」
志乃は人差し指を空へと突き上げた。
「この領地の人間を、誰一人として飢えさせず、凍えさせないことよ! まずは食糧と防寒具を全員に行き渡らせる! 怪我人は全員治療する! だから……生きるのを諦めるんじゃないわよ!!」
おおおおおおおおっ――!!
割れんばかりの歓声が、貧しい限界集落の空へと突き抜けた。
男たちが涙を流して拳を突き上げ、女たちが子供を抱きしめて泣き叫び、老人たちが泥の上に平伏して志乃の名を呼び続けた。
札束(純金)で外敵を粉砕し、ホームセンターの衛生資材で城を蘇らせ、現代の医薬と物流で民の命を救い上げた元OL。
ここに、領民たちの心は完全に掌握され、滅亡寸前だった極貧領地は、新たな統治者のもとで確固たる再生の第一歩を踏み出したのだった。
*
だが――。
歓喜に沸く村の遥か北の空を、志乃は見逃さなかった。
険しい連峰の頂を覆うようにして、不気味に渦を巻き始めた、禍々しい紫色の暗雲。
風の冷たさが、ほんの数分前よりも明らかに一段階、鋭さを増していた。肌を刺すような刺痛。空気中に漂う、氷の魔力を孕んだ異様な重圧感。
(……あれは、何……?)
志乃が眉をひそめた瞬間、背後に立ったアシェルとラインハルトの表情が、一瞬にして凍りついた。
「……嘘だろ……」
アシェルの喉から、血の気の引いた掠れ声が漏れた。
「な、なぜだ……まだ降雪の季節の初旬だぞ……! なぜ、もうヤツが来るんだ……!?」
「ラインハルト、アシェル様、あれは何なの?」
志乃の問いかけに、ラインハルトは奥歯を砕けんばかりに噛み締め、忌まわしきその名を絞り出した。
「……大魔雪嵐……! 十数年に一度、すべての大地を凍結させ、生きとし生けるものを根こそぎ死滅させる……天災の魔嵐です……!!」
歓喜に包まれた領地へ、未曾有の極限サバイバルが、音を立てて忍び寄っていた。




