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当せん金100億で滅亡寸前の極貧領地を買いました 〜札束とホームセンターの力で立て直したら、不憫な美男子たちに執着されています〜  作者: ヒデコ


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第13話:迫り来る大寒波の予報

少女リディが奇跡的な生還を果たしてから、数日が経過していた。

あの日、死の淵から引き戻された十歳の少女は、抗生物質軟膏と解熱剤、そして高カロリーゼリーの恩恵を受け、今では村の小道を元気に小走りで駆け回れるほどに回復していた。足の傷口は綺麗に塞がり、化膿の痕跡すら残っていない。

領民たちの志乃に対する態度は、完全に一変していた。

かつての冷たい警戒と敵意に満ちた視線は跡形もなく消え失せ、志乃が城から村へ視察に降りてくるたびに、村人たちは深々と頭を垂れ、まるで本物の聖女を迎えるかのように温かな敬意の眼差しを向けてくる。女医のマーシャに至っては、志乃から渡された消毒用エタノールと滅菌ガーゼの予備を宝物のように抱え込み、熱心に衛生管理の基礎知識を書き留めるノートを手放さない日々を送っていた。

城内もまた、活気に満ちていた。

重曹とセスキ炭酸ソーダで新築同然に磨き上げられた大広間では、体力を完全に取り戻した老執事バルトロが、しゃんとした背筋で指示を飛ばしている。ラインハルト率いる騎士団も、支給された極暖ヒートテックと防寒ワークウェア、そして使い捨てカイロのおかげで、霜焼けの激痛から解放され、見違えるような精悍さを取り戻していた。

名目上の領主となったアシェルも、志乃の差し入れる温かな食事と消化の良い栄養食によって胃潰瘍の激痛が治まり、頬に健康的な赤みが差していた。

すべてが順調だった。

破滅の淵にあった極貧領地は、ようやく「人が前を向いて生きられる基盤」の第一歩を踏み出したかに見えた。


――だが。

その穏やかな日常を嘲笑うかのように、空の色が変わり始めていた。


*

朝から、肌を刺す冷気の質が異常だった。

執務室の窓辺に立ち、外を見上げた志乃は、思わず眉をひそめた。

空が、暗い。

ただの曇天ではない。大気全体が鉛のように重く沈み込み、息を吸い込むだけで肺の奥がキリキリと凍りつくような刺痛を覚える。

そして何より異様なのは、北方――険しい山脈の稜線を覆い尽くすようにして広がっている、禍々しい紫色の暗雲だった。

渦を巻き、まるで生き物のように蠢く雲の塊。遠雷のような低く不気味な地鳴りが、地を這うように城壁を震わせている。

「……風が、止んでいるわね」

志乃は呟いた。

昨日まであれほど吹き荒れていた乾いた風が、ピタリと止んでいた。

嵐の前の、不気味な静寂。

ブラック企業時代、大型台風が直撃する直前の、あの街全体から生活音が消え去る異様な重圧感と全く同じ匂いがした。

その時、執務室の重い扉が勢いよく開け放たれた。


「志乃様!!」

飛び込んできたのは、ラインハルトだった。

普段は冷静沈着で、何があっても取り乱さないはずの黒髪の武人が、血相を変えて息を切らしている。その背後には、アシェルが蒼白な顔で続いて入ってきた。

「アシェル様、ラインハルト。……外の雲、やっぱりただ事じゃないのね?」

志乃が振り返ると、アシェルは震える唇を噛み締め、力なく頷いた。

「ああ……。見張り台からの報告で、確定した。……観測機器の魔力針が、完全に振り切れている」

「何が来るの?」

「……『大魔雪嵐(フロスト・スコール)』だ」

アシェルの口から紡がれたその単語には、底知れない恐怖と絶望の響きが混ざり合っていた。


アシェルは千切れそうな足取りで執務机へ歩み寄り、羊皮紙の領内地図を広げた。

「十数年に一度……いや、記録によれば三十年に一度の周期で、北の大氷海から吹き荒れる天災級の魔力暴風雨だ。通常の冬の嵐とは根本的に規模が違う。上空の魔力濃度が異常沸騰し、極低温の冷気塊を地上へと叩きつけるんだ」

「具体的には、どんな被害が出るの? 気温は? 継続時間は?」

志乃は手帳とボールペンを取り出し、淡々と質問を重ねた。パニックに陥りかける男たちの中で、彼女のトーンだけが驚くほど冷静だった。

「……外気温は、零下二十度まで急降下する」

アシェルが掠れた声で告げた。

「零下二十度……」

志乃の手がピクリと止まる。

日本の本州ではまず体験することのない領域だ。北海道の厳冬期の内陸部、あるいは冬のロシア並みの極寒。濡れたタオルを振り回せば数秒で凍りつき、素肌を露出していれば数分で凍傷に陥る絶対的な死の領域。

「しかも、猛吹雪が最低でも『三昼夜(七十二時間)』は続く」

ラインハルトが、拳を握りしめながら言葉を継いだ。

「視界は完全にゼロとなり、一歩外に出れば方向感覚を失って行き倒れる。風速は木々を根こそぎ薙ぎ倒すほどに達し、積雪は平地ですら大人の背丈を超える二メートル以上に達する。……この嵐が一度吹き荒れれば、城の外との交通は完全に遮断されるのです」

「……なるほどね」

志乃は手帳に数字をメモしながら、脳内で素早く状況をシミュレーションした。

零下二十度。七十二時間の猛吹雪。積雪二メートル。

現代日本の豪雪地帯であれば、高気密・高断熱の住宅に融雪設備、石油ファンヒーター、そして頑丈なライフラインのインフラがあるからこそ耐えられる数字だ。

だが、この世界のヴァルハイト領は――。

「村の家屋の耐久性はどうなの?」

志乃の問いに、アシェルは顔を覆った。

「……耐えられるはずがない。昨日、君もその目で見た通りだ。村の小屋の大半は、粗末な泥壁と腐りかけた丸太を組み合わせただけの掘っ立て小屋だ。隙間風を防ぐことすらできず、雪の重みに耐えかねて屋根が圧壊するのは目に見えている……」

アシェルの喉から、血を吐くような嗚咽が漏れた。

「現在、城下村で暮らしている領民は、約三百名。……そのうち、頑丈な石造りの家に住んでいるのはごく一部の旧家だけだ。残りの半数――約百五十名が住む粗末な小屋は、嵐の初日の夜に吹き飛ばされるか、雪に埋もれる。そして……その中にいる老人や子供、体力を失った者たちは……」

「一夜にして、凍死するわね」

志乃が感情を交えずに事実を口にすると、アシェルはビクンと肩を震わせた。

「それだけではない」

ラインハルトが、苦渋に満ちた表情で床を睨みつけた。

「運良く家が倒壊を免れ、寒さを耐え抜いたとしても……嵐が去った後に待っているのは『飢餓』だ。三日間、吹雪で閉じ込められれば、備蓄のない家庭は即座に食糧が尽きる。村の食糧庫は底をつき、薪すら枯渇しているのだ。寒さを凌いだとしても、その後の一週間で……弱った者から順に餓死していく……」


静寂が、執務室を包み込んだ。

百五十名の凍死。そして、その後に続く餓死の連鎖。

領民三百名のうち、半数以上が確実に死滅するという絶望的な未来予測。

「……過去の記録にも、あるんだ」

アシェルが、自らの白銀の髪を掻きむしりながら呟いた。

「私の曾祖父の時代、四十年前に一度だけ『大魔雪嵐』が直撃した記録が残っている。その時も……領民の六割が凍死し、死体の山が春まで雪の下に放置された。先代の領主たちも、神に祈る以外に何もできなかったんだ。人間が……抗える災厄ではないんだよ……!」

アシェルは執務机に拳を叩きつけた。

ドスン、と鈍い音が響き、彼の白い拳からツッと鮮血が滲み出る。

「なぜだ……! なぜ今なんだ……! 君が来てくれて、借金が消え、リディが救われ、ようやく……ようやく皆で笑い合える日が来ると思ったのに……! 金があっても、自然の暴力の前には何の意味もない! 薪も食糧もないこの城で、私はまた……民を見殺しにするしかないのか……!!」

美貌の若き領主が、己の無力さに打ちひしがれ、子供のように涙をこぼしていた。

ラインハルトもまた、奥歯をギリギリと噛み締め、大剣の鞘を握る手を白く強張らせていた。

剣技でどれほど敵兵を薙ぎ倒そうと、零下二十度の冷気と猛吹雪を切り裂くことはできない。武人の誇りも、領主の責任感も、自然界の絶対的な暴力の前には何の役にも立たないという冷厳な事実。

二人の男は、再び絶望の闇の底へと突き落とされかけていた。


――その時だった。


カチリ。

静かな部屋に、乾いたプラスチックの音が響いた。

アシェルとラインハルトが、濡れた瞳を上げて志乃を見た。

志乃は、四色ボールペンのノックを戻し、手帳を胸ポケットへと滑り込ませていた。

その顔には、絶望の色など欠片もなかった。

涙も、焦燥も、取り乱した様子すらもない。

そこにあったのは、月末の決算期に数千行の不整合データを前にした時と同じ、極限まで研ぎ澄まされた「元経理OLの冷徹な知性」だった。


「アシェル様、ラインハルト」

志乃は腕を組み、静かに口を開いた。

「感情的になって嘆くのは、すべての手を尽くしてからにしなさい。……泣いてる暇があるなら、電卓を弾きなさい」

「志乃……?」

「自然災害対策はね、『スピード』と『初動』が九割よ。被害が起きてから右往左往するんじゃないの。被害が起きる前に、リスクをゼロにする手を打つ。それが危機管理(BCP)の基本中の基本よ」

志乃は歩み寄り、アシェルの血の滲んだ手をそっと取ると、ポケットから取り出した除菌シートで優しく拭った。

「アシェル様。その嵐がこの領地に完全に到達するまで、あとどれくらいの時間があるの?」

「え……? あ、ああ……」

アシェルは目を瞬かせ、狼狽えながら答えた。

「山脈の魔力濃度の進行速度から逆算して……嵐の先触れが届くまで、およそ『二十四時間』。明日正午には、本格的な暴風雪が吹き荒れ始めるはずだ……」

「二十四時間ね」

志乃の唇に、フッと薄い笑みが浮かんだ。

「十分すぎるわ」

「じゅ、十分……!?」

ラインハルトが素っ頓狂な声を上げた。

「志乃様、相手は天災ですぞ!? あと一日で、一体何ができるというのですか!?」

「何ができるか? ……決まってるじゃない」

志乃は指を一本立てた。

「第一段階。城下の全領民・約三百名を、一人残らずこのヴァルハイト城へ『事前集団避難』させるわ」

「なっ……全領民を、城へ……!?」

アシェルが息を呑んだ。

「そうよ。隙間風だらけの掘っ立て小屋に散らばっているから凍死するの。この城の石壁は頑丈だし、大広間や居住区の広さは十分にある。全員を一箇所に集約すれば、暖房効率も食糧配給の効率も格段に跳ね上がるわ」

「し、しかし志乃様!」

ラインハルトが身を乗り出した。

「城へ集めたとしても、城内には三百人が三日間暖を取れるだけの薪がありません! 石造りの城は冷え込みやすく、薪がなければ大広間ごと巨大な氷漬けの墓場と化してしまいます! それに、三百人が三日間生き延びるための食糧など、今の城の備蓄のどこを探しても――」

「誰が、この城の備蓄を使うと言ったの?」

志乃は遮った。

そして、執務室の奥――あのクローゼットへと続く回廊の扉を、親指でクイと指差した。


「薪がないなら、薪に頼らない防寒資材を持ち込めばいい。食糧がないなら、日持ちしてすぐに温まる食品を持ち込めばいい」

「ま……持ち込む……? どこから……」

「言ったでしょう? 私の拠点よ」

志乃は迷いのない瞳で、二人の男を見据えた。

「現代日本のホームセンターと業務スーパーを舐めないで。あそこにはね、地震や豪雪で被災した何万人もの避難民を支えるための『防災ノウハウと資材』が、山のように積まれているのよ。……断熱アルミシート、ブルーシート、業務用カイロ千個、カセットコンロ、そして大鍋で配る温かい味噌汁と豚汁の具」

「か、カイロ千個……!? あの、騎士団の命を救った火属性の神器を、千個も……!?」

ラインハルトが顎が外れそうなほど口を開けた。

「そうよ。三百人全員に配っても、一人三枚は行き渡る計算よ。……アシェル様、ラインハルト。あなたたちには、これから大至急やってもらいたい仕事があるわ」

志乃は二人の肩をポンと叩いた。

「今すぐ騎士団を動員して、村の全世帯へ避難命令を出しなさい。持ち物は最低限の身の回りの品だけでいい。病人や子供、老人を最優先で城の大広間へ誘導すること。避難完了のデッドラインは明日の朝十時よ」

「し、志乃……君は……」

アシェルが、震える両手で志乃の腕を掴んだ。

その碧眼には、絶望の涙ではなく、眩いばかりの光が宿っていた。

「君は……本当に、私たちを……この領民全員を、救ってくれるのか……? 代々の領主が誰一人として抗えなかった天災から……私たちを……?」

「救うわよ。契約書にサインしたでしょう? 私はこの領地の最高財政執行官よ。私の領民を百五十人も死なせたら、人的資本の大暴落で将来の税収計画が破綻するわ。そんな大赤字、元経理として絶対に許せないの」

志乃はクスリと笑い、アシェルの手を優しく握り返した。

「だから、信じて任せなさい。……寒さと飢えの対策は、全部私が買い付けてくるわ」


「志乃様……っ!!」

ラインハルトが、その場に崩れ落ちるように片膝をついた。

鍛え抜かれた鋼のような肉体を持つ武人が、自らの無力さに打ちのめされながらも、目の前の小柄な女性が放つ圧倒的な神々しさに、魂の底から平伏していた。

「我が命に代えても、明朝十時までに全領民の避難を完了させてみせます! どうか……どうかご無事で……!」

「大げさよ、ちょっと買い物に行くだけなんだから。……それじゃ、行ってくるわね!」


志乃は踵を返し、足早に執務室を出た。

廊下を駆け抜け、クローゼットの樫の木の扉の前へと立つ。

腕時計の針は、午後一時を指していた。

タイムリミットは、明日の正午――残り二十三時間。

「よし……! ここからが本番よ、神崎志乃!」

志乃は樫の扉を押し開き、暖房の効いた現代日本の自宅へと飛び込んだ。

百億円の当せん金と、軽トラック、そして現代日本の物流ネットワークを総動員した、未曾有の大寒波に対する「台車ピストン輸送作戦」の火蓋が切って落とされた。

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