第26話:研究費「無制限」の衝撃
翌朝、冬の澄み切った陽光が、ヴァルハイト城の西翼にある小客室のステンドグラスを淡い虹色に染め上げていた。
暖炉の中では、乾いた楢の薪がパチパチと爆ぜ、部屋全体を春の陽だまりのような温もりで包み込んでいる。
昨夜、現代日本の百均精密工具とボタン電池の暴力的な精度を前にして、文字通り志乃の足元に平伏した天才技師ルカ・レヴィは、清潔なシーツの敷かれた天蓋付きベッドの上で、ぐっすりと泥のような深い眠りを貪っていた。
数日間、氷点下の廃村で飢えと寒さに苛まれ、死の淵を彷徨っていたのだ。温かいスープと柔らかいパンで胃を満たし、底冷えのない部屋で横たわったことで、張り詰めていた神経の糸が完全に解け、十数時間もの間、一度も目を覚まさずに眠り続けていた。
「……ん……っ……」
朝食を載せたトレイを抱えて部屋に入ってきた志乃の足音に、ルカのプラチナブロンドの前髪が微かに揺れた。
少年はゆっくりと身を起こし、まだ覚醒しきらない灰色の瞳をしばたたかせた。
身につけているのは、志乃が支給した黒い長袖のヒートテックと柔らかなスウェットパンツ。首元まで包み込むその温もりに触れ、ルカは昨夜の出来事が夢ではなかったことを確かめるように、自らの両手をじっと見つめた。
「おはよう、ルカ君。よく眠れたかしら?」
志乃が微笑みながら、ベッドサイドの丸テーブルにトレイを置いた。
トレイの上には、香ばしい湯気を立ち上らせる熱々のカフェオレの入ったマグカップと、厚切りのトースト二枚。トーストの表面には黄金色のバターがたっぷりと染み込み、その横には艶やかなスクランブルエッグと、カリカリに焼かれたベーコンが添えられていた。
「……おはよう、志乃さん……」
ルカの声は、昨日の荒々しくトゲのある調子とは打って変わり、どこか掠れていながらも、素直な響きを帯びていた。
「朝ご飯よ。昨日は消化の良いものだけにしたけれど、今朝は少し油分と塩分を足したわ。しっかり噛んで、全部食べなさい」
「……うん。いただきます……」
ルカはおずおずとトーストを手に取った。
サクッ、と小気味よい音が室内に響く。
外側は香ばしく焼き上げられ、内側はもっちりと柔らかい純白のパン生地。そこにじゅわりと溢れ出す濃厚なバターのコクと、ほのかな塩気。
少年の喉がゴクリと鳴り、二口目からは夢中でパンを頬張り始めた。スクランブルエッグの滑らかな舌触りに目を丸くし、ベーコンの肉汁を噛み締め、甘く温かいカフェオレを喉へと流し込む。
五臓六腑に栄養が行き渡るにつれて、少年の陶器のように白い肌に、健康的な桜色の赤みがしっかりと定着していった。
トレイの上を綺麗に平らげ、ペーパーナプキンで口元を拭ったルカは、深く息を吐き出して志乃を見上げた。
その灰色の瞳には、昨夜の狂気じみた興奮の代わりに、どこか痛ましげな、過去の古傷を思い返すような暗い翳りが差していた。
「……志乃さん」
「何かしら?」
志乃はテーブルの向かい側の椅子に腰を下ろし、静かに耳を傾けた。
「……僕が、どうしてあんな廃村で死にかけていたのか……聞かないのかい?」
「話したくなったら聞こうと思っていたわ。でも、あなたが話してくれるなら、しっかり聞くわよ」
志乃の穏やかで、しかし一切の偏見を含まない眼差しに、ルカは小さく唇を噛み締めた。
少年は膝の上で自らの細い指先をぎゅっと絡め合わせ、ポツリポツリと、重い口を開いた。
「……僕は、帝都の生まれなんだ」
ルカの声が、静かな部屋に落ちる。
「平民の孤児だったけれど、幼い頃から魔石の波形を視覚的に感知する特異体質があってね。十歳の時に才能を見出されて、帝国魔導学会の研究施設へ特待生として引き取られた。……最初は、夢のようだったよ。毎日、大好きな魔導具の回路をいじり倒せて、新しい理論をいくらでも検証できたからね」
だが、とルカの表情が苦渋に歪んだ。
「魔導学会は……貴族たちの社交場であり、足の引っ張り合いと名誉欲の吹き溜まりだった。特に僕の直属の上司だった査定官、トビアスって男は……最悪だったよ」
「トビアス……四十八歳の学会査定官ね」
志乃が手帳を開き、以前ゼノから聞いた名前を思い出しながらペンを走らせる。
「知ってるのかい? ……まあいいや。あの男はね、自分では魔導回路の基礎計算一つできない無能なくせに、家柄と根回しだけで出世した男だった。僕たちのような平民出身の若い技師を研究室に囲い込んで、昼夜を問わず無給でこき使い、生まれた成果をすべて自分の名義で学会へ提出していたんだ」
ルカの拳が、ギリギリと震え始めた。
「僕が本当に作りたかったのは、派手な軍事兵器や、貴族のドレスを飾るだけの無駄な魔導宝石じゃなかった。……冬の寒さに凍える民衆のための、小さな魔石一つで何ヶ月も部屋を温められる『暖房魔導器』や、煙を出さずに煮炊きができる『生活用の魔導コンロ』、夜の路地裏を明るく照らして犯罪を防ぐ『省エネ街灯』……そういう、名もなき平民たちの暮らしを根底から楽にするための生活魔導具だったんだ」
「素晴らしい着眼点じゃない。インフラと生活水準の向上こそ、国力の基礎よ」
志乃が力強く肯定すると、ルカは痛ましそうに首を横に振った。
「学会の連中にとっては、そうじゃなかったんだよ。……半年前にね、僕が三年かけて組み上げた『微弱魔力共振理論』の論文を、トビアスが丸ごと奪い取ったんだ。自分の名前で学会の最高査定会議に提出して、巨額の研究助成金を懐に入れた。……僕は怒りで我を忘れて、査定会議の壇上に乱入したよ。トビアスの目の前で、奴の発表した論文の数式の矛盾を全部暴き立てて、机上の空論だと罵倒してやったんだ」
少年の瞳に、当時の屈辱が蘇っていた。
「そしたら……長老たち全員が、トビアスの味方をした。『平民の分際で貴族の査定官を侮辱した』『平民の生活を便利にするなどという下賤な研究は、帝国の威信を損なう異端思想だ』ってね。……僕は学会反逆罪で追放処分にされた。工房は封鎖され、僕が自腹で買い揃えた精密工具も、未完成の試作品も、研究ノートも、すべて学会の財産として差し押さえられた。……着の身着のままで帝都を叩き出されて、行く当てもなく彷徨って……気がついたら、あの雪山の廃村に倒れていたんだ」
語り終えたルカの肩は、小刻みに震えていた。
才能を搾取され、誇りを踏み躙られ、世界のすべてから拒絶された二十歳の天才の、血を吐くような告白。
ラインハルトであれば怒りで抜刀し、アシェルであれば痛ましさに涙を流したであろうその悲劇を前にして――。
パチンッ!!
静かな部屋に、乾いた音が響き渡った。
ルカがハッと顔を上げると、志乃が机の上で四色ボールペンを勢いよくノックしていた。
その黒い瞳の奥に宿っていたのは、同情などという生ぬるいものではなかった。
ブラック企業の理不尽な経営陣に対し、労基署への告発状を突きつける直前のような――極限まで冷徹で、そして獰猛な「怒りの炎」だった。
「……典型的な、下劣極まりない知的財産権の侵害とパワーハラスメントね」
志乃の声は、低く、ドスが利いていた。
「無能な上司が部下の特許を横取りし、正当な異議申し立てをした現場のエースを懲戒解雇で追い出す……。日本のブラック企業でも掃いて捨てるほど見てきたわ、そんなクソみたいな構図」
「志乃……さん……?」
「ルカ君、過去のことはもうどうでもいいわ」
志乃は立ち上がり、机の上へ歩み寄った。
「そのトビアスとかいう盗っ人査定官の首に、法と数字と契約書で特大の鉄槌を下して社会的に抹殺する手はずは、後で私がじっくり整えてあげる。ゼノの情報網と私の経理知識を使えば、奴の不正経理の証拠なんていくらでも暴き出せるわ」
「え……? しゃ、社会的に抹殺……?」
物騒すぎる単語に、ルカが目を丸くする。
「当たり前でしょう。私の部下に手を出した落とし前は、耳を揃えてきっちり払わせるわよ。……でもね、復讐なんてものは、あなたが最高の環境で成功した後の『デザート』に過ぎないの。今、優先すべきはそこじゃないわ」
志乃はリュックのジッパーを開け、中から一冊のノートと、一本のペンを取り出した。
机の上に、スッと滑らせるように置かれる。
それは、現代日本の文房具の最高峰――コクヨの『キャンパスノート(方眼罫・八十枚)』。
そして、三菱鉛筆の『ジェットストリーム・多機能ペン4&1(極細〇・三八ミリ)』だった。
「……何だい、この紙は……?」
ルカの視線が、純白のノートへと吸い寄せられた。
中世の粗悪な羊皮紙とは、次元が違っていた。
手で触れると、まるで赤ん坊の肌のように滑らかで、寸分の引っかかりもない。光に透かしても厚みは完璧に均一で、表面にはコンマ五ミリの狂いもなく、薄いグレーの五ミリ方眼の罫線が印刷されている。
「方眼ノートよ。図面や回路図を引くのに最適でしょう? そしてこっちのペンを使いなさい」
志乃が手渡したジェットストリームのグリップを、ルカはおずおずと握った。
重心が手元に低く設定されたラバーグリップのフィット感。
ペン先を紙の上に滑らせた瞬間――。
サラサラサラ……ッ。
「…………っ!?」
ルカの息が止まった。
力を一切入れていないのに、ペン先が紙の上を滑るように走り、漆黒の極細の線が、インクの滲み一つなく鮮やかに描かれていく。
インク壺に浸す必要もない。インクだまりもできない。指で擦っても乾いて擦れない。
「な……なんだ、この書き心地は……!? 引っかかりが……ゼロだ……! 僕の脳内のイメージが、そのまま紙の上に転写されていくみたいだ……!!」
「最高でしょう? ……さあ、ルカ君」
志乃は腕を組み、少年の目を真っ直ぐに見据えた。
「あなたが本当に作りたいもの。領民の暮らしを豊かにするための生活インフラ。必要な資材、欲しい精密工具、実験用の測定機器、工房の設備……思いつく限りのすべてを、このノートに書き出しなさい」
「……え?」
「予算なら――『無制限』に出してあげるわ」
「…………は?」
ルカの口から、間の抜けた声が漏れた。
部屋の中に、奇妙な静寂が落ちる。
「む……無制限……?」
ルカは呆然と志乃を見つめ返した。その灰色の瞳には、言葉の意味が理解できず処理落ちを起こしたような混乱が浮かんでいる。
「し、志乃さん……からかってるのかい? 無制限って……そんな言葉、この世に存在するはずがないだろ……!」
ルカは身を乗り出し、早口でまくし立てた。
「魔導具の研究がどれだけの金を食うか、あんたは分かってないんだ! 学会時代だって……僕の研究室に割り振られていた年間予算は、銀貨たったの二十枚(約二十万円)だったんだぞ!? 真鍮の板一枚、クズ魔石一つ買うのすら申請書を何枚も書かされて、結局『予算不足』で削られて、僕が食事を抜いて自腹を切っていたんだ! それなのに……無制限なんて……銀貨数百枚、数千枚の話だぞ!?」
少年の必死の訴え。
中世の貧民街や緊縮財政の中で生きてきた彼にとって、銀貨数百枚ですら想像を絶する天文学的大金だった。
だが――神崎志乃という元経理OLにとって、その数字はあまりにも可愛らしすぎた。
「くすっ……」
志乃の喉から、思わず笑みが漏れた。
「……な、何がおかしいんだよ! 僕は大真面目に――」
「ルカ君、あなたの感覚が狂ってるんじゃないわ。その学会の老害どものケチっぷりが異常だっただけよ」
志乃は椅子を引き寄せ、ルカの正面に座り直した。
そして、眼鏡のブリッジを押し上げると、悪戯っぽい笑みを浮かべて、人差し指を一本立てた。
「あのね、ルカ君。私の手持ち資金……個人資産の総額がいくらあるか、教えてあげましょうか?」
「……いくらなんだい? 金貨百枚くらい……?」
「金貨百枚? 冗談でしょう」
志乃は涼しい顔で、衝撃の真実を告げた。
「私の当せん金……コホン、私の自由に動かせる手持ちキャッシュはね、日本円にして――およそ『百億円』よ」
「ひゃ……ひゃくおく……えん……?」
聞いたこともない単位に、ルカが目を白黒させる。
「この世界の通貨に換算してあげましょうか」
志乃は電卓を取り出し、カチャカチャと指先を走らせた。
「純度九十九・九九パーセントのフォーナイン純金インゴット換算で、約一トン。この大陸の帝国金貨の純度とプレミアレートに換算すれば――帝国金貨にして『数万枚』から『十万枚』規模よ」
「じゅ…………っ!?」
ルカの呼吸が、完全に停止した。
帝国金貨、十万枚。
地方の小国家が丸ごと一つ買える金額だ。帝国中央の年間国家予算に匹敵する、個人の持つ資産としては天文学的を遥かに超えた「神の財力」。
「ギルバートの借金八百枚なんて、私の全資産のほんの一パーセントにも満たない端金(はした金)よ」
志乃はさらりと、恐ろしい事実を口にした。
「だから、言ったでしょう? 予算なら無制限に出してあげるって。あなたの研究が、この領地の民を豊かにし、凍死や餓死から救う生活インフラになるなら……金貨千枚だろうが二千枚だろうが、湯水のように使っていいわ。資材が足りないなら現代のホームセンターからトラック単位で買い付けてくるし、工作機械が必要なら分解して運んで現地で組み立ててあげる」
「…………」
ルカの全身から、スウッと血の気が引いていった。
少年の細い肩が、ガクガクと音を立てて震え始める。
嘘ではない。
昨日見せられた、あの傷一つない純金インゴット。
神の工作精度を持つ百均の精密ドライバー。
そして、不可視の直流雷素を安定して放ち続ける銀色のボタン電池。
それらの背景にある「圧倒的な文明と資本の力」を、ルカの明晰な頭脳は、残酷なまでに正確に理解してしまった。
「ただし――条件が一つだけあるわ」
志乃はすっと声音を落とし、冷徹な視線でルカを射抜いた。
「条件……?」
「ええ。あなたの研究目的を、絶対に『兵器開発』にしてはならないということよ」
志乃の言葉には、元経理としての確固たる倫理観が宿っていた。
「人を殺すための剣や、領土を奪うための破壊魔導具の開発には、私は一円(一銅貨)たりとも出資しないわ。あなたのその素晴らしい頭脳は、すべて『生活インフラ』に注ぎ込みなさい。暗闇を照らす街灯、凍える夜を温める暖房、荷物を楽に運ぶための動力、畑を耕すための機械……民衆の生活基盤を底上げすることだけに、あなたの才能を使いなさい。……できるかしら?」
「…………っ」
その問いかけを聞いた瞬間。
ルカの灰色の瞳から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。
兵器ではなく、生活インフラ。
それこそが――かつて帝国魔導学会で「下賤な泥炭研究」と嘲笑され、論文を盗まれ、追放される原因となった、ルカ・レヴィという人間の「魂の原点」だったのだから。
「できる……! できるよ……!!」
ルカの声が、嗚咽となって張り裂けた。
少年は椅子から滑り落ちるようにして、床の敷物の上に両膝をついた。
そして――志乃の足元へと平伏するように身を投げ出し、彼女の服の裾を、両手でぎゅっと握りしめた。
「誰にも理解されなかった……! 僕が本当にやりたかった研究を……あんたは……全額出資してくれるっていうのか……!? 無制限に……僕を信じてくれるっていうのか……!?」
「信じるわよ。あなたの才能を買い取ったんだから」
志乃が優しく微笑むと、ルカは顔を上げ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で志乃を見つめ上げた。
その瞳の奥で燃え盛っていたのは、感謝という言葉では到底足りない、狂おしいほどの歓喜と、魂の底からの信仰の光だった。
「……志乃さん」
少年の掠れた囁きが、静かな部屋に響き渡る。
「あんたが……僕の、生涯の神様だ」
ルカは志乃の服の裾に己の額を押し当て、熱い吐息を漏らしながら誓った。
「僕の脳漿も、この両手も、僕の魂の最後の一片に至るまで……すべて、あんたに捧げるよ。……あんたのためだけに、僕の技術のすべてを使う。あんたの望む世界を……僕がこの手で、具現化してみせるから……!!」
忠誠の騎士ラインハルト。
依存の領主アシェル。
独占欲の商人ゼノ。
そして今――狂信の天才技師ルカ・レヴィが、志乃の圧倒的な資本力と理解によって、完全にその足元へと堕ちた瞬間だった。
「はいはい、分かったから顔を上げなさい。鼻水が服についちゃうでしょ」
志乃は苦笑しながらティッシュペーパーを差し出し、ルカの柔らかな髪をポンポンと撫でてやった。
ルカは赤くなった鼻をすすりながら、大切そうにコクヨのキャンパスノートとジェットストリームを胸に抱きしめ、机に向き直った。
少年の瞳には、かつてないほどギラギラとした、創造の狂気が宿っていた。
「よし! 契約完了ね」
志乃は立ち上がり、窓の外を見渡した。
雪解けの始まったヴァルハイト城の中庭。
夜になれば、依然として中世の深い暗闇が支配するあの空間を、現代のテクノロジーで塗り替える時が来ていた。
「ルカ君、まずは手始めに……中世の夜の暗闇を、文字通り昼間のように消し去る実験から始めるわよ!」
大容量ポータブル電源と、工事用ハイパワーLED投光器。
現代日本の防災インフラが、中世の廃城に「太陽の光」を降臨させようとしていた。




