第25話:百均工具セットとボタン電池
雪深い北の連峰を抜け、ヴァルハイト城の裏門をくぐった頃には、傾きかけた冬の陽が白銀の峰々を淡い茜色へと染め上げていた。
ラインハルトの分厚い背中に背負われていたルカ・レヴィは、城へ到着する直前に完全に意識を手放していた。極度の飢餓と寒さ、そして極限の緊張から解放されたことによる脱力。骨と皮ばかりになった少年の身体は、歴戦の騎士団長からすれば羽毛のように軽く、ラインハルトはその軽さに痛ましげな表情を浮かべながら、志乃の先導に従って城内へと足を踏み入れた。
「アシェル様、バルトロさん! 戻ったわ!」
志乃の声に応じ、大広間から駆け寄ってきたアシェルは、ラインハルトに背負われた煤だらけの青年を見るや否や、目を見張った。
「志乃、無事だったんだね! ……その男が、例の技師かい?」
「ええ。衰弱が激しいわ。暖炉のある温かい客室へ運んでちょうだい。それとバルトロさん、清潔なお湯とタオルを用意して!」
「かしこまりました、志乃様! ただちに手配いたします!」
運び込まれたのは、かつて上級貴族の賓客用として使われていた、西翼の小客室だった。
重曹とセスキ炭酸ソーダによって完璧に磨き上げられた部屋には、暖炉の薪がパチパチと心地よい音を立てて爆ぜ、オレンジ色の柔らかな熱気で満たされている。
石畳の上には、志乃の指示で断熱アルミシートと毛足の長い羊毛の敷物が重ねて敷かれ、足元からの底冷えは完全に遮断されていた。
ラインハルトの手によって、天蓋付きのベッドへと横たえられたルカ。
バルトロが絞ってきた温かい蒸しタオルで、志乃は少年の顔や首筋にこびりついた煤と泥を、手際よく拭き取っていった。
汚れが落ちるにつれて露わになったのは、驚くほど整った、だが痛々しいほどに色素の薄い美少年の素顔だった。
プラチナブロンドの柔らかな髪。透き通るような白い肌。まだあどけなさを残す二十歳の顔立ちには、長年の過労と不遇によって刻まれた、深い影が張り付いていた。
「……ん……っ……」
温かいタオルの温もりに刺激されたのか、ルカの長い睫毛がかすかに震え、重たげな瞼がゆっくりと押し開かれた。
ぼんやりとした灰色の瞳が、天井の美しい漆喰の彫刻を捉え、それから枕元に座る志乃の姿を映し出す。
「……ここは……? 僕、まだ……死んでないのか……?」
「死んでないわよ。誰が私の目の前で部下を死なせるもんですか」
志乃はふっと苦笑し、ベッド脇のサイドテーブルに置かれていた木製のトレイを引き寄せた。
トレイの上には、湯気を立てる大きめのマグカップと、清潔な白いペーパーナプキンに載せられた軽食が並んでいた。
「はい。まずはこれを口にしなさい」
「……何だい、これ……」
「具なしの温かいコンソメスープよ。胃に負担をかけないように、薄味にしてあるわ。それと、ハムタマゴサンドイッチ。少しずつ、ゆっくりよく噛んで食べるのよ」
ルカの鼻腔を、スープの芳醇な香りがくすぐった。
ローストされたチキンと香味野菜の澄んだ旨味が凝縮された、琥珀色のスープ。
少年は震える手でマグカップの両手を包み込み、恐る恐る口をつけた。
「……っ!」
ひと口すすった瞬間、ルカの全身がビクリと強張った。
雑味のない、どこまでも上品で力強いスープの温もりが、冷え切っていた食道を通って、縮み上がっていた胃袋へと滑り落ちていく。
乾ききった五臓六腑が、歓喜の悲鳴を上げながらその滋養を吸い上げていくのが分かった。
「あ……温かい……。塩辛くないのに……深い味がする……」
「次、サンドイッチも食べなさい」
志乃から手渡されたのは、耳を切り落とした純白の角食パンに、薄切りのロースハムと、マヨネーズで和えた滑らかなスクランブルエッグが挟まれたサンドイッチだった。
ルカはおずおずと口を開け、端を小さく齧った。
ふわりとした、絹のようなパンの柔らかさ。
中世の石のように硬いライ麦パンしか知らない少年にとって、それは雲を食べているかのような未知の食感だった。
さらに、噛み締めた瞬間にあふれ出す卵のまろやかなコクと、スモーキーなハムの塩気。それらを優しく包み込む、わずかな酸味のマヨネーズ。
「……う……うまい……!」
二口目からは、もはや理性を保つことなど不可能だった。
ルカは両手でサンドイッチを鷲掴みにし、貪るように口の中へ詰め込んだ。
スープを飲み干し、二切れのサンドイッチをあっという間に平らげる。
空っぽだった胃袋が温かなエネルギーで満たされた瞬間、少年の青白かった頬に、健康的な桜色の赤みがサーッと広がっていった。
「ふぅ……ごちそうさま……」
ルカはベッドの背もたれに身体を預け、長い息を吐いた。
その瞳には、先ほどの廃村での死に瀕した虚ろさは消え、人間らしい知性の光が確固として蘇っていた。
だが、同時に――その灰色の瞳の奥に、強い警戒と疑念が浮かび上がった。
「……それで? 助けてくれて、飯まで食わせてくれた理由はなんだい?」
ルカは毛布を引き上げ、志乃を睨みつけるように見据えた。
「さっきの廃村で言ってたよね。『研究に全額出資する』って。……あんな甘い言葉、信じられるわけがない。学会の連中と同じだろ? 僕の技術をタダ同然で巻き上げて、どこかの大貴族に売り飛ばす気なんだろ」
「相変わらず、可愛げのないひねくれ方ね」
志乃は呆れたように肩をすくめた。
だが、その表情に不快感は微塵もない。
(傷ついた技術者の典型的な自己防衛反応ね。ブラック企業で使い潰されたうちのシステムの同期も、最初はこんな風にトゲだらけだったわ)
言葉でどれほど「信じてくれ」と説得したところで、心に深い傷を負ったエンジニアには何一つ響かない。
技術者を動かすのは、甘言ではない。
いつの時代も――圧倒的な「道具」と「現場の実態」だけだ。
「口先で信じてもらおうなんて思ってないわよ」
志乃は立ち上がり、部屋の中央にある頑丈な樫の作業机へと歩み寄った。
「物を見せるわ。……ルカ君、ベッドから出られるかしら?」
「……出られるよ。子供扱いしないでくれ」
ルカは毛布を跳ね除け、フラつきながらも自力で立ち上がった。
身につけていた襤褸切れのような白衣の代わりに、志乃が貸し与えた黒い長袖のインナーとスウェットパンツを着た少年は、警戒を解かないまま机の前へと進み出た。
机の上には、志乃のビジネスリュックが置かれていた。
今回の物資は、重量にしてわずか数百グラム。
クローゼットの「自力運搬ルール(三十キロ前後)」の制約など、微塵も問題にならない超軽量の品々だ。
だが、そこに凝縮されたテクノロジーの密度は、数百キロの建材を遥かに凌駕していた。
「さあ、見なさい」
志乃はリュックから、次々とアイテムを取り出し、机の上に並べていった。
コトッ、と最初に置かれたのは、手の平サイズの透明なプラスチックケースだった。
ダイソーやセリアといった現代日本の百円ショップ、そしてプロ向けホームセンターで買い揃えてきた『精密ドライバー・六本セット』。
フタを開けると、内部には黒と銀のメッキが施された極細のドライバーが、サイズ順に整然と並んでいた。
プラスの「+00」「+0」「+1」。
マイナスの「−1.2」「−1.8」「−2.4」「−3.0」。
「な……に、これ……?」
ルカの視線が、ケースの中身に吸い寄せられた。
少年はおずおずと手を伸ばし、一番細い「+00」のドライバーを指先でつまみ上げた。
その瞬間、ルカの指がビクリと跳ねた。
「……っ!?」
指先に伝わる、完璧な重量バランス。
柄の末端には、手の平で押し付けながら指先だけで軸を高速回転させられる「回転エンドキャップ」が備えられている。
そして何より――その先端。
顕微鏡で覗かなければ見えないほど微細な、十字の溝。
クロムバナジウム鋼に高周波焼き入れを施し、コンマ数ミリの狂いもなく削り出された刃先は、黒光りする磁気処理が施されていた。
「嘘だろ……? なんだい、この細さは……!? 先端の十字の角が……完全に『直角』を維持している……!? ヤスリの手削りじゃない……どうやって金属をここまで均一に、寸分の歪みもなく削り出したんだ……!?」
「数値制御の工作機械による超精密切削よ」
志乃は平然と告げた。中世の鍛冶技術では、砂型鋳造か職人の手打ち鍛造しかない。公差コンマ一ミリすら制御できない世界において、日本の百均で売られている公差百分の数ミリの量産工具は、それ自体が狂気じみたアーティファクトだった。
「驚くのは早いわよ。次はこちら」
志乃が机に置いたのは、黒い静電気防止コーティングが施された、二本の『エンジニア向け精密ピンセット』だった。
一本は針のように鋭利なストレート型。もう一本は、手元の視界を遮らない鶴首(ツル首)型。
ルカは吸い寄せられるようにピンセットを手に取り、両手で軽く力を込めて先端を合わせた。
――ピタリ。
狂いがない。
先端の接触面積は、一ミリの数分の一。
力を入れて握り込んでも、金属の弾性が完璧に計算されているため、先端がズレて開くことがない。
「あ……あ……」
ルカの口から、掠れた声が漏れ出した。
「髪の毛一本……いや、埃の粒一つすら……狙った通りに摘める……。僕が学会で使わされていた、あの歪んだ真鍮の毛抜きとは……天と地どころの差じゃない……! これがあれば……極小の歯車の軸受けも、魔導回路の微細な金糸も……思い通りに配置できる……!!」
少年の指先が、武者震いのように激しく震えていた。
先ほどまでのダウナーな態度は完全に吹き飛んでいた。
目の前に置かれた道具の圧倒的な性能に、技術者としての本能が、激しい歓喜の悲鳴を上げていた。
「ルカ君、道具を愛しなさい」
志乃は机に片手を突き、真剣な眼差しで少年に告げた。
「道具の手入れと整理整頓ができない職人は三流よ。どんなに素晴らしい頭脳があっても、道具が歪んでいれば生み出される製品も歪むわ。……この工具はね、あなたが大切に使う限り、絶対にあなたを裏切らないわ」
「志乃……さん……」
ルカの灰色の瞳が、潤んだように光を反射した。
学会の長老たちは、道具など「使い捨ての消耗品」としか見ていなかった。予算を削り、粗悪な工具を押し付け、失敗すればすべて現場の技師の腕のせいにしていたのだ。
だが、この女性は違う。
最高峰の精度を持つ道具を惜しげもなく与え、その上で「道具を愛せ」と説いてくる。
技術の現場を知り尽くした者だけが持つ、本物の敬意がそこにあった。
「そして……最後はこれよ」
志乃がリュックのポケットから取り出したのは、小さな厚紙のブリスターパックだった。
裏面のアルミ箔をペリリと破る。
コロン、と机の上に転がり出たのは――直径およそ二十ミリ、厚さ三・二ミリの、銀色に輝く小さな金属の円盤だった。
表面には、精密な刻印で『Panasonic CR2032 3V』の文字。
現代のパソコンのマザーボードやキーレスエントリー、体温計などに幅広く使われている、ごくありふれたコイン形リチウムボタン電池である。
「……何だい、この小さな銀貨は?」
ルカが眉をひそめて覗き込んだ。
「コインじゃないわ。『ボタン電池』よ。電気を蓄えた小さな貯蔵庫ね」
「でんき……? 雷素のことかい?」
「そうよ。この世界で言うところの雷のエネルギーね。……ルカ君、さっき廃村で見せた、あの黒い板を覚えているかしら?」
志乃は日置電機のデジタルマルチメーターを取り出し、机の中央に据えた。
ロータリースイッチをカチリと回し、「直流電圧測定(DC V)」のレンジにセットする。
ピピッ、と澄んだ電子音が響き、液晶画面に「0.000」の数字が表示された。
「このテスターの、赤と黒の棒……プローブを握りなさい」
「……こ、こうかい?」
ルカは緊張で喉を鳴らしながら、右手に赤いプローブ、左手に黒いプローブを構えた。
「赤い棒を、このボタン電池の上面――プラス極の平らな面に当てて。そして黒い棒を、下面のわずかに窪んだマイナス極に当てるのよ」
「あ、当てるだけでいいのかい? 魔力を流す詠唱もなしに?」
「いいから、やってごらんなさい」
ごくり、とルカが唾を飲み込んだ。
少年の細い指先が、赤い金属針をボタン電池の表面へと接触させる。
続いて、黒い金属針を裏面へと押し当てた。
チッ――。
微かな金属の接触音が響いた、まさにその瞬間だった。
ピピッ!
テスターから小気味よい感知音が鳴り響いた。
そして――液晶画面の数字が、一瞬のタイムラグもなく、鮮やかに書き換わった。
『3.245 V』
「…………っっっ!!!!」
ルカの全身が、雷に打たれたように硬直した。
少年の灰色の瞳孔が、極限まで収縮する。
「な…………なんだ……これは…………!?」
ルカの掠れた悲鳴が、部屋の空気を切り裂いた。
「さ、三点二四五……!? 数字が……完全に静止している……!? 揺らぎがない……波形が一切乱れない……!?」
ルカはプローブを握りしめたまま、狂気じみた形相で液晶画面と銀色の円盤を交互に見つめた。
中世異世界の魔導技術において、「雷素(電気)」とは最も制御の難しい暴虐のエネルギーだった。
魔石から雷の魔力を引き出そうとすれば、出力は常に激しく乱高下し、回路は一瞬で焼き切れ、最悪の場合は爆発事故を引き起こす。安定した雷の魔力を供給するなど、王都の巨大な魔導炉ですら不可能な神の領域だったのだ。
それが――どうだ。
目の前にある、指先に乗るほど小さな、銀色の薄い円盤。
熱も出ない。
煙も上がらない。
爆発の気配も、魔力の激しい揺らぎも一切ない。
それなのに――液晶画面に表示された数値は、まるで凍りついた氷面のように、コンマ数ミリボルトの狂いもなく、完璧な安定性を保って「直流のエネルギー」を放ち続けていた。
「魔石じゃない……! 魔法陣も刻まれていない……! それなのに、なぜ……なぜこんなに小さな金属の塊の中に、完璧に制御された『直流の雷素』が眠っているんだ……!?」
ルカの呼吸が、激しく乱れた。
蒼白だった少年の顔に、狂気と歓喜が入り混じった紅潮が広がり、目元には熱い涙が滲み出ていた。
「狂ってる……! こんなの、狂気的なまでの技術力だ……! これがあれば……僕が諦めかけた、あの微細な魔導計測器も……自動で動く計算機も……街中を照らす照明の回路も……すべて動かせる……! 全部、僕の思い通りに具現化できるじゃないか……!!」
ガタガタと全身を震わせながら、ルカはゆっくりと顔を上げた。
少年の瞳には、先ほどの人間不信も、世界に対する呪詛も、何一つ残っていなかった。
そこにあったのは――己の生涯のすべてを捧げるべき対象を見出した狂信者の、爛々と燃え盛る絶対的な崇拝の光だった。
「……志乃さん」
ルカの声は、震えていた。
少年は机を回り込み、志乃の足元へと崩れ落ちるように膝をついた。
そして――志乃の防寒着の裾を、両手でぎゅっと握りしめた。
「あんたは……僕の、神様だ……」
少年の口から紡がれた、剥き出しの告白。
「学会の連中なんて、ゴミクズだ……。あんな奴らに認めてもらう必要なんて、最初からなかったんだ……! 僕が求めていた世界のすべてが……あんたの掌の中にある……!」
ルカは顔を上げ、すがるような上目遣いで志乃を見つめた。
色素の薄い美少年の瞳に宿る、昏く、甘く、そして重すぎる執着。
「捨てないでくれ……。僕を、あんたの側から離さないでくれ……! 僕の頭脳も、この両手も、僕の命の最後の一滴まで……全部、あんたに捧げるから……!!」
また一人。
不憫で誇り高い天才美男子が、現代の百均工具とボタン電池の暴力的なテクノロジーによって、完全に志乃の足元へと堕ちていた。
「はいはい、分かったから服を引っ張らないの」
志乃は苦笑しながら、ルカの柔らかなプラチナブロンドの髪を、ポンポンと優しく撫でてやった。
「採用決定よ、ルカ君。……さあ、明日はあなたのための『本当の研究計画』を立てるわよ!」




