第23話:不穏な学会の追放者
商人ギルド長ゼノ・アルヴィスが率いる黒塗りの重厚な馬車が、ぬかるんだ雪解けの街道を南へ向けて去っていった後も、ヴァルハイト城の執務室には、まるで嵐が通り過ぎた後のような熱狂の余韻が漂っていた。
樫の木の執務机の上には、整然と積み上げられた帝国金貨十五枚。
一枚あたり約十万円――日本円にして百五十万円相当の、重厚で鈍い黄金の輝きが、冬のやわらかな陽光を浴びて燦然と煌めいていた。
「……信じられないな」
机の前に立ったアシェルが、白銀の髪を指先でかき上げながら、夢を見ているかのような深い溜息を漏らした。
かつては胃薬代わりに泥水をすすり、借金取りの足音に怯えていた美貌の若き領主。その深い碧眼には、今や健康的な生気とともに、信じがたい奇跡を目の当たりにした者の畏敬の念が宿っていた。
「我が領の特産品といえば、痩せた土地から採れる僅かなライ麦と、硬くて加工の難しい屑鉄くらいだった。それなのに……あの透明な袋十枚と、空気の入った敷物、そして白い塩一キログラムが、たった一回の取引で金貨十五枚に化けるなんて……」
「化けたんじゃないわ、アシェル様。正当な対価を回収しただけよ」
志乃は愛用のソーラー電卓をパチンと手帳の上に滑らせ、ペン先で契約書の写しをトントンと叩いた。
「ゼノ会頭は腹黒い狐だけれど、商売人としての損益計算の勘だけは超一流よ。あの男は、あの包装材が王都までの輸送ロスをどれだけ劇的に削減し、あの至高の精製塩が貴族街でどれほどの狂乱的なプレミア価格で取引されるかを瞬時に弾き出した。……金貨十五枚は、彼にとっても十分に莫大な利益が残る『適正な仕入れ値』なのよ」
今回の契約によって、ヴァルハイト領と商人ギルド連合の間には、強固な「定期取引ルート」が正式に開通した。
今後、志乃が現代から調達する精製塩と包装資材は、ゼノの商隊を通じて王都や帝国南西部の主要都市へと定期的に輸出される。その代金は、すべて帝国金貨によってヴァルハイト城へ直接支払われる手筈となっていた。
極貧にあえぎ、滅亡寸前だった限界集落に、突如として莫大な外貨が流れ込む「経済の循環ポンプ」が設置されたのだ。
「志乃様、失礼いたします。領内の各所から集計した除雪後の資材台帳をお持ちいたしました」
ノックとともに部屋に入ってきたのは、背筋をぴんと伸ばした老執事バルトロだった。
志乃の差し入れた高たんぱくゼリーと栄養剤ですっかり肌艶を取り戻した老執事は、恭しく羊皮紙の束を机の上に置いた。その視線が机の上の金貨十五枚を捉えた瞬間、バルトロの丸い眼鏡がずり落ちそうになり、慌てて指先で直す。
「お、おお……! これは、先ほどゼノ会頭から受領された代金でございますか……! 先代様の時代、一年間血を吐く思いで領民から搾り取った税収ですら、金貨五枚にも届かなかったというのに……! 志乃様、貴女様は真に我がヴァルハイトの福の神にあらせられます……!」
「大げさよ、バルトロさん。これは領地再生の運転資金よ。浮かれている暇はないわ」
志乃は苦笑しながら、手帳の新しいページを開いた。
金貨十五枚の着金。外敵ギルバートの借金完済。大魔雪嵐の無傷の突破。
表面上の危機は、すべて鮮やかに解決されたように見える。
だが――元ブラック企業の経理として、何十社もの経営破綻や事業再生の現場を書類上で見届けてきた志乃の頭脳は、決して楽観に溺れてはいなかった。
(……この繁栄は、まだ『砂上の楼閣』よ)
志乃は心の中で、冷徹に貸借対照表の裏側を精査していた。
今のヴァルハイト領の好景気は、ひとえに「神崎志乃が現代日本のクローゼットから持ち込む物資」という、唯一のチート供給ラインに百パーセント依存している。
もし、現代側で税務トラブルや物流の寸断が起きたら?
もし、持ち込んだポータブル電源や電動工具が故障したら?
もし、自分が病に倒れてクローゼットを行き来できなくなったら?
その瞬間、この領地のインフラはすべて停止し、再び泥水をすする極貧へと逆戻りしてしまう。
(他所から持ち込んだ完成品を消費しているだけじゃ、領地の真の自立とは言えない。持ち込んだテクノロジーの原理を理解し、異世界の魔力や鉱石と融合させて、現地で自前で修理・量産できる『技術開発部(R&D)』が絶対に不可欠なのよ……)
そのミッシングリンクを埋めるための決定的な鍵こそが――去り際にゼノが落としていった、あの不穏極まりない情報だった。
「……アシェル様、バルトロさん」
志乃はボールペンを置き、二人を見据えた。
「さっき、ゼノ会頭が去り際に言っていた話……覚えているかしら? 『帝国魔導学会を追われた危険な異端児が、この領内の廃村に潜伏している』という話よ」
「あ……」
アシェルが表情を引き締めた。
バルトロもまた、眉間に深い皺を刻み、痛ましそうに息を呑んだ。
「ゼノの口車ですから、どこまで信用できるかは分かりませんが……しかし、火のないところに煙は立たないと言います。バルトロ、心当たりはあるか?」
「は……恐らくは、北の鉱山跡のさらに奥……十数年前に魔獣の襲撃で打ち捨てられた『黒枯の廃村』のことかと存じます」
バルトロは記憶の糸を手繰り寄せるように語り始めた。
「大魔雪嵐の前、村の猟師が北の森へ罠を見回りに行った際、廃村の崩れかけた納屋から、夜な夜な奇妙な青白い火花が散っているのを目撃したと申しておりました。幽霊か魔獣の類かと恐れ、誰も近づかなかったのですが……まさか、人間が潜り込んでいたとは……」
「バルトロさん、その『帝国魔導学会』って、具体的にはどういう組織なの?」
志乃の問いに、バルトロは苦虫を噛み潰したような顔をして首を横に振った。
「帝都に本部を構える、大陸最高峰の魔術と魔導具の研究機関でございます。……しかし、その実態は絵に描いたような貴族至上主義と門閥主義の伏魔殿。高位貴族の出身でなければどれほど才覚があろうと論文の発表すら許されず、長老たちが若手の研究成果を横取りして己の名声を高めるのが常態化しております。平民の暮らしを豊かにするような生活魔導具などは『下賤の技術』と蔑まれ、貴族の威信を示すための派手な軍事魔導具や、無駄に豪奢な装飾品ばかりに巨額の国家予算が注ぎ込まれているのです」
「……典型的な、腐敗した大企業の天下り研究開発部ね」
志乃の口から、冷ややかな溜息が漏れた。
日本の大手メーカーでもよくある話だ。現場の若いエンジニアが画期的な特許を考案しても、手柄はすべて働かない役員や部長が総取りし、現場には雀の涙の報奨金しか渡らない。理不尽に耐えかねて異を唱えた優秀な人材ほど、「協調性がない」「組織の秩序を乱した」とレッテルを貼られて左遷されるのだ。
「アシェル様、その追放された技師について、何か噂を聞いたことはない?」
「……名前までは定かではないが」
アシェルは記憶を探るように碧眼を伏せた。
「半年前、帝都の社交界から届いた回状の中に、魔導学会で前代未聞のスキャンダルが起きたという記事があったのを覚えている。学会の査定官たちが総出で編纂した『神聖魔導理論大系』の発表会において、当時まだ二十歳そこそこの無名の若手技師が壇上に乱入し、長老たちの目の前で論文を破り捨てたそうだ」
「破り捨てた……!?」
「ああ。『こんな効率の悪い魔力回路は、予算を盗むための紙屑に過ぎない。民衆のパン一つ温められない魔導具に、何の価値があるのか』と、長老たちの理論の矛盾を数式と実証機で完膚なきまでに論破したらしい。……激怒した学会の重鎮たちは、その青年を『学会反逆罪』と『異端思想』の廉で告発し、研究室の全財産と工具を没収した上で、帝都から永久追放処分にしたと聞いている」
「……最高じゃない」
志乃の瞳の奥に、カッと獲物を狙う狩人のような光が灯った。
「え……? さ、最高……?」
アシェルが目を丸くする。
「権威に媚びず、本質的な実用性と効率を追求し、組織のトップを数字と理論で完全論破できる二十歳のエンジニアよ? これ以上の逸材が、この世のどこにいるっていうの!」
志乃は立ち上がり、机の上のメモ用紙にペンを走らせた。
「今のうちの領地に一番足りないのは、インフラを自前で保守・開発できる現場の技術責任者(CTO)よ。私が持ち込む現代の工具や資材の構造を理解し、現地の魔石や魔力体系とハイブリッドに融合させられる人間がいれば、この領地の生産性は十倍……いいえ、百倍に跳ね上がるわ!」
「――お待ちください、志乃様ッ!!」
その時、部屋の隅で直立していたラインハルトが、たまらず大股で進み出てきた。
漆黒の防刃ギアに身を包んだ忠犬騎士は、彫刻のような精悍な顔を悲痛なまでに歪め、志乃の前へドスンと片膝をついた。
「志乃様! その男を城へ招き入れるなど、断じて認められません!」
「ラインハルト? どうしてよ」
「危険すぎます!」
ラインハルトの黒い瞳には、純粋な警戒と、そして――先ほどの商人ゼノに対するものとはまた別の、激しい焦燥の炎が宿っていた。
「学会を追放された異端児など、どのような危険思想や狂気を孕んでいるか分かったものではありません! ましてや、寒村のゴミ溜めに潜伏するような破滅的な男です。志乃様のような尊き御方が、自らそのような危険人物の元へ出向くなど……万が一のことがあれば、私は己の喉を掻き切っても償いきれません!」
ラインハルトの拳が、床の石畳の上でギリギリと震えていた。
忠誠心ゆえの猛烈な心配。
だが、その奥底には――自分とアシェル、そしてあの商人ゼノに加えて、さらに別の「有能な美男子」が志乃の視界に入り込むことに対する、狂おしいまでの防衛本能が渦巻いていた。
志乃の温もりと食事によって救われ、己の命のすべてを彼女に捧げた武人にとって、主の関心が新たな男へと向けられること自体が、耐え難い苦痛だったのだ。
「アシェル様からも、志乃様をお止めください!」
ラインハルトがすがるように領主を仰ぎ見る。
アシェルもまた、困惑と躊躇いの混ざった碧眼で志乃を見つめていた。
「……志乃。ラインハルトの言うことも一理ある。学会を追われた者は、往々にして復讐心や偏屈なプライドに凝り固まり、他人を受け入れないことが多いんだ。それに、北の廃村は先の魔雪嵐で完全に雪に埋もれている。道すら定かではない雪山へ、君を連れて行くわけにはいかないよ」
二人の美男子からの、必死の包囲網。
志乃を危険から守りたいという庇護欲と、自分たちだけの主でいてほしいという独占欲が、二重の鎖となって志乃を引き留めようとしていた。
だが――。
神崎志乃という元経理OLは、そんな男たちの情念の鎖に絡め取られるほど、柔な人生を送ってきてはいなかった。
「二人とも、聞きなさい」
志乃の声は、驚くほど静かで、そして凛としていた。
彼女は跪くラインハルトの肩に、そっと掌を置いた。
「ラインハルト。あなたが私の身を案じてくれていることは、痛いほど分かっているわ。……でもね、危険だからこそ、放置しちゃいけないのよ」
「志乃……様……?」
「もしその技師が、飢えと絶望のあまり自暴自棄になって、領内に危険な魔導兵器でも撒き散らしたらどうするの? それに、彼ほどの頭脳を持つ人間が、この寒さの中で野垂れ死にしたら……それは領地経営の観点から見れば、計り知れない『人的資本の特大損失』よ」
志乃は立ち上がり、アシェルとラインハルトの目を真っ直ぐに見据えた。
「偏屈? プライドが高い? 結構じゃない。本当に実力のあるエンジニアなんて、みんな変人ばかりよ。ブラック企業の開発部にも、誰とも口を利かないけれど一人で基幹システムを組み上げた伝説のプログラマーがいたわ。大事なのは、その人間性を否定することじゃない。『その才能を正当に評価し、最高の研究環境と飯を惜しみなく与えること』よ」
志乃は胸ポケットからボールペンをカチリとノックした。
「面接(採用活動)に行かなきゃ、何も始まらないわ。……アシェル様、ラインハルト。私はあの技師をスカウトしに行く。これは最高財政執行官としての業務命令よ」
「…………っ」
志乃の凛とした眼差しと、一切の迷いのない覇気に射抜かれ、アシェルとラインハルトは息を呑んだ。
自分たちを泥水と飢餓から救い上げてくれた時と、全く同じ目だった。
理不尽に踏み躙られた才能を、資本と物流の力で救い上げ、自らの支配下に組み込もうとする、圧倒的なパトロンの光。
この女性の決意を覆すことなど、世界の誰にもできないのだと、二人は魂の底で理解せざるを得なかった。
「……承知いたしました」
ラインハルトは深く頭を垂れ、己の額を床に擦り付けた。
「志乃様がどうしても行かれると仰るならば……我が命に代えて、道中の露払いを務めましょう。……ですが、約束してください。決して私の背中から離れないと」
「ええ、もちろんよ。山歩きの先導は頼りにしてるわ、団長さん」
志乃が微笑むと、ラインハルトの浅黒い頬がカッと赤く染まり、嬉しそうに黒い瞳を潤ませた。
アシェルもまた、苦笑しながら手を差し伸べてきた。
「分かったよ、志乃。城の留守は私が預かろう。バルトロとともに、村の復旧とゼノへの次回納品分の帳簿をまとめておく。……どうか、気をつけて」
「任せて。夕方までには、新しい優秀な社員を一人連れて帰ってくるわ」
志乃は執務室を飛び出し、足早にクローゼットへと向かった。
目的地の北の廃村は、先の魔雪嵐によって極寒の雪地獄と化しているはずだ。
そこに潜伏する、飢えと寒さで死に瀕した天才技師。
彼を救い出し、その頑なな心を一撃で掌握するために、何が必要か。
「……さてと。気難しいエンジニアの胃袋と知的好奇心を同時に満たすための『最強の採用キット』をパッキングしなきゃね!」
志乃は現代の自宅へ飛び込むと、リュックサックを開け放ち、厳選した資材を猛スピードで詰め込み始めた。
雪深い廃村のゴミ溜めで、死を待つダウナー系天才少年ルカ・レヴィとの運命の邂逅が、すぐそこまで迫っていた。




