第22話:ラインハルトの嫉妬
ピチャリ、と雪解け水の雫が窓辺で跳ねる微かな音すら、その瞬間、完全に掻き消えた。
志乃の白く小さな手の甲に、ゼノの薄く整った唇が熱く押し当てられた――まさにその刹那のことだった。
――ガキンッッッ!!!!
鼓膜を直接針で貫かれたかのような、金属の悲鳴が執務室の空気を激震させた。
石造りの床を蹴立てる凄まじい踏み込みの風圧。
黒い影が視界の端を横切ったかと思うと、次の瞬間には、ゼノの首筋のわずか数ミリ――皮膚の産毛が触れるか触れないかの距離に、ギラリと青白い刃文を輝かせた大剣の切っ先が、寸分の狂いもなく突きつけられていた。
刃の重みで空気が裂け、ゼノの蜂蜜色の金髪が一筋、ハラリと石畳の上に落ちる。
背後で抜刀の姿勢のまま仁王立ちしていたのは、ラインハルト・クラウゼだった。
その顔には、普段の寡黙で規律正しい武人の面影など、欠片も残っていなかった。
彫刻のように整った精悍な顔立ちを、血管が浮き出るほど激しい怒りで歪め、短く刈り込まれた黒髪の奥の双眸は、血走った漆黒の炎を宿してゼノを射殺さんばかりに凝視していた。
漆黒の防刃ジャケットの胸元が、激しい呼吸で波打っている。
その全身から噴き上がっていたのは、戦場で敵兵数十人を屠ってきた百戦錬磨の武人の、まぎれもない「本物の殺気」だった。
「……気安く触れるな、薄汚い商人が」
ラインハルトの喉の奥から絞り出されたのは、地獄の底を擦り剥くような、低く濁った獣の唸り声だった。
切っ先をわずかに押し込む。刃がゼノの白い肌に微かに食い込み、首筋にツッと一筋の赤い血が滲み出た。
「その手を……切り落とされたくなければ、今すぐ退け。志乃様からその薄汚れた指を離せ。……さもなくば、その首を胴から叩き落とし、肉片一つ残さずカラスの餌にしてやる」
部屋の中の温度が、一瞬にして氷点下二十度の魔雪嵐の渦中へと逆戻りしたかのようだった。
だが――。
首元に死の切っ先を突きつけられ、血を流しながらも、ゼノ・アルヴィスは微動だにしなかった。
男は志乃の手の甲からゆっくりと唇を離すと、片膝をついた姿勢のまま、横目でラインハルトを見上げた。
その琥珀色の瞳には、恐怖の色など微塵もなかった。
むしろ、獲物を巡って牙を剥く大型犬を面白がるような、底意地の悪い冷笑がその薄い唇に張り付いていた。
「……おやおや。手荒な真似をするじゃないか、ヴァルハイトの騎士団長殿」
ゼノの声は、かすかに掠れていながらも、滑らかで挑発的だった。
「正式な商談を終え、パートナーとしての親愛の情を示しただけだ。契約の席でこれほどの無作法……商人ギルドに対する宣戦布告と受け取ってもいいのかな?」
「抜かせ」
ラインハルトの腕の筋肉が、ギリギリと音を立てて膨張した。
「我が主の御心を慮ることなく、己の卑しい欲望のためにその尊い御身に触れようとするなど、万死に値する不敬! 貴様のギルドがどうあろうと知ったことか! 志乃様を穢す害毒であるならば、今この場で一刀両断にするのみ!」
「ラインハルトの言う通りだ!」
机の向こう側から、アシェルの鋭い怒声が追撃した。
銀髪の若き領主は、机を両手で叩いて立ち上がっていた。その深い碧眼は、普段の温和さを完全にかなぐり捨て、冷酷無比な刃となってゼノを射抜いている。
「ゼノ会頭、貴様は領主である私の面前で、我が領の最高執行官に無礼を働いた! 商人の分際で、志乃に馴れ馴れしく触れるなど言語道断だ! 我が騎士の手を煩わせるまでもなく、今すぐその手を引き、我が城から立ち去れ!」
二人の美男子から浴びせられる、怒髪天を突く殺気と敵意。
だが、その嵐の中心にいるラインハルトの胸中を支配していたのは、領主への忠義などという綺麗な感情では到底なかった。
(……触れた……。あいつが……あんな薄汚れた狐が、志乃様の手に……!)
ラインハルトの脳内で、理性の留め金が狂おしいほど軋んでいた。
飢えと寒さの中で、死を待つだけだった自分と騎士団。
凍てつく雪の中で倒れかけた時、小さな身体で受け止めてくれた志乃の温もり。
熱々の牛丼を一口ずつ口に運んでくれた、あの奇跡のような手の平。
背中を撫で、温熱の札を貼り、生きる希望を与えてくれた、世界で最も神聖で尊い、神崎志乃という唯一無二の光。
その光に――自分ですら触れることを恐れ多く思い、足元に額を擦り付けて祈ることしか許されないはずのその御手に、どこの馬の骨とも知れぬ腹黒商人が、あろうことか唇を押し当てたのだ。
(殺す……。切り刻んでやる……! 志乃様に触れていいのは……志乃様をお守りするのは、この私だけだ……! 誰にも渡さない……絶対に、指一本触れさせはしない……!!)
忠誠心という仮面の下で煮えたぎっていたのは、哀れなほどに肥大化した「独占欲」と、己の存在意義を脅かされたことに対する狂気的な「嫉妬」だった。
大剣を握るラインハルトの指先が白く強張り、刃がゼノの頸動脈へ向けてさらに数ミリ、沈み込もうとした――。
「――そこまでッ!!」
張り詰めた殺戮の結界を叩き割るように、鋭く、そして呆れ果てた怒声が響き渡った。
神崎志乃だった。
志乃は椅子から立ち上がるや否や、迷うことなくラインハルトの逞しい右腕へと飛びついた。
「ちょ、ちょっとラインハルト!! ストップ!! 剣を止めなさいってば!!」
「し……志乃様ッ!?」
腕に伝わってきた志乃の柔らかな感触に、ラインハルトの巨躯がビクンと跳ねた。
全身を支配していた殺気の奔流が、主の直接の接触によって一瞬で霧散する。
「あ、危のうございます! 離れてください、刃に触れれば貴女の尊い肌に傷が――」
「傷つくのはゼノ会頭の首でしょうが!!」
志乃はラインハルトの太い前腕を両手で力任せに引き下げさせた。
「何やってんのよ、この忠犬は!! 商談が成立して金貨十五枚を受け取った直後に、客人の首を刎ねる会社がどこの世界にあるのよ! 殺人事件なんて起こしたら、うちの領地に一発で帝国警察のガサ入れが入るでしょうが! コンプライアンス違反もいいところよ!!」
「こ、こんぷらいあんす……?」
聞き慣れない現代語に、ラインハルトが目を白黒させる。
「そうよ! 相手はお客様! 大切なお得意様なの! ほら、今すぐその物騒な鈍らを鞘にしまいなさい! これは最高財政執行官としての絶対命令よ!!」
志乃の剣幕に圧され、ラインハルトは悔しげに歯を食いしばりながら、ゆっくりと大剣を引いた。
チャキン、と重い音を立てて切っ先が鞘へと収まる。
だが、刃を納めた瞬間――ラインハルトは志乃の肩を抱き寄せるようにして、自らの分厚い胸板の背後へとグイッと引き隠した。
「ラインハルト……?」
「志乃様は、私の後ろにお隠れください」
ラインハルトはゼノから一瞬たりとも視線を外さず、志乃を背中に庇ったまま、唸るように告げた。
「このような狡猾な狐に、誑かされてはなりません。奴は志乃様の寛大さに付け入り、貴女の心も、その身も奪おうと企む不逞の輩です。……何かあれば、たとえ志乃様に叱責されようとも、私はこの手で奴を斬り捨てます」
その背中はまるで鋼の城壁のように広く、硬く、そして微かに震えていた。
志乃を奪われるかもしれないという根源的な恐怖と、他の男に対する剥き出しの敵意。
普段の冷静沈着な軍人の姿はどこへやら、主の前に立ち塞がって激しく唸り声を上げる「大型の番犬」そのものだった。
「……フッ、相変わらず手厳しい忠犬だな」
首筋の血を白いハンカチで優雅に拭いながら、ゼノがゆっくりと立ち上がった。
服の埃を払い、数歩後退して距離を取る。
その琥珀色の瞳は、ラインハルトの背後からひょっこりと顔を出している志乃へと、熱烈に注がれていた。
「命拾いしたよ、志乃殿。君がいなければ、この血の気の多い騎士殿に首を刎ねられていたところだ」
「からかうのはやめなさい、ゼノ会頭。あなただって、わざと挑発してラインハルトの反応を試したでしょう」
志乃がジト目で睨みつけると、ゼノは悪びれる様子もなく、肩をすくめてクスクスと笑った。
「お見通しというわけか。……だが、半分は本気だよ。君という人間を、どうしても俺の手元に置きたくなったのは紛れもない事実さ。……あの契約書にサインした瞬間から、俺と君は『運命共同体』だ。そうだろう?」
「ただの卸売契約と納品書の関係よ。勝手にロマンスにすり替えないで」
「冷たいね。だが、その冷徹さこそがたまらない」
ゼノは胸元の琥珀のブローチに手を当て、優雅に一礼してみせた。
「金貨十五枚分の至高の白塩と、奇跡の包装材。……確かに我がギルドの商隊で、王都の最高貴族たちへ売り届けてみせよう。約束通りの利益を叩き出して、近いうちにまたこの城へ戻ってくるよ。……その時には、もっと魅力的な提案を君に用意しておくさ」
「提案なんて結構よ。正当な代金さえ期日通りに振り込んで……いえ、現金で持ってきてくれればそれでいいわ」
志乃の事務的な返答に、ゼノは楽しそうに喉を鳴らした。
そして、執務机の上に置かれていたジップロック入りの精製塩とプチプチのロールを、自らの従者に丁重に抱えさせると、踵を返して扉へと向かった。
だが――。
部屋を出る直前、ゼノの足がピタリと止まった。
蜂蜜色の髪を揺らし、彼は振り返った。その琥珀色の瞳から、先ほどのふざけたような色気がスッと抜け落ち、冷徹な情報屋としての光が宿っていた。
「……そうそう。忘れるところだったよ」
「何かしら?」
志乃が眉をひそめると、ゼノは声を一段落とし、執務室の中にいる者たちだけに聞こえるような低いトーンで囁いた。
「初取引の成立祝いに……あんたへの手土産代わりに、とっておきの情報を一つ、置いていってやろうと思ってね」
「情報……?」
アシェルが警戒露わに身を乗り出す。
「ああ。君たちの領地に関する、極めて不穏で……そして、途方もなく美味い話だ」
ゼノの薄い唇が、三日月のように吊り上がった。
「帝国魔導学会を追放された『危険な異端児』が……このヴァルハイト領の廃村に、人知れず流れ着いて潜伏しているらしい」
「魔導学会の、追放者……?」
志乃が言葉を繰り返す。
「そうさ」
ゼノは楽しそうに目を細めた。
「帝都の最高権威である魔導学会の長老たち……あの石頭の重鎮どもの論文を、真っ向から『実用性の欠片もない机上の空論だ』と全否定して論破し、激怒した学会から身ぐるみ剥がされて追放された、偏屈極まりない若造技師だ。……噂では、飢えと寒さで野垂れ死に寸前らしいがね」
ゼノは最後に、志乃に向けて意味深なウインクを一つ投げかけた。
「君のその素晴らしい頭脳なら、この情報の価値が分かるはずだろ? ……それじゃあ、また近いうちに会おう、俺の愛しい執行官殿」
ひらりとロングコートの裾を翻し、ゼノは足早に回廊の彼方へと去っていった。
馬車の車輪が雪解けの道を軋ませて遠ざかっていく音が、静まり返った執務室に届く。
嵐のような男が去った後。
執務室に残された志乃は、腕を組み、深く考え込むように天井を見上げた。
「……魔導学会を論破した、天才技師……」
志乃の呟きに、ラインハルトが心配そうに身を寄せてきた。
「志乃様。奴の言葉など、真に受けてはなりません。狐の流す情報など、我が領を混乱に陥れるための罠かもしれぬのです」
「いいえ、ラインハルト」
志乃は眼鏡のブリッジを押し上げ、きっぱりと首を横に振った。
「罠だとしても、確認する価値は大いにあるわ。……今のこの領地に、一番足りないパズルのピースが何だか分かる?」
「パズルの……ピース……?」
首を傾げるアシェルとラインハルトに、志乃は真剣な眼差しを向けた。
「現代の物資を持ち込むだけじゃ、領地の本当の自立は達成できないのよ。もし機械が壊れたら? もし私が不在の時にトラブルが起きたら? ……この領地にはね、持ち込んだ技術を理解し、現地の魔力体系と融合させて、自前でインフラを保守・開発できる『現地のエンジニア』が絶対に不可欠なのよ」
元経理OLの先を見据えた合理的な分析。
志乃は手帳を開き、新しいページにペン先を走らせた。
「決まりね。……その天才技師、死なせる前にスカウトしに行くわよ!」




