第17話:アシェルの涙と熱い視線
ゴオオオォォォォォ……という地を揺るがすような唸り声が、徐々にその切っ先を鈍らせていた。
七十二時間――丸三日三晩にわたってヴァルハイト領を呑み込んでいた『大魔雪嵐』が、ついにその猛威の爪を収めようとしていた。
大窓の木枠に目張りされていたブルーシートが、風圧による激しいバタつきを止め、静かに弛む。
天井の隙間から細く差し込んでいた冷気が緩み、やがて――シーンと、耳の奥が痛くなるほどの完全な静寂が、白亜の大広間を包み込んだ。
「……やんだ……のか……?」
誰かの掠れた呟きが、静かな広間に落ちた。
大広間の隅で、使い捨てカイロを背中に貼り、銀色の断熱アルミシートの上に身を寄せ合っていた領民たちが、恐る恐る顔を上げた。
「おい……風の音が、しねえぞ……」
「地鳴りも止まった……嵐が、通り過ぎたのか……!?」
ざわざわと広がるざわめきの中、ラインハルトが静かに立ち上がった。
漆黒の防寒ギアをまとった騎士団長は、大広間の西側にある頑丈な石造りのテラス扉へと歩み寄り、目張りされていた緑の養生テープに手をかけた。
パリッ、と軽快な音を立ててテープが剥がされ、分厚い樫の木の扉が、外へ向かってゆっくりと押し開かれる。
――サァァァッ……。
大広間の中に、まばゆい純白の光が一斉に雪崩れ込んできた。
紫色の禍々しい暗雲は、跡形もなく吹き払われていた。
頭上に広がっていたのは、どこまでも高く、澄み渡るような冬の蒼穹。そして、城壁の外に広がっていたのは、二メートルを超える新雪が太陽の光を浴びて無数のダイヤモンドのようにきらめく、息を呑むほどに美しい銀世界だった。
「……あ……」
窓辺に駆け寄った女医のマーシャが、口元を押さえて息を呑んだ。
大広間にいた百五十名の領民たちが、次々とテラスや窓際へと押し寄せ、外の眩い陽光に目を細めた。
十年に一度、数多くの命を凍土の底へと引きずり込んできた大魔雪嵐。
過去の記録では、この嵐が一度吹き荒れれば、領民の半数以上が凍死し、家屋は押し潰され、春が来るまで死体の回収すらできなかったという、呪われた天災。
だが――。
「……生きている……」
幼いリディを抱き上げた母親が、ぽろぽろと涙をこぼした。
「あたしたち、生きてるよ……! 誰一人、凍え死んでない……! お爺ちゃんも、子供たちも、みんな生きてるよ……!!」
「病人も出なかった……! 風邪一つ引いてねえぞ!!」
「あの大鍋の汁と、銀の敷物と、背中の温かい札のおかげだ……! 嵐を……あの魔雪嵐を、無傷で乗り切ったんだ!!」
おおおおおおおおっ――!!
割れんばかりの歓声と、涙ながらの抱擁が、大広間のあちこちで爆発した。
大人たちが手を取り合って飛び跳ね、老人たちが床に跪いて祈りを捧げ、子供たちが歓声を上げながら銀色のシートの上を駆け回る。
百五十名。
倒壊寸前だった限界集落から城へと避難してきた者たち全員が、擦り傷一つ、凍傷一つ負うことなく、完全に生き残ったのだ。
そして、歓喜に沸く領民たちの視線が、自然と一人の女性へと集まっていった。
「志乃様……!」
「志乃様のおかげだ! 聖女様!!」
「ヴァルハイトの救世主様だ!!」
地鳴りのような称賛と感謝の言葉が、大広間を満たしていく。
だが、その中心に立っていた当の本人はといえば――。
「……ふぅ……。換気チェック、よし……。カセットコンロの残量確認、ボンベ残数五十二本……事故ゼロ……」
志乃は手帳にボールペンでチェックを入れながら、小さく息を吐き出していた。
この三日間、志乃はほとんど眠っていなかった。
密閉空間における一酸化炭素中毒の予防のため、三時間おきに換気窓の開閉をチェックし、簡易トイレの衛生状態を確認し、百五十名分の豚汁とお粥の配給スケジュールを徹底管理し、体調を崩しかけた者がいれば即座に初期対応を指示していたのだ。
元ブラック企業の現場責任者としての危機管理能力をフル稼働させ、七十二時間の極限サバイバルを「業務」として完遂させた瞬間だった。
「……これで、人的資本の損害はゼロ……。避難所運営コストも、計画内に収まったわね……」
カタッとボールペンのノックを戻し、志乃が安堵の笑みを浮かべた――その刹那だった。
フッ、と頭の芯から血の気が引いた。
張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた瞬間、三日間の極度の疲労と睡眠不足が、鉛のような重圧となって全身にのしかかってきたのだ。
「……あっ……」
視界がぐらりと揺らぎ、膝から力が抜ける。
支えを失った志乃の小柄な身体が、石畳の上へと崩れ落ちかけた。
「――志乃ッ!!」
鋭く切迫した叫び声とともに、視界が白い閃光に覆われた。
床に激突するはずだった志乃の身体は、柔らかな衝撃とともに、しっかりと受け止められていた。
滑り込んできたのは、アシェルだった。
彼の長い腕が志乃の腰と背中を抱きすくめ、その豊かな胸元へと引き寄せる。
ふわりと、上質な白銀の髪が志乃の頬をかすめ、微かに香る清潔な石鹸と、男特有の熱い体温が志乃の感覚を包み込んだ。
「志乃! しっかりしてくれ、志乃……!」
「あ……アシェル様……? すみません、ちょっと立ちくらみが……」
志乃が霞む目を瞬かせると、至近距離にアシェルの美貌があった。
普段は冷静で、貴族としての凛とした気品を保とうとしている彼の顔が、かつてないほど蒼白に引き攣っていた。彫刻のように整った眉根が痛ましそうに寄せられ、深い碧眼は、まるで自分の命そのものが指の隙間からこぼれ落ちていくのを見るかのように、激しい怯えと焦燥に濡れていた。
そして――志乃を抱きしめる彼の腕は、折れそうなほど強く、小刻みに震えていた。
「アシェル様……? そんなに強く抱きしめられたら、息が……」
「すまない……だが、離せない……!」
アシェルの掠れた声が、志乃の耳元に落ちた。
彼は顔を上げ、歓声を上げて近づいてこようとした領民たちを手で制した。
「皆、喜ぶのはここまでだ! 志乃様はこの三日間、私たちのために身を削り、不眠不休で働いてくださった! 今は休息が必要だ。ラインハルト、ダン、大広間の片付けと外の除雪の手配を頼む!」
「ハッ、お任せを!」
「おうよ、領主様! 志乃様を休ませてやりな!」
領民たちが息を呑んで道を空ける。
アシェルは躊躇うことなく、志乃の膝裏に腕を滑り込ませると、軽々とその身体を抱き上げた。
「ちょっ……アシェル様!? お姫様抱っこなんてやめてください、自分で歩けますから!」
「駄目だ。君を一歩たりとも歩かせるものか」
志乃の抵抗を無視し、アシェルは毅然とした足取りで大広間を後にした。
領主としての威厳を保ちながらも、その歩幅は速く、抱き抱える腕の力は決して緩むことがなかった。
*
バタン、と執務室の重厚な扉が閉ざされた。
大広間の喧騒は遮断され、部屋の中には静寂が戻った。
暖炉には、志乃の指示で持ち込まれていた大容量ポータブル電源に接続された、電気ストーブが静かにオレンジ色の熱を放っている。
アシェルは志乃を、執務室の長椅子の上にゆっくりと横たえた。
クッションを頭の下に敷き、フリースブランケットを胸元まで掛け直す。
「ふぅ……ありがとうございます。本当に、ちょっと横になれば大丈夫ですから……」
志乃が起き上がろうとすると、アシェルの長い指先が、そっと志乃の肩を押さえた。
「動かないでくれ」
その声は、先ほどまでの領主としての凛とした響きとは、まるで違っていた。
弱々しく、震え、今にも崩れ落ちそうなほどに脆い声だった。
アシェルは長椅子の傍らに、音もなく膝をついた。
冷たい石畳の上に両膝を突き立て、床に散らばる白銀の髪も意に介さず、彼は志乃の右手を両手で包み込んだ。
「アシェル様……?」
「志乃……」
アシェルの唇が、志乃の細い指先に触れていた。
男の吐息が熱く、志乃の皮膚を震わせる。
そして――ぽた、ぽたと、大粒の涙が志乃の手の甲へと落ちてきた。
「え……? アシェル様、どうして泣いて……」
「……恐ろしかったんだ」
アシェルの喉から、張り裂けんばかりの嗚咽が漏れた。
彼は志乃の手を自らの両手でぎゅっと握りしめ、額を押し当てて、子供のように肩を震わせ始めた。
「君が……倒れかけた瞬間、私の血の気がすべて引き絞られた……。もし君に何事かがあれば……君がこのまま目を覚まさなくなったらと……そう思ったら、息すらできなくなったんだ……」
「過労による軽い貧血よ。死ぬわけないでしょう……」
「私にとっては、死ぬのと同じだ!」
アシェルが弾かれたように顔を上げた。
露わになったその貌に、志乃は息を呑んだ。
そこにあったのは、普段の理知的な美男子の顔ではなかった。
涙で濡れそぼった長いまつ毛、紅潮した頬、そして――深海の底で燃え盛る業火のように、昏く、熱く、狂気的なまでの感情を宿した碧眼。
その瞳が、志乃の顔を貪るように見つめていた。
「代々の領主が……」
アシェルの掠れた告白が、静まり返った部屋に響く。
「私の曾祖父も、祖父も、そして父も……誰一人として、この冬の魔雪嵐から民を救うことはできなかった。毎年、毎年、雪が降るたびに誰かが凍え死に、飢えに狂い、領主である私たちはただ神に祈り、己の無力さを呪いながら泥水をすするしかなかったんだ……!」
アシェルは志乃の手を、己の胸元――ドクドクと狂ったように高鳴る心臓の真上へと強く押し当てた。
「それを……君は……たった一人で……! 青い布と銀のシートを敷き、温かい汁を配り、小さな温熱の札を貼るだけで……誰一人死なせずに、完璧に越冬させてみせた……! 我が領の歴史上、一度たりとも存在しなかった奇跡を……君はたった三日で、成し遂げてしまったんだ……!!」
「それは、私の世界の技術が――」
「技術ではない! 君だ!」
アシェルは志乃の言葉を遮った。
彼の冷たい指先が、志乃の頬へと伸びた。震える指の腹が、志乃の肌を愛おしそうに、壊れ物を確かめるように撫で上げていく。
「あのような知恵を、あのような物資を、見返りも求めず……飢え死に寸前だった私たちに惜しげもなく注ぎ込んでくれたのは、他の誰でもない、君自身だ……! ギルバートの借金から私を救い出し、ラインハルトを救い、リディを救い、そして百五十名の命を救った……!」
アシェルの顔が、志乃の顔へと至近距離まで近づいた。
触れ合いそうなほど近くで、男の熱い呼気が志乃の唇にかかる。
「志乃……君は、我が命の光だ」
囁かれた言葉の重さに、志乃の背筋が粟立った。
「泥水の底で死ぬはずだった私を、君がその手で引きずり上げてくれた。君がいない世界など、私はもう一秒たりとも生きられない。君のいない城など、ただの冷たい墓場だ……」
アシェルは志乃の指先を一本ずつ、祈るように自らの唇へと運び、熱い口づけを落としていった。
チュッ、と微かな音が室内に響くたびに、志乃の心臓が激しく跳ね上がる。
「アシェル様……っ、やめて、恥ずかしいから……!」
「嫌だ。離さない」
アシェルは首を横に振った。その瞳には、かつてないほど強固な、底なしの執着が渦巻いていた。
「私を……君の影にしてくれ。君の敷くレールの枕木にしてくれ。君が望むなら、私はどんな悪名でも背負おう。君の邪魔をする者がいれば、この手で排除しよう。……だから、お願いだ、志乃」
アシェルの額が、志乃の胸元へと沈み込んだ。
白銀の髪が志乃の服の上に広がり、男の温かな体温が、ずっしりとした重みとなって志乃の全身を支配する。
「私を……永遠にお側の近くに置いてほしい。私を、二度と一人にしないでくれ……」
すすり泣く美貌の青年。
誇り高き名門貴族の領主が、一人の異国の女性の前で完全に心を砕き、己の魂の主導権を丸ごと差し出している姿。
「…………」
志乃は、胸元にすがりつくアシェルの銀髪を見下ろしながら、呆然としていた。
(……ひ、重い……! アシェル様の感情の利息が、トイチどころか秒単位で複利計算されて膨れ上がってる……!!)
元経理OLとして、多くの数字と契約書を扱ってきた志乃だったが、目の前で繰り広げられるこの「命を懸けた激重プロポーズ」に対する仕訳勘定は、現代のどの企業会計基準にも存在しなかった。
だが――。
冷え切っていた泥水の中から、必死に手を伸ばして自分を救い主と定めた男の、この切実すぎる温もり。
誰からも顧みられず、使い潰されるだけだった十年間を過ごしてきた志乃にとって、これほどまでに己の存在を全霊で求められる感覚は、決して不快なものではなかった。
志乃は小さく息を吐き、おずおずと右手を伸ばした。
そして――アシェルのサラサラとした銀髪の上に、優しく掌を乗せて撫でた。
「……分かったわ、アシェル様」
「志乃……」
「捨てたりしないわよ。契約書にサインしたでしょう? 私はこの領地の最高財政執行官なんだから。あなたの胃潰瘍が完全に治って、この領地が大陸一豊かになるまで……責任を持って、あなたの隣にいてあげるわ」
志乃が微笑むと、アシェルは顔を上げ、濡れた碧眼を眩いばかりに輝かせた。
その顔には、救われた子供のような、無垢で純粋な歓喜の笑みが咲き誇っていた。
「ああ……! 志乃……私の、光……!」
アシェルが再び志乃の手を握りしめ、胸元へと抱きしめようとした――その時だった。
コンコン、と控えめだが鋭いノックの音が、執務室の扉を鳴らした。
「……チッ」
アシェルが舌打ちをした。
普段の気品ある貴族らしからぬ、あからさまに不機嫌な舌打ちに、志乃は思わず目を丸くした。
「どなたですか」
アシェルが冷たい声で応じると、扉が静かに開いた。
立っていたのは、ラインハルトだった。
黒髪の騎士団長は、部屋に入るなり、長椅子の傍らに跪いて志乃の手を握りしめているアシェルの姿を一瞥した。
その瞬間、ラインハルトの漆黒の瞳に、ピシリと青白い火花が散った。
「……領主様。志乃様に、随分と無作法な距離で侍っておられるようですが」
「ラインハルトか。……志乃の看病をしていただけだ。何の用だ、邪魔をするな」
二人の美男子の視線が空中で激突し、バチバチと見えない火花を散らす。
志乃は慌ててアシェルから手を引き抜いた。
「ちょ、二人とも喧嘩しないで! ラインハルト、どうしたの?」
「ハッ、志乃様」
ラインハルトはアシェルを冷ややかに無視し、志乃に向き直ると、姿勢を正して報告を始めた。
「外の除雪作業を進めていた偵察隊から、緊急の報告が入りました。……嵐が去り、雪解けが始まったばかりの南の渓谷街道に、見慣れぬ豪奢な馬車が近づいてきているとのことです」
「馬車……? この雪の中を?」
志乃が眉をひそめる。二メートル近い新雪が積もっているはずの街道を、嵐が去った直後に強行突破してくるなど、並大抵の者ではない。
「はい。黒塗りの豪奢な馬車に、掲げられているのは……黄金の天秤の紋章。周辺地域の経済を一手に牛耳る、商人ギルド連合の紋章です」
ラインハルトの表情が険しく引き締まった。
「……乗っているのは間違いありません。裏社会にも通じる冷酷無比な若きギルド長――ゼノ・アルヴィスです」
未曾有の大寒波を無傷で乗り切ったヴァルハイト領に、次なる嵐の気配が、音もなく忍び寄っていた。




