第16話:大鍋のインスタント味噌汁
ゴオオオォォォォォ――ッ!!
ドガァン、メキメキッ!
重厚な石造りの外壁の向こう側で、巨人が暴れ回っているかのような凄まじい地鳴りと暴風の咆哮が、絶え間なく城全体を揺るがしていた。
時折、吹き飛ばされた巨木か氷塊が城壁に激突する鈍い音が響き渡る。
正午を回り、ついに本格的な猛威を振るい始めた『大魔雪嵐』。外気温は予告通り、零下二十度という生命の生存を許さない死の領域へと突入していた。窓枠を目張りしたブルーシートが、内側へ向かって風圧でパンパンに膨らみ、悲鳴のような風切り音を立てている。
大広間の中は、志乃の指揮によって敷き詰められた極厚ブルーシートと断熱アルミシートのおかげで、床からの底冷えは完全にシャットアウトされていた。百五十名の領民たちの体温が銀色のシートに反射し、室温は十度前後を保っている。
だが――物理的な寒さは凌げたものの、大広間を支配する空気は依然として重く、暗かった。
「……おい、外の音を聞いたかよ」
「村のあたいらの家……もう吹き飛んじまったんじゃねえか……?」
「もし嵐が三日どころか、一週間も続いたらどうなるんだ……」
身を寄せ合う領民たちの顔には、恐怖と不安が色濃く張り付いていた。
そして何より、彼らを精神的にも肉体的にも追い詰めていたのは、容赦のない「空腹」だった。
避難を急ぐあまり、持ち出せた食糧などほとんどない。そもそも村には、まともな食糧の蓄えなど最初から存在しなかったのだ。
ぐうぅぅ……と、誰かの腹が情けない音を立てた。
それを皮切りに、あちこちから胃袋の悲鳴が連鎖していく。
「お腹すいたよ……母ちゃん……」
「我慢しておくれ……。じきに嵐も去るから……」
泣きじゃくる幼子の背中をさする母親の顔も、極度の飢えで青白くやつれていた。
寒さは防げても、腹を満たさなければ人間の生命力は刻一刻と削られていく。嵐の音に怯え、飢えに苛まれ、大広間全体がじわじわと負の感情に呑み込まれそうになっていた。
「……アシェル様」
大広間の隅に控えていた老執事バルトロが、胸元を痛ましそうに押さえながら呟いた。
「城の備蓄庫に残っていた乾パンと干し肉は、先ほどすべて配り終えました。……しかし、百五十名の胃袋を満たすには、あまりにも雀の涙。このままでは、嵐が明ける前に皆の気力が尽きてしまいます……」
「分かっている……分かっているんだ、バルトロ」
アシェルは銀髪を乱し、唇を血が滲むほど噛み締めていた。
領主として、民を城へ招き入れることはできた。床の寒さを防ぐ術も、志乃の奇跡によって手に入れた。だが、彼らに食わせる物がない。空腹に耐えかねて泣く子供たちの声が、アシェルの胸をナイフのように切り刻んでいた。
その時だった。
「はいはい、そこまで! 全員、暗い顔をしてうずくまるのはストップ!」
大広間の重苦しい空気を切り裂くように、凛とした快活な声が響き渡った。
神崎志乃だった。
腕まくりをし、髪をきっちりとポニーテールに結び直した志乃が、大広間の一角――風通しの良い東側の回廊へ通じるアーチの前に立っていた。
その足元には、昨夜のうちに運び込まれていた巨大な段ボール箱の山と、銀色に光り輝く巨大な金属製の鍋が鎮座していた。
「志乃……?」
アシェルが顔を上げる。
「寒さを防いだら、次は胃袋を満たす番よ。……お腹が空いてちゃ、どんな屈強な戦士だって幽霊みたいに気弱になるわ。人間、温かいものを腹いっぱいに詰め込めば、大抵の絶望は笑い飛ばせるものなのよ!」
志乃は腰に両手を当て、大広間に集まった領民たち全員を見渡した。
「村のみんな、待たせたわね! 今から、熱々の炊き出しを始めるわよ!」
*
「ラインハルト! ユーリ! 設営班、持ち場につきなさい!」
「ハッ!」
志乃の号令一下、黒い防寒ギアに身を包んだ騎士たちが即座に行動を開始した。
まず志乃が着手したのは、調理環境の「安全確保」だった。
「ユーリ、東側の小窓の目張りを、上部だけ十センチほど開けなさい。それと、回廊へ抜ける扉の隙間も少しだけ確保すること!」
「えっ? 志乃様、せっかくの温かい空気が逃げてしまいませんか?」
ユーリが不思議そうに首を傾げる。
「いいのよ。これは絶対の鉄則よ。『換気』を怠ったら、ガスコンロの不完全燃焼で一酸化炭素中毒を起こして全員あの世行きよ。無色無臭の気体で気づかないうちに死ぬなんて、経理の労働安全衛生管理基準に照らし合わせても絶対許容できないリスクだわ。天井付近の冷気排出口と、空気の通り道をしっかり確保しなさい!」
「は、ハッ! 承知いたしました!」
志乃の徹底した危機管理のもと、空気の流れが計算された一角に調理スペースが構築された。
続いて、熱源の設置だ。
志乃は段ボール箱から、真新しいオレンジ色のハードケースを取り出し、パチンと留め具を外した。
中から現れたのは、岩谷産業の誇るフラッグシップモデル――『カセットフー・タフまる(業務用高火力こんろ)』だった。
風に強く、耐荷重二十キロを誇る屈強なガスコンロが、頑丈な作業台の上に三台並べられる。
「ダンさん、これを見てて」
志乃はコンロのマグネット式ホルダーに、純正カセットガスボンベをカチリとセットした。
そして、器具栓つまみを左へ一気に捻る。
カチッ、ボッ――ゴォォォォォッ!!
「うわああああっ!?」
近くで見ていた鍛冶屋のダンが、飛び退いて悲鳴を上げた。
バーナーの多孔式バーナーヘッドから、目も眩むような鮮やかな「青い炎」が、円を描くようにして勢いよく噴き出したのだ。
薪の爆ぜる赤い炎ではない。煤も煙も火の粉も一切出さず、ただ圧倒的な熱量だけを静かに放ち続ける、純粋なガスの蒼炎。
「な……なんだこの炎は!? 煙が……煙が一切出ねえぞ!? 薪も炭も使わねえで、この小さな金属缶一つで火が点いたってのか!?」
ダンが目を剥いて腰を抜かす。火を扱う鍛冶屋の親方だからこそ、煙を出さずにこれほどの高火力を生み出す技術の異常性が、骨の髄まで理解できたのだ。
「これが、私の世界のガス火よ。……さあ、感心してないで鍋を乗せるわよ!」
ドスン、とコンロの上に据え付けられたのは、業務スーパーで仕入れてきた容量四十リットルの大型ステンレス寸胴鍋だった。
中には、城の最深部にある岩盤の地下水脈から、騎士たちが汲み上げてきた清冽な地下水がたっぷりと満たされている。
「水は必ず『完全沸騰』させること! どれほど澄んで見えても、加熱殺菌を怠れば雑菌や寄生虫のリスクがあるわ。沸騰してから最低五分はグラグラ煮立たせるのよ!」
強烈な蒼炎に熱せられ、極厚ステンレスの寸胴鍋はみるみるうちに温度を上げていく。
シュンシュンと小気味よい音が鳴り始め、やがてボコボコと激しい気泡とともに、純白の熱い湯気が天井へと立ち上り始めた。
「よし、沸騰完了! ここからが本番よ!」
志乃は腕まくりをし、手元に用意した食材の段ボールを開封した。
中世の住人には見たこともない、現代日本の食品加工技術の結晶が、次々と姿を現す。
まず投入されたのは、味のベースとなる「出汁」だ。
「ヤマキの業務用だしの素(鰹・昆布合わせだし)」の特大袋から、サラサラとした茶色い顆粒が、湯気立つ熱湯の中へ豪快に振り入れられる。
その瞬間――。
ふわっ、と大広間の一角に、上品で力強い鰹節の燻した香りと、昆布の芳醇な旨味の香気が広がった。
「……な、何の匂いだ……? 魚……? 海の魚の匂いなのか……?」
内陸の山岳領地で暮らす領民たちにとって、海産物の香りは貴族の食卓ですら滅多にお目にかかれない至高の贅沢だった。鼻腔をくすぐる濃厚な香りに、領民たちが一斉に首を伸ばす。
だが、志乃の攻撃は留まるところを知らない。
「次! 具材を一気に投入するわよ!」
志乃が取り出したのは、業務スーパーの棚を買い占めてきた『豚汁の具(水煮パウチ・一キログラム入り)』だった。
すでに一口大にカットされ、下茹で処理が施された大根、人参、ごぼう、里芋、こんにゃくのミックスパウチ。これを五袋――合計五キログラムの根菜が、ドバドバと大鍋の中へ雪崩れ込んでいく。
さらに、冷凍の国産豚バラ肉スライス(二キログラム)を投入。
熱湯の中で解けた豚肉から、上質な脂の甘みと旨味がジュワリとスープの中へ溶け出し、立ち上る湯気が一気に白濁してコクを帯びていく。
加えて、三陸産の乾燥カットわかめを鷲掴みにして放り込むと、漆黒の縮れた海藻が熱湯を吸って瞬く間に鮮やかな深緑色へと膨らみ、鍋一面に広がった。刻み油揚げの黄金色の短冊が、スープの表面を隙間なく埋め尽くす。
そして――真打ちの登場だった。
「仕上げはこれよ!」
志乃が両手で掲げたのは、業務スーパーの誇るメガヒット商品――『業務用・特選合わせ味噌(一キログラム入り)』の巨大な角型パックだった。
厳選された米味噌と豆味噌を絶妙な比率でブレンドし、酒精で発酵を止めた、香り豊かな熟成味噌。
志乃は大型の泡立て器とお玉を使い、一キロパックを丸ごと二つ、豪快に煮え立つ鍋の中へ溶き入れていった。
ジュワァァァァ……ッ!!
熱々の出汁と豚肉の脂に、熟成された合わせ味噌が溶け合った、まさにその瞬間だった。
――ボワッ!!
暴力的なまでの、圧倒的な芳香が炸裂した。
大豆が発酵によって生み出した、深みのある甘やかな大地の香り。
鰹節と昆布の濃厚な出汁の風味。
じっくりと煮込まれた豚バラ肉の甘い脂の香気。
そして、ごぼうと大根の素朴で力強い大地の匂いが渾然一体となり、純白の濃厚な湯気となって、大広間の隅から隅へと津波のように押し寄せていった。
「…………っっっ!!!!」
大広間にいた百五十名の領民が、同時に息を呑んだ。
ゴクリ、ゴクリ、ゴクリ……ッ!
部屋のあちこちから、喉を鳴らす乾いた音が重なり合って響く。
飢えと寒さで項垂れていた老人たちが、弾かれたように顔を上げた。母親の胸で泣きじゃくっていた子供たちが、涙を拭うことすら忘れて鼻をヒクヒクと動かしている。
「な……なんだ、この匂いは……!?」
「いい匂いだ……信じられないくらいいい匂いがするぞ……!」
「腹の奥が……匂いを嗅いだだけで、胃袋が痙攣しそうだ……!」
中世の粗悪な食生活しか知らない彼らにとって、それはもはや「料理の匂い」という認識すら超越していた。魂を直接揺さぶり、生きる本能を激しく覚醒させる、天上の香気そのものだった。
「はい、煮え花よ! 味噌の香りが飛ばないうちに配るわよ!」
志乃は手袋をはめた手で、巨大なお玉を構えた。
「ラインハルト、ダンさん! 配膳を手伝って! 使い捨てのどんぶりに、具を山盛りによそってあげるのよ!」
「ハッ……!」
「お、おう! 任せとけ!!」
発泡スチロール製の断熱どんぶりに、熱々の豚汁風味噌汁が注がれていく。
豚バラ肉、大根、里芋、人参、ごぼう、油揚げ、わかめ――器から溢れんばかりに盛られた具材の上に、黄金色の豚の脂が浮いた、濃厚な味噌のスープがたっぷりと満たされる。
熱い汁を注いでも外側が熱くならない断熱どんぶり。冷えた手で持てば、心地よいじんわりとした温もりが掌に伝わってくる。
「まずは、子供たちと年寄りから! こぼさないように、両手でしっかり持ってね!」
志乃が真っ先にどんぶりを手渡したのは、完治したばかりのリディだった。
「リディ、熱いから気をつけてね。ふーふーして食べるのよ」
「うん……! ありがとう、志乃お姉ちゃん……!」
リディは両手で大切そうに器を受け取ると、立ち上る湯気に顔を近づけ、息を吹きかけた。
そして――震える小さな口を器の縁にあて、おそるおそる熱い汁をひと口、啜った。
その瞬間。
リディの栗色の瞳が、信じられないほど大きく見開かれた。
「…………っ!!」
口の中に広がったのは、かつて一度も体験したことのない、重厚で優しい旨味の奔流だった。
味噌のまろやかな塩気と甘み。豚肉の脂のコク。根菜の素朴な滋味。それらを下から力強く支える、豊かな魚と海藻の出汁。
舌の上で転がる熱い液体が、食道を通って胃袋へ落ちていった瞬間――冷え切っていた少女の小さな身体の芯に、カッと熱い炎が灯った。
「……おい……しい……」
リディの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「おいしい……! おいしいよ、お姉ちゃん……! あったかい……すごく、あったかいよ……!!」
リディは割り箸を器用に使い、トロトロに煮込まれた豚バラ肉と里芋を口いっぱいに頬張った。柔らかくほどける肉の旨味に、小さな頬を落っこちそうなくらい膨らませながら、無我夢中で汁を啜り続ける。
続いて、どんぶりを受け取った村の長老――先ほどまで凍土を掘って草の根を齧っていた老人が、震える手で汁を口に含んだ。
「……ん……っ……!」
老人の皺だらけの顔が、くしゃくしゃに歪んだ。
「うまい……うまい……! なんじゃ野良の汁とは違う……! 泥臭さも、青カビの酸味も欠片もない……! 塩が……塩の角が丸うて、腹の底から……力が……血が滾ってくるようじゃ……!」
老人は器に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくりながら、最後の一滴まで汁を飲み干した。
「うまいぞ!」「なんだこの肉は、口の中で溶けちまう!」「芋が……芋が甘くて柔らかい!」「あったかい……生き返る……! 本当に生き返るぞ!!」
大広間のあちこちから、歓喜の叫びと、すする音、そして安堵の嗚咽が沸き起こった。
百五十名の領民全員に、熱々の味噌汁が行き渡っていく。
誰もが一言も無駄口を叩かず、ただ目の前の一杯の椀に魂を込め、熱い汁を胃袋へと流し込んでいた。
一杯、また一杯。
大鍋二つ、合計八十リットルの豚汁風味噌汁が、飛ぶような勢いで領民たちの腹の中へと消えていく。
冷え切っていた胃袋に、高カロリーの豚肉と塩分、ビタミンを豊富に含んだ温かい根菜、そして発酵食品の味噌が満たされたことで、領民たちの蒼白だった顔に、みるみるうちに生き生きとした血色が蘇っていった。
青紫に変色していた唇は健康的な桜色になり、強張っていた肩の力が抜け、あんなに絶望に沈んでいた大広間に、穏やかな笑顔と温かな話し声が満ち溢れていく。
さらに、志乃の手は止まらなかった。
「食べ終わった子供たちと、お年寄り! こっちへ来なさい!」
志乃が取り出したのは、昨夜運び込んだ桐灰の『貼るマグマ』の山だった。
「服を少しめくって。背中の、この肩甲骨の間に貼るわよ」
志乃は子供たちの粗末な服の裏地――背中の中心に、ペタペタとカイロを貼り付けていった。
数十秒後、じわりと背中から湧き上がる強烈な温もりに、子供たちが目を丸くして歓声を上げる。
「うわっ! 背中があったかい!」「お日様を背負ってるみたいだ!」「母ちゃん、背中から火が出てるよ!!」
大広間の中は、もはや嵐の避難所などではなかった。
床はアルミシートで底冷え知らず。
背中には無詠唱の温熱カイロ。
そして腹の中には、熱々で濃厚な極上の豚汁。
外では零下二十度の魔雪嵐が、木々をへし折りながら荒れ狂っているというのに――密閉された城の大広間は、春の陽だまりのような、絶対的な安息と幸福の空間へと完全に作り変えられていた。
「…………」
大広間の中央で、アシェルは立ち尽くしていた。
自らの両手に持った、志乃から渡された味噌汁のどんぶり。
そこから立ち上る湯気の向こうで、領民たちが笑顔で語り合い、子供たちが元気に笑い、老人たちが感謝の涙を流している光景を、アシェルはただ呆然と見つめていた。
泥水をすすり、領民を見殺しにする恐怖に怯え、自害すら考えていた数日前までの自分が、まるで遠い前世の記憶のように思える。
「……代々の領主が……」
アシェルの喉から、掠れた声が零れ落ちた。
「我がヴァルハイト家の先祖が……誰一人として成し遂げられなかったことだ。……あの凶悪な魔雪嵐の真っただ中で……領民が飢えず、凍えず、笑い合っているなんて……」
アシェルは器に口をつけ、熱い味噌汁を一口啜った。
五臓六腑に染み渡る、慈悲深い大地の味。
アシェルの深い碧眼から、大粒の涙がポロポロと零れ落ち、どんぶりの中へと波紋を作った。
「志乃……」
アシェルはどんぶりを抱えたまま、ゆっくりと志乃の元へと歩み寄った。
大鍋の前に立ち、額の汗を拭いながら満足そうに領民たちを見守る、小柄な黒髪の女性。
その背中を見つめるアシェルの瞳には、もはや感謝や敬意という言葉では到底足りない、狂おしいほどの崇拝と、魂の底からの愛慕の炎が、激しく燃え盛っていた。
「志乃……君は……本当に……」
アシェルが震える声で呼びかけると、志乃は振り向き、いつものように屈託のない笑顔を浮かべた。
「お代わりあるわよ、アシェル様。……いっぱい食べて、しっかり体力をつけなさいね」
その笑顔に射抜かれた瞬間、アシェルの心臓は、嵐の雷鳴よりも激しく、熱く跳ね上がっていた。




