第15話:体育館スタイルの避難所設営
翌朝、午前九時。
空はもはや昼か夜かの判別すらつかないほどに暗澹たる濃灰色へと沈み、北の地平からは、魔力を孕んだ紫色の雷鳴が不気味に轟いていた。
外気温はすでに氷点下五度を下回り、呼吸をするだけで鼻腔の粘膜が張り付くような乾いた刺痛が走る。
ヴァルハイト城の正面跳ね橋を渡り、城門をくぐって続々と押し寄せてきたのは、城下の村から避難してきた領民たちだった。
その数、およそ百五十名。
村に残る三百名のうち、倒壊の危険が極めて高い泥壁の掘っ立て小屋に住んでいた老人、幼子を抱えた母親、栄養失調で足腰のおぼつかない病弱な者たちを、ラインハルト率いる騎士団が夜通しで説得し、最優先で城内へとピストン誘導したのだ。
だが――大広間へと通された領民たちの表情には、安堵の色など微塵もなかった。
「……さ、寒い……」
「歯の根が合わねえ……。おい、城の中なら温かいんじゃなかったのかよ……」
「石が……床が氷のようだ……。座ったら最後、尻から凍りついて動けなくなるぞ……」
身を寄せ合う領民たちが、歯をガチガチと鳴らしながら震えていた。
大広間は先日、志乃たちの手によって数百年の煤と埃を洗い流され、新築同然の清潔さを取り戻していた。しかし、元が中世の堅牢な石造り建築である以上、気密性と断熱性という観点においては致命的な欠陥を抱えていた。
石畳は外気温をそのまま吸い上げ、まるで巨大な氷盤のように底冷えを放っている。
さらに、見上げるほど高い吹き抜けの天井や、ステンドグラスの嵌まる大窓の隙間からは、冷たい隙間風が容赦なく吹き下ろし、広大な空間を巨大な冷蔵庫へと変えていた。
暖炉には僅かな薪がくべられていたが、広さに対してあまりにも無力。火の粉が爆ぜる音だけが虚しく響き、暖炉から数歩離れれば、そこはただの極寒地獄だった。
「母ちゃん……足が痛いよ……寒いよ……」
襤褸布に包まれた幼子が泣きじゃくり、母親が自らの体温で暖めようと必死に抱きしめるが、その母親の唇も紫色に変色し、震えが止まらない。
「……アシェル様」
避難してきた領民の代表として、村の鍛冶屋親方ダン(四十五)が、荒くれた髭面を歪めて進み出た。分厚い革のエプロンをまとい、寒さで赤銅色の皮膚を強張らせた巨漢が、悔しげに拳を握りしめている。
「避難しろって言われたから家財を捨てて登ってきたが……これじゃあ、小屋の中で身を寄せ合っていた方がまだマシだったんじゃねえか? この広間で三日間も転がされてみろ、嵐が来る前に年寄りと子供から順に凍死しちまうぞ!」
「ダン、滅多な口を利くな!」
傍らに控えていたラインハルトが鋭く叱責したが、アシェルは痛ましそうに俯き、自らの無力さに唇を噛み締めることしかできなかった。
「すまない、ダン……。城の薪がこれほど不足しているとは……私の見通しが甘かったんだ……」
アシェルの銀髪が肩から零れ落ち、深い碧眼に絶望の影が差しかけた――その時だった。
「謝るのはそこまでよ、アシェル様」
大広間の重厚な扉を開け放ち、澄んだ声とともに歩み入ってきたのは、ネイビーの防寒ワークジャケットに身を包んだ神崎志乃だった。
手には、前夜に搬入しておいた業務用の緑色のテープを抱え、首元には作業用のタオルを巻いている。
その背後には、副官ユーリをはじめとする騎士たちが、昨夜のうちにガレージから運び込まれた巨大な青いシートの束や、銀色に輝く円柱状のロール、そして段ボール箱を担いで列をなしていた。
「志乃……!」
アシェルが縋るように顔を上げる。
志乃は広間に集まった領民たちの様子を冷徹な視線で見渡した。
床に直接座ることを恐れて立ち尽くす人々。震える子供を抱きしめる母親。冷え切った空気が肺腑を削り取っていく音。
(……予想通りの光景ね)
志乃は心の中で冷静に状況を分析した。
ブラック企業の総務経理時代、彼女はオフィスの防災マニュアル作成だけでなく、地域のBCP(事業継続計画)講習や防災士のセミナーにも強制参加させられていた。そこで徹底的に叩き込まれたのが、「冬期における避難所運営の鉄則」だった。
避難所で最も恐ろしいのは、外の吹雪ではない。
床から体温を吸い上げられる「底冷え(床冷え)」による低体温症だ。
空気の熱伝導率に比べ、固体の石やコンクリートの熱伝導率は数十倍から百倍近い。人間が冷たい石の上に直接座ったり寝転がったりすれば、体重で押し潰された衣服の空気層が失われ、体温は文字通り濁流のように床へと奪い去られていく。体温が三十五度を下回れば意識混濁を起こし、三十度を切れば心室細動で心肺停止に至る。
「ダンさん、あなたの言う通りよ」
志乃は鍛冶屋の親方を見据え、はっきりとした声で告げた。
「このままの石畳の上に寝転がれば、全員が三日と持たずに低体温症で命を落とすわ。だから――今からここを、絶対に体温を逃さない『無敵の避難所』に作り変えるのよ」
「な……作り変えるって、大工仕事でもするってのか!? 嵐はもうそこまで迫ってんだぞ!」
「木材も釘も使わないわ。使うのは、私の世界で何万人もの命を寒さから守り抜いてきた『知恵と資材』よ!」
志乃はパンッと両手を打ち鳴らし、大広間の中央へと進み出た。
「ラインハルト! ユーリ! 騎士団の全員と、手隙の若い男衆を集めなさい! 設営班を編成するわよ!」
「ハッ!」
ラインハルトの号令一下、十名の騎士と、ダンをはじめとする屈強な村の若者たち約二十名が、志乃の前に整列した。
「いい、よく聞きなさい。設営は二段階で行うわ。第一段階は『床冷えの完全遮断』。第二段階は『空間の局所密閉』よ!」
志乃は床に置かれた巨大な包み――『極厚ブルーシート#3000番(十メートル四方)』の結束バンドをハサミで切り飛ばした。
「まずはこれ! 四人で端を持って、石畳の上に隙間なく広げなさい!」
バサァァッ!と乾いた音が響き、鮮やかな群青色のシートが大広間の石畳の上へと敷き詰められていく。
一枚、二枚、三枚――。
わずか十分足らずで、冷え切っていた大理石の床面が、一面の青い絨毯のように覆い尽くされた。
「ダンさん、シートの端がめくれないように、壁際をこのテープで留めて!」
志乃がダンに手渡したのは、緑色のロール――寺岡製作所の『養生テープ』だった。
「な、なんだこの薄っぺらい布の帯は……? 糊がついているのか?」
「養生テープよ。手で真っ直ぐ切れて、強力に張り付くのに、剥がす時には糊が残らない神のテープよ。見てて」
志乃はテープの端を引き出し、ブルーシートの端と石壁の隙間にペタリと貼り付けると、指先でピッと真横に裂いてみせた。
パリッ、と心地よい音を立てて、刃物も使わずに寸分の狂いもなく真っ直ぐにテープが切れる。
「な……っ!? 刃物もなしに、手で切れたぞ!?」
ダンが目を丸くした。
「それなのに……おい、引っ張ってもびくともしねえ! 石の壁にガッチリ食らいついてやがる!!」
「感心してないで手を動かして! シートの継ぎ目と壁際を全部、十センチ重ねてテープで目張りするの! 石畳から上がってくる湿気と冷気を、このシート一枚で完全に閉じ込めるのよ!」
「お、おう! 任せとけ!!」
ダンの太い指先が、目にも留まらぬ速さでテープを貼り、引き裂いていく。職人の血が騒いだのか、他の若者たちも競い合うようにテープを手に取り、ブルーシートの継ぎ目を密閉していった。
「次! 第二層目を敷くわよ!」
志乃が次に指示したのは、銀色のロール――『四ミリ厚・高断熱アルミ蒸着PEフォームシート』だった。
梱包を解き、ブルーシートの上に転がすと、スルスルと眩い銀色の帯が広がっていく。
「うわっ……なんだこの銀色の敷物は!? 鏡みたいに光ってやがる!」
ユーリが声を上げる。
「ポリエチレンの独立気泡フォームの上に、本物のアルミニウムを蒸着させた断熱シートよ」
志乃はシートの構造を簡潔に説明した。
「下側の四ミリの発泡ポリエチレンが、ブルーシートを通り抜けてくる微小な冷気の伝導を完全にブロックする。そして、この上面のアルミ箔が――座った人間の身体から放出される『赤外線(体温)』を、鏡のようにそのまま跳ね返すのよ!」
「体温を……跳ね返す……!?」
アシェルが息を呑んだ。
「そうよ。暖房がなくても、人が座るだけで自分の熱でシートが温まる構造なの。……さあ、ブルーシートの上に、このアルミシートを敷き詰めなさい! 銀色の面を上に向けること! 継ぎ目は全部、養生テープで隙間なく塞ぐのよ!」
大広間が、熱気と活気に包まれ始めた。
騎士たちと村人たちが声を掛け合い、息を合わせて銀色のシートを広げていく。
バサッ、ピリッ、ペタッ。
リズミカルな作業音が木霊し、灰色の冷え切った大広間の床が、見る見るうちに太陽光を浴びた湖面のような、まばゆい白銀のフロアへと変貌していく。
「そして……仕上げよ!」
志乃は脚立を引き寄せ、大窓の下へと据えた。
「ラインハルト、脚立を支えて。ユーリ、残ったブルーシートと養生テープを持って上へ登りなさい!」
「ハッ!」
志乃の指示に従い、騎士たちが高い窓枠へと取り付いた。
ステンドグラスは綺麗になったものの、古い木枠と石壁の隙間からは、外の冷気がピューピューと音を立てて吹き込んでいた。
志乃はブルーシートを縦に裂き、窓枠全体を覆うようにして、四方を養生テープで石壁にベタベタと貼り付けさせた。
「窓を……塞ぐのですか?」
見上げていたバルトロが尋ねる。
「そうよ。『二重窓』の原理よ。窓とシートの間に動かない空気の層を作ることで、外の冷気が直接部屋に入り込むのを防ぐの。隙間風が入ってくる出入り口の扉も、人が通る場所以外は全部シートで塞ぎなさい!」
高い吹き抜けの梁にもロープを渡し、ブルーシートを吊り下げて「仮設の間仕切り天井」を構築。広すぎる大広間の上部に逃げてしまう暖かい空気を、人間が暮らす床上二メートルの空間に閉じ込めるための『局所密閉』だ。
午前十一時三十分。
作業開始から約二時間半。
かつて冷気と隙間風が吹き荒れていた廃城の大広間は――日本の被災地で幾度となく人命を救ってきた、完璧な『体育館スタイル避難所』へと生まれ変わっていた。
床一面に敷き詰められた、極厚ブルーシートと銀色に輝く断熱アルミシート。
継ぎ目という継ぎ目はすべて緑の養生テープで完全に目張りされ、石畳の冷気は完全にシャットアウトされている。
窓と扉の隙間は密閉され、あんなに不気味に響いていた外の風鳴りが、まるで分厚い壁の向こうの遠雷のように、くぐもった音へと遮断されていた。
「……設営、完了よ!」
額の汗を拭った志乃が、息を整えながら告げた。
「村のみんな、立っていないで、靴を脱いでシートの上に上がりなさい! 荷物を置いて、腰を下ろしてごらんなさい!」
広間の隅で身を縮めていた百五十名の領民たちが、恐る恐る顔を見合わせた。
見慣れない青と銀のシート。中世の平民にとって、それはまるで異国の神殿の床のようであり、土足で上がることすら躊躇われる美しさだった。
「ほら、おいで」
女医のマーシャが、回復したリディの手を引き、真っ先に靴を脱いでシートの上へと一歩を踏み出した。
その瞬間――マーシャの足がピタリと止まった。
「……え……?」
「マーシャ先生、どうしたんだい?」
後ろの村人が声をかける。
マーシャは信じられないものを見るように、足の裏をモゾモゾと動かし、それから銀色のシートの上にペタリと直接腰を下ろした。
そして――手の平を、シートの表面へと押し当てた。
「な……に、これ……?」
マーシャの瞳が、驚愕に見開かれた。
「冷たく……ない……!? 石の冷たさが……まったく上がってこないわ……!!」
「えっ!?」
その声を聞いたダンや老人、子供たちが、我先にと靴を脱ぎ捨て、銀色のシートの上へと雪崩れ込んだ。
次々とシートの上に座り込み、手で床を撫で回す領民たち。
その瞬間、大広間のあちこちから、悲鳴にも似た歓声が爆発した。
「本当だ……! 地べたが冷たくねえ!!」
「痛くないぞ! 柔らかい……ほんの少し沈み込んで、お尻が痛くねえんだ!」
「あったかい……! 座っているだけで、自分の尻の温もりが……下からポカポカ返ってくるぞ!!」
「風が……風が入ってこない! さっきまであんなにピューピュー鳴っていた隙間風が、ピタリと止まってらあ!!」
抱き合って涙を流す母親と子供たち。
足を投げ出してシートを撫で回す老人たち。
かつて冬の寒さに怯え、凍死の恐怖に震えていた百五十名の人間が、生まれて初めて体験した「床からの底冷えが存在しない世界」。
さらに、驚くべき現象が起き始めていた。
百五十名の人間の体温。約三十六度の熱源が、断熱シートと密閉された空間の中に密集したことで――熱が逃げ場を失い、大広間の室温が、ぐんぐんと目に見える速度で上昇し始めたのだ。
入室した直後は吐く息が真っ白だった室内。
それが、わずか数十分のうちに、白い息が消え去り、ほんのりとした人肌の温もりが部屋全体を満たしていった。
「あ……ああ……」
アシェルが、銀色のシートの上に膝をついたまま、震える手で自らの頬を覆った。
その深い碧眼から、大粒の涙が零れ落ち、アルミシートの表面にポタリと弾けた。
「……信じられない……。暖炉の火を増やしたわけでもないのに……薪を一本も燃やしていないのに……こんなに温かいなんて……!」
アシェルは顔を上げ、志乃の手をそっと握りしめた。
男の指先は、すでに冷たさを失い、熱い血が通っていた。
「志乃……君の知恵は……君の世界の技術は、本当に魔法以上だ……。代々の領主が……何百年もの間、誰一人として解決できなかった『石城の寒さ』を……君は、たった数時間で……あの青い布と銀の敷物だけで、完全に打ち負かしてしまった……!」
「魔法じゃないわよ」
志乃は照れくさそうに笑い、アシェルの手を優しくポンと叩いた。
「ただの熱力学と、被災地の知恵よ。熱を伝えるのを防ぎ、熱を反射させ、隙間風を塞ぐ。当たり前の理屈を形にしただけよ」
「その当たり前が……私たちにとっては、神の奇跡そのものなんだ……!」
アシェルは志乃の手を自らの両手で包み込み、熱い吐息を漏らしながら、額を押し当てた。その眼差しには、もはや一人の協力者に対する感謝の枠を完全に超え、己の魂を救い上げてくれた唯一無二の存在への、烈火のような熱狂と依存が宿っていた。
背後では、ラインハルトが大剣を抱えながら、満足そうに鼻を鳴らしていた。
「見たか、ダン。これが志乃様の御力だ」
「へへっ……参ったぜ、団長」
ダンが頭を掻きながら、志乃に向かって深々と頭を下げた。
「疑って悪かった、志乃様……! あんたは本物の聖女様だ! このシートと緑のテープ……俺の鍛冶屋の技術なんざ足元にも及ばねえ、とんでもねえ神器だぜ!!」
ゴオオオォォォォォォッ――!!
その時、大広間の外壁を揺るがすように、凄まじい地鳴りと突風の咆哮が轟いた。
窓のブルーシートがバタバタと激しく煽られる。
正午。
ついに――『大魔雪嵐』の本体が、ヴァルハイト領の上空へと到達したのだ。
外は、一寸先も見えない猛吹雪。零下二十度の死の世界。
だが、密閉された大広間の中は、百五十名の体温とアルミシートの反射熱に守られ、穏やかな静寂と温もりに包まれていた。
誰一人として凍えていない。
誰一人として震えていない。
志乃は満足そうに頷き、腕を組んだ。
「寒さの防御壁は完璧ね。……さて、次は胃袋の番よ」
志乃の視線が、部屋の隅に置かれた大鍋と、カセットコンロの段ボールへと向けられた。
「みんな、寒さを凌いだらお腹が空いたでしょう? ……これから、熱々の大鍋炊き出しを始めるわよ!」
業務スーパーの合わせ味噌と乾燥わかめ、そして豚汁の具。
中世の住人たちの胃袋と心を根底から掌握する、現代の極上グルメ無双が始まろうとしていた。




