キューブ
砂漠で砂人形を作っていた僕とセシリーは、彼女の兄であるアーロンさんと遭遇した。
狭い村だ。出会いたくない人物と出会ってしまうのは仕方のないこと。これまでも何回かすれ違う機会があったけど、声を聞いたのは最初だけだ。とはいえ目に入ると、楽しい気分が台無しになった。
ただ、アーロンさんはこちらに気が付いた様子はない。そこだけが救いだった。
とにかく、刺激しないようにしたい。僕はセシリーとアイコンタクトを取って、ゆっくりとその場から離れようとした……んだけど。
「ウ……ゥゥ……ゥ……」
なんだか、アーロンさんの様子がおかしい。
いつもは不気味な薄ら笑いを浮かべているのに、今日は違った。プルプルと体を震わせている。目はまるで出血しているかのように充血し、体の血管が気持ち悪いほどに浮き出ていた。
「…………」
本能的に、僕は彼が怖いと思った。思わず後ずさって、セシリーと一緒に逃げようとした。
けれど、その小さな足音が、彼の耳に入ってしまったようだ。アーロンさんは血走った眼をこちらに向けて――
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」
吼えた。
それは、人間の言葉じゃなかった。
獣の、声。
アーロンさんは手で地面を掴み、獣のように四足歩行をしながらこちらに突撃してきた。犬歯をむき出しにしてよだれを垂れ流すその姿は、まるで獲物を捕らえた肉食獣のようだった。
とても……声で止まってくれるようには見えない。
なんだ、これ。なんで……こんなことに? 病気か何かなの?
アーロンさんは固まる僕を無視して、その隣にいるセシリーへと走って行った。
「セシリーっ!」
僕の声よりも早く、アーロンさんがセシリーに到達した。
「あっ……」
何の工夫もない、体当たりだ。
アーロンさんの体当たりによって、セシリーは吹き飛ばされてしまった。信じられない力だ。
「あ……う……」
激しく吹き飛ばされたセシリーだったけど、ここは障害物のない砂漠だ。彼女は地面の砂をクッションにして衝撃を吸収したらしく、大きな怪我をしているようには見えない。
だけど、それでもあの速度で吹き飛ばされてしまったんだ。軽い脳震盪のような状態らしく、起き上がろうとする動きに機敏さがない。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」
歯をむき出しにしたアーロンさんが、セシリーに近づいていく。何をしようとしているのか分からないが……その肉食獣じみた行動を見ていると、そのままでは彼女が食べられてしまうのではないかという危機感を持ってしまう。
「セシリーっ!」
呆けている場合じゃない。セシリーを守らないと。
僕は即座に走り、アーロンさんとセシリーの間に割って入った。策はない。けれど、彼女を守らなきゃって思って、自然に足が動いていた。
アーロンさんは僕が間に入ってもその動きを止めることはなかった。むしろその矛先をこちらに向けているようですらある。
「あ……う……」
な、なんとか、止めないと。
僕はアーロンさんの両手を掴んで止めようとしたが、とても力で敵いそうにない。ぐいぐいと後方に押されていく。彼の犬歯と、汚い唾液が僕の肩に触れようとしている。
ほ……本当に、肉食獣みたいに僕を食べるの?
僕は生まれて初めて死を覚悟した。
その瞬間、〈キューブ〉が煌めいた。
「え?」
〈キューブ〉。アドからもらっていた護身具。ずっと懐に入れて肌身離さず持っていたそれが、僕の身の危険を察知して機能し始めたらしい。
〈キューブ〉は光とともに急速に膨張し始め、そして新たな形へと変化していった。
その形は、盾。
僕の腕にびっちりと固定されたその盾は、狂ったアーロンさんの犬歯を受け止める。
瞬間、鈍い音がした。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
アーロンさんが悲鳴を上げた。
アーロンさんの犬歯は盾を受けた衝撃に耐えられず、折れてしまっているようだった。口から血をこぼしている。
しかし、その痛みでも彼は止まることなく、こちらに迫ってきている。
僕はその様子が信じられなかった。痛い、痛いってこれ。絶対に耐えられるような痛みじゃない。僕だったら涙を流しながら地面に倒れこんでいるはずだ。
それなのに、この人は。
本当に、正気を失ってしまっているんだと思う。
アーロンさんは叩けば痛いということを学んだ様子で、今度は盾に歯を突き出したりはしなかった。その代わりに片手で僕の盾を掴むと、思いっきり横に力を込めてきた。
「うわっ!」
どれだけ頑丈な盾を持っていても、それを持つ僕自身の力は情けないほどに非力だった。そしてそんな僕が持っている盾も、とても固いんだけど重量はそれほどじゃない。結果として、僕はその力に抗えず体勢を崩してしまった。
「オオオオオオオオオオオオオッ!」
無防備になった僕に、アーロンさんが再び迫る。
すると、またさっきと同じように〈キューブ〉が輝き変化を始めた。
その形態は盾だが、大きさが違う。僕自身の体を超えて、一瞬にして巨大化。逃げる間もなくお兄さんを激しく突飛ばした。
激しく吹き飛ばされたアーロンさんは、そのままの勢いでオアシスの木へと激突した。
「ごがはっ!」
激しい音とともに、口から血を吐き出したアーロンさん。そのまま倒れて動かなくなってしまった。
「…………」
やっちゃった。僕が直接やったわけじゃないけど、僕の〈キューブ〉がアーロンさんを攻撃した。殺しては……いないよね? いや、息はしているようだから大丈夫だ。
「ミコっ!」
セシリーが泣きながら僕に抱きついてきた。
「セシリー、無事だったんだね」
「ありがとう、ミコ。セシリーね、すごく怖かった。お兄ちゃんに、殺されるかと思った。怖かったんだよおお。うええええええん」
「もう……大丈夫だよ」
僕、は……。
塔の中で、ずっとアドたち身内と暮らしてきた。そこはすごく退屈で何もない場所だったけど、同時に争いのない平和な場所だった。彼らはみんな僕のことを崇めていて、僕に優しくて、手を出すことはもちろん暴言だって吐いてこないんだから。
だからこれは、僕にとって初めてのケンカなんだ。誰かと争い、そして勝ってしまうなんて初めての経験だった。
もちろん、すべては〈キューブ〉のおかげだ。僕が努力したわけでもなくて、特別頭脳を働かせたわけでもない。アドが護身具を僕に持たせた時点で、この結果は確定していたといっても過言ではない。
けれど、僕は思う。
逃げ出さず、セシリーを助けようとしたこの勇気だけは、間違いなく僕が生み出した本物の意思なんだって。
だから僕は、誇らしく思うことにしたい。
一人の少女を、こうして救うことができたというこの事実に。




