僕は旅がしたいんだ
それは、思い出の中にあるママとの会話。
――砂漠はね、小さな砂粒が大地を覆って地形を作っている地域のこと。すごく乾燥していて、植物も少なくて、生きていくのに厳しい場所。それでも環境に適応した数少ない動物がいて、オアシスのあたりには人も住んでいる。
森はね、大きな木で覆われた植物の地域。雨が多くて、多くの生き物が住んでいる場所。豊かな緑は私たちに様々な恩恵をもたらしてくれるけど、怖い肉食動物や毒を持つ動植物もいる。人々は森を切り開いて、村を作ったりしてるの。
湖はね、大きな水が集まってできた水たまり。水の中には水の生き物――『魚』が住んでいて、私たちはその魚を食べることができる。水が深いところでは脚が届かなくて、水の中に落ちて息ができなくなることもある。これはね、『溺れる』って言うの。溺れると死んでしまうんだけど、それでも人々はその周囲に集まって村を作ったりしていた。
氷河はね、水の塊が凍ってできた氷の山。大きな塊で、私たちはその塊の上を歩いたりすることができるの。空からは氷の塊、雪や雹が降ってくる。寒くて、凍えて、とても厳しい場所。でもそんな場所でも、魚や動物を食べて生きている人たちがいる。
ママは僕に大自然を教えてくれた。
塔から出たことのない僕にとって、身の回りのものは塔がすべてだった。つるつるの白い床、天井に付けられた電灯、そして白い壁とそこに密着したごく少数の家具。外に出ることはない。僕とママと仲間たちだけ。
それが当たり前の生活だった。そうやって、何日も何日も過ごしてきた。
でも、ママがいなくなって生活が変わった。ママはこの塔で祈りを捧げる仕事をしていて、僕はそれを引き継いだ形となったんだ。
そして、今日も僕の日常が始まる。
「…………」
僕は考えるのを止めて、顔を上げた。
目の前には無機質で白い部屋が広がっている。白い壁に固定された白い棚、白いクローゼット、僕の座る白い椅子、その前にある白いテーブル。奥には今朝まで僕が眠っていた白いベッドがある。白く、綺麗に整えられたこの部屋の中で、黒い髪と肌の色を持つ僕は異物のように見えてしまう。
鏡に映る、僕の姿。黒髪短髪、白いパジャマを身に着けた背の低い少年。それが僕。少し疲れた顔をしている。
そして、今この場にいるのは僕だけじゃない。ついさっき彼が部屋に入ってから、僕は考えるのを止めたんだ。
「体調はいかがですか? ミコ?」
ミコ。それが僕の名前。
そしてベッドの隣で僕の名前を呼んだこの人は、僕の家族。
黒いスーツを身に着けた、白い短髪の長身の男性。年齢は僕より十年前後上で、父のようであり兄のようでもある頼りになる存在。
その白い肌と髪は、まるでこの部屋のような色。黒いスーツを着ていなければ、周囲の背景に溶けてしまいそうだった。
「おはよう、アド。今日も僕は元気だよ」
長身の男性――アドは僕のパパで保護者だ。この〈祈りの塔〉の神官の代表者であり、いつも僕の世話をしてくれる。
「明日のお着替えをこちらに」
そう言って、アドはクローゼットに僕の服を納めた。
「祈りは予定通り一週間後行います。それまではどうかご自由に。何か御用はありますか? 疲れているならこのまま眠っても構いませんよ」
アドは僕の我儘を聞いてくれる。
例えば花の絵が見たいと言ったら、それらしきものをここに持ってきてくれる。お菓子を食べたいと言えばお菓子を、ジュースを飲みたいと言えばジュースを持ってきてくれる。遊びたい、といえば塔の中の小さな運動場で球技に付き合ってくれたりもする。
ただこれは、すべてこの塔の……しかもごく限られたエリアで完結する話だ。
変わらない日常。
ママがいなくなってから、僕はずっとこの日常を繰り返している。アドと話して、祈りを捧げて、眠って、起きて。単調な日々。それはとても穏やかで心地よい日々なんだけど、どこか……刺激が足りないと思うこともある。
そう、ママが話してくれた大自然の驚異みたいな、そんな……新しい興奮と喜びを与えてくれる何かが、欲しいって思ったんだ。
「ねえアド。僕ね、旅がしたいんだ」
旅。
それがこの日常を変えるために僕が考えた結論だった。
「旅……ですか?」
「うん、ママにね、会いに行きたいんだ」
「…………」
アドは僕の言葉に耳を傾け、考えている様子だった。
「昔、ママから塔の外の話を聞いたんだ。砂漠とか森とか、この部屋とは違っていろいろな自然があるんだよね? 僕はね、ママの言った世界を見て、それでママのいる場所に行きたい。そこで、それまでの旅の思い出を話すんだっ!」
楽しい旅の思い出をママに話す。
僕は旅が楽しめてママにも会える。まさに一石二鳥の外出だと思った。
でも僕の提案に、アドはあまりいい顔をしていなかった。
「しかしミコよ。あなたは祈らねばなりません。あなたの祈りは神に通じ、世界の平和と安定を司る。これは誰にもできない大切なことなのです。どうか……思い直していただけませんか?」
「…………」
やっぱり、こうなるんだよね。
アドは僕の言うことをよく聞いてくれる。けれど、本当に駄目なことは駄目だと言ってもくる。僕が塔の外に出たいと言うことは、その駄目なことの代表例だった。この塔で祈ることが僕の仕事なのだから。
でも、それじゃあ僕はママに会えない。外の自然を見ることもできない。
ママは遠くの故郷に帰った、と聞いている。このまま塔の中で過ごしていたら、僕は一生会えないかもしれない。
言うことを聞いて、待っているだけじゃダメなんだ。思い立った今、行動することが重要っ!
「旅がしたいいいいいいいっ! したいしたいしたいしたいしたいしたいいいいいいいいいっ! うわああああああああああああああああああああああああああああん」
僕はベッドで両手両足をじたばたさせながら、大声で喚き散らした。
なんて、ちょっとわざとらし過ぎたかな。もちろんこれは演技だ。いくら僕でも、ここまで子供丸出しで泣き出したりなんかしない。
でもこれでアドに伝わったはずだ。僕がどれだけ強い意思を示しているかを。
「どうしてもですか?」
「どうしてもだよおおおおおおおっ! 旅できないなら死ぬうううううううううううううううううううううっ! 死んじゃううううううううううううううううううっ!」
黙って言うことを聞いていても何も始まらない。僕が強い意思を示せば、アドだってきっと話を聞いてくれるはずだ。
「我らのミコ。神の神子。あなたの望みは私たちの望み。あなたがそれを本当に望んでいるなら、私たちは喜んで叶えましょう」
なんだかんだ言って、アドは僕の言うことを聞いてくれる。
計算通り。
「ミコよ、祈りは昨日済ませましたね?」
「うん」
僕は昨日祈りを済ませた。そして次の祈りは一週間後。だから、すぐに祈らなくてもいいと思うんだけど。
一週間だけ、旅をさせてくれるのかな? でも短い旅じゃママに会えないと思うんだけど……大丈夫かな。
「こちらにもいろいろと準備がありますから、確約することはできませんが……。もし、ミコが我々の課したルールを守っていただけるのであれば、許可しましょう。あなたの旅を」
「本当に? 本当に僕は旅をしていいの?」
「ええ……もちろんです」
やった!
まずは第一関門突破だ。僕は塔の外に出れる。外の世界を見ることができるんだ。
もうそれだけで明日が楽しみで仕方ない。一体どんな光景が待ってるんだろう。わくわくするなぁ。
「とはいえ詳細は明日説明することにしましょう。ミコよ、そろそろ眠くなる時間でしょう?」
「うーん、そう……かも」
言われてみれば、確かに眠くなってきたような気がしてきた。興奮して目は冴えているはずなのに、体っていうのはいつも寝る時間を覚えてるものなんだね。確かに、今から旅の計画について長々と説明されてもちょっと困るかもしれない。
祈った次の日って、いつも疲れてるからね。
「お休み、我らがミコよ」
アドが僕から離れた。
継ぎ目のない壁の一部が盛り上がり、出入り口が出現する。アドがそこから出ていくと、すぐにその出入口は閉じ、元の壁へと戻ってしまった。
するとその瞬間、照明が切れ、部屋の中は真っ暗になった。今日はもう寝ましょう、ということらしい。
「…………」
わくわくで心がいっぱいなのに、やっぱり体は睡眠を求めているらしい。暗い部屋の中で何もすることのできない僕は、すぐにベッドの中で眠りに落ちてしまったのだった。




