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「……アリエア……」



 バイト帰りの歩道を歩きながら、俺は昨日の出来事をずっと考えていた。

 時折、スマホをチェックする。

 チェリアからのメッセージ通知が届いていないか、ただそれだけを期待して。

 いつもなら何かしら連絡を寄こしてくるはずなんだが。

 俺たちが築き上げてきたあの夢は、まさか霧のように消え去ってしまうのだろうか?

 その夢っていうのは、つまり、


 結婚、だ。


「はぁ……」


 バス停の近くで、俺の足が止まった。

 もし俺が彼女の憎むべき魔王だとして、じゃあなんで彼女は俺を好きになったんだ? 明らかにおかしいだろ。

 ちくしょう。俺は一体全体、何者なんだ。

 魔王サタノスなのか、それともイズミなのか。


 思考の海に溺れていたせいで、ベンチに腰掛けている一人の人物に、俺は無意識に目を向けていた。

 だが、どういうわけか、どこかで見たことがあるような気がしてならない。

 どこだったっけな?

 前世の世界まで遡ってみると……


「違う……」


 まだすべてを思い出せたわけじゃない。

 俺の脳内にある記憶は、いまだに断片的なフラグメントに過ぎない。俺が覚えているのは、あの聖剣に心臓を突き刺された、最終決戦のシナリオだけなんだからな。


 ふーむ。

 一度、確かめてみた方がいいかもしれないな。


 ますます混乱していく頭を抱えながらも、俺は思い切って声をかけてみることにした。

 歩みを進めて近づくにつれ、その存在のシルエットが鮮明になっていく。


 どうやら女のようだ。黒いパーカーを着て、金髪をポニーテールにまとめている。それは帽子で隠されていた。さらに口元を覆う黒いマスク。

 太陽の眩しさを遮るためか、サングラスまでかけている。


 だが、俺が声をかけようとしたその瞬間、

 彼女はスマホの画面に釘付けになって、忙しそうに指を動かしていた。


 とんでもなく忙しそうだ。


 俺はてっきり、彼女が何か重要な案件で手が離せない人なのだろうと推測した。まあ、そういうことだってあるだろう。


「あの、隣、座ってもいいか?」


 まずは挨拶がてら許可を取るのが、オープニングの作法として上出来ってやつだ。


「え、えっ……ど、どうぞ……」


 ん?

 どこかで聞いたことがあるような声だな。


 返事をする彼女の指先は、小刻みに震えていた。


「……」


 彼女は俺の存在をまったく気にかける様子がない。

すぐ隣に座っているというのに。

 その視線は相変わらずスマホに向けられたままだ。


 俺はこっそり、彼女のスマホの画面を盗み見た。

 一体何をしているのか、純粋に好奇心が湧いたんだ。


 だが、その実態は……


 忙しいなんて、とんでもない。

 あぁ、その通り。

 この不審者は、スマホの電卓アプリでランダムな数字をただポチポチと叩いていただけだった。時折それを消去し、また気まぐれに数字を打ち込んでいる。


 その事実を知った俺は、ただ苦笑いするしかなかった。

なんだよ、こいつは。


「君、どこかで会ったことないか? ……いや、どこだったかな」


 雑念を振り払い、俺はストレートに本質的な問いを投げかけた。


 彼女がこちらを振り向いた。

 そして、俺の顔を見るなり完全にフリーズした。

 その身体は、さっきまでとは比べ物にならないほど激しく震え出す。


「……ま、マスター……!!」


 その声は、まるで憧れの存在を仰ぎ見るような響きだった。

 あるいは、心の底から感動しているような。


「マスター?」


「……まさか、本当にっ!?」

 

 彼女は突然スマホを放り投げ、言葉では説明しがたいほどの怪力で俺の身体を抱きしめてきた。

 この状況でどう振る舞えばいいのか、俺にはさっぱり分からん。

 混乱という名の病魔が、脳みその隅々まで侵食していく。


「や、やっと私を思い出してくれたんですね!! まさか……私はてっきり、このまま忘れ去られてしまうのかと……っ!」


 この不審者は、子供のように声を上げて泣きじゃくり始めた。駄々をこねる幼児そのものだ。


 だがよく見てみれば、確かに子供といえば子供か?

 いや。

 なんというか、年齢的には俺と数年しか違わないはずだ。

 それに、パーカーの隙間から高校の制服の襟元が覗いている。

女子高生、か。


 俺は彼女の抱擁を解こうと試みた。

 必死の抵抗を試みたんだ。

 だが、それはどうやら不可能なミッションらしい。


 ホールドが強すぎる。

 めちゃくちゃに強い。


 ぐっ。

 息が詰まる。

 まるで大蛇のパイソンに締め付けられている気分だ。


「ずっとお待ちしておりました……マスターの覚醒を……」


「覚醒?」


「分かりますか……?」


 彼女は腕の力を少し緩め、サングラスを外した。

 本当に泣いている。

 その目から涙がボロボロと溢れ落ちていた。


「マスターが崩御されてから、私は孤独でしかありませんでした……。それで、ふと思いついたのです」


「君の言っていることの半分も理解できないんだが、一体何を思いついたんだ?」


「次元超越の魔法陣を構築したのです。マスターが門を起動した時の手順を模倣しました。儀式に儀式を重ね、不完全ながらもついに完成させたのです! でも、その甲斐はありました。私は本当に、マスターが転生されたこの世界へと辿り着いたのですから!!」


「へぇ、そいつは素晴らしい執念だな……」


 俺はその健気な努力に対して、思わず微笑みを返してしまった。

 賞賛に値する。

 

 ……って、おい。

 違う。

 そうじゃない!!


 違和感が遅れてやってきた。


「ちょっと待て。今なんて言った? 門の魔法だと!?」


「はい。マスターが創造された緊急脱出用の次元魔法です。まだ未完成の段階ではありましたが、アリエアにとってはそれで十分すぎました!」


 彼女は再び俺にしがみついてきた。

 俺はその場の空気に圧倒され、完全に硬直してしまった。


 その瞬間、またしても脳裏に激しい雷光が走った。

 あのチェリアとキスをした時と、全く同じ現象だ。


 玉座に佇む一人の魔王。

 その周りには、数人の重臣たちが控えている。


 その魔王……つまり俺は、手を差し伸べ、何やら呪文を呟いていた。

 次の瞬間、赤い絨毯の上に魔法陣が浮かび上がる。


そして……


「……アリエア……」


「……はい、何でしょうか、マスター」


 まさか、嘘だろ!!

 アリエアって、地下最下層を守護していた幹部の一人じゃねえか!?

 悪魔と吸血鬼のハイブリッドであり、冷酷無比な暗殺者だったはずの……!?

 

 今になって思い出した。

 あの顔だ。


「あ、いや。じゃあ君、あの最終決戦を生き延びていたのか? 良かった」


「え? 生き延びた?」


「だろ? 無事だったんだな。聖剣ラグナロクの継承者九人による総攻撃から生き残るなんて、大したもんだ」


「それは買いかぶりすぎです、マスター!!」


「買いかぶりだって?」


「そうですとも!!」


 彼女は俺の前に立ちふさがり、両手を腰に当てた。


「すべてはマスターの慈悲のおかげです!! アリエアは参戦を許されず、マスターから虚無の大陸を去るよう命じられたのですから……」


 彼女がさらに詳しく説明を続けるうちに、

 俺はついにすべての合点がいった。


 アリエアは、俺の配下の中で唯一、最も忠誠心の厚い部下だった。

 前世の俺は無意識のうちに、彼女に生き延びてほしいと願っていたんだ。


 分かっていた。

 あの総攻撃が始まった時点で、魔族という種族は彼らの手によって完全に滅ぼされる運命だったのだと。

 魔王軍の戦力は、かつてほど強大でもなければ、数も残っていなかった。

 だから、俺だ。


 サタノスは、聖剣ラグナロクの継承者九人を同時に相手取り、誰一人として戦場に同行させなかった。

 せいぜい、城の地下で雑魚兵を食い止めるよう命じるか。

 あるいは特定のポイントへ配置した。言い換えれば、あの城の最上階にいたのは俺一人だけだったんだ。


「そういうことだったのか……」


「そうよ、そうですよ、もうっ!!」


 彼女はまたしても俺に抱きついてきた。

 今度はまるで、久しぶりに主人と再会した飼い猫のようだ。

 撫でてほしそうに、甘えるような仕草を見せる。


 しかし……



「チェ、チェリア……!?」



 道路の向こう側に、チェリアの姿があった。

 まさか、最初から全部見られていたのか!?


 その顔には、俺に対する明らかな不信感が浮かんでいた。

 彼女は口元を覆い、俺が名前を呼んだ瞬間、その顔を首元のマフラーへと突っ伏して隠してしまった。


 ちくしょう。完全に誤解された!

 おそらく、俺に新しい彼女ができたとでも思われたに違いない!!


 ぐっ。

 よりによって彼女に……


 いやあ。

 彼女はアリエアの正体に気づいたのだろうか、

 それとも逆か? 単に俺が公共の場で浮気をしてイチャついているように見えただけなのか?俺には見当もつかない。

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