四十二~四十五
四十二
「そこまでは岩井さんが話してくれました」
白井はロールケーキのクリームをもうひとすくい、拷問の経過を正確に伝えるために必要な燃料でも補給するように口に放りこむ。
「もし岩井さんの話が本当なら、尾形渚の行動にも問題があった。でも、それだけの不安にさらされていたのは事実ですし、懸命にコンテストに挑戦しようと思っている人間を、自分に都合のいいように操って希望の芽を摘み取るなんていうのは、許されるものじゃないでしょう」
「圭子さんがなんと言ったか知らんが、あの年のポプションの決勝には、尾形渚もきちんと出場する予定だったんだ。うそじゃない。そこで正々堂々と競い合って審査してもらう。それに手心なんてくわえちゃいない。もしそれで敗れたとしても、シュウさんはその後の就職の面倒とかちゃんと見るつもりでいたんだ」白井のスマホに映しだされるはるか彼方の貯水槽の動画に目をやりながら浪男は早口で告げる。「それなのにあの子のほうがチャレンジする気力を失っちまったんだ。ただ、母親のことは本当に残念だった」
「夢をつかみそこね、肉親も失って独りぼっちになった彼女の絶望感は想像するにあまりあります。しかし事務所に乱入して顔に割れたビール瓶を突き立てた昭和五十九年十二月の一件以降のことは、いくら岩井さんに聞いても『わからない』の一点張りでしてね。わたしが想像するかぎり、その件以降、尾形さんは姿を消した。おそらくまちがいないでしょう。そこでもうひと息だと思い、岩井さんにかなりのことを試してみたのですが、あとは『ナミちゃんに聞いて』と泣き叫ぶばかりでした。経験則に基づくなら、彼女からそれ以上なにか聞きだすのは難しそうでした。本当に知らないのでしょう。ただね、気になることを一つだけ教えてくれました」
白井はカップに残ったコーヒーを空け、コップの水にすこしだけ口をつけた。
「土橋さんは毎年十二月のはじめに一人で日光に行かれたそうですね。『罪悪感よ、きっと』って言ってました。十二月のはじめに起きた罪悪感を覚えさせる出来事。ぴんときましたよ。尾形さんの件となにか関係があるってね」
「あんたがあの子とどんな関係なのか知らんが、ばかな想像はやめるんだな」浪男は怒りにまかせて吐き捨てたが、声だけは抑えることができた。
「だったら話してください。なにがあったのか。どうして隠すんですか。要するにやましいことがあるんでしょう」逆に白井のほうが感情をのぞかせた。
返事をするかわりに浪男はねめつけた。焼き殺さんばかりの目で。だが白井はふたたび穏やかなまなざしにもどり、微笑みながらつづけた。
「動かぬ証拠があるんですよ」
例のヘリの回転翼が突如として頭によみがえる。ばっさばっさと灰白質、とりわけ海馬のあたりが高速で切り刻まれていく感覚を覚え、浪男は子どもの時分から体験したことのない激しいめまいに揺さぶられる。
白井はふたたびスマホを操作し、イヤホンを接続して浪男の片耳にそっと差し入れる。反対側は自分の耳に突っこむ。
――奥魔夜湖フェスだと? どうなんだ……そんな場所で。おれは気乗りしないな。
懐かしい。シュウさんの声だ。よくぞこんなものを。
――カネは町が出してくれるんだ。うちらの持ちだしはない。ざっと見積もっても各社二千万は落ちてくる。
声に聞き覚えがあった。系列ではないが、比較的良好な関係を保っていた事務所の社長だ。しかしシュウさんは難色をしめしたままだ。
――そんなところで小金を稼ぐこともなかろうに。
「二〇〇四年五月十五日、午後二時前の録音です。覚えていらっしゃらないかと思いますが、土橋さんは業界の会合に出席されていた。それともう一つ、おなじ日の深夜、車のなかで録音されたものもありましてね」白井はパソコンを操作する。
――あんな場所で騒いだら森の精霊たちに悪いだろ、なあ、ナミオ……。
「ハンドルを握る黒瀬さんに訊ねたのでしょうね。あんな場所というのは奥魔夜湖のことですよね。日光インターから北に五キロほど行ったところにある、湖というより沼に近い場所だ。昔ながらのキャンプ場がありますが、音楽フェスを開くには新たに道路を切り拓いたり、電柱を立てたりしないといけない。そういうインフラはたしかに町が負担することになるでしょう。フジロックだってあんな山のなかでつづいているんだ。だから不可能な話じゃない。ところが土橋さんは気乗りしなかった。というより猛反対した。毎年暮れに足を運ぶ場所だというのに」
「日光は観光地だ。気に入った高級旅館でもあったんじゃないか。そんな山奥の沼なんて行くわけないだろ」
「ごぞんじないんですか。いつも近くにいたのに」
「おれはシュウさんのマネージャーじゃないんだ。プライベートまでは知らんよ。知る必要もないし」
「森の精霊に会いに行ったんじゃないのかな。すくなくとも土橋さんはその存在を知っていた」
白井はスマホのディスプレイをいじりながら話しだす。貯水槽の水は里奈の首筋を見えなくしている。父親の焦燥感はピークに達した。もはやすべての真実を話すべきだろうか。だがこの男は尾形渚に特別な感情を抱いている。それだけははっきりしている。だからへたなまねをしたら、逆上して事態を最悪の方向へ一気に傾かせる恐れもある。浪男は必死に冷静さをたもち、とにかくこの男の話を聞くことに専念した。
「先ほどお話したタイの山奥での仕事のことなんですけどね、あれは中国の麻薬組織からの依頼だったんですよ。密輸のベースキャンプを作りたいので調整してほしいと言われましてね。現地の少数民族には外人部隊時代からのつてがあったんで、わたしのところに話が舞いこんできたんです。やつら、政府に虐げられた弱者だなんて顔してますが、素顔はいっぱしの商売人、それも完璧な薬物組織ですよ。だけど精霊の話は半分は本当だった。森で亡くなった祖先の霊がずっと彷徨っているから気を付けたほうがいい。年寄り連中はみんなそう言ってました。ふつう精霊なんて言ったら死者の霊のことを言うんだ。それを土橋さんはひどく気にして毎年、供養に通っていた。そうなんですよね? 尾形渚の供養に」
「そんなことを聞いて、なんの得になるんだ。きさま、いったい何者なんだ」
それには答えずに白井が訊ねる。
「あのときなにがあったんですか」
四十三
1984年12月7日
ぐっすり眠っているようなので先に引きあげます。ちょっと用事があるので。圭子――。
夜九時過ぎにもどり、玄関を開けるなり目に飛びこんできた書き置きにおれは青くなった。大股で仕事部屋に飛びこんだシュウさんがうなり声をあげる。
「あいつ、ちゃんと見てろって言ったのに」
渚はソファにいなかった。
おそらく自力で移動したのだろう。部屋の奥にどっしりと居座る背の高い金庫の前で横ざまに寝そべっている。カーペットのほうが寝心地がいいのだろうなんて、とてもでないが想像すらできなかった。倒れこんでいるというにふさわしい状況だった。
近くに女医が処方した安定剤の空のパッケージが散乱していた。なにが起きたのか即座にわかった。圭子が帰宅後、目を覚ました渚がそれを大量服用して自殺を図ったのだ。
「脈が……脈がないみたいです……」
手首と首筋にすばやく手をやるなり、瞬時にカラカラになった喉から声を絞りだした。
「どけっ!」シュウさんはおれを蹴り飛ばし、こんどは自分の手を渚の首元に押しつけ、脈を取ってみた。「ちくしょう……」
つぶれたパッケージでたしかめるかぎり、ことによると二十数錠を一気に服用したおそれがあった。呆然とするシュウさんのうしろで縮こまりながら、おれは周囲を見回した。
金属の環が落ちていた。
手に取ってみてわかった。キーリングだ。
「おい……渚……しっかりしろ!」
きゃしゃな肩を力づくでシュウさんに揺さぶられても渚が目を覚ますことはなかった。血の気を失ったまま、口元をぎゅっと引き結んでいる。もしかするとすでに死後硬直とやらがはじまったのかもしれない。唇の端に血の筋がついている。舌でも噛み切ったのだろうか。悪い想像ばかりがとめどなくあふれる。
安定剤を大量服用後、なぜ渚はソファにもどらなかったのだろう。もしやあえてこの場所を選んだのではないか。そこでおれはようやくキーリングについて思いあたった。以前、この部屋に来たとき、シュウさんが机の一番上の抽斗にしまうのを見ていた。
金庫の鍵だ。
「シュウさん、これって――」キーリングを見せる。
即座に気付いたらしくシュウさんは事務机の抽斗をすべて引き開け、アイドルの卵の遺体を目の当たりにした一分前以上の狼狽ぶりを見せた。
「ないぞ……鍵がない……」
「もしかして」おれは端からひと筋の血が流れる口元を指先でそっと開き、さらに力をくわえて下あごを押し広げてみた。
口の奥に血にまみれてきらりと光るものがあった。
シュウさんもそれに気付き、もう一度おれを突き飛ばし、彼女の小さな口に無理やり指を突っこんだ。だが男にしてはしなやかな指があきらかに金庫の鍵と思われる金属片に触れた途端、全知全能の存在によるいたずらのようにそれは息をしなくなって時間のたった喉の奥へと、手品のようにするりとのみこまれた。その刹那、おれまで息をのみ、あたりで凍りついた空気がバリバリと砕けていっしょに喉に吸いこまれていった。
「おい、ナミオ! なんとかしろ!」
社長は怒鳴ったわけではない。もっと慎重にやれば、喉をすこしばかり傷つけて出血させた状態で留まっていた板鍵をこちらに導きだすことができたのに、とんでもない粗相をしでかしてしまった自分をなじりながら、救いをもとめたのだ。
このおれに。
瞬時にそう判断すると、頭の真ん中が恐ろしいくらい冷たく澄み渡った。まるでソ連のどこかにあるとニュースで言っていた透明度百メートルの湖がそっくりそのまま脳みそと入れ替わったみたいだった。
「シュウさん、スペアキーありますよね」
一瞬、なんのことを言われたのか理解できなかったらしくシュウさんはぽかんとした顔をしたが、すぐにもう一度、抽斗を調べだし、さらに作り付けの棚や書棚を片っ端から引っかき回しだした。
「おかしいな……どこにやったんだか……もう一本あるはずなんだが」
いまは社長の記憶力をあげつらうべきときではなかった。喫緊の課題は、金庫のなかに眠る様々な“危険物”について、警察その他の公権力機関と同様、シュウさん自身も触れることはおろか、たしかめることすらできない厳しい現実にどう対処するかだった。
「海藤さんですよ。あの人だってこの部屋に来たことがありますよね。一度や二度じゃない。当然、金庫だって目にしている。だから渚は海藤さんから聞いたんじゃないですか。机の抽斗に金庫の鍵があるって話を。もちろん金庫にしまわれているものについても」
シュウさんは鬼の形相を顔に貼りつけたまま、わなわなと肩を震わせるばかりで、口を開こうとしない。だが小僧っこの推察が的を射ていると認めているようだった。
政治家から財界人、そしてヤクザ連中に至るまで、シュウさんはありとあらゆる接待、金銭のやり取りを記録に残し、写真や録音テープとともに裏帳簿を作りあげていた。シュウさんと付き合うことでひと財産儲けた人間は数知れないし、テレビ局で役員になってきれいごとを吐くようになったとしても、ちょっと前まではシュウさんに媚びを売ってあがりの一部をこっそりポッケに入れさせてもらった後ろ暗い連中ばかりだ。そんなやつらとの、触れば血が流れそうな交遊録、それこそが土橋修司が戦後、バンド活動をしているときからコツコツと築きあげてきた最大の財産であり武器だった。系列事務所にかぎらず、およそこの国の芸能界関係者がトラブルを起こしたのなら、いま目の前にある鋼鉄の箱を開けることにより、なんらかの解決策を導きだすことができるし、逆に歯向かう者は息の根をとめられる。いわば魔法の扉だった。
だからこそそれは弱点にも転じうる厄介きわまりない記録だった。そこに至る扉の鍵を奪い、あろうことか――社長の拙速な手技にも問題はあったが――のみこんだ女は、自分の運命を弄んだ事務所の社長と無理心中するつもりだったのだ。
「スペアキーを捜しているひまはないかもしれないですね。かといっていま警察に通報するのはどうでしょう」
「ちょっと考えたほうがいいな」ようやく社長も冷静さを取りもどしつつあった。「このマンションにはほかにも住人がいる。念入りに聴きこみをすれば、おれたちがいつこの場にもどってきたか、容易にバレちまう。へたに長引かせるのも危険だな」
「シュウさん」おれは訊ねた。おまえが口にする話じゃないとにらまれるかと一瞬、躊躇したが、言葉のほうが先に飛びだしていた。「いまの東京地検って、Hが近いんでしたっけ」
社長は落ち着いた口調で話してくれた。「おれが懇意だった次席検事は転勤してしまった。ヒガキは新しい次席の中学時代の同級生だ。海藤を逮捕させたのもその次席だ。いろいろとやりづらい状況だな、いまは」
「そんなときに事務所社長の自宅にアイドルの卵だった女の子の遺体が転がっていて、解剖の結果、喉の奥から金庫の鍵が見つかったらどう思われますかね。たとえ渚による逆恨みだって言い張っても、顔にひどいけがを負っているし、どうしたって社長とトラブルになったと思われますよね。そうなるとまさにカギになるのは金庫の鍵ですよ。警察、いや、新しい次席検事はこう考えるんじゃないかな『尾形渚は、事務所社長の不正に関する決定的証拠を握って脅迫してきた。それで自殺に見せかけて始末された――』だとすると、どうしたって金庫を開けてなかをあらためようとしますよね。遺体から見つかった鍵を使って」
「十中八九、そうなるだろうな」
「厳しいですね」
シュウさんは苦しげにうなずく。「だがほっとくわけにもいかんからな」
まもなく十時になる。時間が過ぎるのがやけに早く感じられた。
「どうすべきか決断しないと。これはおれの考えですが」思いきって言い放った。「通報なんてしないほうがいいんじゃないですか」
しばらく考えてからシュウさんは言った。「おれもそう思う。いまの状況を知っているのは、おれとおまえの二人だけだ」
「ですね。だからなんとでもできる。ぼくらだけでなんだってできますよ」
シュウさんは反対しなかった。おれのことをじっと見つめるばかりだった。だがもはややるべきことは決まっている。
尾形渚の死は闇に葬られる。
それが決まった瞬間だった。
四十四
四十年前の記憶をついに吐きだし、脳のエネルギーがすっかり失われてしまった。浪男は盆の上にさびしく残るサバランを手でつかみ、洋酒をシャツの胸元に滴らせながらむしゃぶりついた。
「あなたは自分や土橋さんが手を下したわけでないとおっしゃりたいのですか」
「あれは事故だ。すくなくともあの子は自分で薬を服用したんだ」
「信じられないな。古賀さんだって、つまるところあなたたちが死に追いやったわけじゃないですか。わたしからしたら、あなたたちだって立派な殺し屋ですよ。わたしとなんら変わらない。やってることはおんなじですよ」
「あの子はシュウさんを憎んでいたわけでも、本気で強請ろうとしていたわけでもない。ただ、絶望してもう生きる自信がなくなったときに、一人で旅立つのが怖かったんだ。それであんなまねをしたんだ……と思う」
「死人に口なしですからね。しかしあなたのおっしゃることが真実だとしても、この結果はひどすぎる。いろいろと調べて、わたしも奥魔夜湖周辺で殺害されたのかと、だいたいの見当はつけていたのですが、まさか遺体を遺棄したとは」
「そうとは言ってないぞ」脳に糖質が染みわたり、すこしだけ頭が回るようになった。いまはとにかく話をのばして、この男が逆上してスマホに致命的な指示をあたえないようにつとめないと。「苦渋の選択、それに偶然が積み重なったんだ」
白井はロールケーキのスポンジをおしゃべりな口に突っこみ、しばらくむしゃむしゃとやっていたが、それもコーヒーで流しこんだ。「わかんないな、そんなことを言われても」
長い指先がすっとスマホの上で踊る。
浪男は息をのんだ。貯水槽への注水が再開されたのだ。
「渚さんはキャンプ場に埋められたのですか? それとも湖に沈められた? そのあたりをもっと具体的に話してもらわないと、娘さんが困ることになりますよ」
「きさま、渚とどういう関係なんだ」
「冷たい土のなか、もしくは湖底で恨みを抱きながら成仏できずにいる元アイドルを、すこしでも供養しようと思っているファンの一人とでも言っておきましょうか」白井は冷酷な殺人者の顔になってぶつぶつとつぶやいた。
「頼む。水をとめてくれないか。もうこれ以上、娘を苦しめないでくれ。話すよ、ぜんぶ話すから」
白井はひっきりなしに離発着のつづく滑走路のほうをちらっと見やり、リセットするように浪男の目を見据えなおした。
「黒瀬さん、あなた、これまでにどれだけのうそをついてきましたか? もう数えきれないほどでしょう。ポプションを仕組むなんてお手のものだったにちがいない。そんな人の言う話をそう簡単に信じられると思いますか。バカも休み休み言ってくれないと。いいですか、こうしましょうよ」
指がもう一度、スマホのうえで踊り、貯水槽の水流がふたたび停止した。
「水量を増やさないでも、いまのままならあと一日もしないで空気がなくなるでしょう。だからほっとくわけにはいかない。それでね、遺体をどこに捨てたのかあなたが話した場所を捜してみて、本当に遺骨が見つかったのなら、貯水槽の設置場所をお伝えしますよ。ただ、これは湖に捨てた場合は成立しない。さすがにわたしも潜水艇までは調達できませんからね」
「湖に捨てたりなんかしていない」
「ほほう。やっぱりそうか。遺体処理はわたしの仕事にも付き物なんですが、沈めるのは得策じゃない。あれはかならずいつか浮かんでくる。さあ、だったら教えてください。どこに捨てた、いや、埋めたのか」
「本当にあんたを信用できるのか」ナプキンで口のまわりをふきながら、浪男は慎重に訊ねる。
「その質問に答えるのなら、信用するしかないというのが正答でしょうね。あなたに選択の余地はないし、一刻も早くバンコクに向かったほうがいいと思うんですがね。手ごろな便がすぐに予約できるとはかぎらないし」
「キャンプ場の近く。あんたの言ったとおりだ」
「奥魔夜湖の?」
「そうだ。そこに行った」
「うん、それなら時間的にも交渉の余地ありですね。いまから出発して早ければ半日ぐらいで結果がわかりそうだし、ちょうどいい便もありそうですね。ただ、すべてはあなたの記憶力にかかっている」
浪男はちらりとテーブルのナイフに目をやる。その瞬間、白井に気付かれる。
「バカなことをまた考えましたね。わたしに飛びかかろうなんて。貯水槽がどこにあるかもわからないのにやけは起こさないほうがいいと思いますよ。それにわたしだって、あなたが真実を話してくれるのなら助けると約束しているんだ。もはやこの期におよんで妙な考えは捨てましょうよ。あなたはキングだ。キングのままでいてくれていい。でも渚さんに関しては、本当のことを話してください」
この男に言われずとも、もはやうそはなしだ。腹をくくるしかない。
四十年ごしの秘密――。
シュウさんにも言ってない、家族だけの最大の秘密を、この見知らぬ脅迫者の前で告白せねばならない。
「ファンといってもいろいろだろう。あの子の露出量は多くない。ポプションの一次審査か二次審査をテレビで見たのか。それともアイドル雑誌か」
「はっきり言えばね、そんなんじゃないんです。もっと前から、ずっと前から好きだった」
そのときはじめて白井の顔がゆがんだ。脅されているのはこっちだというのに、それはまるで恐怖に怯える子どものような顔つきだった。
あの子、きょうも来てたわよ――。
四十年前の声がよみがえる。
渚の母親だ。
あれははじめて家にあげてもらったときのことだ。忘れもしない。うまいコーヒーを淹れてもらい、味わっているとき、だしぬけに母親が口にしたのだ。
高校時代の同級生で浪人中だとか言っていた。理想が高く夢を語れる男だという話だったが、芸能活動についてとやかく言うようになっていて、渚はすこしばかりいらついているようすだった。しかし自分がポプションで勝ち残れるかひどい不安にさいなまれるようになってからは、逆にやつを懐かしがるようなことも口にしていた。
六本木でキスしたって本当ですか――。
ふつうに考えれば、受験の追いこみの時期だったろう。でもまだ十代の男のことだ。試験の真っ最中だって、女のことは頭の真ん中で熱を帯びている。気になってしかたないことがあれば、いつだってどんなことだってするだろう。妙なファンレターを送りつけるなんて国語が得意教科でなくてもお手のものだろうし、カメラかまえてミュージカルのワークショップ会場に張りつくのも、根を詰めた勉強の息抜きにはもってこいかもしれない。なにしろ大好きな彼女がふらちな芸能関係者たちの前でどれだけ操を守っているか、物陰で六本木的な破廉恥な秘め事にふけっていないか、この目でたしかめられるのだから。
「まさか、きさま……」浪男は苦い唾をのみこむ。「高校の同級生か……浪人中なのに家のまわりをうろついていたんだろ。渚の母親から聞いたことがある。あの子も辟易していた。芸能事務所でレッスンを受けていることで文句を言われるって」
「うらやましいですよ。そんなことが彼女に言えるくらい近づけるなんて」
「ちがうのか。やつじゃないの」
「口うるさい元クラスメート、それでいて尾形渚も一目を置いている。もちろんある時期までですけどね。隣の藤沢市にある内科医院の一人息子です。一、二年生のときにおなじクラスで、部活もバレー部だったから彼女と自然と接することができた。身長も百八十ぐらいあって、それに彼女が憧れた通り、勉強がすごくできた。当然ながら医学部志望です。ただね、高校時代から浪人時代を通じて、彼女と付き合っていたわけじゃないんです。それだけは断言できる。せいぜい友だちに毛が生えたようなものでしょう」
「毛が生えたか……レッスンに来ていたころ、よくその男のことを口にしていたよ。ほとんどは文句だったが、根っこの部分では好いていた感じだったがな」
「ありえない」
白井は語気を強めた。その刹那、それまで遠い存在だったウェイトレスがちらりとこちらに目を向けたような気がして浪男は視線を探った。だがカウンターの向こうにきゃしゃな背中がのぞくだけだった。
「ありえないですよ」平静を取りもどしてつづける。「もしそうだったのなら、あんな言い方はしなかったでしょう。表向きはいつも自慢ばかりなんですが、焦っていた、というか余裕がない感じだった。彼女が自分からどんどん離れていくようで不安だったのでしょう。でもそれはアイドルになるんだからしかたないことです。ねえ、そうでしょう? 黒瀬さんはその道のプロなんだからわかるはずだ。アイドルは誰のものでもない、みんなのものだ」
「まあ、そんなものだな。それであんたはそいつと同級生だったのか。おなじ高校の」
「ふふ……わたしにそれくらいの学があれば、またちがう道が拓けていたかもしれない。そうじゃないんです。けど、彼女のことは子どものころからよく知っていた。あの団地ですよ。彼女の家は一号棟の一〇三号室。わたしは二号棟の四〇三号室。向かいの棟ですよ。幼稚園から中学までいっしょでした。子どものころから美人で誰もが憧れていた。でもわたしは引っ込み思案だったから、ろくに話したことがなかった。いつだって遠くから、上の階から見つめているだけだったんです」
貯水槽のなかでは里奈がつらそうにじっとカメラを、父親のことを見つめている。浪男は発狂しそうな衝動を必死に抑えた。
「一度だけ中学の陸上大会で比較的長く、二人だけで言葉を交わすことがありましてね。わたしは短距離が得意だったんで、そのことをすごく褒めてくれました。じっとわたしの目を見つめたまま話してくれたんです。もしやっていう甘い思いが芽生えたのはそのときです。もちろん頭のなかでは否定するんですが、どうしたって心に浮かんできてしまう。自分にだってチャンスがあるんじゃないかって。だけどそれでおしまいでした。あっという間に卒業して、わたしはもっと偏差値の低い高校にしか進めなかった。それでも毎朝、彼女が自転車で登校するところは目にしていたし、おはようぐらいは言ってましたよ。だけどあのころって、一日一日が成長じゃないですか。日に日に大人になっていき、それまでの出来事はたちまち遠い過去に消えていく」
気が付いたら二人は、向かいの団地に暮らす幼なじみでありながら、満員電車に揺られる通勤客どうしのように、むすっとしたまま声もかわさぬ他人へと変貌していったというのだ。
「一度そうなってしまうと、なかなか元にはもどれないものです。彼女は高校で新しい友だちに囲まれ、それまでとはちがう世界へと羽ばたいた。わたしはそれをそばにいながら指をくわえて見つめるしかなかった。不条理な話ですが、そうなればなるほど思いは募るばかりで、妄想ばかりが浮かんでは始末に負えなくなっていました。そう、わたしの高校三年間は彼女に対する暗く、ねっとりとした妄念に苛まれるだけの日々だったんです。正直に明かすなら、バレー部の同級生のことはすでに高校時代に把握していました。団地のそばを二人で歩いているのを見かけたのは、一度や二度じゃありませんからね。あとをつけてどこの何者か、あっという間に突きとめましたよ」
白井も大学進学を考えたが失敗し、あの年、一九八四年はその同級生同様、浪人中の身だった。
「ポプションの一次審査をテレビで見たあと、レッスンスタジオのあたりをうろついているとき、向こうのほうから声をかけてきたんです。わたしが持っていたアイドル雑誌を見せてほしいってね。わたしは彼の顔を見るなり、あの男だって気が付きましたが知らんふりしていました。雑誌には渚のこととか、一次審査の出場者の話が詳しく出ていたんです。喫茶店でお茶して、しばらくアイドルの話をしているうちに、じつは渚とおなじ高校だって自分から言いだして、あとは散々自慢話ですよ」
「こっちはもっと前から彼女のことを知ってるんだぞって自慢し返してやらなかったのか」浪男が嫌味のように口にすると案の定、悲しそうな顔になった。
「ご冗談を。それにたとえ自慢話でも、彼女に関する情報がすこしでも得られるのならファンとして本望でしたから。ただね、二次審査の前あたりから、しきりに『こないだデートした』って話をするようになりまして」
「デート……?」あのころの渚にそれだけの余裕があっただろうか。浪男は遠い記憶をたどった。
「手をつないだって話を聞かされたのもそのころです。子どものころから、狂おしいぐらい思い描いていたことの一つですよ。ただ、話を聞くと、どうも作り話のようなところがあった。レッスンスタジオにいたのをわたしがこの目で確認している日に、ちがう場所でおなじ時間帯にデートしていたとか言うんですから」
「高校時代、一番仲がよかったはずの自分から、彼女がみるみる離れていくことへの焦燥感が妄想を生みだしたと言いたいのか」
「彼はアイドルのファンにはなれなかったし、なるべきじゃなかった」
アイドルは神聖不可侵、そう言いたそうだった。
白井はぬるくなったコーヒーに口をつけ、がっかりしたように肩をすくめる。
「ブリッジの事務所って六本木じゃないですか。事務所から出てきたところで声をかけてメシ食って、最近のあれこれを語り合ったあと……別れぎわにキスしたって言うんですよ」
六本木でキスしたって本当ですか――。
即座に頭に浮かんだ瞬間、それが白井にも伝わったらしい。「さすがに穏やかではいられませんでしたよ。三日ぐらい眠れなくて、どうしようもなくなってしまって……」
「まさか事務所に手紙を出したのか。匿名で」
白井は平然と答えた。「そうです。もうそんな話、本人に聞くしかないでしょう。けど、団地で彼女を捕まえるだけの度胸はなかった。つぎに出るラジオ番組とか、雑誌のインタビューとかなんでもいいから、そんな事実はないと言ってほしかった。直接言わなくても、ほのめかすだけでもよかった。そうでもしないと、わたしは気が狂ってしまいそうで」
「問いただす相手はそのバレー部の野郎、本人なんじゃないのか。その手のうそはすぐにバレるものだ」
「ええ、もちろん、そうしました。最終的にはそうせざるを得なかったから。二次審査の直後、やつが団地のまわりをうろついていたときに声をかけて、あの話は本当なのか訊ねてみたんです。そうしたら本当だって言い張りましてね。そればかりか、もっとひどい話をわたしに聞かせようとするんです。わたしがそんな話、絶対に聞きたくないとわかっているくせに、いやがらせのように話すんです。しかもこんどは日時にもかなり信憑性があった。いまにして思えば、ぜんぶ作り話だったんでしょうが、あのころのわたしにはうそをはねつけることができなかった。キスだけじゃないって言うんです。肉体関係も持ったって」
「バカな」思わず浪男は斬り捨てたが、白井には伝わらなかった。
「ありえない話じゃない。六本木のホテルに行ったって言うんです。そこで朝まで二人で抱き合って愛を誓ったって。そのときはもう勝手に体が動いていました。ボコボコにしてやったんです。じつに愚かしい行動でした。逃げ帰って来ましたよ。あとは警察に通報されるんじゃないかって怖くなって外に出られなくなりました。受験勉強なんてもはや手につかなかった」
「やつはどうなったんだ」
「父親に治療してもらったのかどうかはわかりませんが、わたしの家に警察がやって来るようなこともなかった。いまは親を継いで藤沢でクリニックを開いてます」
「通報されなかったことに感謝するんだな。それで自衛隊に入って、こんどは本当に人を殺める技術を学んだというわけか。恐ろしい男だな、あんた。まあ、いまやってることを考えれば納得もいくが」
「尾形渚を穢すようなことを口にしたあの男が、ファンの一人として許せなかった。ただそれだけです。それに一つだけ申しあげますが、黒瀬さん、あなたたちにいい暮らしを保証しているのは、わたしのような狂ったファンたちであることをお忘れなく」
それには浪男も返事ができなかった。一片の真実がふくまれていたからだ。
「もしあのころ、あなたのことを知っていたら、なにか話しかけていたかもしれない。そうしたらもっと客観的な情報を仕入れて、やつの話に翻弄されることもなかったでしょう。ただね、彼女のレッスン先とかで何度かお見かけしたことがあったけど、運転手さんぐらいとしかわからなかったから」
「その通りさ。あのころはただの運転手だった。団地にも何度か送って行ったことがある」そう口にした途端、山奥にひっそりと暮らす魔女の長い鉤爪で脳みそを引っかかれたように眠っていた記憶がよみがえった。ワークショップのあと、ポプションの行方に不安を抱える渚を家に送り届けたときのことだ。帰りぎわ、奇妙な視線を感じ、姿の見えぬ何者かと目が合ったような気がしたのだ。「そのときに見ていたのか」
「あの団地にジャガーで乗りつけるやつなんていませんからね。かなり目立っていましたよ。ただ、ポプションの決勝では梶原ひとみが優勝し、渚は姿を消し、あなたが何者かも結局わからずじまいだった。その後のわたしに課せられたのは、兵士として訓練を積むことで過去を忘却の彼方に押しこむことだけでした」
「それが四十年たって、ぶり返してきたってわけか」
「先ほど申しあげた通りなんです。脳の奥からずっと微弱な信号を発しつづける記憶、そういう消し難い記憶とは、いつか決着をつけないといけない。だから渚に会わなきゃいけない。たとえどんな形であってもね」
「どんな形であっても……か。じゃあ、もういいだろう。あんた、すでに会っているようなものだと思うがな」
白井は眉をひそめる。「なんですって」
「言葉の通りさ。もしあんたが渚のことをいまでも思っているのなら」浪男は顎で白井のスマホをしめす。「娘を拉致して水死させるなんて非情なまねは絶対にできないと思うがな」
「真実をあきらかにするためにはやむを得ない手段だ」
「なあ、あんた」浪男は体を白井のほうに正対させた。「奇跡は信じるか」
「奇跡……なにをいきなり」
「尾形渚がどこに埋まっているか知りたいんだろう」にゅっと伸ばした手で白井の肘をぎゅっとつかむ。「どうなんだ、知りたいんだろう?」
白井は言葉を継げない。スマホのディスプレイがちらりと目に入った。里奈はじっとカメラを見つめている。大半は甘やかして育てたかもしれないが、世間がいかに厳しく非情な場所であるか、最後の最後に梯子を外されるなんてざらだということを、親の背中を見せながら伝えたつもりだ。それになにより、修羅の道をずっと歩んできたこのおれの娘だ。まだ二十五だとはいえ、これくらいのことではくじけぬタフさは持ち合わせているはずだ。だからもうすこしだけ辛抱してくれ。
目の前で起きていることが信じられないような顔になり、白井が苦しげに言葉を漏らす。「ああ、教えてくれ。彼女はいったい――」
「墓ならバンコクだ」
四十五
1984年12月7日
まだ温かみの残る渚の体をシーツでくるみ、ごついスーツケースになんとか収めた。それから先、おれもシュウさんも無言のまま、まるでこの先の手順が頭に刻みこまれているかのようにてきぱきと動き、エレベーターで地下駐車場まで下りた。誰一人として住人とすれ違わなかったのはなによりの幸運だった。
だがスーツケースが微妙に大き過ぎてジャガーのトランクには入らない。ここでも二人は言葉を交わさずに次善の策を選択することができた。ノーズの長い車とコンクリート壁のすき間でスーツケースを広げ、ミイラのような遺体をそのまま後部座席に押しこんだのだ。
「あとはまかせてください」
なんらかの算段があったわけではない。むしろ頭のなかはずっと真っ白のままだった。それでも口から自信満々の言葉が漏れだし、シュウさんの返事も聞かぬままおれは運転席に身を沈めた。
それまでただの一度も気にならなかったのに、このときばかりは十二気筒エンジンのうなりがやけに耳障りに感じられた。誰かに見られているようで落ち着かず、おれはシュウさんと目も合わさずに発進した。すぐさまアクセルを踏みこみたい衝動を必死にこらえ、そろそろとスロープを上がっていく。外に出るまで駐車場に人気はなかった。
北へ向かう。
最初から頭にはそれしかない。首都高にあがり、自分のなかのリミッターを外して一気に加速する。金曜の深夜、下り線は空いている。まるで自分一人のために道が切られているかのようだった。だが油断は禁物だ。
死体をのせているんだぞ。
いつもはあこぎな銭もうけの話にふけるシュウさんの尻を包むバックシートに。
何度もバックミラーをたしかめる。加速して五分もしないうちに、もう全身に冷や汗が噴いてきた。覆面パトがいつ闇から現れ、サイレンをうならせるか知れたものじゃない。速度だけは無茶しないよう注意しないと。
いつしかおれは運転席とバックシートの左右の窓を開けていた。鼻先を妙な臭いがかすめたような気がしたのだ。父親のときも、母親のときもそうだった。人間は死ぬとすぐに体が腐りだすし、それより先に腹のなかのものが禁を破って流れだす。だから穴という穴に栓をしなければならないのだが、いまはそんなことをするために路側帯に停車するわけにいかない。
ハンドルを握りながら背後に目をやる。本当にミイラのようだった。仰向けに体をのばした格好でシートいっぱいに横たわっている。顔を覆っているのがしのびなかった。あれじゃ、息もできないじゃないか。でも心の反対側で息を吹き返してくれることを祈りつづけていた。厳然たる事実の前で自分を叱咤しながら、なおも藁をもつかむ気持ちだった。でももしそうなれば、どうしたらいい? このままシュウさんのところへもどるべきか、鎌倉のあの団地まで送り届けるべきだろうか……。
待て。
いま、おれはなにをしている?
ラジオもカセットもつけずに頭はめまい寸前なほどに回転をつづけた。
おい、ナミオ! なんとかしろ!
あんなに動揺したシュウさんははじめてだった。自分ではどうすることもできず、いつも自信満々で冷静沈着なあの人とは別人だった。いま目の前で起きている事態をなんとしても収拾させろ。なかば不可能なその指令にこたえ、たとえどんな方法を使ってでも任務を全うすることができたなら、おこがましすぎて対等なんて立場にはなれっこないが、きわめて重大な秘密を共有しあう仲になれるのだけはまちがいない。
それはこれから先のおれの人生、両親を失い、逃げこんだ先の大都会の片隅では小突かれ、蹴飛ばされつづけた若造の将来とやらに、小さくとも確実な明かりを灯してくれるはずだ。
だったらだ。
いまはもう冷徹な意思のもと、指示を遂行すること以外考えるな。客観的事実を受け容れろ。彼女は、尾形渚はもう
この世にいないのだ――。
東北道に入り、車の量がめっきり減った。ほとんどが大型トラックだ。それでも巡航速度百キロを超えぬよう注意し、バックミラーを警戒し、オービスが近づくとめいっぱい減速した。まるで表彰もののゴールドドライバーだ。
宇都宮インターから日光道に入った。どうしてそっちを選んだのか理由なんてない。本能というより、ただの気まぐれだ。土地鑑なんてまるでない。けわしい山岳路、深い森、なにより人気のないこと。頭にあったのはそれだけだ。
でも日光インターを下りたとき、とんでもない抜かりがあったことに気付く。すでに午前一時を回っている。一軒だけ深夜営業のコンビニが開いていたから、静かに駐車場に車をとめ、窓をすべて閉める。ほかに車はとまっていないし、うろついている者もいない。それでも念のためバックシートのミイラに自分のコートをかけてカモフラージュらしきものを施してから、店に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
こんな店で深夜勤務しているより、中学校で野球部の顧問でもしていたほうが似合っていそうな目つきの鋭い中年男に声をかけられ、たちまち体がこわばる。まさか死体なんて運んじゃいないよな? それを埋めるために使うスコップを持参するのを忘れたからあわてて買いに来たとかじゃないよな?
猜疑心に満ちた男の視線から逃れるようにして身をかがめて棚を探し回ったが、スコップどころか、子どもが砂場で使うプラスチック製のシャベルすら置いていない。なにも買わないと怪しまれる。飲み物とチョコレートを手にレジに立った。
「ジャガーかい」
さっきまでの警戒心らしきものが解け、こちらが本来の姿であると思わせるような柔和なまなざしで気さくに話しかけてきた。
「ええ」
「いい車だね」
「……はい」
「速いんだろうな」やはり問いかけにはどこか教師もしくは警官のようなところがあった。ことによると地方公務員の給与を妻子に吸い取られ、泣く泣く人目をしのんでアルバイトに励んでいる真っ最中なのかもしれない。
「……まあ」
「東京からドライブ?」
「……ですね」
男はレジを打ちはじめない。そのまま自分なりの職務質問をつづける。
「おれなんてようやくスカイラインだよ」聞いた途端、たとえいまは公職でも元はこのあたりの暴走族の一員だったのかもしれないと思った。どっちにしろ会話の弾む相手じゃない。
返事もせずに千円札を盆の上に置き、ありもしない念力を集中するようにじっとレジを見つめる。それでようやく男の手が渋々動きだす。
あとは逃げるように店を出てすぐに車を発進させた。長居したら男がしげしげと車を見に店から現れるのが確実だったからだ。
あてもなく走るうちにキャンプ場の看板が見えた。奥魔夜湖という聞いたこともない場所だった。一キロほど先を左折して進むらしい。キャンプ場か……いいかもしれない。でもそっちに店なんてないぞ。さっきの男がいそうな管理事務所に行って「ちょっと死体を埋めたいんでスコップ貸してください」なんて言えるはずもない。曲がるべき道には入らず、そのまま通過して街に出た。そこでようやくホームセンターを見つけた。もちろん閉まっている。しかし事をうまく進めるには焦りは禁物だ。
離れた場所のスーパーの駐車場に車をとめ、四つの窓を全開にしたまま、まんじりともせずに夜を明かす。
しんと静まり返った車内にいると、背後から渚がにゅっと起きあがり、「ねえ、ナミちゃん、彼女できた?」と耳元で訊ねてきそうだった。あれはおれと渚のドライブだったんだな。レッスンのあと、幾度となく彼女を鎌倉まで送り届けた日々をいつくしんだ。有象無象のファンの連中が聞いたら歯ぎしりして悔しがるようなまねを、おれは毎日、仕事という名のもとに平然とつづけてきたのだ。
「シュウさんが声かけなきゃよかったんだよ」ぽつりとつぶやく。「でもな、もしそうならおれはきみに一生出会えなかった。ほんの何か月かだけ、近くにいさせてもらえる。そういう運命だったんだよ。でもそれも終わっちまった」
(つまんないの)
ぷっと頬を膨らませて文句を言う声が聞こえたような気がした。
「最後はおれがきちんと眠らせてあげるから。静かな森の奥にね」
パトカーが回転灯をつけながらゆっくりと近づいてきた。反射的に身を低くするが、こっちには気付きもせずに通過する。だが明るくなれば、この車は目立ちすぎる。なかをのぞきに来るやつだっているだろう。そのハンドルを握るのが目つきの怪しい若造だと知れたら、こんな田舎町のことだ、即座に通報する善良すぎる住民だっているにちがいない。
冬の夜明けは遅い。七時前になってようやく明るくなった。それでもはらはらしながら、ホームセンターが開く十時まで待たねばならなかった。喉も渇かなければ、腹もへらない。ただ、緊張のせいか小便だけはよく出た。そのたびに窓をきっちり閉めてから車を離れ、通りを挟んだ向かいの公園の公衆便所に行かねばならなかった。渚の体はすでに異臭を放ちはじめており、自分ばかりすっきりして車にもどって来るたびに悲しい気持ちになった。
ジュラルミン製の軽量タイプで、先端が尖っているから硬い土でも掘れそうなスコップが手に入った。ついでにこのあたりに関するできるだけ詳細な地図も買い、逃げるようにジャガーを発進させて奥魔夜湖に向かう小径を曲がった。
十時半を回ったところだった。
凍てつく寒さのせいか、週末を湖畔で愉しもうなんて奇特なキャンパーは皆無だった。そもそも管理事務所さえ閉鎖されている。そこだけはすこしは神さまもお目こぼししてくれたみたいだ。
このチャンスを逃してはならない。しかしほかに誰もいないわけじゃなかった。ヘラブナ狙いの釣り人たちが竿を携えてやって来ていた。どれだけ冷えこもうと、吹雪こうと関係ないのだ。彼らの車が点々ととまる湖畔の道をぐるりと一周した。背の高い芦原が広がり、そこかしこに竿が突き出ている。けれど人影はない。小さなアルミ製のいすを芦の合間に押しこみ、自然の一部にでもなったかのようにじっと息を潜めているのだ。それぞれに縄張りがあるのだろう。そろそろと車を進め、彼らの車やバイクがとまっていない場所を選んで停車させ、窓を閉めてエンジンを切る。車がないというのは先客がいないことをしめす標識のようなものなのだろう。それでもどこからか視線を感じる。すぐそばにいるのかもしれない。だからこの場で新品のスコップを地面に突き立てるなんてありえない。
湖の背後に森が広がっている。
地図を見るかぎり、どこまでも深く、緩やかな傾斜で上っている。林道がのびているわけでもない。地図には表示しようのない、キノコ採りの地元民しか知らない獣道ぐらいはあるかもしれないが、夜中にやって来る者はいまい。森の斜面を二百メートルほど登った先は崖になっているようで、その下に川が流れていた。
この目でたしかめないわけにいかなかった。車を降り、まずはトランクから薄汚れた毛布を取りだした。それでバックシートのシーツの塊をすっぽり覆い、できるだけ自然に毛布が広がっているだけに見えるようにしつらえた。
外に出てドアを完全にロックしてから、おもむろにたばこに火をつける。いつも以上に胸の奥にガツンとくる。いかに緊張しているかわかるというものだ。涙目になりながら、まずは芦原のすき間から湖畔へと進み出た。
そこで最初の釣り人と目が合った。
右手のほう、わずか十メートル先の水際にアルミ製の釣り台が突きだしている。すぐに後ずさりし、釣り場を探しているように装い、こんどは左手をたしかめた。そっちは二十メートルほど先に釣り台が見えたが、人影は確認できない。でもあのあたりにいるのはまちがいない。つまりどっちの釣り人もすでにこっちが車をとめたことを認識している。
彼らのじゃまをしているわけではない。彼らは自分のテリトリーさえ侵されなければ、いちいちこっちが何者かなんて確かめにこない。それがコンビニの深夜店長との大きなちがいだ。せっかくの土曜、仕事や家庭から解放されて、孤独を満喫したいだけなのだ。そのことを強く自分に言い聞かせ、足音を忍ばせて踵を返し、ジャガーのわきをすり抜けて反対側の森へと近づく。そのとき気付いた。車をとめるときに目にとめてもよさそうだったが、見過ごしていた。
朽ちかけた木の仏壇のようなものに納まった小さなお地蔵さんがあった。
それが森の番人のように道端からこちらを見ている。強烈な罪悪感にその場から逃げだしたい衝動に駆られながらも、一度だけお地蔵さんに向かって手を合わせ、森に足を踏み入れた。傍から見れば、がまんできずに野グソをしにいくように見えたかもしれない。だったらこの場で振り返るなんてかえって不自然だ。おれは足もとに注意して深い下草を踏みしだきながら奥へ奥へと進んだ。
緩やかな斜面をどこまでも登った。まわりの草はたちまち丈を増し、肩のあたりまで深くなった。野グソなら絶対にバレない。でもおれはひたすら前に進む。まだまだだ。こんなところじゃだめだ。
地図では二百メートルぐらいだったが、体感的には五百メートル以上、森のなかをさまよったように思えた。ふいに崖に到達し、そこから先は三十メートルほど下まで急斜面となり、川が流れているのが確認できた。わずかなせせらぎも聞こえてくる。
切り立った二枚の巨岩の間に挟まれているとわかったのは、そのときだった。地面の幅は一メートルほどしかなく、いつの間にか岩と岩の谷間のような場所をのそのそと登ってきていたのだ。
ためしに左手の岩の出っ張りをつかんで、それをよじ登ってみた。息を切らせててっぺんまで来ると、大岩の向こうに秘密の花園のような緑深い松林が広がっているのが見えた。
おそらく人跡未踏、熊か猪、もしくは沼マムシぐらいしか見あたらないだろう。意を決してそちらに向かって岩を滑り下りた。湿った土の感覚を両足がとらえる。転落しないようその場にしゃがみこみ、両手で松の根をつかんでバランスをとる。幸運にも沼マムシの巣を踏み荒らさずにすんだ。それどころか冬眠期なのか甲虫一匹いない。松ヤニのツンとする清浄なにおいが鼻先をかすめるだけだった。
埋めるならここしかない。
勝手に確信すると、逃げるように元来た道をもどり、ジャガーに転がりこんですぐに発進させた。
あとは日が暮れて厄介な釣り客たちが荷物をまとめて帰ってくれるのを待つばかりだった。隣町まで車を転がし、とめられそうな駐車場を転々としながら時間をやり過ごした。腹はまったく空かない。途中のコンビニでコーラのペットボトルを買い、喉を潤す程度だった。
鼻は完全に慣れてしまった。午後になってからは、窓を開けているとかえって臭いが漏れるかと思って閉めきっていたのだが、それでも遺体の腐敗臭にむせ返るということもない。毛布のせいで臭いが抑えられているのかもしれない。不幸中の幸いというやつか。
ようやく日が暮れかかった午後四時前には、懐中電灯と長靴と軍手もそろえた。満を持してジャガーを発進させ、とっぷりと暗くなったころ、奥魔夜湖に至る小径に入った。釣り客らしい何台かの車とすれ違った。湖畔の道を念のため三周してみたが、夜釣りに興ずるもの好きの姿はない。例のお地蔵さんのところに車をとめ、エンジンを切る。すぐには外に出ない。二時間ほどじっとその場で息を潜め、湖と森が闇と静寂と冷気に完全に包まれるのを待って、ようやく意を決してドアを開けた。
銀色の満月が晴れた空に浮かんでいる。
たちまち寒さが身にしみたが、虫の鳴き声ひとつしなかった。森全体が息を殺して姉捨山にやって来た男の挙動を監視しているかのようだった。だがもう退路はない。コートを羽織り、軍手と長靴で装備を整えて後部ドアを開ける。毛布の下に両手を突っこんで、ぐいと力をこめる。思った以上に渚は軽かった。それが哀しみに輪をかけた。
毛布ごと肩にかつぎあげ、ドアをロックしてからスコップをつかむ。月明かりはあるが、懐中電灯をつけないわけにいかない。それが人目をひくのはわかっているが、日中の進路をたしかめる必要があったし、大荷物をかついでいるから闇のなかではいっそうの注意が必要だ。
スコップを杖がわりにして一歩ずつ進んでいく。すぐに息が切れた。方向感覚が失われ、自分がどのあたりを歩いているかもうわからなくなった。地図を思いだす。たしか二百メートルほどだ。深いこの藪をとにかくまっすぐに進みつづけるほかないが、下草が足首をつかむように絡みついてきて歩きにくいったらない。
大岩の合間にたどり着くまで三十分もかかってしまった。そこで明かりを消し、月明かりのなか、渚の体を慎重に地面に下ろし、その場にしゃがみこむ。眼下の小川のせせらぎが増しており、それが疲れきった心にしみる。
壁さながらにそそり立つ岩は、日中よりもつるりとして見え、人間を一人かついだまま登りきるのは容易でなさそうだった。これからが難儀だ。岩に背中をつけて腰かける格好の渚を抱き寄せた。
こんなふうにしたのははじめてだった。きゃしゃではあるが柔らかみを残す体が毛布ごしに感じられ、胸に疼きを覚えた。
顔を覆う毛布を開き、ミイラのように巻きついたシーツをそっとめくってみる。
細面が月明かりに青白く浮かびあがる。まるで眠っているだけのようだったが、目元から頬にかけて刻みつけられた生々しい縫合痕が悲劇を物語っている。
「渚ちゃん……ごめんな……」
口を突いて言葉が漏れ、涙がどっとあふれ出る。
気付いたときには口づけをしていた。
ふしぎなことにまだ体温が残っていた。シーツでずっと保温していたからかもしれない。死後硬直なんてものは無縁なのか、唇にも柔らかみがある。それにさっきまで鼻先をかすめていた腐臭も感じられない。森の精気によって浄化されたかのようだった。
そうじゃない。
彼女に対する強い思いが感覚を歪めているのだ。おれのなかでは、渚はまだ生きて――
はっとして体を離す。
恐怖がぞくりと体を突き抜け、わなわなと体が震える。見せかけだけの男の喉の奥から、うめき声がもがきだすように漏れる。
こっちを見ていた。
はっきりとそれがわかった。
シーツにくるまれたまま渚は目を開けていた。おれは幻から逃れるように一メートルも後ずさった。それでも月明かりのなか、渚は大岩に背をあずけながらじっとこちらを見つめていた。
一瞬、その顔が歪んだかと思うと、いきなり咳きこんだ。それで現実に引きもどされた。
「ナギサちゃん……!」
その肩にふたたび手を伸ばしたとき、白く輝くものが顔に飛んできた。硬い感触が鼻先に残り、下に落ちたものに目をやる。
鍵だ。
シュウさんの金庫の。
ひとしきり激しく咳きこんでから、渚は静かに肩で呼吸しながらふたたびおれのことを見つめた。急場しのぎで縫いつけた深い傷痕が涙で濡れている。薬の大量服用、さらに鍵が喉に詰まったことで昏睡状態に陥り、おれもシュウさんも動転していたせいでそれを死んだものと勘違いしたのだ。
「よかった……とにかくよかった……だいじょうぶかい……?」
「あたし……」
あとは言葉にならず、闇の広がる深い森に慟哭がつづいた。この国の恐ろしい世界を牛耳る男を相手に自分がなにをしたか思いあたり、母親を失った悲しみとともに恐怖に押しつぶされそうになっている。
彼女をしっかりと抱きしめ、その頬に何度も口づけをした。
「おれがなんとかする、なんとかするから」
とはいえ、ふたたびジャガーに乗りこんだときには、全身に満ちていた空元気すらわきあがってこない。渚が吐きだした鍵を握りしめながら、おれは途方に暮れた。毛布にくるんだきゃしゃな体を凍てついた土の下に埋めるほうが、余計なことはなにも考えずに没頭することができた。




