四十六~エピローグ
四十六
「はたから見りゃ、バカみたいな話さ。苦労して分け入った真っ暗闇の森の奥から、おんなじようにしてもどってこなきゃいけなかったんだからな。薬のせいで渚は足下がおぼつかなかったし、靴を履いていなかったからさ。息を吹き返したんだし、生き埋めにせずにすんだんだからもっとすなおに喜ぶべきだったんだろうが、その先のことで頭がいっぱいで、てゆうか真っ白になっちまって、まるで機械の一部になったみたいに右足と左足を交互に動かしつづけるしかなかった。車にもどって彼女をバックシートに座らせて、寒くないようにコートをかけてやって。それでエンジンかけてガンガンにヒーター入れてさ。でもそんなもんなくても、おれのほうは頭がカッカと燃えてたよ。あのときほど、どこかに飛んでいってしまいたいと思ったことはなかったな。
選択肢は二つだった。
もし息を吹き返したらと、来るときに考えたとおりさ。六本木か鎌倉か。でもそのとき、ぎりぎりのところで頭の奥にひんやりと冷たい点みたいなものが生まれたんだ。おれはシュウさんとおなじで本能で生きるタイプだ。だからそのとき、そいつにしたがえって直感したんだな。なにしろ、きわめて重大な秘密を共有しあう仲だからな。すくなくともシュウさんのほうの認識はそうだ。それがずっとつづいている。公衆電話を見つけて、事実を伝えてしまえばそれまでだ。だがあと何時間か、数日間か、それとももうちょっとか、シュウさんの認識を維持することができたら、こんなこと口にしちゃいかんが、短刀を首元に突きつけたまんま過ごすことができる。それがおれにとってどう転ぶか、おれは賭けに出たのさ。このままあの人の運転手兼雑用係をつづけたところで、その後はせいぜい誰かのマネージャーになるくらいだろ。へたをしたらなんだかんだ理由つけてお払い箱さ。おれは車の運転はうまかったが、学はないし、口が達者なわけでもなかったからな。だから、すねの傷のなかでも最大の醜い傷痕を知っているかぎり、おれは自分の身分が保証されるし、うまくいけば、いい方向に転がるお守りになるかもしれない。もうその場で腹をくくるしかなかったんだな。
いろんなことを考えて、ようやくジャガーのアクセルを踏みこんだときには、てっぺん越えてたよ。来たとき以上に慎重にゆっくりと運転した。渚はシートに横になってずっと黙ったままだった。だから高速には乗らず、下道で何度も車をとめてようすをたしかめないといけなかった。
中野のアパートに着いたのが、たしか四時ごろだったかな。夏じゃないのがよかった。真っ暗だったからね。それでもまわりに誰かいないか何度も確認してから外に出た。まるで盗品を運びこむようなものだったな。玄関に入ったときは心底ほっとしたよ。
狭いベッドに横にしてやったんだけど、彼女、うめくように泣きだしてさ。壁の薄いボロアパートだったから焦ったけど、自分がなにをしたか、これからどうなるのか不安の大波に襲われたんだろうな。それに顔の傷さ。ようやく人目を避けられるところまで逃げこめたけど、じゃあ、そのあとどうするんだよって。おれだって何一つ思い浮かびやしない。ただあの子をぎゅっと抱きしめることしかできなかった。とにかく朝まで、夜が明けるまでそうしていよう。それに明るくなったら、なにか名案を思いつくかもしれない。政治家たちのことは指弾できないよ。要はただの先送り。思考停止の現実逃避だな。
だけどいつまでもそうしてるわけにいかなかった。車が路駐のままだったからな。渚を一人にするのはとてつもなく心配だったけど、『すぐに帰って来るから』って言ったら、こくりとうなずいてくれた。そのときの目がこっちを信頼してくれているように見えたから、よし、いまだって家を出て事務所に車を返しに行ったんだ。急いだつもりだったけど、それでもやっぱり時間食っちまってアパートに帰って来たのは結局、六時を回っていたんじゃなかったかな。ベッドで静かに寝息を立てている彼女の姿を目にしたときは、心底ほっとしたよ。それを見たらさ、なんだか疲れがいっぺんに噴きだしてきて彼女のわきの狭っ苦しいスペースに倒れこんじまった。信じられないほどつかれてたんだ。あれほどつかれたときはなかったな。
呼び鈴が鳴ったんだよ。
二時間くらいたっていた。日曜の朝だぜ。誰だよ、こんな時間にって思ったけど、のぞき穴見て血の気がひいた。居留守を使うべきか考えたけど、あわてて渚を押し入れに隠して、気持ちを落ち着かせてから玄関開けたんだ。シュウさんには日光を出るときに電話入れてあったんだけど、やっぱり心配だったんだろうな。マックのハンバーガー、たっぷり買ってきてくれたんだ。それで首尾を聞いてきた。ほんの三十分ほどだったけど、生きた心地がしなかったよ。おれにとっちゃシュウさんは恩人中の恩人だ。その人の目の前で、大ウソつかなきゃいけなかったんだからな。だけどそんなのは、ただのはじまりに過ぎなかった。その日からずっとおれはウソをつき通さないといけない。とてもじゃないが、一人じゃ耐えられなかった。だから迷うことはなかった。渚に聞かせるわけにいかないから、貯金箱の小銭をひと握り持ちだして公衆電話からかけた。
ハセガワにな。
洗いざらいぜんぶ話したよ。あいつはなにも言わずに聞いてくれ、しばらく考えてからなにをすべきかアドバイスした。その夜遅くになって、やつは来てくれたよ。車でな。ほんとに頼りになる男で、頭の回転が速くて行動力、瞬発力があった。いまで言うDVなんかの被害にあった女の人の面倒を見てくれる尼さんがいてさ。その人に段取りつけてくれて、身一つでだいじょうぶだって言うんだ。おれに選択肢はなかった。その場で渚をやつの車に押しこんだのさ。翌日、月曜の朝には彼女は岸和田の寺にいた。電話で話したよ。「怖い」って言ってた。けど、尼さんはなにも聞かず、メシを食わせて寝かせてやった。
似たような境遇の人が何人かいて、あとは共同生活さ。それでも気になったから、おれは平然とシュウさんのもとで仕事をつづけながら、月に一度は会いに行ったし、給料の半分以上を寺に寄付した。といってもそのころの給料なんて、すずめの涙みたいなものだったけどな。でもいくらカツカツになっても、おれは彼女が生きているだけでうれしかった。
渚のおばさんから捜索願いが出されて、シュウさんのところにも刑事がやって来た。シュウさんとしちゃ、正念場だったけど、契約は切れていたし、あの日、真っ白いコートで六本木の事務所に現れたところを見たとの目撃情報もなかった。監視カメラ時代じゃないのが幸いしたんだ。それに覚せい剤を渡したのは海藤だったから、警察の関心はもっぱらそっちに向いていたよ。
やっぱり顔の傷のこともあるし、最初は渚もふさぎこんでいた。でも一か月もしないうちに、ハセガワがおなじくらいの年代のホームレスに戸籍を取らせて、そいつを駆使して住民票からなにからいろんなものを偽造してくれたんだ。それでちゃんとした医者に通えるようになって皮膚移植を受けることができた。完璧にきれいになったわけじゃないけど、かなりマシになった。花が咲くころの話さ。でも花見デートはできなかった。人目を気にして、外に出たがらなかったからな。
尼さんにしてみりゃ、それほど特異な相手じゃなかったみたいだ。いつまでも引っこんでるわけにいかんやろって、缶詰工場の深夜勤務のアルバイトを見つけてきてくれたんだ。出勤も帰って来るのも夜中だし、職場じゃ帽子とマスクでずっと顔を覆っていられる。渚だってずっとこのままでいいとは思っていなかったから、ためしにやってみることにしたんだ。そうしたら、職場の人たちがすごくやさしくしてくれて、一週間、二週間と渚もつづけられるようになった。一年がたつころには、みんなの前で無理に顔の傷を隠すこともなくなったし、なにより前みたいなおしゃべりもできるようになっていた。もちろん外を歩くときはマスクと薄いサングラスしてたけどな。
尼さんの口利きで工場の近くにアパートを借りて一人暮らしをはじめたのは、二十一のときだ。二十五のとき、工場のバンコク進出の話があって現地指導員が必要になった。まっさきに渚は手を挙げた。すこし前から英語の勉強をはじめていたし『タイ語なんて片言だけ覚えておけばへいきよ』って楽観的だった。おれが思うに、大阪で中途半端に工場の深夜勤務をつづけるんじゃなくて、どこかで心機一転、ほんとに第二の人生に踏みだしたかったんだろう。半年後には、バンコク郊外の真新しい缶詰工場の会議室で、採用担当者の隣に座って現地マネージャーとして応募者たちに身振り手振りで仕事の内容を説明していたよ。アイドルの卵だった尾形渚はもはや過去の幻影となっていた。
おれのほうはシュウさんとの“秘密”の共有がつづいていたから、ずっと重用されて、だんだんとカネ回りもよくなっていった。だから十分に仕送りしてやることができたんだが、彼女はそれに頼ることをよしとしなかった。そいつには手をつけず、とにかく地道に働きつづけた。それでシュウさんが亡くなっておれが社長の座を引き継いだ四十四のとき、従業員百人を抱える現地法人の社長になった。海外でバリバリ働くキャリアウーマン。それこそが彼女の本来の姿だったんだよ。
顔の傷?
そんなものもはや小さな黒子程度のものでしかなかったな。名前こそ変わっちまったけど、人間の本質は変わらない。彼女は生涯働きつづけたよ。人間が生きるっていうのはそういうことさ。死ぬのは簡単だ。生きていくほうが、あれこれめんどくさいことばかり起きてたいへんなんだよ。でも彼女は生ききったよ。途中いろいろあったけど、神さまにもらった命をまっとうした。おれはそう思う」
四十七
≪Bプラン発動。いま伝えた≫
≪森が深すぎましたね≫
四十八
かつて尾形渚だった女性は十年前、職場で倒れたまま帰らぬ人となった。いまはバンコク郊外の丘にある墓地で香り豊かなプルメリアの花々に囲まれて静かに眠っている。
「もし彼女に会いたいのなら案内するよ。日本を懐かしむことなんてめったになかったけど、甘いものだけは最後まで和の心、餡子が好きだった。とくに道明寺には目がなかった。会いに行くときはいつだってたんまり買って持っていったんだが、そのうち自分で作るようになっちまってさ。それがまたうまいんだよ。あんたに食わしてやりたいくらいだ。だからさ、行くときは道明寺、忘れずにな」
「急死だったというわけですか」白井はがっくりと肩を落としている。
「前日まで元気だったっていうから、そうなんだろう。元々、病気知らずだったんだ。人間なんてわからんものさ。ただな、倒れる半年ぐらい前に里奈のことで話し合った。もしかしたら自分ではなにか感じていたのかもしれないな」
「つまり――」
「里奈はおれと渚の子だ。入籍はしていない。おれの仕事のことがあるからな。あんたみたいな詮索好きがなにをしでかすかわからない時代なんだよ。それを渚のほうが心配してくれたんだ。それに法律がどうあれ、里奈がおれたちの娘であるのは絶対的な事実なんだからな。ただ、あのとき認知に踏みきっておいてよかった。すくなくともこの十年間は、おれにもしものことがあったときの遺産の行き先を明示することができたから」
「写真を見せていただけませんか。渚さんの」
「顔の傷を気にしなくなったと言っても写真はべつだ。撮られるのを避けていたんだよ。だからおれも里奈もほんの数枚しか彼女の写真は持っていないし、あいにくいまはない。ただ、最後まで変わらなかったよ。愛らしいままだった」
「里奈さんが尾形渚とあなたの娘だとは驚きましたね」
「十年前はもうすこし母親に似ていたんだがな。だんだんとおれに似てきちまった。それにタイ料理より洋食が好きでな。ピザとかジャンクフードばっかり食ってるうちに、だんだんと肉づきがよくなってきちまった。母親がいないさびしさを食で紛らせていたってこともある。それにこれが一番大きいと思うが、あんた自身がはなからその可能性を否定していただろう。自分で自分の目を曇らせていたんだよ」
浪男は白井のスマホをあごでしめす。
「もし里奈がそのタンクのなかで溺死するようなことがあったら、あんたは尾形渚の消息について、この先一生、もやもやした疑問を抱えたままだろう。ファンなら誰も知らない情報をつかみたいんじゃないのか。それに日本の芸能界を牛耳る正真正銘のキングの座を、なぜこんなクソみたいな野郎が継ぐことができたのか、そのカラクリを証明してみたいんじゃないのか? それこそがおれとハセガワが守ってきた秘密なんだよ」
浪男は広い窓の外に目をやる。相変わらず忙しく離発着がつづく。そうなんだ。現実はなにがあろうとつづく。時は流れつづけるのだ。
「この一か月、古賀さんの件と同時並行で調べるなかで、あなたと土橋さんが尾形渚の死に関与し、遺体は奥魔夜湖周辺に埋まっているものと思っていました」
「そう思われてもしかたない。すくなくともシュウさんはおれが遺体を埋めたと思いこんだまま逝っちまった」
「この手で遺体を見つけだして、彼女の無念を晴らす。その思いだけに駆られて行動してきたんですが、それが真逆だったってことですか。あなたは彼女を助け、その後も面倒を見つづけた」喉の奥から胃液でもこみあげてきたかのように白井は顔をしかめた。「まれにみる美談ですね」
「贖罪さ。いろんな意味でのな。昭和五十九年の五月、シュウさんが声さえかけなければ、おれたちが彼女を知ることもなかった」
「里奈さんはいま二十五……尾形渚の娘……」かみしめるように白井は繰り返した。いまなお思いを寄せる女性の娘に己がくだした非情な仕打ちを悔やんでいるかのようだった。
そのとき浪男は気付いた。
スマホから里奈の姿消えていた。カメラの角度が変わったわけでもない。先ほどとおなじく満々と水をたたえたタンクを映しつづけている。
視界の端に店の入り口からこちらに近付いて来る人影をとらえた。客だろう。灰色のキャップを目深にかぶり、オレンジ色のTシャツを着ている。
そちらにちらりと目をやり、白井はアタッシェケースから浪男のスマホを取りだす。
「もはやもう一つの絶対的な事実をお伝えするほかないようですね」
四十九
目の前に立ちつくす女の姿に浪男はがく然とする。冷静に考えればこのうえなくありがたく、喜ばしい事実だが、激しい困惑は隠せない。まるで自分のほうがあの貯水槽に沈められたみたいだった。
「どういうことだ……バンコクじゃなかったのか……」
キャップを脱ぎ、濡れた黒髪を片手でかきあげる。XLサイズのTシャツも首元が濡れていた。
「映像は合成です。べつの場所に設置した貯水タンクの映像に、空港の駐車場にとめた車内で撮影した彼女の映像をAIソフトで合成したんです。髪とシャツぐらいは濡らしておかないといけなかったのですが、ご協力いただきました。里奈さんに」
「里奈……」
脳内回転翼は最高出力に達し、いまにも薄っぺらな脳天の骨を割り破ってドローンさながらにレトロな雰囲気の漂う昼下がりのレストランにふわりと舞いあがりそうだった。それになにより、頭の奥にわきたっていた灰色の雲が薄れ、その向こうに広がる暗黒大陸が垣間見えたような気がした。
おや、これはなんだ。
ガタガタと肩が小刻みに震えだしている。
まるで自分の体でないかのように制御不能に陥った。
「古賀さんの件で依頼を受けたのはまちがいないんです。あれがきっかけだった。ですからあなたには、古賀さんの家に火を放った二〇〇八年十二月のことをまずは話していただき、そこからゆっくりとこちらにもどって来てもらおうと考えたのです。ただ、十五年かけて分け入った閉ざされた森ですから、それも容易ではない。だったら、まずはあなたにとっての真の世界、芸能界のキングとして暮らすパラレルワールドを破壊する必要があった。そこでバンコクでカフェの勉強をつづけているという女性を、わたしのスマホのなかに出現させてみたわけです。あなたは目の前の状況に心を揺さぶられ、その人の窮地を救わねばならないという衝動に駆られるはずですからね。それをフックにその女性が本当は何者なのか、改ざんされた記憶を修正していただき、そこから四十年前の真相について語っていただけるのではないかと考えたわけです」
「さっきはLINEも電話も無視しちゃってゴメンね。こうして会うのは二か月ぶりかしら。どうしてるか心配していたのよ。でも変わりないみたいでよかった」
目の前で里奈が話しだす。娘というより年の離れた妹といったほうがよさそうだった。
「きょうは道明寺の話が新たにくわわったのね。わたしも大好きよ。まあ、わかると思うけど」肉づきのいい顔が愛らしくくしゃくしゃになっている。「ほんとはさ、わたしもこんなまねはしたくなかったのよ、黒瀬さん。けど、この人たちの話にも一理あるかなって思うようになってね。尾形渚さんのことは、あなたからずっと聞かされてきたけど、ほんとは殺されていて、誰にも気付かれずに四十年も埋められているのだとしたら、やっぱりそれって、ほっといちゃいけないことなんじゃないかって。そう思ったわけよ」
「この人たちって……」
そう口にしたとき、視線が注がれていることに浪男は気付いた。猛然と料理に食らいついていた水色ジャケットの禿頭の男、それにあのウェイトレスが、こちらを警戒するようにゆっくりとカウンターのほうから近づいてきていた。
二人は途中のテーブルからそれぞれいすをつかみ、浪男と白井の前にそっと置いた。
「席に着きましょうかね」禿頭の男は、里奈に浪男の向かいに腰かけるようすすめ、自分は白井の隣のカウチに滑りこんだ。ウェイトレスは白井の向かいに腰かける。浪男の左手は滑走路を見渡す背の高い窓。いまや完全に包囲された形勢となり、急に喉が締めつけられてきた。たまらず浪男はシャツの上のボタンを外し、喉元を開放する。指先にひと筋の硬い膨らみが触れた。
「おひさしぶりです、黒瀬さん」
禿頭の男がテーブルの上でそっと右手をあげる。そこには警察の身分証が握りしめられていた。
「小峰です。名乗ってもおわかりにならないかもしれませんね。それに見てくれもあのころとはずいぶん変わってしまったから」薄汚れた身分証に「小峰清」とある男は、空いてるほうの手で恥ずかしそうに頭頂部をなでた。「時の流れは残酷すぎる」
「わたしはお会いするのははじめてかと思います」ウェイトレスは、それまで見せていた快活な雰囲気がかき消えていた。免罪符のようにおなじ身分証を浪男の顔の前にかざす。そこには「埜村美沙子」とあった。「あのときは一課の新米で、ご自宅周辺の聴き込みに回っていましたから」
「こちらでの会話はモニターさせていただきました」小峰という名の男がスマホをかざす。「と言っても、これは正式な捜査ではありません。過去の事件に関する疑問点の職務外の検証といったところでしょうか」
「あんたら、なんなんだ」迫り来る暗黒大陸を必死に拒絶しながら、浪男は当然のことを口にする。
「その前に一つだけ」
小峰が白井に問いかける。
「あんたもたいがいだな。岩井圭子はスーパーで買い物中だよ。つい先ほどのことだ。足を引きずってもいない。階段もすたすたと上ったそうだ。なんでそんなことを調べさせるんだって勘ぐられちまったよ」
「ご協力いただき感謝しています」白井は小さく頭をさげた。「ただね、多少の脚色はしますよ。じっさいは、あの方に刃物は不要だった。カネに飛びついてきましたから」
「自腹を切ったのか」
「古賀さんのおかあさまからの前金をちょっと拝借しましてね。岩井さんが落ちるまで五十万もかからなかったですよ。芸能界なんてヤクザの世界と変わらない。表向きは儲かっているように見えても、そんなのはごく一部だ。末端はカツカツなんだ。新米AⅮのほうがよっぽどカネ回りがいいんじゃないかな。正業に勝るものなしだ」
「待ってくれ」たまらず浪男は訊ねる。「白井さん、あんたの話は……」
「ほかはすべて本当ですよ。自衛隊経由でフランス外人部隊に入って、海外で活動をつづけました。除隊後は個人営業です」
「そこまでは聞いていなかったな」
「小峰さんたちが目くじらを立てるようなまねも散々してきました。でもそれは国外での話ですし」職業柄なのか小峰も埜村も苦虫をかみつぶしたような顔になったが、白井はかまわずつづけた。「それに今回の件では、おたがい、目的が合致したわけでしょう。ちがいますか?」
それには答えずに小峰は浪男に話しかけた。「こちらのお店には無理言って協力していただいたんです。黒瀬さんのお気に入りみたいでしたからね。最近はよく来られていた。ほかの客を見つけては、たのしげに談笑されていた。それで白井さんから提案があったんです。わたしたちがずっと疑問に思っていたことに踏みこもうというので、だったら個人的に賛同してもいいんじゃないかと考えたわけです。わたしも埜村も」
白井がさらりと言う。「あなたにとって娘同然、いや、まさに娘そのものの里奈さんを見つけだし、協力いただけたのがなによりでした。それで実行に至ったわけです。里奈さんがこれまで断片的にあなたから聞かされてきた“母親”に関する話などをもとに、奥魔夜湖にある祠はすでにわたしも発見しています。そこから先、あの森の奥、川に向かう崖沿いの大きな岩も見つけています。該当する場所は一つしかありませんから。たしかにその裏手には松林が広がっていた。でもそこをいくら掘っても遺体は見つからない。小峰さんたちにも協力してもらい、かなり広範囲を調べたつもりですが、ダメだった。たしかに四十年前のことだ。獣が掘りだしてしまったのかもしれないし、そもそも場所が見当はずれなのかもしれない。だからやっぱりもう一度、ご本人に訊ねる必要があったんです」
そこで白井は浪男のスマホを掲げる。
「運転手に下で待つように言ってあるんですよね。もし本当に電話をされたのなら、発信記録を見せていただけますでしょうか。そもそも部下なんてあなたにはいたのですか」
薄れつつある雲を浪男は必死にかき集めようと試みる。だがもう手に負えない。指の間をすり抜けては散っていく。その向こうで半裸の男が鎖でつながれながら奴隷労働を強いられている。浪男は両手をだらりとテーブルにのばし、凶相でも浮かんではいまいかと左右の手のひらをじっと見つめる。その手にそっと里奈の両手がのび、包みこむように握りしめる。厚ぼったい肉の温かみが心地いい。疲れ果てた旅人に供される甘い紅茶のようだった。
「黒瀬さん、わたしを見て」
その声音に急に懐かしさを覚え、浪男はこちらの気持ちを落ち着かせるように手を握る女の顔を怖々と見あげる。
「わたしは誰。わかっていることを話して」
唾をのみくだし、意識外のなにかに圧されて浪男の喉から声が漏れる。
「里奈……さん」
肩の震えはいつしか失せている。
「稲沢……里奈さん」
「そうよ。仕事はなにかしら」
「長いこと面倒を……見てもらっていた」
「仕事ですからね。で、その仕事はなにかしら」
「……かん……看護師かな……」
浪男は暗黒大陸にもどっていた。
五十
昭和五十九年十二月九日、日曜の朝、ハセガワは電話口でうめくようなため息をつくばかりで、なんのアドバイスもしてくれなかった。電話ボックスのなかで、浪男は腹をくくるしかなかった。翌日、浪男は青ざめた顔で出社し、その日の仕事を黙々とこなした。シュウさんを乗せてジャガーであちこち回りもした。しかし社長はたとえ二人きりになってもそのことは口にしなかった。
それが四半世紀近くつづいた。
秘密の共有。
浪男はそう思いつづけた。だってそうだろう。毎年十二月になると、シュウさんは一人で日光に行く。湖なんて名ばかりのあの沼にだ。直接は聞かなかったが、圭子さんが教えてくれた。でもそれだけだ。浪男は四十を過ぎても運転手のまま。重用されるどころか、末席のタレントのマネージャーにすらなれなかった。シュウさんという狼にうろつかれるまま、なにも言いだせずにのろのろと、それでいてあっという間に時間だけが過ぎていったのだ。気付いたら自分だけ置いてきぼりだ。
「おれだっておなじだよ」
赤坂の居酒屋でハセガワは生ビールをあおった。
二〇〇八年十二月のことだ。
「そうかな。おまえのほうが目をかけてもらってるような気もするけど」
「そんなことないって。おれは調子がいいだけだから」
しかしもうそのころにはハセガワは広報担当として、スポーツ新聞や週刊誌の記者連中をさばいていた。
「この先どうなるかなんて、おれにだってわからないよ」
「おれもすこしは表の仕事がしたいんだ。ずっとドブさらい、汚れ仕事ばっかりじゃないか」
「待て待て、ナミちゃん。おれだって人に言えないようなことはやらされてるぜ。シュウさんはそのへんは平等だ。均等におれたちに負荷をかけている」
「なんだかいいようにこき使われてるような気がするんだよな」本音を浪男は漏らす。「こんなはずじゃなかったのに」
しばらく黙りこんでからハセガワはため息混じりに告げた。「たしかにひどいわ。おれなら耐えられないかもしれない。ナミちゃん、おまえ、すごいよ」
「すごくなんかないよ。バカみたいだ。ただのお人好しだよ」苦々しく吐き捨てる。シュウさんのことはずっと尊敬してきた。そのぶん反動は大きい。いまになって暴発するんじゃないか。薄々、浪男は感じていた。
「そのうちいいことあるって。おまえも、おれも」
「こないだ、新潟で営業があったとき、すごくひさしぶりに中学の同級生と会ったんだ。一人は自分で親の酒蔵を切り盛りしていて、もう一人は役場で課長だって。コミュニティーなんとか課っていう、最近できた部署らしい。あと、コンビニの店長やってるやつもいた。働いているのは全員外国人なんだけどすごく優秀だって。同級生たちはみんな順調な感じがしたし、なによりたのしそうだった。芸能界の話をしてやると興味津々さ。ものすごくうらやましがられたよ。けど、そんなのおれの本当の仕事とはなんの関係もない。たいした見返りもないのに、本当はなにをしているかなんて言えるわけがない。縛りつけられたままじりじりしてるのはおれだけだった」
「ためこんじゃダメだぞ、ナミちゃん。文句があるなら、おれの前でいくらでも吐きだしてくれ」
「おまえに言ったって意味ないだろ。けどな、シュウさんに言えるわけないし」
「じゃあ、おれのほうからちらっと言ってみるよ。浪男が将来のことで悩んでるって」
「……そうだなあ。そうしてもらえるとありがたいかな」
そのあと、ポトスの古賀の話が出た。具体的な方法はハセガワが抜かりなく説明した。浪男はいつもの通り、黙ってうなずいた。
五十一
「わたしたちが捜査にあたった当時、ポトスの古賀さん宅でしばらく前にボヤがあった話はまったく覚知していませんでした」
小峰は二〇〇九年四月に起きた殺人事件について口にした。
「黒瀬さんに十分な動機があったことはほかの方々、とりわけ長谷川耕司さんの証言で十分でしたからね。長谷川さんは自分より先に勤めていた黒瀬さんの不遇にとても同情していた」
「そのころはまだ古賀さんも明確には発症していなかったから、おかあさまの目もブリッジには向かなかったんじゃないかな」白井が自分の見立てを語る。
小峰が十五年前の捜査を振り返る。「そもそもあの時点では、たとえ通院歴があっても黒瀬さんは六本木で起こした事件についてしっかり認識していた。心神喪失または耗弱とは判断されなかったわけですから」
「わたしが担当したときにはすでに“キング”でしたけどね。服役されて一年もたっていなかった」浪男に責任能力があるとの裁判所の判断に対し、医療刑務所に移された当初から看護師だった稲沢里奈の見解は厳しかった。
白井が話をやんわりとさえぎる。「いまそれを言ってもはじまらないでしょう」
「失礼しました。たしかにそうです」看護師は浪男に向き直る。「黒瀬さん、さあ、話すことを話して家に帰りましょうよ」窮地だろうと非常事態だろうと看護師は笑顔を忘れない。「わたしの母親も尾形渚さんみたいなスレンダーな美人だったらよかったんだけどねえ。だけどよかった。どうあろうとこっちの世界にもどって来てくれて。まあ、大きい声じゃ言えないけど、わたしも黒瀬さんといっしょにいられるのが楽しかったから。とんでもなく若返らせてもらったし」
一同の目が浪男に注がれる。
みんな、浪男がふたたび殻を閉じるのではないかと案じているのだ。
その心配はなかった。
里奈が何者だろうとかまわない。生きていてくれさえすれば。浪男はもうそれでいい。
「ハセガワが言ったんです」
空になったコーヒーカップを手に取りながら浪男が話しだす。
“キング”なんかじゃない。
最後まで土橋修司の運転手でしかなかった男の言葉だ。
「いつもながらの熱っぽい感じでね。『これはブリッジにとって極めて重要な案件だ。業界秩序を守るうえで、事の成否はある意味、大きな岐路になる。だからシュウさんの期待はこれまで以上に大きい。これはおまえにしかできない仕事だ』ってね。わたしはやつを信頼していた。だからきっとうまいことシュウさんに口を利いてくれると思っていた。ところが古賀の一件から何か月たっても、社長からはねぎらいの言葉一つなかったし、わたしの仕事は変わらなかった。それで意を決してもう一度、ハセガワと飲みに行って聞いてみたんです。そうしたらさ――」
浪男はいったん離発着を繰り返す滑走路に顔を向け、目をすがめながら苦い唾をのみこむ。
「いまでも覚えてますよ。あいつ、こっちが心配になるくらい居心地の悪そうな顔をしてこう言うんです。
『やめたければやめればいい。替わりならいくらもいる』
シュウさんにそう言われたそうです。あとは二人して長いこと黙りこんでしまった。その間、十九歳から四十代までの日々がほんとに走馬灯みたいによみがえってきました。けどね、それだけは言ってほしくなかった。どうあってもそれだけは。いろんなよくない感情が体の内側にわきあがってきました。けど、最後に狼煙みたいに天高く舞いあがっていったのは、許せないっていうピュアな気持ちでした。そのことをハセガワに言ってみたら――」
「なにか言われたのかな」小峰が身を乗りだしてきた。まるで十五年前の事件を捜査していた当時から、心に引っかかるものを抱えていたかのようだった。
それで浪男ははたと思いだした。これはいまはじめて明かす話かもしれない。でももはや気にする話じゃない。ハセガワは三か月前に亡くなっているのだし。
「ハセガワは『おれたち、ずっと奴隷のままってことだな。いい思いをするのはシュウさんだけ。芸能界って、やっぱりそうなんだな』って。だから思いきって『会社やめるよ』って言ってみたんです。そしたらさ、あいつ『黙ってるつもりか』って」そこまで告げると、浪男は肩を落とし、柔らかなカウチの背もたれに体を預けて目を閉じた。
妄想世界にふたたび逃げこむのを阻止するように小峰が畳みかけた。「そのあと、長谷川耕司はなにか言わなかったかな。なんらかの指示のようなことを。具体的なものでなくても、なにかその後のあんたの行動につながるきっかけになるようなことを」
浪男はゆっくりと目を開け、小峰の顔を見つめる。
「覚えていないんです。なにか言ったのかも、言わなかったのかもしれない。でもはっきりしているのはあのとき、裁判長の前で言ったとおりです。わたしは白バイを奪い、事務所に乗りこんだ」
そして土橋修司を警棒でめった打ちにして殺害し、懲役二十年が確定した。ところが一年もしないうちに妄想に駆られるようになり、医療刑務所に移された。
浪男は襟を広げ、いまなお生々しい首元の傷を見せつける。
「これがわたしの人生なんです。たぶんね。都会でボロボロになるまでこき使われた挙げ句、勝手にブチ切れた田舎者のなれの果てですよ。けどね、白井さん、さっきいいことをおっしゃったじゃないですか。パラレルワールドは存在するって。そうなんですよ。シュウさん亡きあと、気付いたらわたしはキングの座を継承していた。その後、愛する女性との間に娘もできたし」
「わたしはそれでかまわなかった。認知症の方もふくめ、そういう人は何人も見てきたし、悪い気はしなかったから。どうだっていいんですよ、患者さんが毎日を愉しく過ごしてくれるのなら。人の心のなかなんて絶対にわからない。わかる必要なんてないんですよ。わたしのことを二十五歳の娘だと思って財産を譲るための契約書まで作ってくれて。JXJホールディングスってのは、乗っていた車にちなんで名付けたんでしょう。シルバームーン・コーポレーションのほうは、奥魔夜湖の森に分け入ったあの晩、夜空に輝いていた満月が忘れられなかったのよね。わかるわよ、ずっとそばにいたんですから。だからこそなの。十五年たって今年の五月、仮釈放されるって聞いたときは、ちょっと心配した。たとえ医療刑務所でも過剰収容なのはおなじなの。ドクターは社会内処遇に移しても問題なしって判断した。あとはわたしにできることはなくなってしまった。それでも最後の日まできちんと“キング”の話に耳を傾けましたよ。だって、本当におもしろいんですから、黒瀬さんのお話」
「長谷川さんにも感謝すべきだろうな」小峰が意味ありげに言う。「定期的に面会に行って業界の話をしてくれて、黒瀬さんの頭を活性化してくれたわけだし」
「そうそう」にこやかに微笑みながら里奈が浪男の腕をぽんと叩く。「芸能界でなにが起きているか、長谷川さんが帰ったあとでぜんぶ話してくれたものね。おかげでわたしも耳年増になっちゃった。水沢汐里ちゃんの話とか、そうなんだーって思うことばかりよ。『やりすぎ』だとか、なんだかとか。うぅ、ほんとに芸能界って怖い世界ね。誰かがおカネを稼げるようになったら、絶対に逃がさないで搾りつくそうとする。蟻地獄みたい」
「それだけじゃない。長谷川さんは、黒瀬さんが出所したあとの生活資金まで供託していた。どう考えてもあやしいんだけどね」ブリッジランド・エンターテインメント社長殺害事件の捜査の中心にいた小峰は、土橋亡きあと、社長に就任した長谷川耕司の事件への関与をいまも疑っていた。しかしやつは浪男が出所するひと月前に心臓発作で他界しているため、真相解明はもはやどうしようもなかった。
白井の向かいに座る埜村が怖々と口を開く。
「わたしは六本木の事件当時、中野の黒瀬さんのアパート周辺でずっと聴き込みをつづけて証言を集めてきたんですが、黒瀬さんの存在はほとんど近所では知られていなかった。生活音が聞こえるけど、誰が住んでいるか見たこともないという声ばかりでした。大家さんは遠くに暮らす資産家で、管理は不動産会社まかせでした。いまどきの都会じゃ、どれもこれもさもありなんですよ。ただ、黒瀬さん自身の精神科への通院記録は確認させていただきました。薬を長いこと処方されていたし、量も多かった。いまも昔も医者はなんでも薬ですからね。とはいえ、ご本人はあまり薬には頼らなかったのではないでしょうか。逮捕後の血液検査では、安定剤等の成分は検出されなかった。逆にそれが責任能力に関する肯定的な判断につながったわけですけど、なんだか、それがわたしはずっともやもやしていまして」
そこに現れたのが、四十年前の尾形渚失踪の真相を追う白井だったというわけだ。渚の件は、小峰たちはまったく把握していなかった。シュウさん殺しの捜査のさいもハセガワは口を割らなかったようだ。じっさいは八四年十二月のあの朝、中野のアパート近くの公衆電話から相談を受けていたし、その後もなにかと気にかけてくれていたというのに。
「長谷川さんが亡くなったことが相当こたえたのでしょう」
改めて白井が浪男に向かって問いかける。
「あなたは仮釈放後、供託金をもとに長谷川さんが別荘として使っていた三崎の平屋を借り、社会復帰を目指して小さな作業所で働きはじめた。でも頭のなかのある部分では、あなたは“キング”のままだった。週末のたびにスーツケースを転がして羽田にやって来ては、このカフェで食事をし、居合わせた客たちに自分がきょうで引退して全財産をバンコクにいる娘に譲ろうとしていることを話して聞かせるようになった」
浪男は恥じ入るようにふたたび目を閉じた。
所詮は社長の運転手。
その事実に耐えきれずに主人の命を奪った罪人でしかない。
ただ一つ言えるのは、こんなはずじゃなかった人生にあって、彼女との出会いだけは本物だったということだ。浪男はあのとき、あの子のマネージャーだったし、それ以上の存在だった自信がある。子ども時代から恋焦がれていたこの男には申し訳ないが。
「でもそれはすべて妄想のなせるわざだった。八四年の十二月、あの森で奇跡なんか起きなかったんですよね?」
「わたしに残されたのは……」
胸に疼痛を覚えながら浪男は言葉を吐きだす。
「過酷な現実……それだけだった」
「それをあなたは受け容れた」
「渚がこの世から消えた事実は変えようがなかった。わかりますか、その悲しみが。だけど、そのうえで、シュウさんに真に認められるにはなにをすればいいか、最初から決まっていたんです。わたしはそれにしたがったまでです。心を鬼にしてね。でもそれはその後のわたしの人生をむしばみつづけた。クスリなんかじゃ治せなかったんです」
「あなたはいま、長い間の妄想から解放されて、四十年前の過酷な出来事と対峙し、乗り越えようとしている。だったら教えていただけませんか、渚さんをどこに埋めたのか。里奈さんだって、あなたが真実を話されることを望んでいるし、なにより渚さんもそれをねがっているはずだ」
浪男は目を開け、救いをもとめるように看護師にいったん目をやってから、白井と名乗るこの男をじっと見つめた。
「覚えていますよ。忘れるわけがない。毎年十二月に供養に行ったのはシュウさんだけじゃないんですから」
「やっぱりそうか。あそこは精霊の森だったというわけですね」
「でもあの大岩の裏じゃない」
白井が身をこわばらせて訊ねる。「じゃあ……どこですか」
「川ですよ。あの岩の裏から川のほうに向かってまっすぐに崖を下りていった。そう、ほとんど川べりでした。そこに埋めたんです」
「崖下の川べりって……」
「自分がいったいなにをしようとしているのか、よくわかっていました。もし本当に誰にも見つからないように埋めてしまっていいものだろうか。いや、そんな身勝手なことって許されるわけがない。だったら、なんらかの形で見つかりやすい場所はないものか。あの森を彷徨いながら、そんなようなことを考えていました。川べりだったらどうだろう? 大雨が降って増水したときに土砂が浸蝕されて遺体が下流に流される可能性は高い。そうなれば誰かの目につくはずだ。白骨化していたとしてもね。それで警察に通報され、なんらかの捜査をへたのち、たとえ無縁仏であってもそれなりに供養されて埋葬される。無責任かもしれませんが、あのときのわたしはそう考えるのが精いっぱいだった。一方でこの罪を逃れ、秘密を守りきれば、シュウさんとの関係がより緊密なものになるというよこしまな思いもあって、頭のなかでずっとせめぎ合っていたんです」
「待て」小峰が割って入る。「あのあたりの川なんて夏になれば氾濫を繰り返している。つまり、もうとっくの昔に――」
浪男はうつむきながらぽつりとつぶやく。「でしょうね。身元不明の白骨遺体が下流でもし見つかっていたのなら、無縁仏がどこに埋葬されたのか突き止めて、改めてDNA鑑定でも試みてはどうでしょう。それですべての真実があきらかになる」
それにどれほど現実味があるのか、白井も小峰も考えるまでもなかった。
五十二
「とってもおいしかった」
帰りしな、浪男は満足げにほほえみ、喜んで財布を開いた。キングならさっと抜きだすはずのカードなんて一枚もない。ぎりぎりの現金払いだが、小銭なら事欠かないようすだった。
じっさいの話、ブリッジランド・エンターテインメントにもはやキングはいない。社長どころか、会社自体が存続の危機にある。長谷川が急死して以降、後継者を巡って分裂し、ヒガキプロによる人材引き抜き攻勢も強まっている。一つの時代が終わり、新たな時代がはじまったのだ。でもかつてのようなキングはもう生まれないというのが大方の見方だった。戦後芸能界の原動力だった“事務所文化”はすでに崩壊し、それにしがみついていた亡者たちは行き場を失って悄然とひざを抱えるしかない。それが真実だった。
浪男は仮釈放後のそれまでの日々とおなじく、空のスーツケースを転がしながら店をあとにした。その後ろ姿が見えなくなってから、白井は里奈に分厚い封筒を渡した。
中身をたしかめもせずにトートバッグにそれをしまうと、里奈は苦笑して去りぎわにこう言った。「まだ仮釈放中ですし、たしかに放火の件はうやむやなままですよね。でもどうでしょう。もはや黒瀬さんは十分、罪を償ったと思いますよ。あとはそっとしてあげていいんじゃないかしら。知らないでいいこと、見ないでいいことなんて世のなか、いくらでもあるのだし。わたしだって、LINEに付き合うぐらいはするけど、自分のほうから黒瀬さんがいま、どこでどういう暮らしを送っているかなんて調べるようなまねはしませんから」
その言葉を白井がどう受け止めたかはわからない。二人の警察官にこの先どんな協力をもとめることになるか、それに古賀の母親からの最終ミッションを実行するのかどうか、なに一つ告げぬまま白井は駐車場に向かった。
小峰はカウチ席のテーブル下にセットした隠しマイクで録った音声データをもう一度聞きなおしてみるつもりだったが、いまはどんよりとした疲労感の解消が先決だった。その点は埜村もおなじようで、二人は重い足どりで京急線に乗りこんだ。
たがいにほとんど言葉を交わさなかった。
品川で別れ、小峰は山手線に乗った。混んでいたが、幸運にもすぐに座ることができた。しばらくしてLINEが着信した。
埜村からだ。
≪やっぱり黒瀬さんは身勝手ですよ。四十年前、尾形渚さんが六本木の社長宅で息を引き取ったとき、通報すべきだった。渚さんのことを愛していればこそ、そうすべきだった≫
≪もちろんそうさ。でもいまさらどうしようもあるまい。それにあの男があの一件に自分の人生を託そうとした気持ちもわからんでもない≫
≪身元不明遺体、調べてみますか?≫
≪それって、おれたちの仕事なのかな。おれは、ひそかに社長の座を狙っていた長谷川耕司が、土橋修司殺しを教唆したと疑っていたから白井に協力したんだ。それもたんなる個人的興味だ。もはや長谷川はあの世の人だからな≫
≪わたしだって個人的興味ですよ≫
≪血液検査の件、すこしは納得できたか≫
≪うーん……ただ、ちょっと気になることがありまして≫
≪というと?≫
≪バンコクで成功を収めたという渚さんの話ですが、どうして十年前に亡くなったことにしたのでしょう? 所詮は妄想世界の話なのですから、バンコクで里奈さんといまもいっしょに暮らしていることにしたほうが幸せだと思うんですけど≫
≪たしかに。でも現実世界では渚さんはとっくの昔に亡くなっている。だから「奇跡」が起きたという妄想のなかでも、渚さんはいまはもう手の届かないところに行ってしまったという筋立てにしたんじゃないか。そのほうが気持ちがラクなんだろう≫
≪あ、そこかも≫
≪なに?≫
≪手の届かないところ。そこに意味があるのかも≫
≪話が見えないぞ≫
≪さっき白井さんとアイドルの追っかけについて話しているとき、黒瀬さんが「プライバシーもなにもあったもんじゃない。自分たちの行動がつまるところ誰に迷惑かけてるかわかっていないんだ」って言ってましたよね。つねにアイドルの卵を守る立場にあった黒瀬さんからすると、追っかけの連中が彼女たちのプライバシーに接近してくることは絶対に避けなければならなかった。自宅周辺をうろつかれるようなことは、あってはならなかったわけです。だからバンコクにいまも暮らしているなんて明かしたら、いまなおファンを自任するような連中が押しかけてくるかもしれない≫
≪妄想世界の話だぜ≫
≪本能的、皮膚感覚的に他人を避けたい気持ちが表れたのでは? 亡くなっていれば、ファンも手の出しようがないですから。それにファンだけではないかもしれない。あれこれと詮索するのは≫
≪黒瀬はさっきおれたちの前で「渚がこの世から消えた事実は変えようがなかった」って言ったよな。よせよ、なんだかいやな感じになってきた≫
≪メールが着信していたんです。いましがた気付きました。頼んでいた登記簿が添付されていました。三崎にある長谷川の別荘の登記簿です。長谷川は十五年前、二〇〇九年四月二日に土地建物の移転登記を済ませています≫
≪二〇〇九年四月二日か≫
≪白バイ事件の一週間前です。偶然の一致でしょうか?≫
≪もちろんその可能性はあるだろうけど、いやだな≫
≪長谷川耕司が事件の背後にいたという小峰さんの見立てには、信憑性はあると思うんです。もしそうだとすると、長谷川は黒瀬さんが早期退職の翌日に行動を起こすことを覚知していたかもしれない≫
≪黒瀬は白バイを奪って六本木の事務所に乱入し、土橋修司を撲殺したのち、自殺を図ろうとした。自殺が未遂に終わったとしてもやつは逮捕され、裁判を経て服役する。中野のアパートはもぬけの殻になる≫
≪これは仮定の話ですが、もしアパートに同居人がいた場合、路頭に迷うことになる。とりわけ、同居人に生活力がないようなケースでは≫
≪長谷川はそれを見越し、家を追われることになる何者かの転居先を確保した。しかも安全かつ他人の目のおよばぬ場所に。つまりそういうことか≫
≪黒瀬さんと長谷川の関係には複雑なものがあります。元々、八四年十二月の渚さんの件では電話でなんらかの相談もしている。その十年後、黒瀬さんは、長谷川を土橋に紹介しているし、長年、土橋の運転手としての実績もあって、自分のほうが社長から信頼を得ているとの絶対的な自負があった。渚さんの一件もうまいこと処理したのだし。ところがいつまでたってもうだつが上がらないどころか、長谷川のほうが広報担当という重責を担うようになった。黒瀬さんの妬みや焦燥感は相当なものだったでしょう。でも長谷川もそんな黒瀬さんの気持ちを十分理解し、つねに親友としてリスペクトを忘れなかった。もちろん、うまく利用しようとたくらんでもいたのでしょうけど≫
≪だから事件を決行すべきか黒瀬さんが迷っているとき、長谷川が懸念を解消してやった可能性はあるな≫
≪別荘を購入して……ですかね。それにへたをすると黒瀬さん自身がまずは同居人を手にかけ、そのうえで事務所に乱入する恐れもあったのだと思います≫
≪心中か≫
≪あとのことは心配するなと、長谷川は言ったのかもしれない。それも大きな引き金かと思います≫
≪まいったな≫
≪この話を前提にすると、血液検査の謎も解けるような気がします≫
≪ほう≫
≪黒瀬さんがずっと精神科に通っていたのは、薬をもらうためだったのではないでしょうか。同居人が服用する薬を。黒瀬さんが出勤している間、小さなアパートで一人でじっと待っていられる保証はなかったわけですし。出歩くことはなくても、前途を悲観して最悪の行動を取る恐れはあった≫
≪それを防ぐうえで適切に薬をあたえていた? 自分で服用するのでなく≫
≪薬はアパートには置かず、自分で管理していたのだと思います。逆に大量服用されると困りますからね≫
≪十分考えられるな。長谷川がそれに協力していた可能性もあるんじゃないか≫
≪長谷川さん自身というより、奥さんとか。同性のほうが心を開きやすいでしょうし、将来のこととかも相談しやすい≫
≪とりわけ服役中の十五年はそうだったかもしれないな。さて、この話、白井は気付いたかな≫
≪どうでしょう≫
≪やっぱり「奇跡」は起きたのかな≫
≪たしかめますか≫
≪どうかな。でもアパートの同居人に罪はないだろ。それに里奈さんの言うとおりかもしれない。黒瀬さんは十分、罪を償ったんじゃないかな≫
≪ですね。そもそもわたしたちだって似たようなものでしょう≫
≪というと≫
≪自分が本当は何者か、知っているようでいて、じつは見えていないんじゃないかな≫
≪たしかに……でもそういうものかもしれないぞ、この世のなかなんて。どっちがパラレルワールドかわかったものじゃない≫
≪わたしもそう思います≫
エピローグ
ハセガワが購入した三崎の別荘は、相模湾を見わたす崖へと連なる松林の奥にひっそりと立つ築五十年の家だった。ハセガワの奥さんが家賃を格安に設定してくれたおかげで、浪男は供託金をもとにうまいことそこに転がりこむことができた。
そこは正面からは簡素な古民家風の平屋にしか見えないが、元の持ち主の趣味で崖という地形を生かした地下室が設けられ、海のほうからは、床から天井までの広々とした窓が平屋の下に顔をのぞかせているのが見える。そこはいわば秘密基地のようなリビング兼寝室だった。
バスを降り、浪男はスーツケースを転がしてとぼとぼと帰宅した。ダイヤルロック式の郵便受けには、いまだに「長谷川」とネームプレートが出ている。翻訳家である奥さんあてに定期的に郵便が届くから、そのままにしておいたほうが都合がいいのだ。
「ただいま」
回収した分厚い封筒を手に玄関を開けると、エアコンが心地よかった。シャツとズボンを脱ぎ、手と顔を洗ってから、階下に下りていく。
静かなジャズが流れていた。
カーテンを開け放った窓の向こうに青々とした穏やかな海が見えた。翻訳助手として仕事に取り組む大きな机に、新たな発注分が詰まった封筒をそっと置き、浪男は冷蔵庫の麦茶をコップに注ぐ。それから合皮の座面に小さな傷が目立つようになったソファの端に腰かける。
「いつ見てもいい眺めだね」
「ほんと、そう」
きょうの作業は一段落ついたらしい。こざっぱりとした白いTシャツ姿の女が、待ちわびていたかのように体を傾け、深い傷の残る頬をマネージャーのひざにのせる。染めたばかりの黒髪を浪男は微笑みながらやさしく撫でる。
きょうはいろいろなことがあったような気がするが、そうでもなかったかもしれない。いずれにしろきょうという日は無事に過ぎ去り、朝日とともにまたあすがやって来る。どんな一日になるかな。浪男は誰よりもたいせつな女性を抱きしめながら、わくわくした。
(了)




