二十九~四十一
二十九
カウンター席の上に二つ並ぶ大型テレビの片方がニュースを流していた。
二時まであと四分。
「九十六歳ですか。最近見かけないと思っていたんですよ」男が驚きの声をあげる。演歌歌手の桜井岳乃介の死去を伝えていた。
「そういえば、そうですね。大往生でしょう」浪男は話を合わせ、目を丸くして見せた。だがきょうの正午、メディア各社に訃報を流す段取りは昨夜、マカオのホテルで浪男自身が取りまとめて系列各社に通知していた。岳乃介はブリッジグループ所属の歌手のなかの最長老で、演歌最盛期の最大の貢献者だった。「いつまでも活躍されている印象がありましたけど、やっぱり誰にでも最期はやって来るんですね」
「まったくです」男はテレビから手元に目を移し、最下段から取りだした洋酒の染みたサバランにフォークを突き立てる。「この人のように大往生の方もいれば突然、若くして病に倒れる人もいる」
「だからいまこのときが大切なんでしょうね」そう言いながら浪男は、カップのティラミスをそれこそ残りすくない命の炎を大切に燃やすかのようにすこしずつ味わっていく。バターのように濃厚で甘みは極めて抑えこんである。スイーツというより酒のアテのような感覚だったが、もちろん馥郁たるブラックコーヒーにもマッチする。
「最期の日が来るまでになにを成し遂げるか。残された人生の頭の痛い課題ですよ」男がしみじみと語る。「もう一つの自分を作りあげ、それで精神のバランスを保ったとしても、なおもこの難題からは逃れられない」
浪男はティラミスをすくう手をとめず、目線もあげずに告げる。「わたしとしては、娘に店を出させてやらないといけない。これは自分に課している一大事業なんです。だけど、あとはもう大方やり遂げてしまった。その印象は強いですね。でもどうだろうな。もし許されるなら、あと一回大きな仕事をしてみたい気もしますね。人生のフィナーレを華々しく飾るような」
「フィナーレだなんて、まだまだでしょう。六十にもなっていないのだし」男はいかにもうまそうにサバランの生クリームを味わいながら言う。よし、ティラミスのつぎは自分もサバランだ。そう決めたとき、さらに男がつづける。「わたしなんてなに一つ満足のいく仕事なんてしたことがない。いつもどこかで悔いが残ったり、物足りなさを感じたりするんです。だから死ぬ前に一度でいいから、クライアントに一〇〇%満足していただける仕事をしてみたいものです。というか、いつだってそのつもりで臨んでいるんですけどね。今回だって相当の覚悟で取り組んでいますから」
「息子さんが心を病んだ原因に関する母親からの依頼ですよね。核心には近づいている感じなんですか」
「そうですね。かなりいいところまで来ています。ええと――」男は腕時計を見た。「あと三分か。愉しくてついおしゃべりしてしまった。急いだほういいな」
「いえ、お気になさらずに。たしかこれからお仕事だとか。どうぞお出かけになってください」
「ありがとうございます。けれど、こちらもだいじな話でしてね」
浪男はたったいま喉を通過したティラミスの最後のひと口が、突如逆流するような違和感を覚えた。たまたま隣に座っただけの赤の他人に仕事の打ち明け話をするのがそんなにだいじなのか。
「十六年前、二〇〇八年の冬のことです、東京の西のほうの街で戸建て住宅から深夜に出火しましてね。近所の人の通報でボヤ程度ですみました。中年の男性が一人暮らしをしていたのですが、その夜はたまたま外出していて難を逃れた。電気系統のトラブルが原因らしいです。男性は都心で小さな会社を経営していましてね。ある意味、人材派遣業ですよ。世のなか的には芸能事務所と呼ばれる業種。ポトスという会社です――」
時間がとまった。
大いなる疑問と青々とした怒りの噴出に、浪男は呆然とした。
男はかまわずつづける。
「社長の古賀さんは出火当時、どなたかと酒を酌み交わしていたようです。鑑識の結果、たしかに配電盤が出火元であることが確認されました。かなり埃が詰まっていたようです。ただ、通常そこでは見かけないものが焼け残って発見されている。こより状によじった紙片です。長さは三センチほど。こよりをほどくと、黒い粉末がこぼれ出てきた。黒色火薬です。つまり導火線ですね。もうおわかりでしょう。鑑識は何者かによる放火の線を疑い、記録にも残した。ところがあくまで失火として捜査は進み、そのまま結論づけられている。ちまた言われるように警察なんて本当に無能なのか、それともこの案件は自分たちの仕事にあらずとはなから位置づけられていたのか。そのへんのところはわからないですね」
男はポットからコーヒーを注いでひと口すすると、二人の間の空きテーブルにさっと移動してくる。
「謎ですよ、まったく」
「なんなんだ……あんた」
「古賀さんのおかあさまから依頼を受けておりましてね」
そう言いながら男はスマホのディスプレイの上で人差し指をさっと動かし、別の写真を表示させた。旅先で細君が撮ったのだろう。事務所ではめったに見せなかった人懐こそうな微笑をたたえている。たしか仏壇のわきにフォトフレームに入れて立てかけてあったやつだ。その顔の部分を指先で拡大しながら、男はうれしそうに告げる。
「この人はなにか事情を知っていたのでしょうね、古賀さんにまつわるもろもろの。でもつい最近亡くなってしまった。とはいえ、かえってそれが一つの突破口だったんです」そこで男はさらに浪男に近づき、耳元でささやくように言う。「黒瀬浪男さん、あなたにしゃべってもらううえでね」
「きさま……」
「騒がないほうがいいと思いますよ」男はディスプレイをふたたびタッチし、先ほど見せた貯水槽のライブ動画を見せた。さっきとは別角度のカメラの映像だった。満々と広がる水のなかに人の頭が見える。奥のパイプから執拗に流れだす水が天井に達するまでどれくらいだろう。五十センチもないようだった。そのなかで必死にバランスを保って浮かぼうとしている。両腕が水面に現れないのは、後ろ手に縛られているからだろうか。
顔が見えた。
その瞬間、浪男は男の手からスマホを奪い、男がしてみせたようにディスプレイを狂ったようにタップした。
「落ち着いてください、黒瀬さん。そんなに叩いてもダメですよ。下にあるボタンを毎回タッチしないといけない。いちいち指紋認証が必要なんです」
「やめろ……いますぐ水をとめろ」浪男は男にスマホを突き返す。父親の押し殺した声が聞こえたかのように貯水槽に閉じこめられた里奈がカメラのほうをじっと見据える。
「それには条件があります。時間がありませんから、まずはこちらをおねがいいたします」
男は体を反転させ、九十度に開いたままのアタッシェケースをつかんでひざの上にのせた。
三十
≪正念場だな≫
≪不測の事態には対応します≫
≪こっちの息が詰まりそうだ≫
三十一
ノートパソコンのディスプレイが輝いていた。英語で記された文書が表示されている。見覚えがあった。浪男が資産化した六十億円相当の美術品すべてを里奈に売却するというシルバームーン・コーポレーション、つまりケイマン諸島のオフショア法人作成の売買契約書だった。
「どうして……どうしてこんなものが――」
「よろず屋ですからね。なんだってやりますし、できないとよろず屋は名乗れない」
「きさま、おれをつけてきたのか」
「説明はあとにしましょう。さて、この売買契約、いますぐ解約していただきますので、こちらにパスワードを入力されてください」男は画面を遷移させ、解約のフォームを表示させた。パスワード以外の欄はすべて埋まっている。「里奈さん、あなたにそっくりですね。ちょっとばかり栄養状況がいいようですが、誰が見たって親子だ。もし娘さんを愛しているのなら、全財産を譲り渡すなんかより、命を救ったほうがいいんじゃないですかね」
13:59
パソコン画面の下に表示されている。
この男は強請りにちがいない。もし契約が発効して全財産が里奈のものとなったら、浪男からカネは搾り取れなくなる。そうなればやつの手仕事なる貯水槽はどうなる。考えるまでもなかった。浪男はキーボードに指をのばし、一つずつパスワードを打ちこんだ。
「ありがとうございます」
「水をとめろ」浪男はかすれ声で告げる。
「承知しました」男はふたたびスマホを操作した。貯水槽に流れこむ水がすこしずつ弱まり、やがてパイプから一滴も漏れなくなった。
「こんなまねをしてただですむと思うなよ」急激な吐き気に襲われた。男にのせられて腹に入れた料理の数々をいまにも逆噴射しそうだった。
「まずはその前に」男は手のひらを浪男の前に差しだす。「スマホを渡してください。余計なことをされるのも困りますから」
「きさま……」だがしたがわないわけにいかない。浪男はシャツの胸ポケットからスマホを取りだし、男の手にのせた。
「ご協力ありがとうございます」スマホの音量をオフにしてから男はアタッシェケースにそれをしまう。
浪男は記憶をたどる。里奈と最後に話したのは昨夜十一時過ぎのことだ。だとすれば拉致されたのはそのあとだ。けさ、マカオを出発するさいに電話を入れたが出なかった。そのときにはすでにこの貯水槽に閉じこめられていたのか。痛恨だ。なにも気付かずに羽田便に乗りこんだ自分が歯がゆかった。
「黒瀬さんのスケジュールはすべて把握していましてね。当初の予定では、こちらが用意する車に乗っていただき、しかるべき場所で交渉に臨もうかと考えておりました。しかし先ほどの手続きだけはこちらの時間で午後二時までにすませておきたかった。それで計画どおり、こちらの便のほうが若干早く羽田に到着したまではよかったのですが、さてどのタイミングでお声がけすべきか考えあぐねていたのです。そうしたらどういうわけか、黒瀬さんの足がこちらに向かった。それで一計を案じたというわけです」
「早く教えろ」男の話をさえぎって浪男は怒りをぶつけた。「里奈はバンコクのどこだ」
「バンコクの……落ち着きましょうよ、黒瀬さん」
「落ち着いていられると思ってるのか、バカ者め――」
男は貯水槽の映像が映るスマホを小さく指さした。それだけで浪男はそれ以上の言葉をのみこまざるをえなかった。
「いいですか、黒瀬さん。まずは冷静に頭のなかを整理してみましょうよ。古賀さんの件に関してあなたが真実を話すなら、里奈さんの居場所を教えてあげてもいい。でもたとえいまのままでも、水深はすでに二メートル近くありますから、浮いているにしてもそれなりの体力が必要だ。水はかなり冷たいですから、おそらくすでに低体温症になっているでしょう。急いだほうがいい。とはいえ、ここであなたが騒ぎたてたりしたら、わたしはまた水道の蛇口をひねることになる。そのあとは――」
「何者なんだ」冷静さを取りもどそうと浪男は深呼吸してから訊ねた。
カウンター席では、水色のソフトジャケットの男がゆったりとコーヒーをすすっていたが、すでに店の客は半分に減っている。ウェイトレスはシェフといっしょにカウンターのなかでせっせとなにかを用意していた。こちらの異変にはこれっぽっちも気付いていない。むしろ親交を深め、話に花が咲いているとさえ思っているのかもしれない。
「申しおくれました。白井と申します。もちろん本名ではありません。本当の名前なんてとうの昔に消えてしまいましたから。職業は最初に申しあげた通りです。ですから同業者の映画にはどうしたって興味がありまして。まあ、わたしの好物はタイ料理よりメキシカンですけどね。タコスには目がない口です」
殺し屋――。
「自己紹介するぐらいの時間はあるでしょう。あなたと同い年だというのはうそじゃない。高校を出たあと、大学も目指したんですが途中でいろいろあってうまくいかず、逃げるようにして自衛隊に就職したんです。陸上自衛隊です。習志野の空挺師団にいてレンジャーになりました。それまでの自分とはちがう自分になりたかったんです。でも先ほどお話しした哲学的というか高次元の理由ではありません。過去との決別。ただそれだけを目指していたのです。しかしレンジャーになったところで、わたしは過去に呪縛されたままだった」
「人間関係のトラブルか」
「だけど、そんなものは、自分を変えることで乗り越えられると思ったんです。それで三十歳のときに辞めてフランス外人部隊に入りましてね。体力には自信があったんですが、さすがに訓練はきつかった。その後はすぐに実戦です。世界中の危険地帯を転々としましたよ」
三十二
≪それが放浪の旅か≫
≪信憑性はありますかね?≫
≪すべてをこっちに明かしているわけじゃないだろう≫
≪こっちが利用される危険は≫
≪あるよ。でもこっちもやつを利用してる≫
三十三
「身分的になんの保証もありませんから。カネで買われたただの一兵卒。いろんな仕事をしましたし、何人もの命を奪ってきた。そんなことをしていたら誰だって過去なんて忘れますよ。自衛隊員は現状、いくらレンジャーでも戦闘で人を撃ち殺すことはありえない。想定されていないんです。日本人の常識ですけどね。ところがそんなのはガラパゴスの日本だけの常識です。とくに戦争請負人のわれわれには、指定された相手を殺して封じることが要求され、それで成果をあげることが常識になる」
「まさか放浪先のコロンビアで農園の仕事をしていたというのも……」
「外人部隊といっても戦地で戦うことだけが任務じゃないんですよ。上官はあちこちで個人的にいろんな仕事を引っかけてくる。私利私欲のために請け負ってきてしまうんです。それが自分に降ってきたら応じざるをえない。もちろん農園で本当に畑仕事をしていたわけではありません。パトロールです。わたしたちはマフィアに買われて用心棒として小作人たちの監視にあたっていたんです」
「じゃあ、あの母親の話のときも――」
「むしろあの子にかわってわたしが引き金を引けばよかった。そうすればあの子が一生のトラウマを抱えることもなかったろうに」
無性に喉が渇き、浪男は冷水をがぶ飲みした。「笑わせるな。どっちにしたっておなじだろう」
「そうなんですよ」
白井と名乗る男はコーヒーをもうひと口すすり、探るように浪男の目をじっと見つめた。
「黒瀬さんだってほんとはよくわかっているでしょう。たとえちがう自分になったところで、なにかを実現できるわけじゃない。自分ではなにもできないんです。でも考えてもはじまらない。一日は始まり、そして終わる。その繰り返しですよね。むしろ戦地に赴いてどちらかの政府が掲げる大義なんてものを振りかざしていたほうが、まだ気楽でしょう。ただね、わたしにも一応の大義はあったんですよ、そのときは。だからへたに義侠心に駆られて行動することもなかった。感情を押し殺して臨む必要があったのです」
白井は話をつづけるための燃料補給でもあるかのように、盆の最下段に鎮座するケーキのなかからモンブランを取りだし、フォークも使わずそのまま食らいついた。
「そのときわたしの本当の雇い主はCIAでした。マフィアの首領を暗殺する機会をうかがっていたのです。それから三か月後、わたしは自分で立てた計画通り、ドンが側近たちとわかれて一人になったタイミングを見つけて暗殺に成功しました。すぐに脱出を図ったんですが、追っ手と銃撃戦となりました。森の奥に逃げこんだとき、そのうちの一人に見つかってしまった。ところが彼はわたしを逃がしてくれた。米国麻薬取締局の潜入捜査官だったんです。『上を一人殺したところで、すぐにべつの誰かが仕切るだけだ』そのときそう言われましたよ。彼はもう十年も潜入をつづけていて、マフィアのいい暮らしにもどっぷりと浸かっていた。だからもはや善悪の判断がつかなくなり、本当の自分は何者なのかさえわからなくなっているとも言ってました。じっさい彼の言う通りでした。組織は新しいドンを据え、あとはふだん通り。貧しい者たちは体を張ってコカを育て、それが世界中に流通して大金が動き、大量の薬物中毒患者が生産され、その家族が絶望の淵に立たされる。金持ちは金持ちのまま。貧乏人は貧乏人のまま。世界は決して醒めない悪夢そのものだったんですよ」
薬物が生みだす悪夢なら、浪男にだって記憶に深く刻まれている。
三十四
1984年10月
海藤二朗が覚せい剤取締法違反で逮捕されたのは十月三十日の朝だった。
シュウさんはできるかぎり立件に至らないよう捜査機関側にそれまで要請していただけに、昼になって六本木署の署長から連絡を受けたときは、すくなからずショックを受けた。苦虫をかみつぶすとはこのことかと思うような顔でじっと窓を見つめ、押し黙っていた。でもきっとそうなるだろうとは、社長だってわかっていたはずだ。おれだって薄々感じ取っていたんだから。
引いてはならない引き金に指をかけたのは渚だった。
週刊モンドの鬼頭の言葉を真に受け、いくら頑張ったところでポプションでひとみには勝てないと悟った渚は、よりによって海藤に近づいた。オーディションの背後でなにが行われ、自分がどうかかわっているか、シュウさんに直接聞けないし、おれもぐずぐずして役だたずだったから、ひとみを自らスカウトしながら、いまは新規事業のために彼女を手放すことになった系列会社の社長から自ら聞きだそうとしたのだ。
「ひとみちゃんにものすごい実力があるのはわかってます。ほんとにわたしなんかにはおよばないくらい。だけどポプションが出来レースなんて、なんだかバカにされてるみたいでイヤなんです」
十月十五日、K―TEAMの事務所を訪ねた渚が海藤にこう話しているのをスタッフの一人が耳にしていた。母親が再入院した翌日だった。海藤は渚を応接室に招き入れ、一時間ほど話しこんでいたという。
のちに渚自身が語ったところによると、海藤はそこで梶原ひとみの問題点をいくつも指摘し、自分のほうから彼女を放逐したのだと語ったうえで、決勝は公正に審査されることを明言したという。それを聞いた渚がどれほど安堵したか想像に難くない。その夜、食事をしながらもうすこし話そうと誘われ、高級シティホテルの展望レストランについていったのも無理はなかった。
それから渚の体に異変をきたすまで十日とかからなかった。レッスンではぼうっとして心ここにあらずの状態がつづき、体調が悪いのかと早めに切りあげて自宅まで送ろうとすると、それを拒んでどこかへ消えてしまった。かと思うと翌日、朝からレッスンスタジオにやって来て、ぎらついた目でスタッフをにらみつけては意味不明なことを口走ったり、機材を壊して暴れたりした。そしてしまいにはテレビ局主催の広告主向けのパーティー会場にやって来て「海藤さんが言ったんだもん、あたしがナンバーワンだって」と呂律の回らぬ口調でわめいたのだ。
すぐに現場で取り押さえられ、シュウさんが懇意の女医を呼んで尿検査が行われた。結果は予想したとおりだった。もはや警察に通報しないわけにいかなかった。シュウさんにクスリのことを詰問されてくさくさしていた海藤は、渚とホテルで食事をしたあと、クスリを使ったのだ。いつだってえらそうに振る舞っている系列の親玉への意趣返しのつもりもあったのかもしれない。それでたぶん自分もクスリを使っていっしょにハイになったのだ。極彩色に輝く信じがたい快感の波を味わった渚は連日、それをもとめて海藤を訪ねるようになった。
十九歳とはいえ未成年に覚せい剤を使用させた海藤をもはや警察が見逃すとは思えなかった。折しも十月一日付で東京地検に新任の次席検事が着任したばかりだった。シュウさんはパイプを作るどころかあいさつにすらまだ行けていない時期だった。高笑いしたのは、対抗勢力であるHグループだった。シュウさんが了解したかどうかはともかく、海藤は逮捕され、以前立件されていたボーイズユニットのメンバーによる覚せい剤使用と合わせて芸能界薬物汚染が新聞ざたとなってしまった。
「尾形渚は被害者ですから」
新しい次席検事の前でシュウさんは必死に訴え、なんとか彼女だけは立件を見送ってもらった。彼女に対して所属事務所の社長としてできることは、そこまでだった。
憎むべきは海藤だ。あのクソ野郎に弄ばれる渚の姿が頭に浮かぶなり、おれの怒りは沸点に達した。それでようやく理解した。自分でも気付かぬくらい渚に肩入れし、それ以上の感情を抱くようになっていた。
でも結局のところ、尾形渚はこの半年間、夢を見させてくれたきらびやかな世界から放りだされる恐怖に耐えられず、自ら下手を打ったことにより自滅していったのだ。アイドルの卵たちを見舞うその手の悲劇はめずらしくない。表ざたにならないだけの話だ。何人もの系列事務所の幹部たちからそんなようなことを言われた。まるで自分が慰められているかのようだった。
たしかに自分自身、恐ろしく落ちこんだ。この仕事をはじめて以来、最大の衝撃で、自分の将来もそっくり薙ぎ払われてしまったかのように感じた。
あのときのことを思えば、その後よくぞ盛り返し、キングの座まで手に入れたものだ。逆に言えば、あの経験があったからこそ、シュウさん以上の非情さを身に着け、実行できたのだ。主人にどんなに忠実な犬でも放し飼いしてはならない。だからこそ一度でも牙を剥くようなことがあれば、迅速に処置するだけだった。それがルールなのだ。
絶対に曲げてはならない。
三十五
「わたしも聴いた覚えがあります。『白と黒のワンライト』でしたっけ。曲かと思ったらそれがアーティストの名前だった。ぼさぼさ頭の男とかわいらしい黒髪の女の子のデュオだったかと記憶しています」白井は浪男の耳元でつぶやいた。「曲は『クリティカル・ゾーン』。きわどいタイトルですよね。たしか十六年前、二〇〇八年の夏にCMで流れてヒットしたんじゃなかったかな。あなたの事務所はその数年前からワンライトに目をつけていて、先ほどうかがった“投資”を行い、ヒットして収益が確実になったところで回収に移行した。ところが思わぬトラブルがそこで起きた」
どこで聞いたのか白井は正確に調べあげていた。ポトス社長の古賀は事態を予測していたようで、それまで投資を受けた二千数百万円にいっさい手をつけずに取っておき、そっくりそのままブリッジランド・エンターテインメントに返した。そのうえでこう言い放ったのだ。
この世界は自由競争であるべきだ――。
「だから自分で見つけた鉱脈は自分で掘り進める。あんたらの軍門に下って系列に入るつもりなどない。古賀さんは、そんなような意思をしめしたんじゃないですか。でもそれだけならがまんできたでしょう。ところが古賀さんは自分なりの正義を貫き、それまでの悪弊をただしたかった。それでブリッジランドグループによる巨額脱税と政官界との癒着に関する資料を、センセーショナルなスクープで知られる週刊誌の編集部に持ちこんでしまった」
そうさ。その通りさ。
だがシュウさんはメディアにだって目を光らせ、根を張っていた。それが公になる心配なんてこれっぽっちもなかった。
「古賀さんは誤算に気付かなかった。闘う週刊誌にも弱点があった。そのときの編集長はどちらかと言えば、ブリッジ寄りだったんです。というより先代からの申し送り事項をきちんと守るサラリーマンタイプで、そういうのがスクープ性よりも重視される伝統だったんですね。かつて退職と同時に急死した編集長がいたんですが、その死にブリッジがかかわっているという話があって、それも申し送り事項の一つだったそうです。なんでもその編集長が若いころ、あなたがたの不興を買ったとか」
ふん、鬼頭か。
自業自得ってやつだ。
「過去の苦い経験を踏まえ、サラリーマン編集長は古賀さんが持ちこんだ資料をすべてブリッジ側に譲り渡し、かわりに現金の入った分厚い封筒を受け取ってほくほく顔で事務所をあとにした。古賀さんの家が燃えたのはその一週間後。そしてあなたがた、ブリッジランド側には、古賀さんにヤキを入れねばならない十分な動機があった」
「いったいなにを言ってるのかわからんが、ぜんぶ認めるよ。だから頼む、娘を助けてくれ。カネならいくらでも払う。幸か不幸か、財産はいまもおれの手のうちにあるみたいだからな」
だんだんと声に力が入ってしまい、それをけん制するように白井はスマホの指紋認証ボタンに指をかけた。これ以上、水量を増やすわけにはいかない。
「まあ、あわてずに聞いてください。あと何時間かは持ちますよ、里奈さんは」さらりと言ってのけてから白井はつづける。「依頼人からは、息子さんを苦しめた張本人をきちんと突きとめてくれと言われています。わたしはへんなはったりだけで、あなたにうその自供をされても困るんです。依頼人にきちんと説明しないといけませんからね。古賀さんの造反があきらかになった一週間後の夜、ハセガワさんが古賀さん宅を訪ねた。面会が目的じゃなかった。というのもハセガワさんは古賀さんがその時間帯、べつの場所にいるのを知っていた。じゃあ、彼が火をつけた? まさか。聞くところによると、あの人はものすごく慎重で警戒心が強い方らしいじゃないです。そんな人が、自分がリスクを背負わされるようなマネをするわけがない」
白井は指先についたモンブランのマロンクリームをひとなめし、ナプキンでまるで指紋をこそぎ取るかのように念入りに拭いた。
「黒瀬さんもご存じかと思いますが、ハセガワさんは徹底した記録魔だったそうですね。スマホが出回る前もつねにコンパクトカメラやICレコーダーを持ち歩いて記録を欠かさなかった。先ほども申しあげましたが、人間の記憶なんていい加減なものですからね。存在しないものをあると思いこんだり、見たはずのものを忘れてしまったり。だいじなのは確たる証拠なんですよ。ハセガワさんはそれをちゃんと理解していた。ひとえにそれは己の身を守るための方策だったのでしょう。ですから取引先や上司がなにを考えているか、なにを自分に申しつけたか、それらまで記録に取らざるをえなかった」
「おれが教えたんだ。自分の身を守るには、そうするのが一番だって」
浪男の話を無視して白井はつづける。「けれど、一つだけ気になることがありましてね。仕事に使っていたはずのカメラやICレコーダーが見あたらないと奥さまが話されていたんです。納棺したわけでもないとのことでした」
その話はハセガワの死後、浪男が妻に面会したときも聞いていた。死を覚悟したあの男が墓場まで持って行く覚悟を決め、自ら処分したのだろうと浪男はふんでいる。やつの自分に対する忠義心を考えれば、いかにもありそうな話だった。
「だけど、すぐに見つかりましたよ」
「なんだと」
「事務所ですよ。六本木の。セキュリティーなんてないも等しかった」
「ばかめ。あんなところ、とっくの昔に引っ越している。いまは青山のピカピカのタワマンの片隅をひっそりと使わせてもらってる」
「ほう。それは初耳ですね」
記憶の片隅を灰色の節くれ立った指でなでられたような感覚を浪男は覚えた。それが記憶の薄暗がりにぬるりと入り、まるでとびきりねっとりとしたミルクセーキでも作るかのようにゆっくりとかき混ぜはじめる。気色の悪さと得も言われぬ心地よさが交互に首のまわりに広がり、このまま身をまかせるべきか浪男は不安になる。それでも無理やりにその指を抑えつけることに成功し、愚弄の念をたぎらせて言い放つ。「えらそうに。なにも知らないできそこないのくせに」だがすぐに目の前のスマホ画面に気を取られる。「申しわけない。いまのは撤回する。カメラとICレコーダーが見つかったんだったな」
白井は黙ってスマホを操作し、ある動画を再生した。
「これにたどり着くまでにえらい苦労しました。なにしろ保存先のメディアが膨大でしたからね。しかし日付別に整理が行き届いていたのが幸いでした。この家から火の手があがる数分前のことです」
防犯灯にぼんやりと浮かびあがる平屋建て住宅のブロック塀を乗り越えて何者かが外の通りに現れる。黒っぽい上着とズボン。ほんの一瞬、顔が照らしだされる。白井は動画をとめ、明るさを調節したうえで逃走者の顔を拡大する。疑いようがなかった。
「おまえ、これで古賀の母親からいくらもらうつもりなんだ?」
「一億です」
「ふん、そんなはした金か」
「わたしがこのことであなたを強請って、もっと高額を支払わせようとたくらんでいるとお考えですね」
「ちがうのか?」
精いっぱい浪男は強がってみせたが、腹の底では氷のように冷たい水に首まで浸かる里奈のもとへ一秒でも早く飛んで行きたかった。いや、そんなことより、この男に貯水槽の設置場所を吐かせ、現地の警察を急行させたかった。テーブルのフォークを目に突き立て、苦しんでいるすきに指をつかんで指紋認証したらどうだ。それで水を抜くことだってできるんじゃないか――。
その前にこの男は自ら指紋認証をへて水流を最大にする。それが現実だ。だから泣きそうな声でこう言うのがせいぜいだった。「二億、いや三億でもいい。払うよ。だから娘を助けてくれ」
「古賀さん宅が燃えるように仕組んだのですね、あなたが」
「わかった。認めるよ。だからもうこんなふうにして娘を苦しめるのはよしてくれ。いますぐ助けてくれないか」
「いまの供述をもとに古賀さんのお母さまが警察に通報したとしても、そんなものは握りつぶせるとお考えなんでしょう。ええ、たしかにそうでしょう。あなたなら、そんなこと、屁でもない。けれど、お母さまからはもう一つ依頼を受けているのです。決定的な証拠や証言を入手次第、関係者の全員の命を奪う。それが亡くなった息子への弔いになると言うのです」
忘れてはならない。殺し屋なのだ。この男の職業は。
「その意味では、もはやわたしのミッションは第二段階に移行している。ここを出たあと、あなたはどこかで狙撃されるかもしれない」
三十六
≪狙撃って……ちょっと穏やかじゃないですね。こちらの責任が問われる≫
≪落ち着け。こっちは仕事じゃないんだ。いまこの場をしっかり見守るんだ≫
≪了解≫
三十七
「ペルーでセビーチェをつまみながら星空観察をしていたとき、本当はビルの屋上からある高官を狙っていたんです。最終的に同僚とランチに向かうところを狙いました。ちょうどデモ隊と警官隊の衝突の真っ最中で、そのどさくさに紛れて四百メートル先から引き金を引いて、しっかり心臓を射抜くことができました。だけどあなたの息の根をとめるのに銃はいらないようだ。自分の命が絶たれるよりもつらい煉獄の苦しみがつづいているんですから」
男はパソコンのわきに置いたスマホに手をのばした。貯水槽の水流が再開される。
「頼むからやめてくれ。とにかくカネなら払う。娘に罪はないんだ」
白井は憤然とした表情を見せる。「二億や三億の仕事なら、わたしだって請け負ったことがありますよ。その程度でご自分の罪の償いがすむと思われたら困りますね。だって古賀さんだけじゃないでしょう、業界から葬ったのは。あなたたちは警察、検察、税務当局ほか各方面と巧妙に癒着して、アイドルやアーティスト、俳優たちにファンが貢ぐ莫大なカネをかすめ取ってきた。その間に何人ものライバルたちを力づくでつぶしてきた。その結果、純粋な夢を断たれた若者だって大勢いるはずだ。彼らはあなたたちにとっては商売のコマの一つにすぎなかったかもしれない。でもご自分でももうわかっているように、あなたたちはやりすぎた」
これには浪男も毅然として反論した。
「ビジネスはそんなに甘いものじゃない。あんたになにがわかるっていうんだ」
この期におよんでもこれだけは言わねばならなかった。それが自分の矜持なのだから。
「弱肉強食なんだよ。地べたを這いつくばらないとゼニを稼げないし、あっちこっちに目を光らせていないと狼みたいなやつらがむしり取りに忍び寄ってくる。そんなんじゃ、共倒れになるのが目に見えている。だからルールが必要なんだよ。おれはそれを整えただけだし、きちんと分配してきた。“行政”だの“調整”だのって知ったようなことを言って、おれたちの仕事をからかう連中には事欠かないが、世のなかってのは、そういう努力のうえに成り立っているんだぞ。きれいごとは絵空事なんだよ。おれはそういうのは大っ嫌いだ」そこまで言いきり、はたとわれに返る。「すまん。こんなこと言ったって、わかるはずないもんな。よし、わかった十億出そう。それで十分だろう。そこにあるパソコンで手続きすることもできるぞ」
「時代は変わるんですよ。キングはもはや不要だ。ご自身でも感じておられるでしょう」
「挑発したいのならいくらでもするがいい。だがおれはキレたりなんかしないぞ。いいか、カネなら払う。そう言ってるんだ。ウソ偽りなんかない」ちらりとカウンターのほうを見やる。ほんの一瞬、ウェイトレスと目が合ったような気がした。頼む。ようすをうかがいに来るだけでもいい。こっちで異変が起きていることに気付いてくれ。
「カネですか……ほんとに払ってもらえるんですかね。できるんですか、そんなこと」白井は冷たいまなざしのまま、悪魔裁判の審問官のように訊ねてくる。
節くれ立った灰色の指が頭のなかをふたたびかき混ぜだす。ほっとけばそのままヘリコプターの回転翼さながらに高速回転に至り、やがてキングの脳を、意識を、魂をぐちゃぐちゃに切り裂いてしまいそうだった。
たまらず浪男は目の前の盆のロールケーキをつかんでそのままかぶりついた。いまの苦しみは頭のなかの化学物質の異常分泌が引き金になっている。それをただすには、やはり化学物質――この場でいうなら糖質――の摂取が不可欠だ。その確信があったのだ。「あんたがいったいなにをたくらんでいるのか、さっぱりわからんな」
「先ほど、人それぞれが抱くさまざまな夢の話をさせていただきましたが、古賀さん宅から出火した二〇〇八年十二月当時、あなたの夢はなんだったのでしょうか」
「いきなりなにを聞くかと思ったら……そんなもの、なんであんたに言わなきゃならないんだ。だいいち、すぐに思いだせるわけがないだろう」そう口走った瞬間、浪男は激しい頭痛に襲われる。指型の頭蓋内回転翼がマジに出力を上げたらしい。このままだと脳ミソが一気に粉砕されてしまいそうだった。要するについに来たのか。これが最後の瞬間ってやつか。なおも白井は浪男を弄ぶように畳みかけてくる。
「黒瀬さん、あなたは本当にキングと呼ばれているのですか? そもそもあなたは何者なんですか」
三十八
≪カギを握るのは長谷川耕司だろう。その意味では記録だけでも見つかってよかった≫
≪悪魔のような男かと≫
≪たしかに≫
≪でも、理解できない一面も持ち合わせている≫
≪ライバルであり、同時に血の滴る傷を舐めあう兄弟分≫
≪十五年前の事件後もそれは変わらなかった≫
≪闇の闇さ。理解できない話じゃない≫
≪わたしの疑問にもつながるような気がします≫
≪考えすぎだと思うけどな≫
≪検査結果は事実です≫
三十九
「スマホを返してくれ。それを使ってあんたにカネを支払うから」浪男は声を押し殺して伝える。「それで水をとめてくれ。いったいバンコクのどこなんだ、このクソタンクは」
白井はじっと浪男を見つめる。
まるでCTスキャンかMRIでも受けているかのようだった。浪男はそれまでとは異質な落ち着かない気分になった。だが回転翼はもうとまった。こうして思考を巡らせていることからすると、まだシナプスもつながっているようだ。
無表情なまま白井は何度かディスプレイを叩く。水流がかなり緩くなった。それでも完全にはとまらない。「まだだいじょうぶですよ。このくらいの流量ならあと八時間はかかる。満タンになるまでね。ほんとにうかがいたい話はこれからですから。もし話していただけるのなら、娘さんの命もあなたの命も奪ったりはしない。約束しますよ。古賀さんのおかあさまから残りの報酬はいただけませんが、それはそれでしかたない。だけどこれは、わたし自身で決められる話ですから」
「いったいなにが聞きたいんだ」
「岩井さんですよ」
だしぬけに白井が口にする。
「岩井圭子さん。ごぞんじですよね」
「なんだって……関係ないだろ」
「古賀さんのおかあさまから最初に依頼を受けたとき、息子さんが心を病むきっかけとなったトラブルの相手先としてブリッジの名前が出たんです。そのときかすかな疼きを胸に覚えました。忘れかけていたたいせつなものがむくらむくらと息を吹き返したような感覚と言いましょうか。そうしたらおかあさまの口から、圭子さんの話が出たんです。かつてのキング、土橋修司さんの愛人だったそうですね。いまのブリッジとも関係しているようだった」
岩井圭子は七十九歳。
いまもオフィス・イワイの社長だが、実体はただのペーパーカンパニーだ。かつてシュウさんを悦ばせた功績から浪男の時代になってからも整理されず、細々と延命していた。それに業界の情報通だったし、なによりシュウさんのために浪男が手をくだしてきた他言をはばかるあれこれを知っていた。その意味では浪男としてもむげにできなかった。
最近はグループの定例の会合に顔を出す程度だったから、ほぼ引退したも同然で、浪男も気にかけてはいなかった。でもこないだの会合には来なかったんじゃなかったか。それが気まぐれな欠席なんかでなく、目の前の殺し屋による訊問を受けていたせいだとは知る由もなかった。
「古賀さんのおかあさまも自ら、ブリッジグループについて調べられていましてね。岩井さんがグループにまつわるいろいろな事情を知っているはずだから直接会って話を聞いてみてほしいと頼まれたんです。わたし自身、遠い記憶の再生に運命的なものを感じていたところでしたから、是も非もなく行動を開始しました」
白井はロールケーキのクリームのところだけすくって口に放りこんでから、熱々のコーヒーを注ぎなおしてゆっくりとすすった。
「土橋さんには、じつは個人的な思い出があるんです。といっても向こうはわたしのことなんて知りもしない。四十年も前の話です。勝手にわたしのほうでぞんじあげていただけですから。つまり、わたしにとってはとてもだいじな件だったわけです。
昭和五十九年のポプションですよ。
もう長いこと思いだすことなんてなかったんですが、ブリッジと聞いてぱっと記憶がよみがえりましてね。だったら古賀さんの件とはべつに、個人的にお訊ねするのもありかと思ったしだいなんです」
白井が圭子のマンションを訪ねたのは、七月に入ってすぐだった。
放送百年を踏まえ、芸能史の関連本の出版を企画しているフリーライターだと偽ってアポを取り、カネの臭いに敏感な年寄りだとふんで最初に法外なギャラを提示した。圭子の口がたちまち滑らかになったのは言うまでもない。へたをすると肝心なことまでカネ次第で漏らす恐れのある緩いばあさんだった。
「あの年のポプションで優勝した梶原ひとみさんは、決勝の直前になって岩井さんの事務所に移籍された。そして元の事務所の社長だった海藤さんは覚せい剤取締法違反で逮捕され、週刊誌は芸能界薬物汚染だと騒ぎたてた。その背景でなにがあったのかどうしても知りたくて訊ねてみたんですが、さすがにそのあたりになると、いくら取材費をはずむと持ちかけてもあの人もはぐらかすようになった。だったら仕方ないですからね」
殺し屋というのは、人の痛みなんて気にもとめない。
「逃げようとするから、口に猿ぐつわを咬ませてからアキレス腱の片方をニッパーで切ったんです。ブルーシートを敷いて作業したので血痕が見つかる心配はない。そのあたりは職業柄、細心の注意を払いますから。いくらのたうち回ってもだいじょうぶです」
ぞっとして浪男は言葉を失った。最終的に彼女がどうなったか訊ねる気にならなかった。
「そうしたらようやく思いだしてくれましたよ。尾形渚さんのことをね」
苦い唾を浪男はのみこんだ。圭子さんならあのときのことを知っている。だが渚のことなら浪男のほうがずっと知っている。いったいこの男、何者なんだ。
忌々しい記憶が浪男のなかにわきあがってくる。
あの年の十一月、ポプションは何事もなかったかのように行われ、梶原ひとみが予定通り優勝した。渚は出場を辞退していた。出場なんてできるわけがない。なにより自分の体のなかからクスリを抜く必要があった。
「まずは医者に行かないと。体を元にもどさないといけない」
まだジャンキーにまではいたっていないので、無理なくクスリをやめられるはずだ。その意味でシュウさんは渚にそう告げた。だがそれは絶縁通告とおなじだった。将来に関する不安に駆られて海藤に接近し、結果的に業界全体を危機にさらしたのだ。もはや体面が保てなくなり、シュウさんも契約を打ち切ることにした。そもそも契約に関する書面なんて当時の業界には皆無だ。すべてが口約束でできあがっている。
もしシュウさんが描いた通りに物事が進んでいたら、ポプションの決勝で梶原ひとみに敗れた渚には、大学をきちんと卒業させたうえで、キー局に就職できるようシュウさん自身が調整するつもりだった。それがいっぺんにご破算となってしまった。
自ら招いた事態だとしても、渚はさらなる苦境に立たされた。十一月に入って母親の容体がさらに悪化したのだ。渚は自身の離脱症状に苦しみながら、看病に専念せねばならなくなった。だが浪男だってそれ以上、彼女の面倒を見ることはできなかった。もはや縁が切れたからだ。後ろ髪を引かれなかったかといえばうそになる。でもほかにやるべき仕事が山ほどあったし、こんどは梶原ひとみのマネジメントを手伝わされた。あっという間に秋が深まり、シュウさんの後ろにくっついて地方営業つづきの生活となった。だから母親が亡くなったことも知りようがなかった。もしわかっていたらシュウさんだって花ぐらいは出したはずだ。
最悪の事態はその後起きた。
あのときまだ二十歳にもなっていなかった。人生はちょっとした間の悪さで百八十度変わってしまう。いまにして思えばそれが真実だ。あの寒々しい冬の金曜、ジャガーの洗車なんていつものガソリンスタンドのスタッフにまかせて、暖房のきいた店のなかで待っている間、漫画でも読んでいればよかった。なんでひんやりと湿ったあのビルの地下駐車場で――それも上の路地がよく見えるスロープの真下で――バケツに水をくんで自分で洗おうなんて思ったのだろう。
コーヒーカップを両手で挟みながら、白井はつづける。
「なんだか言い訳を聞いてるみたいで不快でしたよ。猿ぐつわを外してやったら『この世界は非情なの。その巻き添えを食う人間なんていくらもいるわ』って、泣きながら話しだしたんです。『シュウさんがどうやってのしあがって来たか、わかってるのかしら。戦後の芸能界なんてヤクザが仕切っていたのよ。そういう連中と張り合わないといけなかった。恐怖よ。すべては恐怖による支配。自分がいつ丸裸にされるかわからないから、そうなる前にこっちが手を下す。そうしないと生きていけないのよ。ある意味、戦国時代とおなじ。だからあの人からしたら、歌手も俳優も稼ぐための道具にすぎなかった。使い物にならなくなったらすぐに切り捨てられる。義理人情なんてたいがいよ。あてにならない。かわいがられているなんて思っていたって、翌日には手のひらを返されてひどい目に遭う。尾形渚なんて、その一人よ』まるできのうの出来事のようにすっかり教えてくれました。そりゃ、もうゾクゾクしましたね。会社に白バイで突っこんだあのニンニク男とおなじ愉悦に浸ることができました」
白井は挑発するように言い放つと、こちらの反応を愉しむようににやつきながらじっと見つめてきた。浪男は冷静さを保とうと鼻から深呼吸を繰り返しながら、相手をにらみ返した。自分が身を置く世界の非情さなら誰よりもよく知っている。ある日突然、気付かぬうちに背後から首を刎ねられている。そういう世界だった。
「岩井さんの話にうそやへんな脚色はないと思います。命の危険が差し迫っていましたから、小細工をしている余裕はなかった」
あの年の十二月、わずか二日間のうちに世界がどう変わったか、まざまざと脳裏によみがえる。もちろん圭子が知らないことだってある。それにシュウさんだって。
「梶原ひとみよりも尾形渚のほうが努力家だったと、岩井さんも認めていました。だけど黒瀬さんも先ほどおっしゃっていた通り、最後にものをいうのは才能なんですよね。それは己の進む道も切り拓くし、ライバルのわずかな可能性をもいともたやすく粉砕できる。岩井さんによると、尾形渚はデビューできなかったそうです。けど『裏でなにがあったか話せる人はもうほとんどいない。わたしだって本当のことは聞かされていないの。ひと悶着あったのは事実よ。でもそのあとのことは……たぶんナミちゃんなら知っているはず。いつだってシュウさんといっしょだったんだから。あの子は影だった。シュウさんの影。でもそれはシュウさんが信頼していたからよ』黒瀬さんのことをじっさいに耳にしたのはそれがはじめてでした。当時、十九歳。まだお若かったのによくキングの側近になれましたね。でも岩井さんの話を聞いて合点しました。危機をともに乗り越える。それで絆が生まれるんですね」
絆か。
おれも必死だったんだ。だってその先、おれのほうこそいつ首を刎ねられるか知れたもんじゃなかったからだ。
白井は嬉々としてつづける。
「遠い記憶というのは混濁するし、いいように容易に捏造もされる。先ほど申しあげたとおりです。でも岩井さんはいまでも、これだけははっきりと覚えているそうです。尾形渚がらみでひと悶着あったつぎの週、黒瀬さんも土橋さんもようすがへんだったというんです。いくら圭子さんが水を向けても、二人は絶対に尾形渚のことは話さなかった。気になりますね。ひと悶着ってなんでしょうね」
浪男は真一文字に口を結び、白井をにらみつけた。そんなことにはひるまずに殺し屋は、前夜の淫夢を打ち明けるかのようにぽつりぽつりと声を潜めて話しつづける。
「土橋さんが亡くなったあとも、黒瀬さんはとにかくその話だけはされなかった。『言いたくなかったんでしょ。人に言えないようなことは山ほどしてきたから。シュウさんだけじゃないの。ナミちゃんだってそうなのよ。いまはずいぶんマシになったけど、そういう世界だったの。修業なのよ。みんな、そうやって力をつけていく。そうでもしないとのしあがれない――』いったいなんですかね、人に言えないことって。つまり尾形渚は他言をはばかる事態に巻きこまれた。そういうことですよね。それには土橋さんはもちろん、黒瀬さんもかかわっている。それでね、わたしが調べたかぎりですが、尾形渚は昭和五十九年の暮れを最後に姿をくらましているんですよね」
四十
≪岩井圭子の消息確認はいま手配した。話が厄介になりそうだな≫
≪こちらの状況を伝えたんですか≫
≪いや、まだその必要はない≫
四十一
1984年12月7日
地下駐車場から何の気なしにスロープを見あげたとき、真っ白い毛皮のコートにブーツの女が上の路地を足早に通り過ぎた。その瞬間、最悪の予感を覚えたおれは、バケツに二杯目の水を溜めていたホースの蛇口も締めずに飛びだし、猛ダッシュで坂を駆けあがった。
だが肉親も夢も奪われた渚に追いつくことはできぬまま、事務所の応接室は修羅場と化した。
「病院なんか行かないから」
割れたビール瓶が顔の肉を突き破った瞬間、鮮血がほとばしり、ふかふかの絨毯が真っ赤に染まった。それでも渚は全裸のままシュウさんの前に立ちつくし、悪霊が憑りついたかのようにガタガタと肩を震わせている。ガラステーブルにすねをしたたか打ちつけ、ぶざまな四つん這いの格好でおれは見あげたが、たしかにそれは人間離れした異様な姿だった。激痛が走っているはずだが、感じていないかのように手を動かし、尖ったガラス片が肉を切り裂きつづける。ある意味、誰もが息をのむ魔が降りてきていた。
「あたし、おかしくなんかないもの。おかあさんと約束したのよ。ちゃんとデビューするからって。だからそうしないといけないの。もう待てない。だって――」太い血管が切れているのはあきらかだった。顔の中央から拍動に合わせてだらだらと血が滴り落ちる。それをまったく意に介さずに一気に言いきると、ふいに渚の表情がやわらかに緩んだ。「だってね、おかあさん、死んじゃったんだよ。だからあたし、ちゃんとデビューするんだよ。そうしないといけないんだよ」
おれはようやく立ちあがり、足もとに落ちたコートできゃしゃな背中をくるむようにして彼女を後ろから抱きかかえた。釣りあげたばかりの大魚のように腕のなかで激しくもがく。シュウさんも手を貸してようやく座らせた。
渚はわめきつづけたが、圭子さんがどこからか持ちだしてきたタオルを顔に押しつけ、止血を試みた。その刹那、傷口が目に飛びこんできた。割れたガラスは眉間からまぶたを通って右の頬へとざっくりと肉を切り裂いていた。
シュウさんは応接室の電話から誰かに連絡を入れていた。事故が起きたことを伝え、急いで来てくれるよう頼んでいた。一一九番通報でないことぐらいおれにもわかった。アイドルの卵だった女の子が、事務所の応接室で割れたビール瓶を顔に突き立てた。そんなことバカ正直に伝えられるわけないし、転倒して落ちていたガラス片に顔から突っこんだなんて話を信じる者はまずいない。それよりもシュウさんには、いざというとき頼りになる医者の知り合いが何人かいた。電話の相手は十月のあの日、パーティー会場に乱入した渚に尿検査を施した女医だった。
いらいらと待ちながら三十分が過ぎ、ようやく女医がやって来た。右手に往診用のバッグ、左手に瓶類を乱雑に詰めこんだトートバッグをさげている。ざっと診察すると、おれたちが頭や体を押さえつけている間、鬼の形相となって顔面の傷口を消毒し、すぐに麻酔注射を打ち、縫合を開始した。
闇手術に三十分ほどを要したが、それが終わるころには麻酔のせいで渚は落ち着き、なかば居眠りしているような感じになった。だが見た目はあまりに残酷だった。顔を二分するかのように深々と口を広げた傷口を三十針以上かけて無理やりつなぎ合わせたせいで、あんなにキュートだった目元も鼻も口元も頬もめちゃくちゃになり、まるでフランケンシュタインのようだった。女医は縫合の腕は立つようだったが、それでも急場しのぎだ。たとえ出血がとまり、傷ついた組織の再生に道が開かれたとしても、むくれあがった肉は醜いケロイド状の傷痕として一生残るだろう。
その点は女医も懸念し、渚に鎮静剤を注射したのち、設備の整った病院で再手術を受けたほうがいいとシュウさんにアドバイスした。だがこれは渚自身が招いた事態だ。医者を呼んだのはある意味、シュウさんの善意だとも言える。
「そうだな。とりあえずきょうはうちで休ませるよ。まずは気持ちを落ち着かせねばなるまい」
それには女医も同意し、痛み止めのほか精神安定剤を一週間分渡し、処方の説明をした。シュウさんは女医に最上級の謝意をしめし、責任をもって看病することを約束して丁重に彼女を送りだした。それから「上に連れて行こう」と言って、おれに渚を背負わせ、上階の自室に向かった。
おれもめったに足を運んだことがないが、そこは男が一人で暮らすにしては広すぎた。なによりがらんとした印象があった。シュウさんはたいせつな資料はきちんと整理していたし、もっとも重要なものは、がっしりとしたデスクが置かれた仕事部屋の隅にある金庫にしまっていた。服や靴のたぐいにはたいして興味がないから、それらが家中にあふれ返っているなんてこともない。大きな本棚に文庫本がずらりと並び、あとはお気に入りのレコードがそれなりにあって、高そうなステレオが鎮座しているくらいだ。レコード会社から送られてくるレコードやカセットテープは、ほとんどが事務所の倉庫に直行するから、この部屋まであがってくることはない。
仕事部屋のソファに彼女を寝かせ、圭子さんが毛布をかけた。
「浪男、しっかり看てろよ」
そう申しつけると、シュウさんは圭子さんとともに事務所にもどって行った。
渚は昏々と眠りつづけた。
うっ血して腫れあがった顔さえ見なければ、人生のもっとも輝ける時期に差しかかったふつうの女の子だった。さわやかに晴れた五月のあの日、シュウさんの目にさえとまらなければ、こんなことにはならなかったのに。こみあげる涙をおれはこらえた。
夜になり、シュウさんは会合に出かけねばならなくなり、おれは圭子さんと交代した。そんなに遅くならないはずだった。シュウさんさえ許してくれたら、その夜はそこに泊めてもらうつもりだった。
渚を独りぼっちにしたくなかった。




