二十二~二十八
二十二
≪誰だってそう思うだろう≫
≪でもたしかに快感だったのかもしれないですね≫
二十三
「夢なんて人それぞれ、それこそ千差万別だということですよ。だからぜんぶがぜんぶ共感できるものじゃない。この男のケースのように、誰もが眉をひそめるものも結構多いと思うんです」
「たしかに。現実はきびしい。思うようにいくことのほうがすくないくらいだ。個人的な経験から言わせていただければ、堪えて耐えてってことばかりだった。ときには己の利益が失われても、たいせつななにかのために奉仕しなければいけないこともあったんですよ。業界全体の利益を考えるわけです」
「人材派遣の業界ですよね」
「ええ、もちろん」この場で芸能界だなんて言えるわけがない。「でもどこの業界もそうだと思いますけど、跳ねっ返りっていうか、なんでもかんでも突っかかってくる輩っているじゃないですか。そう……たとえば『自由競争だ』なんて叫んでね。いまならSNSで拡散して、ありえない騒ぎにつながってしまう」浪男は苦々しい記憶が沸騰するのを抑えつけた。ポトスの古賀なんて絶対にその手に打って出たはずだ。
「なるほど。でもその跳ねっ返りはどうやって慰めてやればいいのでしょう。経営者は知恵の絞りどころですよね」興味津々に男は訊ねてくる。「彼には彼なりの夢があるわけでしょう」
ひと息吐いて気持ちを落ち着かせてから浪男は話をつづける。「説得するしかないですよ。懸命にね。向こうが力づくで来たときに、こっちも力づくで臨んだらダメですから」ウソだ。完全に力づく、向こうをはるかに上回る強制力の行使だった。それは浪男にとって決して思いだしたくない闇の一つだ。
そのときだった。
カウンターで女の大声があがった。
「なんで使えないのよ。おかしいわよ」
中年カップルの片割れだ。シェフにスマホを見せて文句をつけている。
「期限内なんだから使えるでしょう」
なにかのクーポンらしい。支払いにそれが仕えるかどうかでトラブルになっているようだった。ほかの客の迷惑にならないようシェフが小声で説明しているが、女は納得できずにいる。相方のほうは女を取りなすでもなく、めんどくさそうな顔で遠巻きにしているだけだった。
浪男も隣の男も見て見ぬふりをしたが、気分が悪い。どちらが正しいにしろ争いなんてものは目にしたくはない。結局、押し問答の末に店のほうが折れて会計をすませた。結果的にクーポンを使えたにもかかわらず、こともあろうに女のほうは捨て台詞を吐いて相方を引き連れて出ていった。シェフはほかの客らに向かって申し訳なさそうに小さく頭をさげた。それまでの愉しげな雰囲気はもうどこか遠くに消えてしまっている。
隣で男が大きくため息をつく。「いったいなんですかね。こんなところでやめてほしいですよ」
「よくある話なんでしょう。クーポンなんて使用条件がわかりにくいですからね」
声をひそめて男が言う。「最近ああいう方をよく見かけるようになった気がします。自分に道理があると思ったら、食ってかかってこてんぱんに負かそうとする。徹底的にやらないと気がすまないみたいだ」
「寛容なんて言葉は死語なんでしょう。なんとしても自分の正義を押し通そうとする」
男はあたりを気にしてから話しだす。「ゆがんだ正義感。職業差別や排他主義が根底にある、見せかけの正義も顰蹙ものですよ。なまじ正論に聞こえるから手に負えない」
「そういうのが蔓延する世のなかになってしまったんですよ」浪男はあきらめたように天井を見あげる。「年齢を重ねるうちに正義なんてものは、相対的で場当たり的で、日和見なものだとわかってきました。そう自負しているつもりです。悪と言われるものだって最終的には相対的に判断されるものかもしれない。ところがいまはなんでも表に出て白黒つけないと気がすまない時代になってしまった」
「たしかにその通りだと思います」
「過剰。ひと言でまとめるならそれに尽きる。やりすぎなんですよ」
ちょっとやりすぎじゃないですかね――。
そう批判されたのを腹に据えかねていたはずなのに、まるでかつての自分を戒めるかのように浪男は口にした。だがこれだけははっきりしている。表だって過剰なまねをしたことなんて、ただの一度もない。とどめを刺すにしろ、それは暗黙の了解に基づく最低限必要な処置にかぎられた。
そう思ったとき、記憶の片隅で影が動いた。過ぎ去った遠い時代、未知の恐怖が名ばかりの希望を押しのけて勢いを増す暗黒大陸には、一度はまったら抜けだせぬ沼があちこちに広がっていた。そこで必死にもがく人影から浪男は無理に目をそらした。
残りのワインを空けて浪男は男に向かって言う。「陰影が失われたというか、世界中がハレーションに覆われてしまった。SNSのせいもありますが、とにかくやりにくい世のなかですよ」だから引退するのだ。「昔話をすると嫌われますが、前はね、たとえトラブルが起きても、神の見えざる手が事態をいつの間にか解決へと導いてくれた。いちいちぎゃあぎゃあ騒ぎたてるやつなんていなかった」
「その意味ではレッセ・フェールだったわけですね」
「そう。いつだってシェフのおまかせが一番なんですよ。それを正義と呼ぶかどうかはべつとして、平衡状態は必ず訪れる」
それがシュウさんの時代だった。
二十四
1984年10月
海藤をいつ始末するか決めかねているうちにポプションの二次審査を迎えた。いつまでも蒸し暑い日がつづいていた。ここで四人を残し、十一月の沖縄決戦に臨むわけだが、審査員たちがつけた点数は、梶原ひとみと尾形渚が同点で一位だった。二人の素性は当然伝わっているから、シュウさんにどう気をつかうかも審査員たちはわかっていた。それでも同点になったのは、思いのほか渚の評価が高かったからだ。しかしそれは裏腹だった。
「愛想がないっていうか、控室にこもったまま出てこないだろ。本人は長い髪の手入れで忙しいのかもしれんが、雑談一つできやしないじゃないか。そういう付き合いって大事だろ。なめてかかってるっていうか、なんだかこっちをバカにしてる感じがするんだよな」
審査員を務めるベテランの作曲家が審査会後のパーティーでシュウさんに漏らしたのがそれだった。
ひとみのことだ。
「こっちは謝礼を頂戴して審査してるから手心もくわえられるし、下駄も履かせられるよ。じっさいそうだった。でもレコード買ってくれるファンは敏感だからね。思うようにいくかどうか」
シュウさんとの付き合いが深いからこそ伝えることができた最大限の警鐘だった。おなじことはずっと以前からシュウさんもおれも感じていた。たとえポプションで優勝しても、いまのままでは息長く活躍できるかどころか、十分にブレイクするかも判然としない。一瞬の打ち上げ花火で終わる可能性も高かった。
「これからの時代はカワイイとか妹みたいとかいうだけの、大量生産型のアイドルには客がつかない。誰の心も虜にするオーラをまとった子が必要だ」
ブリッジ系列のごく少数の幹部だけを集めた打ち合わせでシュウさんが方針を明かした。
「その意味では磨けば光るのはひとみのほうだ。しかしそれには本人の意欲がかかわってくる。いくら天才肌でも、いまみたいに無愛想であまのじゃくじゃ、受け容れてもらえない。全力で挑戦する姿を見せることが必要なんだ。まずはあの子の目の色を変えることからはじめよう」
渚とひとみの本当の勝負はこれからはじまる。おれはひしひしと感じた。二頭の犬が格闘するのだ。生命の危機が迫ったとき、つまり容易に手に入ると高をくくっていた夢が妨害されるとわかったとき、牙をむき、相手の喉元に手加減なく食らいつけるのはどっちか。問われずともわかる気がした。それはシュウさんもおなじ心境のようだった。
「音楽のプロの評価は尾形渚のほうが高い、渚はそのことを知っていてひとみのことを小バカにしている。ひとみにはそう伝えよう。あの子の原点はプライド、なんの根拠もない自意識の高さだ。そこに働きかけてみるんだ」シュウさんは顔色一つ変えず、恐ろしく残酷な計画を打ちだした。
幹部の打ち合わせが開かれていた事務所の応接室に海藤が入って来たのはそのときだった。
「なんだ、シュウさん、みんな集めて密談かい。それともおれが打ち合わせを忘れてただけか?」
「いや、たまたまだよ。昼飯食ったあと、バカ話してただけさ」
「またおれの悪口か」
「その通り」
大笑いしながらほかの幹部連中は席を立った。これから海藤がなにを告げられるか、みんなわかっていた。
一時間ほどして、シュウさんと二人きりで応接室にこもっていた海藤がふらふらと現れ、ひと言も話さずに事務所から出て行った。もしゾンビなんてものが実在するならきっとあんな顔にちがいない。二人で何を話したかは、あとでジャガーのなかでシュウさんが教えてくれた。
おまえのところの若いのが挙げられた件だが、おまえも狙われているそうだ。クスリをやってるのかやっていないのか、いまここで言わなくていい。だがルールはわかってるはずだ。金輪際、やめることだ。でないとみんなが困ることになる。心配するな。サツはおれのほうでなんとかしてみるから――。
海藤の耳元でそこまで告げてからシュウさんはこう言った。
梶原ひとみはいまが一番大事なときだ。おまえの身になにかあったら元も子もなくなっちまう。だからそっちの件が落ち着くまで、あの子のことはこっちで責任持ったほうがいいんじゃないかと思ってな。あくまで提案レベルの話だが。
それは放課後の過ごし方に関する学級委員の提案レベルとはちがった。シュウさんが警察、それに検察と話したらどうなるか。喉元に短刀を突きつけられた海藤は、それが皮膚を破る前に決断せざるをえなかった。
ひとみは圭子さんの事務所に所属することになった。シュウさんは約束を必ず守る人だった。薬物汚染の拡大が業界にあたえる影響は甚大だ。それがもとでいまある平衡状態が崩れる恐れもある。だからシュウさんは懇意の次席検事が在任中に海藤の件を確実にもみ消すつもりだった。
すくなくともそのときは。
二十五
「妖怪百鬼夜行なんてものが昔はあったそうですが、いまじゃそういう妖怪たちにとっちゃ潜む闇がないんですから、彼らだって生きづらいと思いますよ」苦笑しながらそう言うと、男は絶品ポークの最後のひと切れを口に放りこんだ。
「いや、政治家とか財界の連中とか、闇に隠れて悪徳を積んでるやつらはまだまだいるでしょう。でも以前にくらべたら悪事はずっと露見しやすくなった。報復なんてものを恐れずにチクれる仕組み、つまりSNSなんてものができちまいましたからね」
「だけどSNSは暴走する。正義漢ぶってコメントしたって要は自分のアカウントのインプレッション稼ぎ、承認欲求を満たすことが目的じゃないですか。それなのに批判された人間は、真偽にかかわらず必要以上にダメージを受ける」
「見えざる無数の敵が寄ってたかって攻撃する時代だ。そんななかでビジネスをつづけねばならない。そりゃコンプライアンス、コンプライアンスって管理部門の連中が騒ぎたてるのも理解できますよ」浪男はそっとメニューを手にする。そろそろ満腹に近づいてきたが、どうしたって締めは必要だ。
「営業の最前線にいる方からすれば、自由にやりたいものでしょうね」
「自分の才覚を信じてね。それこそが営業の醍醐味じゃないですか。ここをこうして、こうやったら、いくら儲かるぞってね。逆にいえばそれが味わえない若い人たちがかわいそうになりますよ。失敗したってすべて肥やしにできるっていうのに。そういう肥やしがなきゃ、事業なんて運営できませんよ。それなのに無意味な批判に身構えないといけない」
「若手だけでなく、経営者も保守的にならざるをえないですよね」
「保守という言葉の意味が変わっているような気がします。本来は長らく守られてきた安定した価値ということでしょう。それがいまじゃ、ガードが固いってだけの意味になっている。ガードしてる側からすりゃ、窮屈でしかたない。つねに追いこまれている感じで、はっきり言えば、ぜえぜえしてますよ。無理にベルトの穴を余計に締めてるみたいだ」
「言い方はよくないですが、逃げ道は必ずあるはずですよ」男はアタッシェケースに身をのりだし、ささやくように言った。
「そりゃ、あるんでしょうけど」
「というか用意しておくべきでしょうね」そこで男もメニューを手に取る。「締めになにかとお考えでしょう。パスタにされますか?」
「そうですね」あらためて浪男はパスタの欄に目をやる。こういうときはいつだってシンプルなペペロンチーノがいい。若いころ、事務所近くの小安いイタリアンでよくかきこんだものだ。テーブルのしょうゆと粉チーズを振りまいて。でもいまならカラスミパウダーくらいかけさせてくれ。それくらい贅沢してもバチは当たらないだろう。
そのときパスタの欄に一つだけ異質なものが混じっていた。
ウインナーと高菜飯 赤だし味噌汁付き 1000円
外の黒板に書いてあったやつだ。せっかく日本に帰ってきたんだ。おふくろの味ってやつのほうがいいかもしれん。
「それ、うまいですよ。飾りっ気一つないですが、懐かしい味で生き返る感じがします。お好みで目玉焼きものせられますから」
「うまそうだな。じゃあ、そいつにしようかな」
男は満面の笑みを浮かべ、右手の人差し指を立てる。話の流れを変えたいようだ。
「一つ提案があります。先ほど話した逃げ道についてです」いったいなんのことか浪男は首をかしげたが、それを無視して男は伝道師のようにつづける。「人間、知らず知らずのうちに行動がパターン化して、それこそが自分の生きる道だと思いこんでしまっている。でも道は右にも左にも、それに自分ではまったく見えていない真後ろにも広がっている。たとえばいま、山頂にいるとしましょう。当然、四方八方に下りることができるわけです。ただそこに歩きやすそうに見える登山道が延びているかどうかで、選択肢が狭められてしまっている。ちょっと工夫をすれば、誰も通ったことのないルートは見つけられるはずだ」
「なるほど。おっしゃる意味はわかるような気がします。思考の切り替えということでしょうか」
「そこまで立派な話でもないですけど、いまこの場で言えば、いつもとちがうもの、それまでの自分らしくないものを注文してみてはいかがでしょうかという提案です。あくまで自分の経験にもとづけばというレベルですが。若いころ、それまでとはちがうやり方を試みてみたら意外とうまくいったということがあったものでして」
「自分らしくないものか」
「ええ。自分らしくないというより、封じこめていた欲求、自我と言ったほうがいいかもしれない。思いこみから抜けだして新たな境地を見つけるというか」
ふと以前見た映画を浪男は思いだした。清純な白人女教師が粗野な黒人事務員に乱暴されたのち、自ら欲におぼれて墜ちていく話だった。いまじゃあんな映画作れるわけがないが、それとはべつに秘めた欲望というものは、いつだって誰にだってあるはずだ。
「たとえば、もしかして甘いものはお好きですか?」
「そりゃもう、人並みには。というよりかなり好きなほうですね。ただ、こういう食事の流れでデザートを頼むタイプじゃない。ケーキにしろ、大福にしろ、どうせなら買ってきたものを家でじっくり味わいたい」
「なるほど。それが目の前にある整った下山道だとしたら一度、百八十度振り返ってみるのはどうでしょう」
じっさいそれは浪男の真後ろの黒板に堂々と記されていた。
マウント・デザート 悪魔の誘惑 2000円
「こないだトライしてみたんですが、ものすごかったです。アフタヌーンティー用の三段重ねの盆にこれでもかというくらいのスイーツがてんこ盛りでしてね。まさに山でしたよ。それでよくこんなのを二千円で提供できるなと思ってシェフに訊ねてみたんです。そしたらこんなふうに言ってましたよ。『あまりにも罪深い一品なんで、逆にお客さまのほうが自制されるというか、怖気づいてしまうんです』まあ、たしかにそうかもしれない。男も女もいまの飽食の時代に生きていれば、過食に対してはブレーキをかけるべきだと潜在意識では思っていますからね。こんなに食べたら血糖値が上がりすぎるとか、血管が詰まるとか、本能的な抵抗をしめす。だから逆に大食い番組がウケるんでしょう」
「注文する人もいるんでしょう」
「満を持してこれだけを狙ってくる人がいるそうです。きっと朝からなにも食べずに来るんでしょうね。さて、いかがです? いい食材が使われているので、ぜんぶ食べてもさほど重くないですよ。いや、重いかな。とどめを刺される感じかもしれない。でもなんて言うかな、完食したら妙な達成感がありました」
「まったくもって自分らしくない。その域に達したという?」
「その通り!」
男は歓喜したかのようにウェイトレスを呼び、誘惑の山を二つ注文した。食後のコーヒーも忘れずに。
浪男は腕時計に目をやる。
一時四十五分。
あと十五分だ。
おもむろに胸ポケットからスマホを取りだしてみるが、それにしてもLINEがなかなか既読にならない。でもそんなことばかり気にしているようじゃ、この先が思いやられるぞ。そうだ。いまのうちに下で待っている部下に連絡を入れておこう。浪男は会社のLINEを開き、メッセージを打ちこんだ。
「娘さん、返信ありましたか」気になったらしく男が訊ねてきた。
「ないんですよ。でも仕事中なんでしょう。これは別件の連絡です。会社の若手に迎えに来てもらっていましてね。下で待ってくれているんで、連絡ぐらい入れてやらないと悪いかと思いまして。『腹が空いたらなにか食ってこい。こっちはこれからが本番だ』ってね」
男は肩を揺らしながらくすくすと笑った。
「ほんとですね。まさにこれからが本番ですから」
二十六
≪そううまく行くかな≫
≪森は深そうな気がします≫
≪思った以上にね≫
二十七
純白の布がかかった鳥かごのようなものを二つ手にしてウェイトレスが現れたのは、それからすぐのことだった。マジシャンのような手つきで両方の布を取り払うと、店に残っていたほかの客たちがいっせいに目を向けた。まさに悪魔的な罪深い眺めだった。
彼女はすぐに踵を返すと、お冷やのピッチャーとおかわりのコーヒーを入れたポットを浪男と男の間のテーブルに置いた。「コーヒー、足りないようならいつでもお申しつけください」意味ありげな微笑を残し、カウンターにもどっていく。その後ろ姿は、さながら魔物との格闘を見極めるジャッジのようだった。
「こりゃ、ほんとにすごいな。マジにすごい。どれから食べればいいんだか……」浪男はしばし言葉を失った。
一番下の段には、ケーキが四つ並んでいた。ほんの気持ちだけ小ぶりに見えなくもないが、どれも並の店なら恭しく一つずつ供される一品だ。ブラウニー、モンブラン、ロールケーキ、それにサバラン。どれもとても手が込んでいるように見える。真ん中の段には、生シュークリームにチョコレートがたっぷりとかかったエクレア、それにバニラアイスと砕いたピスタチオをのせたダークチェリーパイがでんとのっている。シュークリームなんて手榴弾さながらだった。そして最上段には、気品を漂わせるかのようにクレム・ド・ブリュレとライスプディング、ティラミスというカップトリオがすまし顔で鎮座している。
「どれから召しあがるかはご自由に」そう言うと男はまずはダークチェリーパイを取りだした。アイスがのっているからたしかに最初に食べるのは常道だろう。浪男もそれにならった。
「うまい……こりゃ、ほんとにうまい……」バニラとピスタチオの香りが口の奥から鼻に抜け、南の島にいるかのようなうっとりとした気分にしてくれる。同時にシロップ漬けにした大きなチェリーが弾け、濃厚な甘みとシャンパンのようなほどよい酸味が絡み合って脳の奥で眠っていた欲望に火をつける。気が付いたときには底を固めるタルト生地までぺろりとたいらげていた。
「それにしても本当にうまそうに召しあがられる」
人目も気にせず浪男は紫色のシロップが垂れた指先をしゃぶった。「ピスタチオの香りがいい」
「さっと炙ってから砕いているのでしょうね。ナッツの奥で眠っていた香りが目覚める感じでしょうか」
男が話しているそばから浪男はエクレアを手に取り、一気に半分にまで食らいついた。甘みがほとんど感じられないダークチョコレートのクリームだった。そしてここでもかすかにベリーが香る。カシスだろうか。わずかに胡椒のニュアンスもある。まるで上質な赤ワインのようで、それをおこげのような香ばしさをまとったシュー生地が散らばらないようまとめている。
「自分で言うのもなんですが」ものの十秒ほどでエクレアをのみこんだ浪男は、たったいま正気に返ったかのように口にする。「ほんとに別人になったかのようだ。自分らしくないというより、誰かほかの人間に乗り移られてしまったかのようです」
「でしょ。人間の意識なんて危ういものです。あっという間に過去が切断されて、べつの思考に乗っ取られる。ただ、それこそが時を忘れるということなのでしょうね。その意味では、パラレルワールドは存在する。そんな実感、ありませんか」
「たしかに」だがここで浪男は冷静さを取りもどす。そもそも別人を装ってこの男の話に付き合っているのだ。だからいまさら驚くような話でもあるまい。
男のほうはうれしそうだった。クレム・ド・ブリュレの器をつかみ、小さなスプーンでたいせつそうにすくって味わってからコーヒーをすすった。
浪男もコーヒーに口をつけた。これがまた絶品のフレンチローストだった。スモーキーでコクがあるのに喉ごしがさらっとしている。豆の産地というより、焙煎技術が優れているのだろう。
「デザートにしてよかったです。ありがとうございます。いい選択をさせていただいた」
「もしウインナーと高菜ご飯だったら、きっと気分がちがっているでしょうね。そちらもすばらしいのでしょうが、世界の色合いはいまとはまちがいなくちがったはずだ」
「だと思います」相づちを打ちながら浪男の目は銀色の三段盆を上へ下へとさまよった。
「いつもとちがう選択を一つするだけで、たとえ見た目にはおなじでも異なる世界に飛びこむことができる。波動の変化なんて言う人もいますが、たしかにそんなような変化が起きて、それが周囲の状況をも変えていく。すくなくともわたしはそう思いますし、じっさいあなただって、すでにそこに没入しているのではないですか」
「かもしれないな」話半分に聞きながら、浪男はちがうタイプの甘みを探った。こいつはどうだ。ライスプディングににゅっと手をのばす。牛乳と米を煮てシンプルに砂糖で固めただけのように見える。
正解だった。
男はスプーンを動かす手をとめて、あれこれと波動の変化について話していたが、浪男は右から左へと聞き流しながらひんやりとしたプディングの素朴な食感と味を堪能した。甘みはおそらくサトウキビだ。かすかに竹の香りがするのは調理工程のどこかでそれを使っているからだろう。
「夢を抱くことができず、正義も貫けなくなってしまった。そんな息苦しいだけの世のなかを生き抜くうえでの智慧なんでしょうね。わたしは決してそれは悪いことだとは思いません」
「え……あ、すみません……そうですね」
男はにやりとする。「別人になるということの意義ですよ。ちがう時間軸に身を置いてみることで、もはや何事にも左右されないもう一つの自分を作ることができる」
プディングも平らげ、ひと息つこうとコーヒーをふた口すすってから、男の話にもどる。「ちがう時間軸ですか」両手でカップを包み、天井を見あげる。でも心のなかでひそかに誓う。あとはゆっくりと、さらに吟味しながら味わうぞ。慌てたらもったいない。こんなにうまいスイーツははじめてだ。「趣味に生きるというのも、そうなのかもしれませんね」
男は考えながらうなずく。「そういうのもあるでしょうね」
「たとえばこの手のスイーツを自分で作りだすことに心血を注ぐことで日常の時間軸から脱出することができる」
「そうだと思います。でもいわゆる趣味のようなものとは異なる時間軸もあると思うのです」
「と言いますと?」
「たとえば……そうだな。本業がカネ儲けのためなら、もう一つの営み、そちらの時間軸は己が生きる真の目的、生の証のようなものですよ。そしてそれは本業がどれほど多忙で過酷でも貫き、全うすることができる。いや、そうしなければならない」
がまんできず浪男の手はシュークリームにのびる。まずは中段制覇だ。それでいい。方針決定。かぶりつくまえにひと言だけ反応する。「それはわたしにとっては家族、要するに娘でしょうね。まさに生の証ですよ」
生クリームなのはまちがいないが、高級チーズのような濃厚さが口に広がった。それが例の香ばしい生地とたがいを求めあう生きものどうしのように絡み合う。
男はまるで毒見でもするかのようにじっくりとクレム・ド・ブリュレを味わっていたが、その手がふいにとまる。「形あるものとはべつのもの。思いと言うか、情念と言いますか。わたしはなにしろ独り者ですからね。本業とは異なる時間軸というのは、あくまで自分自身が生きる礎となる動機みたいなものですね。わかりやすく言えば、信仰心といったものに近いかもしれません」
「信仰心ですか……おっしゃりたいことはわかるような気がしますが、わたしのような凡庸な人間の場合、なかなかそういうのは見つけられない。というか、いまからそういうのを見つけようかと思います。じつはね」まだ三分の二ほど残るクリーム手榴弾を左手に持ったまま浪男はついに明かした。「引退するんですよ」
男はブリュレの器を置き、ナプキンで口元を拭う。「早期退職されるんですか」
「早期といっても五十九ですからね。企業で言えば、定年扱い退職といったところでしょうか。それに自分で切り盛りしているから、つづけようと思えばいつまでもできるんですよ」
「やっぱりだ。一国一城のあるじなわけですね」
「たいした会社じゃないんです。でももう自分の時代は終わった。というかひと区切りつけるべきだと思いましてね。ふつうの勤め人ならいやでも定年が来ますが、そうでないのなら、退き際は自分でちゃんと決めないといけないと思いましてね。いまはサラリーマンも六十五までは会社に雇用義務があるでしょう。それを逆手に取って給料が下げられたのを錦の御旗のように振りかざして、ろくに働きもしないで、なにかと理由をつけちゃ会社に経費の請求ばかりして小金を稼いでいるようなパラサイト・シニアが増殖中だって聞きます。だけどわたしは、そういうみっともないまねはしたくないんです。退くときはさっと退かないと。生活のことはどうとでもなると思うんです。それに大きな声じゃ言えませんけど、これまでわりと稼がせてもらいましたからね」
「それはすごい。一度でいいからそんなふうに言ってみたいものです」
浪男はあえて謙遜せずに胸を張った。親父が海で亡くなり、あとを追うように母親も倒れた。あのころの絶望を思うと、よくぞここまでたどり着けたものだ。それもこれもさまざまな出会いがあったからこそ、その賜物だ。シュウさん、ハセガワ、それに――。
「財産はすべて娘に譲るつもりです。まもなくね」あらためて腕時計を見る。
あと八分だ。
ここを出たらまっすぐに会社に向かう。四時からグループ役員会だ。そこで引退を明かし、後継指名はせずに自分たちであとのことは決めさせる。多少の混乱はあってもなんとかやれるだろう。そもそも芸能界の口利き屋なんて仕事はおれの代で終わりにしたほうがいい。いまは才能のある人は自分で道を切り拓ける時代だ。事実、櫛の歯が欠けるようにタレントの事務所退所が相次ぎ、最近じゃニュースにもならない。もはや水沢汐里にかぎった話でなくなってしまった。世界をこの手で変えるのはもう不可能だ。あとは自分のほうが変わってちがう景色を受け容れるしかない。
「この先の人生、小さく暮らしていければいいんです。図書館で好きな本を借りてきて読みふける。そんな過ごし方でもいいと思います。じっくりと自分の人生と向き合いますよ。仕事なんてものがついて回るかぎり、わたしみたいな欲まみれの人間には、自分自身が生きる礎となる動機なんて見つかりませんから。だけどどんなものでしょうね、その動機って。わたしが神に帰依できるとは、にわかに想像できなくて」
「信仰心なんて偉そうなことを言ってしまって申し訳ありません。もっとシンプルなことかもしれません。わたしの場合で言えば、生きる証は、つまるところ誰かが悦ぶ顔を見ることですかね。料理人がお客さんに『おいしい』って言ってもらうのとおなじですよ。その意味では、仕事と変わりないのかもしれませんが、実入りがどれだけあるかとは別次元の話ですから」
「ボランティアのようなものですか」とにかくコーヒーがうまい。一杯空けてしまったので、浪男は自分で注ぎ、男のカップにも注ぎたした。
「ある意味そうかもしれません。でも、こうして誰かとお話をすることでもそれは実現されていく。じっくりと相手がどんな人か見極めながら話をつづけ、なにかに共通点を見いだし、共感し、それが悦びにつながる。じつにシンプルだ」
「人間の原点に還ったような生き方ですね」
「まさにそうなんです。ふだんのわたしの仕事は、頼まれごとを黙々と一人でこなすだけですから。誰かと話すのはとてもうれしい」そこで男はスマホを手に取り、動画を再生した。「いまのわたしの仕事です」
タンク内の映像だった。乳白色の光を反射する奥のパイプから流れ出す水が満々と広がっている。それが内部に設置されたカメラで撮影されているようだった。
「貯水槽を設置されたんですよね」
「ええ、そうなんです。それでこのボタンをタップすると」男の指先がディスプレイの下のほうにあるボタンに触れると、流水が弱まり、すぐになにも出てこなくなった。「便利なものですよ。バンコクの外れにあるビルの地下なんですけどね。こうして日本から簡単に遠隔操作できる」そこでもう一度おなじボタンを男がタップすると、ふたたびパイプから勢いよく水が流れだした。
「農業用かなにかですか。まさか原発の冷却水だとか」
「いえいえ、そんなたいそうなものではないです」男はディスプレイを閉じ、ふたたびテーブルにスマホを置いた。「単純に密閉タンクへの注水をこうして管理できるようにして、それがモニタリングできればいい。クライアントの要望をじっくり検証した結果、これがもっとも効率的だろうと自分で編みだしたんです」
「ほんとに技術者なんですね」
「この部分に関してはそうですね。でもここに至るまでは人間相手の粘り強い交渉が必要でした。じつは高齢の女性からの依頼でしてね。半年ほど前に息子さんを亡くされているんですが、それについて調べてほしいと頼まれまして」
「亡くなったことについてですか。事故かなにかだったとか」
「結局は病死なんですが、長らく心を病んでいました。その原因について、母親には引っかかるところがあったんですが、いくら警察に訊ねてみてもずいぶんと昔の話だから梨のつぶてらしくて」
「警察……? 穏当じゃないですね。母親はずっと疑問を抱えていたのでしょうか」
「そのようです。ただ、母親自身、寝たきりに近い状態でしてね。自分ももう長くないと感じたようで、だったらせめて生きている間に真相を明らかにしようと、めぐりめぐってわたしのところに依頼が来たんです」
「そういう事例もあつかうのですか。まるで探偵のようですね」
「よろず屋ですよ。自分にできそうなものがあれば、なんでも請け負います。先ほど申しあげた通りなんです。わたしのような者が多少尽力することで、その方が笑顔になって悦んでくれるのなら、全力を尽くす。ただそれだけです」
浪男は残りのシュークリームを平らげると、ティラミスの器をつまんで自分の前に寄せた。「こんなこと、企業秘密かもしれませんけれど、その案件、いま見せていただいた貯水槽となにかかかわっているというわけですよね」
「直接的にかかわっているというより、これを使うことにより、確実に真相にたどり着けるだろうという話です」
男の話はまったく見えてこない。だがわが子を思う母親の痛切な気持ちは感じ取れた。それでなんとなくわかった。さっき、親子関係のなかで、母親と息子の絆がもっとも強いと言っていたのは、この案件をいま扱っているからなのだろう。なるほどたしかにそうかもしれない。息子を苦しめた原因はなにか。母親は石にかじりついてでもその手で真相を解明して墓前に報告したいだろう。
だがこの世の冷厳な法則を言えば、そんなことをしたって亡くなった人間はよみがえらない。この母親がいま抱えているのは、なぜ救えなかったのかという悔恨の念だけだろう。これは母親と息子にかぎったことではない。娘と母親の関係でもおなじだ。後悔だけはしたくない。だから焦燥感に駆られるのだ。浪男は胸に疼きを覚えた。これは娘を思う母親の気持ちばかりだけではない。逆もまたおなじだろう。
渚だ。
あの年の秋、母親の容体は悪化の一途をたどっていたのだ。
二十八
1984年10月
まだ蒸し暑さの残る十月七日、日曜の昼下がり、ホームレスたちを蝕む排気ガスが充満した新宿駅西口で待ち合わせ、渚をジャガーで小学校を改装したスタジオまで連れて行った。この日はミュージカルのワークショップが前後半二部制で行われる予定で、後半に参加するタレントの卵たち二十人余りがかつて教室だった会議室に集合していた。
体育館のほうからロックミュージックが聴こえてくる。前半のクラスは佳境に入っているようだった。
会議室に現れたスタッフたちのなかにひときわ背の高いグレーヘアの男がいた。ワークショップを主宰する演出家で、著名な演劇賞の受賞歴もあった。そして渚のミュージカル出演を打診してきた当人だった。だがその話はまだ渚にはしていないし、演出家もそのへんのことはわかっている。
「よろしくおねがいします」
おれが連れて行かずとも渚は自らあいさつに足を運んだ。
「尾形渚さんだよね。ミュージカルは興味あるかい」
「大好きです。きょうはとってもたのしみです」最高の笑みを浮かべてくれた。
「ぼくが作ったオリジナルがあってね。あとで台本を読んでもらってすぐに曲を流すから、それに合わせて即興で歌いながら演じてもらう。歌詞はそんなに難しくないし、アドリブでどんどん変えてもらっていい。きょうはトレーニングだから。『スリラー』は知ってるよね」
「もしかしてマイケル・ジャクソンですか」
演出家はにんまりとする。「目標は、あのミュージックビデオみたいな感じのキレと独創性のあるダンスかな。前半はかなりいい線いってる子がいる。後半もたのしみですよ。頑張ってください」
渚はTシャツとスパッツに着替え、ストレッチをしていると台本が届いた。学園もので、夜中に校舎に忍びこんだ女子のグループが、開かずの間である地下の倉庫に忍びこみ、そこで化け物たちに遭遇するという、まさにゾンビものだった。
「ひとみちゃんも来るんでしょ」まもなく前半が終了するというとき、渚が訊ねてきた。
「そう聞いてる」
「一人で来るの?」
「どうだろう。そうかもしれないな」
「最近レッスンでも会わなくなっちゃった。移籍したってほんとなの?」
「ああ。いまはK―TEAMじゃないよ。オフィス・イワイ」
「移籍って野球選手のトレードみたいなもの?」
「かわりに誰かがK―TEAMに入ったわけじゃない」
「じゃあ、なんで。海藤さんに嫌われたのかしら」
おれはどう説明しようか迷って頬を引きつらせた。「そんなことないだろ。事業の方向性だと思うよ。よくわかんないけど、K―TEAMは新規事業に力を入れるみたいで、ほかの俳優さんたちもそのうち移ると思うよ」
「ふーん、そうなんだ」渚は思い詰めたように小さくうなずき、ぷっと頬を膨らませた。「ポプションの決勝、もうすぐなのにたいへんじゃないかな」
「おなじ系列だから問題ないでしょ」
「じゃあ、シュウさんのところでもよかったんだよね」
「まあ、そうだけど。一応、事務所は分けとかないと」おれはポプションのことをほのめかした。ブリッジ本体には渚が所属している。「それに圭子さんも面倒見はいいから」
心にもないことをおれは口にした。岩井圭子が社長を務めるオフィス・イワイは、いろいろな意味でシュウさんの身の回りの世話をする彼女にうまいことカネが回るようにするための名ばかり事務所だった。何人か俳優や歌手が所属しているが、彼らの夢や希望に沿うようなマネジメントを圭子さんが行うわけがない。ほぼ放置されていた。だからこの日、ひとみがワークショップに参加するとは聞いていたが、圭子さんがついて来ることはない。はなからわかっていた。
そんな事務所に回されることになり、いくら天才肌でわが道を行くひとみでもなんらかの異変に気付いたはずだ。すくなくともK―TEAMには実績のある俳優や歌手が何人も名を連ねているし、グループ内では好調な業績をあげていた。
「ナミちゃんは最近、ひとみちゃん見かけた?」
「二次審査で見かけただけだよ」
「曲作ってもらったりしてるのかなあ」
「まだでしょ、それは」
「きょう、ひとみちゃんも来るとして、それって審査になんか関係してくるのかな。誰か審査員の人も来てるとか」
「ないない。ないよ、そんなこと。きょうはあくまでレッスンだから。みんな、おなじだよ。審査は来月、沖縄で。それ以外はないから」不安に思う渚の気持ちを察し、はっきりと言ってやった。すくなくともきょうこの場でなにがあろうと審査には影響しない。
「尾形渚さんですよね」
うしろから声がした。
渚とおなじ格好に着替えたワークショップの参加者だった。タレント志望らしく、くりくりとしたかわいらしい目元をしている。年下だろう。はにかむように話しだす。「深夜番組でポプションの二次審査見ました。応援してます。ファンなんです」
そのときのぱっと輝いた渚の顔は忘れることができない。それまでの不安が吹き飛んだような感じがした。
「ありがとうございます。そんなこと言われるのはじめて。すっごくうれしい」
「テレビで見るよりカワイイです。ごいっしょできて感激です」
「わたしもです。頑張りましょう」
二人がハグしたそのとき、会議室にショートカットの女の子が入ってきた。その刹那、誰もが息をのんだ。渚とおなじボブがダンスのあとで乱れている。チャームポイントの長い髪をばっさり切ったのだ。
ひとみだった。
前半に参加していたのだ。
その姿を目にして渚がどう感じたかはわからない。だがひとみの心境が手に取るようにわかった。突然の事務所移籍、さらに渚のほうがポプション審査員の評価が高いというシュウさんが作りだした話がいよいよ耳に入ったのだろう。
「うわ、すっごい……」渚がたじろぐようにつぶやいた。
かなりいい線いってる子がいる――。
さっき演出家が口にしたのは、まちがいなくひとみのことだろう。複雑な思いでおれは合点した。ひとみは後半の参加者たちと言葉をかわし、明るく微笑んだ。それまで見たことのない女子高生らしいボーイッシュで弾けるような笑顔だった。もしかするとそれが本当の彼女のなのかもしれないとドキリとさせられた。
すぐに後半がはじまり、渚は精いっぱいの演技を見せた。それでも不安だった。前半を見ていないから比較しようがないが、先にひとみの姿を見た演出家やスタッフらは、ポプションの対抗馬の登場をどんな目で見ていただろうか。おなじことは自分でも感じていたようで、ワークショップ終了後、渚は唇をかみしめたままだった。
「おつかれさまです」
声をかけてきたのは誰あろうひとみだった。前半参加者は解散となっていたはずだが、待っていたのだ。
「ありがとう」かろうじて渚が返事をしたのでほっとした。「なんだか緊張しちゃった」
「すごくよかったです」すなおにひとみが言ってくれた。渚の演技を見ていたらしい。「講師の先生もほめてましたよ」
「それはすごい」おれのほうが反応した。「キレがあったと思うよ」
「ぜんぜんよ」謙遜というより、こちらのうそが見抜かれた。
「そんなことないです。このあと時間ありますか」だしぬけにひとみは訊いてきた。
「だいじょうぶだよ。メシでも食う?」じっさいおれは空腹だった。朝もろくに食ってなかったし、純粋にひとみには興味があった。シュウさんにもなにか報告できるだろう。
「お茶でもどうかと思って。あんまり話したことなかったし、いろいろ教えてほしいこともあって」
「いいね、それ」
そんな調子のいい運転手の顔を渚はにらみつけた。「いや、あたしはちょっと――」
「ぜんぜん、ぜんぜん。だいじょうぶです」キュートな微笑みを浮かべてひとみは気遣ってくれた。「またこんどで」
どうしてこっちがそうしなければならないのかわからなかったが、おれは赤面しながらひとみに頭をさげ、抱きかかえるようにして渚を会場から連れだした。
外では、どこで聞きつけたのかファンの一群がかつて校門だったゲートの向こう鈴なりになってカメラをかまえていた。自分と同世代だったが、誰もが憧れと欲望が入り混じったぎらつく目をしている。シュウさんに拾われていなかったら、おれだってそっちの一員だったかもしれない。
「来たぞ!」
玄関で声が聞こえるなり踵を返し、裏口に向かった。路地に連中の姿はなかった。しばらく待っているとタクシーが通りかかったので、すばやく渚を押しこめ、新宿駅前で待ち合わせることにした。
取って返しておれはなにくわぬ顔で表にもどり、一人でジャガーに乗って堂々とカメラ小僧たちの間をすり抜けていった。その間にもやつら一人ひとりの顔をにらみつけた。
一通のファンレターが頭をよぎっていた。
六本木でキスしたって本当ですか――。
六本木にはうちの事務所がある。差出人は匿名だし、都道府県名すら書いていない。根も葉もない妄想にすぎないとは思ったが、直感は胸をざわつかせた。即座にゴミ箱行きとなったが、いつまでも頭にこびりついていた。同時にこの程度のことで動揺する自分がなさけなかった。たんなる妄想でないとしたら、渚を知る何者かから聞いたのだろうか。さらにそのまた聞きかもしれない。どっちにしろなんだか自分が大切にしているものが、わけもなく穢された気がした。いまこの場に群がる男たちのなかに、あの手紙を寄こした野郎がいるのかもしれない。
くだらない。
自分に言い聞かせ、アクセルを踏みこんだ。写真は何枚も撮られたがかまうもんか。渚は乗っていないんだし。
来たときとおなじ新宿駅西口で渚は待っていた。
「テレビはすごいよな。深夜放送なのにもうあれだけのファンが集まってくる。これからもっと増えるだろうな」
だが都内を抜けるまで渚はバックシートで口をきかなかった。おれは西日を真正面から浴びながらラジオのプリセットボタンを押しつづけたが、ろくな曲を流していなかった。FMもAMもなに考えてやがる。こういう気づまりなシチュエーションをうまいこと乗り切れる曲を流さないで、どうしてラジオ局が名乗れるか。沽券にかかわる問題だぞ。ダッシュボードを殴りつけたい衝動にかられたが、それをぐっとこらえて、ビリー・ジョエルのカセットをかけた。ところが一曲目がいきなり「あの娘にアタック」だった。いまの空気からするとアップテンポすぎる。だがもうどうしようもない。すくなくともどんよりと暗くなって海の底に沈みこむよりはいい。
曲が終わる前にカセットをとめざるをえなかった。渚が母親の話をしだしたのだ。
「こんどの日曜、おかあさん、また入院するんだ。三回目だよ」
「そりゃ……たいへんだ」おれは舌を噛み切りたかった。なんでこんなことしか口にできないんだ。こんなだいじなときに。
「たいへんよ。急に悪くなったんだ。たぶん手術することになると思う。でもそれでよくなるかどうか」
「そうか……こんどの日曜か……たいへんだな」おれはバカだ。本物の阿呆だ。こういうときに育ちが出る。中学でもっと勉強していたらなにか気の利いたことが口にできただろうか。絶望的な気分に襲われながらアクセルを踏みつづけた。
「手続きとかもあたしがやらないといけない。なんかもう……たいへんよ、ほんと」
「シュウさんに相談するかい」ようやく頭が回りはじめ、自分にできそうなことを口にできた。「力になってくれるよ」すこしはね。入院費つまりカネの話なら。
「親戚のおばさんとは話してる。手伝ってくれるって。でもまた学校休まないといけないんだよね。なんかこう……よくない坂をゆっくりと下ってるみたいな気がする」
「そんなことないって。渚ちゃんが頑張れば、おかあさん、きっと元気になるよ」くわしい状況をなんにも知らないくせに口を突いて出た。いやだ、ほんとうにこんな自分がいやだった。
「ほんとはさ、デビューしたよって伝えたいの。それが一番なんだと思う。そうしたら元気になってくれるはず」
「おれもそう思う。もうすぐ決勝だからね。もうひと踏ん張り頑張れば、きっと――」
「そうなのかな」おれをさえぎって渚は訊ねてきた。「やっぱりひとみちゃんなんでしょ、優勝するの」
「え……そんなこと決まっていないじゃん、まだ決勝前なんだし」
「聞いたよ」ぽつりと渚は言った。「もう決まってるって」
「誰だよ、そんなでまかせ言うの」前を走るトラックのテールを追いながらおれは憤然とした。
「誰って……誰かよ。聞いたんだもん」
「だから誰だって」ハンドルを握る手に力がこもる。もう汗でぬるぬるだった。自分のほうが泣きそうになりながら、おれはバックミラーを見返した。
「記者の人。週刊誌の」
「週刊誌の記者?」
「ときどき事務所にも来る人。こないだレッスンのときに見に来てたの。それですこしだけ話をしたんだけど」
察しはついた。ベテランらしい中年男だ。およそこっちの世界には不向きな小汚い格好をして、背中を丸めてぼそぼそとしゃべる。週刊モンドの鬼頭とかいう野郎だ。
「なんて言ってたの」
「梶原ひとみのデビューはもう決まっていて、ポプションはそれに箔をつけるためなんだって」
「なんだそりゃ、わけわかんねえ」
「準優勝だったらデビューできないの?」いきなり現実的な話が飛びだした。「それとも、また一からやり直さないといけないのかしら」
「なんにも決まってないんだって。それだけは本当だよ。きょうこの時点ではどっちが優勝とかデビューできるとか決まっちゃいない。シュウさんに聞いてもいいくらいだ」
「そうなのかなあ……あの記者の人、いろいろ知ってるみたいだったんだよね。出来レースなんてこの世界じゃ、よくあることだって」
「ばかばかしい」気取られぬよう取り繕った。だが渚が耳にしたことは真実だった。大方、ブリッジ系列のどこかの事務所から話が漏れたのだろう。無性に腹が立った。漏らしたやつを絶対に見つけてヤキを入れてやる。この手で。
「ねえ、ナミちゃん」
「なに?」
「シュウさん、ほんとはどう考えてるんだろう。知ってるの? ナミちゃん」バックミラーのなかからじっと見つめられ、おれは魂が宇宙に吸い取られるようなふわふわした感覚に陥った。
「……知らないよ。てゆうか決勝はこれからだ。ただそれだけでしょ」
それから鎌倉の団地に到着するまで一時間もかからなかったが、おれには異様に長く感じられた。いっしょに車を降りて渚の家に至る小径でスケジュール帳を取りだし、この先一週間の予定を確認する。
夕方だったが、まだ十分に明るかった。ちょっと寄って行ってと言われたらどうしようと心配したが、そうはならなかった。かわりに渚は懇願してきた。
「シュウさんに聞いてほしいんだけど。マネージャーさん、おねがいよ」ふだんはかわいらしい瞳がこのときばかりは恐ろしいほどに見開かれ、まるで昔の映画で見た夜叉のようだった。「あたし、いつまでこんなことしていればいいのかな。ずっとまな板の鯉みたいでさ。なんか、もう……気持ちが途切れそうで……いまになってあの子の言ってたことのほうが正しかったのかなって思ったりもしちゃう」
「あの子って……例の予備校生?」
渚はバツが悪そうに小さくうなずいた。
「最近はどうなの……来てるの?」
「来てないと思う。すくなくともあたしは見かけてない。向こうだってそろそろ追いこみじゃない。かまってなんかいられないんでしょ」
六本木でキスしたって本当ですか――。
妄想に満ちた手紙ぐらいいくらでも出せる。事務所宛てに。
「電話もないの?」
「ないわよ。あたし、こっちのレッスンにかかりきりだから、高校の友だちの誰とも連絡取ってないもん。なんかもう、一人で勝手に遠くに行っちゃったみたい」
「渚ちゃん、深呼吸」
どこから浮かんだのか口にしていた。遠くで子どもたちの愉しげな声がする。空の高みには飛行機雲が浮かんでいた。
「きみは一人なんかじゃない。だいじょうぶだって。決勝の日はかならず来るから。そのときまでなんにも決まっちゃいない。おかあさんのことは心配だけど、できることをやる。それしかないよ。心配したってきりがない」
それでも渚は憤然としている。「だけどやっぱりさ、シュウさんが決めるんでしょ。記者の人が言ってたもん。たしかにあたしもそうだと思うし。シュウさん、すごいから」
「シュウさん一人じゃ決められないよ。だってオーディションだもん」
「でもちょっとでいいの。ちょっとだけ聞いてくれないかな。もしあたしのこと、思ってくれているのなら」鬼気迫るようすで渚はぶつけてきた。買い物帰りの近所のおばさんたちがちらちらと目を向けてくる。まるで痴話げんかのようで居たたまれなかった。「いったいどうなっちゃうのかって。負けたらもうおしまいなのかって」
返事ができなかった。もし夜中なら抱きしめていただろう。あの日、原宿でシュウさんが声をかけさえしなければ、こんなことにはならなかった。いまごろふつうに短大に通い、就職の相談でもしているころだろう。母親の看病だってもっとできたはずだし、アルバイトに精をだして家計の足しにすることだってできた。
アイドルでも俳優でも、脚光を浴びられるかどうかはギャンブルだ。オーディションなんてなくても日々、そういうものだ。そんなことはおれにだってもうわかっている。ふつうに勤めたほうがいいに決まってる。でもギャンブルをやってるのは、当人だけじゃないんだよ。事務所なんて蔑むような言われ方をするけれど、そこに巣食うシュウさんやおれみたいなやつだってサイコロを振らされてるんだ。プレッシャーはおんなじなんだよ。
だからさ。
仕込んだりもするさ。
考えに考え抜いて。
渚はうつむき、おれの胸を片方の拳で小突きつづけた。そのときふと視線を感じた。おばさんたちじゃない。渚もそれに気付いたらしく、ぱっと踵を返して家に入って行った。おれはあたりを見回した。あやしい人影なんてなかった。路地の向こうを子どもたちがいきおいよく走り回り、自転車と車が彼らをよけながらのろのろと遠ざかっていく。それでも妙な気配がいつまでも首筋にまとわりついていた。
誰かと目が合ったような気がしたのだ。




