十八~二十一
十八
1984年8月
まだ渚が歌のレッスンをしていたころのことだ。梶原ひとみのマネジメントを自ら手掛ける海藤は、連ドラのちょい役をうまいこと手に入れてきていた。その収録現場におれはシュウさんとともに居合わせた。
リハのカメラが回ったとき、ダンスシーンをふくむ一人芝居だったが、途中から台本にないアドリブとなった。スタッフも共演者も誰もが息をのんだ。たった一度だけ、二度と見られるものでない。まさに神がかり。魔が憑いていた。監督がそのまま本番として使ったのは当然だった。
そんな話は渚に教える必要はない。シュウさんは十一月に沖縄で決勝戦が行われる「ポプション1984」で「段取りをつけてある」と渚に明かしていた。ダンスやトークが審査され、水着撮影も行われるのだが、一番は歌唱力だった。だから大学が夏休みに入ると、渚はそれに向けて連日、ボイストレーニングに訪れていた。シュウさんは多忙のなか、できるだけ渚のようすを見にスタジオに足を運んだ。九月の一次審査まであと一か月あまりだった。
「どんな感じだ」いつもいっしょにいるのはおれだったから、シュウさんは訊ねてきた。
「声はいいんですよ。音域がとても広い。かなりいい線いってると思います」
「ディレクターはなんて言ってる」
「あとは歌のイメージだとか」
「どういうイメージだ」
「そこですよね」
マイクの前で懸命に歌う姿をガラス越しに見つめながら、おれのほうが焦りを覚えた。完成しつつあるが、梶原ひとみとはあきらかにちがった。
こちらに気付くと渚はスタジオのなかから手を振った。シュウさんは満面の笑みでそれに応えた。「まあ、なんとかするさ」そうつぶやいてべつの現場に一人で向かう社長のこわばった背中をおれは恐ろしい思いで見つめた。
渚は自分が特別に選ばれた存在だと思っているだろうが、シュウさんにしてみればスカウトなんて日常茶飯事だ。それが本業だからあたりまえだ。目利きではあるが、ぜんぶがぜんぶうまくいくわけではないし、その点での社長の見切りは早い。それを何度も目の当たりにしてきた。でもそれくらいでないと、この業界ではやっていけない。流行り廃りが季節のように猛スピードで駆けめぐっていく。
それでも一度声をかけた子は最後まで面倒を見るのがシュウさんだった。テレビからラジオ、スポンサーまで付き合いのある会社なら事欠かない。希望するなら、いくらでも就職の後押しをしてやった。若い子たちにもそういう義理堅さを見せるところがキングのキングたるゆえんでもあった。
渚にいまそれを伝えるのは酷だった。デビューへの気持ちは昂るばかりで、その後の夢は痛ましいほどに広がっている。危険な想像力のブレーキとアクセルを踏みちがえた先になにが待つか、何度となくシュウさん本人から聞かされていた。しかし化ける可能性はまだあったし、たしかにポプションをうまく活用することもできた。オーディションでの筋書きは要するにシュウさんが描き、テレビ局はじめ業界関係者たちに周知させる。もちろん巨額の支出となるのだが、それを上回るリターンが見こまれるから心配はない。とはいえ社長は決めかねていた。いつもこういうときはそうなのだが、シュウさんは二匹の犬を競わせる。それによりたがいに高めあい、無二の猟犬――大衆の懐からカネをむしり取るマシン――が誕生すると考えていた。それくらいのシビアな手段が必要だった。この世界にお人好しの通るすき間などこれっぽっちもない。まだ二十歳にもなっていなかったが、おれはその現実を徹底的に刷りこまれ、自分自身がマシンへと変貌しつつあった。
二匹目のほうが輝いていたが、シュウさんにしても距離があった。
梶原ひとみだ。
「横浜のライブハウスで見つけたそうだ。バーテンだったんだよ」
太陽が爆発したみたいにまぶしい八月のある日、ジャガーのバックシートでシュウさんが苦々しく言った。
「だけど未成年もいいとこだぜ。まだ十六だったって言うんだから。ひでえ店だよな。サツにバレたらたいへんだぜ。けど、いっぱしにシャカシャカやってたんだと」
父親が営むライブハウスだった。そこでひとみは時々、歌も歌っていた。海藤は何度か通ううちに彼女が醸しだす大人びた雰囲気とハスキーボイスにすっかり惚れこみ、やがてステージから見つめられたとき、自分が異次元空間にふわりと浮かんだような錯覚にとらわれたという。それで父親を説得して歌手デビューに向け、K―TEAMがマネジメントを行うことになったのだ。
「だけど悔しいけど、やつの言う通りだ。もしおれがその場にいても口説いていたと思う」
「歌だけじゃないですよね」ハンドルを握りながらおれは、連ドラの収録現場で目の当たりにした光景のことを口にした。
「そうだな」シュウさんはたばこをまずそうに吹かし、灰皿に押しつけた。「大事に育てるといい。けど、やつにそれができるかな」
前にテレビ局のプロデューサーが言っていたが、海藤はスカウトマンとしては右に出る者がないくらい腕が立ち、あっという間に歌い手や役者に仕立てる能力にもたけているが、搾り取るだけ搾ったら使い捨てにしてしまう危うさがあるという。
そのへんのところは小僧っ子に口が挟める話ではない。じっと押し黙ったまま運転をつづけるほかなかった。シュウさんは独り言のようにつづけた。
「十年に一度の逸材かと思ったら、最初の三か月で馬脚を現す、というか潰されちまう子だっている。それがこの世界だ。あいつがそれをほんとにわかっているのかどうか。それに腹の底でなにをたくらんでるか知れたもんじゃないからな」
K―TEAMはブリッジランドの系列だ。海藤は戦後間もないころから長らく、シュウさんとバンドを組んでプロとして活動してきたし、引退してからは系列事務所の社長として後進の育成に力を注いできた。だがシュウさんはどうも海藤を遠ざけているように思えた。あとで聞こえてきた話だが、それにはきっかけがあった。
二年前、シュウさんと出会うきっかけとなったあの晩の襲撃事件だ。
あれはライブハウスからのあがりを奪われた暴力団幹部の仕業かと思ったのだが、バランズのライブに関するシュウさんの方針を悪く言い、ヤキを入れたほうがいいかもしれないとそそのかしたのは海藤だというのだ。やつはシュウさんの前では小犬のような従順さを見せるが、陰では自分の芸能界への影響力を過信し、業界の取りまとめ役のように振る舞うシュウさんを疎ましく思っている。こっそりそう話してくれたのは一人や二人でなかった。
「遠からずHの本体の役員に就くことが決まってるって」
耳うちしてくれたのはブリッジ系列のべつの事務所所属の中堅マネージャーだった。さすがにその話にはおれも声をあげた。
「ウソでしょ。Hはまずいんじゃないですか」
Hとは、ブリッジの歌手や俳優たちとことごとくかぶる人材を抱えるヒガキプロのことだ。両グループは、芸能界の勢力地図のなかで二大勢力となっているだけに、人材流出にはどちらも神経をとがらせていた。
「あながちウソでもないんだよ」マネージャーは声を潜めて教えてくれた。「手土産に梶原ひとみを連れて行くらしい。それで一気に儲けようって腹だな」
「いやあ、どうだろう……あの子、たしかに才能はあると思いますけど、なんて言うのかな、年のわりにちょっと冷めてるような気がして」
「天才肌って言いたいのか」
「そう、アーティストタイプで相当な自信家だと思うんですよ。へたをすると天狗になってファンとの距離ができてしまうかもしれない」
「おいおい、シュウさんみたいなことを言うんだな」
言われてみて気付いた。いつの間にか社長とおなじ思考回路になっていた。「だから手綱をちゃんと握っていないと――」
おれがいちいち伝えるまでもなく、海藤の魂胆にはシュウさんも気付いていた。Hとはたがいに決して交わらぬ二本線のように距離を保っておくべきだった。それが海藤のせいで双方がダメージを食らうことになる。そうならないためになにをすべきか、あのときシュウさんの頭にあった最大の懸念はそれだった。だがこういう事態をしっかり予測し、つねに周到に策を練っているのがうちの社長だった。
海藤の弱点なら把握済みだった。
十九
十代最後のあの夏、浪男のまわりに大きな波が近づいていた。
同年代には働いているやつもいれば、大学に通っているやつもいる。郷里の港町には、上京以来、一度も帰っていなかったが、中学時代の仲間はたぶん就職しているやつらがほとんどだろう。女子なんかでは、もしかしたら結婚している子もいるかもしれなかった。
貯金なんてほとんどなかったが、それなりに社会経験を積んでいたから、こんな中途半端でヤクザみたいな仕事からはとっとと足を洗い、故郷でなにかべつの職を探すことだってできた。シュウさんだってちゃんと説明すれば、喜んで送りだしてくれたはずだ。そうなっていればおれの人生、あきらかにちがっていた。
いま、こうして一分おきにジェット機の轟音が響いてくるエアコンのきいた空港カフェで見知らぬ男と話しながら、いまにも消え入りそうなそんな想像が頭に浮かぶ。
その選択肢はなかったよな。
アヒージョの皿は底にオイルがうっすらと残っているだけだった。浪男はメニューに目を落とす。「こういう店って必ずメニューにスープがあるでしょう。でも腹にたまるものでないし、ビールなんか飲んでたらケポケポしちゃうと思うんですよ。注文する人なんているんですかね」
「ためしてみますか」男もいそいそとメニューを広げる。「わりと種類がありますね。口直しがわりなんでしょう。ミネストローネとかコーンポタージュじゃつまらないな。そうだな……ソト・アヤムなんていかがですか。すっきりしているけど、十分なコクがありますよ」
男が目を上げると、ウェイトレスが滑るように近づいてきて注文を取っていった。スモールサイズを二つ。作り置きを解凍したのだろうが、運ばれてきたのは、白湯スープにチキンや玉子、それに野菜がたっぷり入ったひと皿だった。
「ニンニクとショウガがきいてますね」テーブルに前かがみになってスープを味わった。「でも柔らかな味だ」
「たしかにコクがある」急激な懐かしさを覚えながら浪男は木のスプーンでやさしい味わいのスープを探った。「前にも似たものを食べたことがあります。これとおなじものだったのかな……でもこっちのほうがうまい」
「鶏の出汁がよく出ている。こりゃ、本物だ」男は子どものように目をきらきらさせる。「コブミカンもきいてる。ザッツ・アジアって感じですよね」
「コブミカンか……」浪男は男とおなじく背を丸め、熱々の汁をそのまま何口もつづけてすすった。そして独り言のように口走る。「ときどき、自分にもなんらかの特別な才能があればちがう人生、日々降りかかってくるゴタゴタに忙殺されるだけの人生とはちがう歩みができたんじゃないかと思うんですよ」
男は口元をナプキンで拭いながら言う。「うらやましいですよ。そういう才能のある方は。自分を信じて生きることができる。というか、わき目をふるひまもないんでしょうね。好きな道を進みつづけているわけだから。たのしくてしょうがないのだと思います」
「雑念だらけですよ。そのまんま生きてきてしまった」
「でも才能なんてものとはべつに、わたしもちがう人生には憧れますね。わたしたちぐらいの年代になると、誰しも一度や二度はそう思うんじゃないかな。なんて言うか、たとえばこういう料理がふつうに食卓にのぼってくるような場所に暮らす人は、朝起きてから一日をどんなふうに過ごしているのだろう、きっとわたしがこれまでただの一度も感じたことのない悦びに触れる瞬間があるんじゃないかって、ふと思ってしまいますよ」
「そう、たぶんこれとおなじですよ。ソト・アヤムか」浪男はメニューに目を落とし、能書きを読み直す。「インドネシアのスープですか。わたしの場合、こいつに似たものを最初に味わったのは」浪男は記憶をたどりながら最後のひと口をいとおしそうにすする。「たしか大阪のエスニック料理屋だったんじゃないかな」
「大阪でソト・アヤムですか」
「たぶんおなじものだったと思います。大昔、まだ二十歳にもなっていないころの話です。ちょっとした世話になった人に連れて行かれましてね。あれはうまかったなあ。いや、これよりずっと薄味だったかと思いますけど。でもコブミカンなんてものの香りを味わったのはあれがはじめてでしたよ。口のなかにぶわっと広がるのが衝撃でしたね」
「ミカンとか言っても、日本ではまずお目にかかれないですね。こういう料理にほんのちょっと入るだけで、たちまち異国が香り立つ。お仕事ですか? 大阪は」
「ですね」スープボウルの底に残った汁を名残惜しそうにスプーンですくいながら浪男は言う。「なんの仕事だったかは忘れちまいましたけど」
あの味は忘れるわけがなかった。
あれが長谷川耕司との出会いだった。
ハセガワは、表向きは剣劇芝居の小屋で下働きをしていたが、じっさいには西成の組の使い走りだった。シュウさんのところで厄介になりだしたころ、浪男は演歌歌手の公演の関係で懇意になった組系列のプロモーターから「若いけど、なんでも手配してくれて頼りになるから」と紹介されていた。その後、絶体絶命の窮地に陥った浪男が頼ったのがハセガワだったのだ。
おない年だったが、本当にハセガワは「なんでも屋」だった。バッタもののさばきから地上げの現場活動、公文書の書き換え、それに飲み会のあとのお愉しみまで、裏稼業のなにからなにまでをてきぱきとこなし、妙に腹がすわっていて自分より年上の連中にも自信満々で指示を出していた。
「大阪生まれのくせに『粉ものは苦手や』って公言する人でしてね。あっちはいろんなアジアの人が多いから『おれは国際派なんや』なんて言って世界の料理めぐりをしてくれたんです。韓国料理はもちろん、南米やアフリカの料理まで食べさせてくれました。関西人なのに口数はそんなに多くなくて、それでもぼそっと面白いことを口にするし、なにより面倒見がすごくいい。カネなんて持っていなかったけど、わたしにはうかがい知れない分野に自分の居場所がちゃんとあって、自信を持って仕事に邁進している感じでしたね。ああいう人はわたしなんかには想像もつかない強靭な精神力で道をどんどん切り拓いて、輝かしいなにかを手に入れているんじゃないかって思ったりしますね」
「なにに悦びを感じ、美徳とするかは人それぞれ。それでも己が持たざるものに憧れる。それが人間ですよ。昼間輝く太陽が、夜中を領分とする月をうらやましいと思うようなものです」
「まったくです」
「だからフィクションが語られ、映画が生まれる。なにしろ妄想は現実のつらさを遠ざけてくれますからね」
「たしかに」
「自覚はありますか」
「え……いや、自分ではちゃんと地に足をつけているつもりです。できることなんてかぎられてますから。それはわかっているつもりです」
だが結局のところ、ハセガワの人生曲線は浪男のほうへ近づいてきた。その後十年ほどして浪男がシュウさんに紹介することになったのだ。
「でもその人、三か月前に亡くなってしまいましてね」
「それは残念な」
「急死だったものでショックでした。じつはいまでも引きずっているぐらいです。ずっと付き合いがあったものでね」
「家族ぐるみのお付き合いだったとかですか」
「その通り。うちの娘もずいぶん面倒を見てもらっていました。わたしにとっては中学の同級生みたいなものですよ。こんな話をするのは恥ずかしいんですけど――」浪男は苦い薬でものむようにそっとワイングラスに口をつける。「わたしには友だちと呼べる相手はほとんどいません。振り返ってみると、自分の人生、ビジネス上の付き合いばかりだったから。さびしいかぎりですよ」
「仕事に邁進している人なんて、そんなものだと思いますよ。わたしだって仕事以外の付き合いなんてありませんから」
「その方は子どもはいなかったんですが、ご自宅で翻訳仕事をつづける奥さんのことをたいせつにする穏やかな方でした。まだ三か月でしょう。わたしも彼がこの世にもういないなんてまったく信じられなくて。奥さんだってそうですよ。こないだお宅にうかがったんですが、家のなかはまったく手つかず。とてもでないですが、遺品の整理なんて考えられる状態でなかったみたいです」
だからそれをすこしばかり手伝おうと思って浪男は、ハセガワの細君を訪ねたのだ。会社にやつの席はなかった。狭いオフィスだし、いつだって外回りだったから、そんなものは必要なかったのだ。そのぶん自宅が事務所がわりで、そこに膨大な資料が残されているはずだった。そのなかには、すくなからずブリッジ絡みの他言をはばかる案件に関するものがふくまれている。シュウさんの教えはハセガワにも受け継がれ、浪男以上の記録魔だったのだから。浪男としては、それらを一切合切、回収しなければならなかった。
やつの記録癖は生い立ちが影響していた。
尼崎生まれのハセガワは、幼いころに両親が離婚し、母親と再婚相手からひどい虐待を受けたのち、六歳のとき、このままだと生命が危険にさらされると判断されて大阪の養護施設に避難し、そこで暮らすようになった。その不遇を取り返すかのように小学六年生のときにはすでに万引きからカツアゲまで補導歴を重ね、中学に入ると関西きっての暴走族のメンバーとして名を連ねた。そして卒業後は晴れて西成の組の一員となったのだった。だがやつがグレたのは、幼年期の不条理への反動とあの年代独特の虚勢が原因だった。根はやさしくて義理堅く、独特の人望があって頭の回転も速かった。だからこそ、すでに十九歳で西成のなんでも屋を自称するほど顔がきくようになったのだ。
そのころからハセガワは取引には慎重を期していたが、三十歳でシュウさんのもとで働くようになってからは、どんな相手に対しても警戒を怠らず、わずかなウソも見破り、それを社長に耳うちすることで会社を守ってきた。
シュウさんの死後、浪男が四十四でブリッジランドを継ぐさいには、年かさの系列会社の社長たちが不穏な動きを見せそうだったので、その後は彼らに対しても決して背中を見せないよう目を光らせた。そして新社長がすこしでも危ない橋を渡らねばならないときには、相手が系列であろうとなかろうと、必ず保険をかけるようにした。
たとえば、宴席もふくめ、なんらかの商売相手と交渉するさいは、最初から最後まですべてポケットにしのばせたICレコーダーで会話を録音し、相手がうっかり口を滑らせたこともしっかりと記録に残し、いざというときに使える証拠を積み重ねていった。だからこそ、怖いのはそれらが外部流出することであり、そうなる前に浪男は自らの手でそれらデータを確保し、始末したかったのだ。
「ご夫婦の場合、遺品を何年も整理できない、つまり捨てることができないケースがものすごく多いらしいですね」
「だから遺品整理業なんてものがはやるのでしょうね。奥さんさえよければ、とくに仕事関連の資料なんかは、わたしが引き取ることだってできるんですけどね」
「むしろそうされたほうが、奥さまとしては気が休まるのかもしれませんね」男はひと口、半分ほど残ったグラスから赤葡萄酒をすすり、満足そうに笑みを浮かべる。「かなりこなれてきてますよ。バニラとカカオ、あとはクローブ、ブラックベリー。そのあたりのニュアンスが立ってきている。長旅のあとにうまい一杯を味わうと、心からほっとします。ほんとはこういうのは大切な相手と愉しむと悦びが倍増するんでしょうが、あいにく自分は独り者ですから。こうしてどなたかと会話を愉しみながら味わえれば、それで十分です。そんな身勝手に突き合わせてしまって申し訳ありません」
「ご心配なく。わたしも十分愉しんでいますから」それは偽らざる気持ちだった。「どこの夫婦もそうなんでしょうけど、長年連れ添うと、どうしたって鮮度なんてものは落ちてくる。こうしてお話するのはとても愉しいです」
「ありがとうございます」
「それに妻なんて究極のところやっぱり他人ですよ。そこは親子とは決定的にちがう。自分の命を賭してでも子どもには手を差し延べねばならないし、たとえわが子がどんな罪を犯そうが守り抜くことができる。妻ではそうはいきませんからね」
「生物学的な衝動なのでしょうね」
「そう。DNAに刻まれた絶対的な真実だと思いますよ。口にするまでもないあまりに陳腐な話ですけど。バンコクで仕事の合間にちょっとだけ娘に会ってきたんです。元気そうでよかった」
「留学されているとか」
「そういう感じでもないんですが、向こうに暮らしてかなりになります」
「もう大きいのですか」
「二十五になりました。世界に展開できるカフェチェーンを作りたいって猛勉強してますよ」
「それはすごい。夢がありますね」
「ありがとうございます。けど、親バカという言葉は本当ですし、目の中に入れても痛くないというのもウソじゃない。たとえ大きくなっても、わたしにはもう娘しかないんですよ」浪男は満足そうに微笑み、いい具合に丸くなってきたワインをひと口飲みくだし、襟の高いシャツの胸ポケットに入れたスマホを取りだす。
LINEが既読になっていない。
まだ仕事中らしい。
「ちょっとだけ電話をかけていいですか。こっちに着いたって連絡しとかないと」けさ出発前に電話したが出なかった。浪男はすでに空腹のような飢餓感を覚えていた。
十回コールしても出ない。肩をすくめてスマホをしまう。
男は自分のスマホを操作している。画面にじっと見入り、小さくうなずく。「よし、順調だ」ソト・アヤムのボウルのわきにスマホを置き、浪男のほうに顔をあげる。「そろそろ今回の案件の取引先に連絡しないといけないんですが、出来栄えが気になりましてね。ほんとに便利ですよ。こんなふうにしてたしかめられるなんて」
「貯水槽を設置されてきたんでしたっけ」
「ええ、はじめてだったんでうまく稼働するか微妙なところもあったんです。でもだいじょうぶそうでした」男は安堵したかのように言った。
「出てくれませんでしたよ」浪男はつい不満を口にする。「まあ、仕事してるんでしょう。便りがないのはいい知らせかな」
「そうですよ、きっと」
「ほんとはね、仕事なんてやめてずっと娘のそばにいたいんですよ」もちろんそうするつもりだった。
「親子の絆と言いますが、男親と女親でちがいもあるんでしょうね。母親と娘は姉妹のような関係だとか。けど、父親と息子が兄弟のようだということはない」
「ないでしょうね。でも個人的には、父親と娘の関係、娘に対する父親の思いというのが一番強いと感じてしまいますね」
「どうでしょうね。そのへんは。仕事柄、クライアントとは、かなりプライベートにまで踏みこんでいろいろな話をするんです。その経験からすると、息子に対する母親の気持ちというのがもっとも強烈な印象があります。批判を恐れずに言うなら、女性ホルモンの影響かもしれませんけど、女性は母体という生命連鎖にとって非常にたいせつな役割を担っているから、基本的に肉体的にも精神的にもタフにできている。ところが男はそうじゃない。種は撒くけど、そこまでだ。出産の試練にはノータッチ。だからそのぶん、女性よりもストレス耐性がないんですよ。そこに母親が手を差し伸べるのだと思います。父親はやはり同性だから抵抗があるのでしょうね。むしろ突き放すだけだ」
「人によるのだと思いますが、そう言われてみるとそうかもしれませんね。でも娘に対するわたしの思いは誰にも負けませんから。無償の愛というやつです」浪男は思わず胸を張った。この先、里奈のためだけに生きるのだと決めたのだから。
「無償の愛か……比喩ですよね」
「いや、そんなことはないです」浪男は即答し、男のほうに身を乗りだした。「言葉通りです。娘を応援し、サポートし、守ることができるのなら、全財産をかけてもいい」じっさいそのための手続きをすませている。
「ご気分を悪くされたのなら申し訳ありません。謝罪します。ただ、まるで性差別のように聞こえるかもしれませんが、すくなくともわたしが見聞きしてきたかぎりでは、母親の息子に対する思いというのは、無償の愛なんていうものを超越した、ある種の激しい情念のようなものに基づいている」
「激しい情念ですか。なんだか怖いな。そこまで言われるとわたしもひいてしまいますね。わたしの娘に対する気持ちは非情に良識的なレベルですよ。カネを出してすむなら、存分に投資しようという、いわばリターンを気にしない投資という意味に近いかな」
「そう、そこですよ。つまるところ世のなか、カネじゃないですか。それが最終的にいろんな物事を解決してくれる。けれど、そうはいかないような、絶対に割り切れないし諦めきれない感情の猛りが、息子を持つ母親にはつきまとう」
もうひと口、うまいワインをすすり、浪男は天井を見上げる。「その意味じゃ、カネで解決できる話はラクでいいですよ」
「まったくです。あと腐れなく処理して忘れ去ることができる」
「ただ、もう一方でカネはカネで厄介ですよ。これは自分で商売をしてきた経験から言うんですけど」浪男は試すような目を男に向ける。「もしそれがカネで解決できる話なら、カードは慎重に切らないといけない」
「ビジネスをやるうえでは当然でしょうね」男もグラスに口をつけ、確信したように小さくうなずく。「まったくもっておっしゃる通りかと思います」
「一時の感情の昂りに左右されて、手に入るはずのものを失うほど愚かなことはありませんから」ある意味、親子の絆なんてものより明快な掟、浪男が先代から受け継いだ商売の絶対的な信条だった。
二十
1984年9月
海藤がヤバいとの話は、K―TEAM所属のボーイズユニットのメンバーがクスリで捕まった八月の終わりごろからうわさになっていたし、警視庁の幹部――シュウさんが定年後の暮らしをラクにさせてやるメンツのなかの一人――からは、メンバーにクスリを売った暴力団員から押収したスマホの顧客リストに海藤の名があったとの連絡が入った。大規模な芸能界薬物汚染が摘発できるかもしれず、東京地検が強い関心を寄せているようだった。
クスリに関してシュウさんはきびしかった。売春や賭博、それに贈収賄とは質がちがうと厳然たる線引きを自ら行っていた。ヤクザ連中と明確にちがうのはその点だった。芸能事務所は正業であって、社会の最低限のルールは守る。そうでないと業界全体が共倒れになるとの警戒心が強くあったのだ。
証拠は十分そろっているようで、海藤はいつ挙げられてもおかしくなかった。そのうち海藤はヒガキプロに寝返るとの話があちこちから聞こえるようになり、いまのうちに潰しておくのがたしかに得策だった。しかしシュウさんは良好な関係を築いていた地検の次席検事に働きかけ、海藤に引導を渡すのを抑えていた。切り札をいつ使うか、シュウさんは慎重に見極めながら九月になり、ポプションの一次審査の日を迎えた。
ライオンヘアのティナ・ターナーの「愛の魔力」がビルボードで快進撃をつづけている時期だ。書類審査をパスした三十人が歌と水着審査をへて一気に十人にまで絞られ、渚もひとみも二次審査に進むことができた。ここまではあきらかにどちらもシュウさんの段取りのおかげだったが、渚のほうは悦びを隠せずにいた。
その先、シュウさんがなにを考えているかは読みきれなかった。ただ、社長の念頭に梶原ひとみのことがあるのはまちがいなかった。
海藤がクスリで逮捕されれば、K―TEAMの所属タレントたちに影響が出るのは火を見るよりあきらかだった。しかも海藤にとってひとみは手塩にかけて育成中の金の卵で、やつがつねにそばにいた。ひとみ自身がいくら否定したとしても、世間は彼女も薬物汚染にかかわっていると疑いの目で見る。いくら歌がうまく、カリスマ性があるとしても、そんな状況でデビューできるわけがない。気付いたときには、タイミングを逸し、手遅れになってしまう。それは系列を率いるブリッジにとって明確な金銭的損失だった。
ある晩、接待を終え、圭子さんとともにジャガーのバックシートに深々と沈みこんだシュウさんは大きくため息をついた。
「ああいうところって定期異動なんじゃないかしら。たとえば四月とか」まるで痛みを堪える子どもを慰めるように圭子さんが言った。
「いや、あの会社はそうじゃない。不定期な玉突き人事が全国規模で起きる。さっきの言いっぷりじゃ、年内なんだと思う。早けりゃ十月だ。面倒だな。またゼロからはじめなきゃならねえじゃねえか。バカ野郎め」
シュウさんはめずらしくかなり酔っていた。接待相手からよほど厳しいことを告げられたにちがいない。ハンドルを握りながら話に耳をそばだてるうちに、今夜の相手が誰だったか察しがついた。
当の次席検事だ。
「うわさが外れればいいんだが」
「人事なんて誰にもわからないわよ」
「ただな、向こうも競争社会、足の引っ張り合いだってことはよくわかったよ。あの人はその意味じゃ、まともなほう、あんまりえげつないマネはできないタイプだったんだ。その意味じゃ、実直なんだと思う。うちの会社で顧問として雇いたいぐらいだ」
芸能界のキングとひそかに付き合い、捜査に手心をくわえる検察官がどうしてまともで実直なのか、いま一つ、おれにはそのとき理解できなかったが、どうやら上には上がいるということのようだった。
「それにしてもな、ヒガキの野郎」
「うわさでしょ、あんなの。あてにならないわ」
シュウさんは不快そうに鼻を鳴らし、あとはむすっと押し黙ったままだった。しばらくしてわかったのだが、シュウさんの息がかかった次席検事に異動話があり、後任として名前が挙がっている男が、こともあろうにヒガキとすでに通じているというのだ。中学の同級生だというからさもありなんだ。
ヒガキだってクスリに手を出した事務所の社長なんてかかわりたくないだろう。とすると、次席検事の異動があれば即刻、海藤が検挙される恐れが高い。だったら力業を使ってでも、いますぐひとみの身柄を安全な事務所に退避させるべきだろうか。ただ、ひとみが本当にブレイクする保証はどこにもない。すくなくともシュウさんにはその確証がないようで、ここが思案のしどころだった。
尾形渚にミュージカル出演の声がかかったのは、それから数日後だった。まもなくポプションの二次審査が赤坂プリンスで開かれるという時期で、渚やひとみの姿をひと目見ようと、追っかけのファンがあちこちの写真スタジオや事務所周辺をうろつくようにもなっていた。
ミュージカルは翌年の一月に公演予定の翻訳作品で、キー局の主催事業だった。主演ではないが、渚には比較的出番の多い役が想定され、ルックスと歌唱力が評価されたとの話だったが、ブリッジとの付き合いのなかから生まれたオファーであるのはまちがいなかった。だから先方は、系列事務所もふくめたブリッジのタレントリストをながめて一応、周囲の話もすこしは聞いたうえでの判断だろう。案の定、梶原ひとみとてんびんにかけられ、他の共演者とうまくやっていけるかどうか、つまり協調性の点で渚のほうが優位に立ったらしい。観客もふくめ、その場にいる者たちがはっと息をのむほどの存在感は、その他大勢の出演者には不要なのだ。
それでもおれは渚にとって最善の選択肢になると思った。シュウさんからは修業時代がどれだけ肥やしになるかとの話をさんざん聞かされてきた。マネージャーと二人三脚で苦節十年、場合によっては二十年かけてようやくヒット曲が生まれるなんて、演歌歌手なんかではよくあるケースだった。世間的にはスターなんて呼ばれない、せいぜい夜空の端っこで小さく瞬くだけのヒットかもしれないが、本人にとっては無上の悦びだろうし、その歌で誰かの心をすこしでも癒やすことができるのなら、歌手にとってそれこそ本望だろう。
「あの子は耐えられるかな」
白昼、おれに運転させながら収録スタジオをはしごする最中、シュウさんが後ろでつぶやいた。
「向こうの仕事が決まったらポプションなんて吹っ飛ぶんだぞ。稽古のスケジュールが優先される」
「それはきついっすね」
「それにな、うまく回ってそっちの色がつきはじめたら、舞台の世界が長くなるはずだ。もし背番号を振られるなら、舞台出身ってことになるだろうよ。だけどな、あの仕事だって演歌とおなじだ。泥臭い世界だし、劇団の連中には独特のクセもある。ナミオ、おまえなら耐えられるかもしれないが、渚となるとどうだろう。稽古で罵声を浴びせる演出家に夜の世話までさせられ、挙げ句に切符のノルマがきつくて、元々薄っぺらな懐はいつだって赤字状態。泣く泣く水商売で糊口をしのがざるをえなくなる。それで主役をつかんだところで、ブロードウェイじゃないんだ。日本の場合、テレビとちがって舞台は市場規模が桁違いに小さい。百分の一以下だ。はっきり言えば、そんなところで神格化され、まつりあげられて殿様気分でいる連中なんて、サルとおんなじだ。死ぬまでマスかいてるんだよ。そんなやつらに擦り切れるまでこき使われて、気付いたときは抜けだせなくなっている。蟻地獄だな。こっちは、そういうやつらを腐るほど見てきてるんだ。舞台でわざわざ演じなくても現実に体験できる不条理劇なんだよ。だったらこっちでちゃんとした職に就かせてやったほうがいいに決まってる。あの子の家のことを考えたらそうだと思わないか、ナミオ」
渚の母親の状態がよくないことはシュウさんも知っていた。
「たしかにそうですね」
「ナミオ、おまえの気持ちはわかるよ。あの子に惚れてるんだろ」
「えっ……」
「わかるって、そんなの。何年、人間やってると思ってんだ」こっちの返答などたしかめずにシュウさんはつづける。「だから舞台でもいいから一刻も早くデビューさせたい。その気持ちは理解できる。ただな、これだけは言っとくが、これも重要な商売の一つなんだよ。おれやおまえも命をかけているんだからな。それにおれにも考えがあるんだ」
それがどんな考えかあとになってわかったが、その晩はまたしてもおれは、レッスンと接待で遅くなった渚を鎌倉の家まで送った。バックシートで渚はルームランプを灯し、熱心に自分宛てのファンレターに目を通していた。先ごろ行われたポプション一次審査の模様が放送され、全国から事務所留めで手紙が届くようになっていたのだ。
「すごいよね、テレビって。ちょっと出ただけなのに」
「アイドルコンテストだもん。みんな見てるよ。どれくらい手紙が来るかでだいたいの予想がつく。渚ちゃん、かなりいい線いってると思うよ」
「へへ、ありがと」
尾形渚宛てにきょう一日だけで百通ほどが届いた。そのなかから悪意に満ちていたり、下品だったりするものを除いた八十通を本人に渡していた。それですこしでも自信がつけばいい。
「こうやって応援されてると思うと、頑張らないわけにいかないわ」
「そうだよ。みんな応援してるんだから」
「ねえ、ナミちゃん、ちょっとだけ寄っていって」
家に到着するなり、腕を引っ張られた。
「でもおかあさん、寝てるんだろ」
「だいじょうぶ。さっき電話しといたから。きょうはわりと調子がよかったの。コーヒー飲んでってよ。おいしいのよ、おかあさんの淹れるコーヒー」
古びた団地の一階だった。
スチールの玄関扉を軋ませてなかに入ると、病院のような臭いが鼻先をかすめた。奥の和室で背筋をしゃんと伸ばした母親がにっこりと微笑んで出迎えてくれた。きちんと化粧を施し、ブラウスにスカートをはいていたから病人のようには見えなかった。むしろ学校に親子面談にやって来た教育ママのようだった。それでも部屋の隅の棚には、病院でもらってくる白い薬の袋がいくつもあった。
コーヒーはそれまで飲んだなかで一番うまい部類だった。それからおれは差しだした名刺に印字された会社について、ひとしきり話して聞かせた。娘がこれから進む世界についてのレクチャーというわけではない。あくまで自己紹介の程度だ。
「黒瀬さん、ご出身は」かぼそい声で母親が訊ねてきた。初対面ならたいていは訊かれる話だ。
そのときおれは自分の姿にはっとした。サンローランのウグイス色のスーツはダブルで金ボタン。肩パッドががっちり入っている。シュウさんのお古で、ディスコに着ていくには手ごろだったが、女の子の母親にあいさつするときには、あまりふさわしくないかもしれない。
「新潟の小さな漁村です」気持ちをめいっぱい落ち着かせてからおれは両親の話をし、中学卒業後、働きはじめたことを包み隠さず伝えた。
「たいへんな苦労があったんですね」
「苦労なんて、それほどでも……学のない田舎者にはいい勉強になりました。ぜんぶいい肥やしになってます。もちろんまだまだ勉強中ですけど」
「なんだかおなじ年齢だとは思えないわ。すごくしっかりされている」
「でしょ」渚が口を挟む。「ナミちゃん、なんでも知ってるの。この業界のことも、世間のことも。ちゃらちゃらしたそのへんの大学生なんかより、ずっとしっかりしてるんだから。社長に見こまれてるのよ。ちょっと派手目の服着てるかもしれないけど、中身はふつうのサラリーマンと変わりないわ。うぅん、それ以上よ。学歴なんて関係ないわ。あたし、尊敬してるんだから」
母親の口もとがわずかにひきつる。「おかあさん、そんなこと言ってるんじゃないわ。ただね、芸能界の人なんてお会いするのがはじめてだから。その……なんて言うか、とてもきらびやかで雲の上のような世界でしょう」
「ご心配はもっともかと思います」
母親は娘に向きなおる。「あの子、きょうも来てたわよ」
「うそ、やだ。もうやめてよ」
「おかあさんのほうから言っとこうか」
「いいって。あたしが言うから。外にいたの?」
「四時ごろかしら、一時間ぐらい立ってた。ナッちゃんが帰って来るのを待ってたんじゃないかしら」
「まいったな、もう」渚はおれに説明した。例の予備校生だった。「気に入らないのよ、あたしがレッスン受けてるのが」
「あの子の気持ちもわからないではないわ」
渚は母親をにらみつけた。そんな顔、見たことがなかった。「関係ないでしょ。そもそも、あの子、付き合ってるわけでもなんでもないんだよ。うるさいんだよ、人のことに」
おれは慎重に言葉を選んだ。「レッスンは大勢の人が受けています。自分の隠れた才能を見いだすまたとない機会かと思うんです。ふだん会えないような講師たちから直接指導を受けられますから」
「ただ、なんと言ってもまだ学生ですから」それが母親の偽らざる気持ちだった。「せっかく英文学科に入っていろいろな勉強ができる機会をいただいたのですから、それに邁進するのが第一かと思うのです。もちろん芸能界のお仕事も悪いとは申しませんけれど、わたしなどにはまったくわからないものでして」
手放しで子どもを芸能界に差しだす親がいるとしたら、それは子どもに稼がせようというよこしまな考えが親自身にあるからだ。誤った情報に基づき、勝手な妄想を息子や娘に押しつける。その犠牲になるのは本人たちだというのに。その意味ではこの母親は慎重だったし、娘にはちゃんと大学を卒業して勤めてほしいとねがっているのがありありとわかった。
「とにかく大学の勉強を中心に進んでくれるといいとは思うんですけど」
「それはもちろん。無理のない範囲でおねがいできればと考えております。社長もおなじ考えです」
一時間ほどで辞去し、車にもどったとき、見送りに出てきた渚が頬をぷっと膨らませる。「頭固いんだよね、うちのおかあさん」
「ふつうの反応だと思うよ。そりゃ心配するさ。けど、なんらかの形でデビューできたら、おかあさんだってすこしは理解してくれるんじゃないかな」なんらかの形、たとえばミュージカルの端役とか。
「それがいつかってことなのよ」
「ポプションの決勝は十一月。あと二か月後に必ず開かれる。それだけはまちがいないね」
渚はあたりを見回し、ジャガーの運転席のわきに立つおれに一歩近づいた。自宅のカーテンはしっかりと閉じられている。母親がこっちを見ている心配はなかった。
いや、待て。
おれは辺りの暗がりに目を凝らした。さっき話に出た男がまだうろついているかもしれない。もしいるなら、おれが注意してやる。というか説明してやったほうがいい。
だがさすがにこの時間だ。団地の前は人通りも途絶え、茂みに潜んでいる者も見あたらなかった。
「うそじゃないからね」渚がそっと腕をつかんできた。
「え?」
「尊敬してるって話。ナミちゃんのことよ」
「え……いやあ、よせよ」
「どうして? ほんとなのよ、ナミちゃん、すごいと思ってるもの。いろんなこと、シュウさんにまかされてるって。そばで見てればわかるもん」
「……ありがと……ぐらいしか言えないな。おれ、誰かにそんなふうに言われたことないからさ。照れちゃうよ」話しているうちに頬がかっと熱くなった。
「ねえ、ナミちゃん」
「なに?」
「もしデビューしたらさ、あたしのマネージャーさんになってね」
「え……」
「おねがいよ。だってナミちゃん、いつもいっしょにいてくれるから。安心できるのよ。おかあさんじゃないけど、あたしだって怖いのよ、ああいう世界」
青白い街灯を反射する瞳でじっと見つめられた。
「ああ……でもシュウさんがいるからなあ」
「いやなの、あたしはナミちゃんがいい。おかあさんも喜ぶと思うの」
鼻から大きく息を吸いこみ、気持ちを落ち着かせる。五月のあの日、原宿の雑踏を切り裂くように飛び跳ねていたカモシカが、いまにもキスできそうな距離にいた。
「わかった。おれがマネージャーになるよ。約束する」
それはおれがシュウさんに明かしていない話のなかで、二番目に大きな秘密だった。
二十一
「振り返ってみると、これまであくせく働いてきましたが、それって結局、カネを稼ぐこと自体が目的だったような気がします」
浪男は自嘲ぎみに口にする。
「それを使って日々の暮らしをつづけるのはもちろんですが、そこから先、いったい何をしたいのか。夢はなんなのか。妄想ばかりが先に立って、これはというものは、じつはなに一つ実現していないと思うんですよ。まったくもってつまらない人生、つまらない男ですよ」
「わたしだってそうです」男は大きくうなずく。「大方の人がそうなんだと思います。妄想が浮かび、それに絡めとられながら時間ばかりが過ぎていく。確たる夢がわからない以上、実現のしようもないですからね」
浪男は肩をすくめ、ふたたびメニューに目を落とす。結構食べたはずだが、まだ空腹だった。
ふと時計を見る。
午後一時半。
あと三十分か。
そうか。これこそが自分の追い求めるもの、夢だったのかもしれない。だからわくわくしていつもより腹が空くのだろう。「メインもいろいろあるんですね」
「やっぱり肉料理が評判のようです。こないだはリード・ヴォー、仔牛の胸腺のソテーがありました。ものすごく濃厚でミルキーでした」
「ミルキー……なんだかそそられますね」
「きょうはないみたいですね」男は黒板を見て言った。
「それは残念だな。でもせっかくだからがっつりいきたい感じです」
「食欲旺盛ですね。さすがだ。かく言うわたしもまだ腹六分もいってない。暴れ食いしたい気分ですよ」
「暴れ食いですか。お若いですね」
「そう言えば、最近は体を気遣ってか野菜中心、肉や穀類は控えめなんて暮らしがつづいていました。だからもしかしたらこれも夢の実現かもしれませんね」
浪男は大きくうなずく。「たしかに。きっとそうだ」
メニューを指さしながら男が教えてくれる。「シンプルに分厚い肉を塩と胡椒だけで網焼きしたものもうまいですよ。わたしはそいつにしようかな。ポークですけど」
「結構分厚いんですか」
「これくらいかな」男は親指と人差し指で厚さをしめす。「脂身が甘いんです。きょうもあるみたいですね。よろしいですか、おなじもので」
浪男はうれしくなり、男に注文を頼んだ。人間はやはり肉食だ。それがDNAに深く刻みこまれている。欧米人だろうがアジア人だろうが変わりない。生きものを絞め、血を抜き、感謝の念とともに肉を味わう。それが本能に基づいた食事、生きるというものだ。
愛らしい笑みを浮かべるウェイトレスが愉しげに注文をシェフに伝えてからしばらくすると、ほかの客に申し訳ないくらいの肉が焼ける香ばしい匂いが店中に漂ってきた。先に到着した四角いフォカッチャにひかれながらもじっと待っていると、彩りを兼ねた付け合わせの焼き野菜とともに、二人のメインディッシュを彼女が運んできた。さすがに二皿となると重量がありそうだったが、足どりはスキップするかのようだ。
最初のひと口で浪男は生きる悦びを全身に感じ取った。
即座にフォカッチャに手がのび、濃い肉汁が油分の多いパンと口のなかで絡み合いながらのみこまれていく。それらの余韻をワインでとろりと落ち着かせる。
「シンプルなのが一番だな」浪男はため息まじりにつぶやき、つぎなる肉をカットしにかかる。
二人ともまさに暴れ食いのように次から次へと肉とフォカッチャを交互に口に運び、たちまち四分の三ほどが胃のなかに消えた。
「余計なソースがかかっていないぶん、いくらでも食べられそうだ」
「ごたごたと手をくわえる必要なんてないんですよ」浪男も幸福感を味わっていた。「こういうのが一番体に合うな。タンパク質がみるみる吸収されて若返ったような感じがします」
「わたしもです。そういうフレッシュな気分になれるのが、うまいメシのいいところだと思いませんか」
「まったくです。夢のようだ」
「ちょっと見方を変えるだけで、意外と簡単に夢は実現する」男はおなじワインのおかわりを二人ぶん注文した。それとチェイサーの水も二つ。
「もうこの先、若いころみたいな壮大な夢なんて描けないかもしれないな。だったらこういう確実な欲求を満たしていくほうがいいのかもしれませんね」そう言いながら浪男は時計をもう一度たしかめた。
手続きはいろいろと面倒だった。
浪男はケイマン諸島のオフショア法人「JXJホールディングス」を経由することで、十年以上かけて美術品への投資をつづけ、六十億にまで膨れあがった資産の移転に成功していた。娘の里奈はべつのオフショア法人「シルバームーン・コーポレーション」により、それらすべてをまさに二束三文、手数料にもならぬ破格の安値で購入した。その権利が発効するのが現地時間七月二十七日の午前零時、日本時間で午後二時、つまりあと三十分ほどだった。エンタメ界のキングだったシュウさんの座を継承し、テレビ局や傘下の事務所、そして業界全体から吸いあげたアガリをコツコツと積みあげ、蓄財にはげんできた。その資産がもはや税務当局はじめ誰にも手だしできなくなる。自分の手にはほんのすこし残っていればいい。
それこそがいまの浪男にとっての夢の実現だった。
「心の奥底でずっとしたいと思いながら、行動に移せなかったこと。そういうのも“夢”だと思うんですよ」注ぎ足されたワインを男はじっと見つめる。「その実現こそが第二の人生かもしれませんよ」
「したくてもできなかったことか」浪男はあごに手をやり考える。心の奥底では里奈を幸せにすること以外ねがってこなかった。その最大の一歩にきょう踏みだす。ほかになにかあるだろうか。
「冷たい牛乳って飲めますか?」唐突に訊ねられた。
「冷たい牛乳ですか……いやあ、大人になってから、というか中学のころに学校で飲んだのが最後かもしれないですね。ほら、おなかがゴロゴロするじゃないですか」
「そうなんですよね。大人になるとみんな乳糖に対する耐性がなくなってそうなってしまう。それでね、ある男性の話なんですが、会社を辞めたらどうしてもやりたいことが三つあったそうです。そのうちの一つが朝起きて冷たい牛乳をがぶ飲みすること」
「おもしろいですね、そりゃ」
「やったことはありますか」
「ないですよ。そんなの怖くて。会社でたいへんなことになる」
「なるほど。ございませんか。その人は退職した翌日、四月の晴れて気持ちのいい朝、アパートでさっそく実行してみた。飲んだときのうまさはこたえられなかったそうです。でも一時間もしないうちにおっしゃる通り、たいへんなことになった。それでも夢を一つかなえられた」
「あとの二つというのは?」
「一つはニンニクですね」
「ニンニク?」
「これも在職中には困難な話ですよ。ラーメン屋さんに行くと、カウンターにおろしニンニクが置いてあるでしょ。あれをふんだん入れたやつを食べたかったそうです」
「たしかにそれもふだんは難しいでしょうね。自分はよくても周囲がたいへんだ」
「牛乳でおなかがたいへんなことになっている日の昼、行きつけの味噌ラーメン屋に行ったそうです。そこで小さじに山盛り五杯、たっぷりと入れた。そこまで入れるとほとんど辛味しか残らないと思うんですが『天にも昇らんほど』で全身にエネルギーが満ちるのが実感できたそうです。夢の実現その二、ミッション・コンプリートというわけです。さて、晴れて毒ガス男に変身した彼はその足で床屋に向かった」
「床屋ですか」
「三つめの夢ですよ。けど、店の前まで来てさすがに断念した。ほかに客がいたし、店主や洗髪と顔剃りを担当する細君も悪臭に耐えられないだろうと思ったそうです。それに自分でもできる髪形だったから」
「髪を切りたかったんですか。退職して」
「ええ、スキンヘッドにね。白髪が目立つようになっても染めずにほっといたら、二、三年前から抜けだした」
「だったらいっそのことってやつですか」さっぱりとした、でも風味豊かな肉をひと切れ、苦みのきいたルッコラといっしょに口に放りこむ。
「そうなんです。そのふんぎりが退職の翌日だったというわけです。退職といっても定年でなく、早期退職なんですけどね。独り者だったから、思い立ったらすぐに行動に移せたそうです」
「それで自宅で頭を刈ったんですか。だけど意外と難しいんじゃないかな。電動バリカンとかあったのかな」
「ハサミと電動シェーバーだけでうまくいったようです」
浪男はチェイサーを口にする。だんだんと腹が膨れてきた。焼き野菜にジャガイモが入っていないのがありがたい。そのあたりもシェフは気遣ってくれたのかもしれない。
「それでね、じつはもう一つだけ、退職したらやってみたいことが彼にはありましてね。おなかはぐるぐるするし、半径十メートルにいる人間を殺戮できるぐらいの悪臭を放っていたんですけど、挑戦してみることにした。たぶん天気もよかったからじゃないかな。アパートの前の一方通行の道では、平日の午後はたいてい白バイ警官が取り締まりを行うんです。その日も取り締まりが行われていた。男は真剣な顔で警官に近づいて話しかけ、アパートの自分の部屋に連れていった。あとで聴取を受けた警官は『泥棒に入られた』と男に言われたそうです」
「警察官をからかってみたかったのですかね」
「本人はいたって真剣だったのだと思います。しばらくして警官は取り締まりにもどり、きょうはあまり成果がないと判断すると、のろのろと白バイを発進させてその場をあとにした。向かった先は、男のアパートから八キロほど離れた街でした。そこにある古びたオフィスビルの正面で白バイはいったん停車し、真っ黒いサングラス越しに抜けるような青空を見あげると、一度だけエンジンを空ぶかししてから一気にエントランスに突っこんでいった。すべて防犯カメラにとらえられています」
「まさかそのビルって」
「前日、男がサラリーマン人生を終えた会社が入るビルです。管理人のほか、あっけに取られる人々を無視して白バイはそのままエレベーターに吸いこまれ、目指すフロアまで一気に上がった。白バイ警官の制服をまとった男は、恐ろしいほどのニンニク臭を撒き散らしながら、あとは二本の脚でリノリウム張りの廊下を闊歩した。テナントの従業員たちが何事かと顔を出しましたが、男は腰から引き抜いた拳銃を発砲し、それぞれの扉の向こうに押しもどしていった。そして自分が所属した会社のドアの錠前を銃弾で破壊し、部屋の奥にいた社長とついに面会を果たした。すでに弾は尽きていましたが、もはや取り押さえる度胸のある者はその会社はおろか、フロアにも誰一人としていなかった」
「ほんとの話なんですか」
「国内でじっさいに起きた事件です」
「信じられないな。復讐かなにかとか」
「会社関係者が相当数、聴取を受けましたが、これといったものはわからなかったそうです」
「社長はどうなったんです」
「警棒でめった打ちにされ、脳挫傷で二十四時間後に亡くなりました。いったいなにが男をそんな行為に駆りたてたのか。誰にもわかりません。男はニンニク臭が猛り狂う社長室で、自分の首筋を持参した小型のサバイバルナイフで切り裂いた。ちなみに精神科への通院歴が二十年以上ありました」
「どう考えても会社に恨みがあったとしか思えませんね」たまらず浪男はワインをふた口、水のようにあおった。「破滅的としか言いようがないな。死にたいなら自分一人で死んでくれればいいものを」
「まったくです。けれど、たまりにたまった激しい衝動を一気に爆裂させた。こんな言い方は異常かもしれませんが、その瞬間は無上の快感を覚えていたのではないでしょうか。手に入れたかった夢を力づくで実現させたわけですから」
「そんな無茶な」たまらず浪男は吐き捨てるように言う。「話になりませんよ。わたしだってね、衝動の赴くままに突っ走れたらどんなに快感か憧れないこともないですよ。けど、最後ににっちもさっちもいかなくなって、自殺を図るしかないなんて、そもそも選択肢としてありえない」




