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Café Airport  作者: 根本起男&黒岩研


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十四~十七

 十四

 1982年12月

 木枯らしの吹きすさぶ真夜中、なおも輝くネオンと喧騒から路地一つ奥に入っただけなのにやけに静まり返った、都会にぽっかりと口を開けた暗黒世界への入口みたいな場所だった。当時勤めていた店の裏口がそこに面していて、生ゴミのポリバケツを翌朝の回収時刻まで並べておくには好都合だ。閉店後の片づけを終えて、戸締り前にそこで一服つけていたときのことだった。ポリバケツの間から黒い影がのそりと浮かびあがったかと思うと、火のついたハイライトを指に挟んだままあんぐりと口を開けるおれのほうへ近寄ってきた。

「坊や……いいか、ちょっと頼まれてくれるか」

 しゃがれ声を聞き取るより先におれは、元は純白だったはずの男のシャツの胸も背中も真っ赤に濡れていることに気付いた。この界隈はヤクザ連中のホームグラウンドだ。日中でも、どう考えてもふつうじゃない目つきの男たちが墓穴から這い出たゾンビのように闊歩しているし、拳銃をちらつかせているのを見たことも何度かある。そこにはある種のグラデーションがあり、もしかすると自分もその一番端に足を乗せているんじゃないかと思うときもあった。だからこの男を見舞った状況を見れば、かなり色合いの濃い連中の餌食になったと容易に想像がついた。

 呆然とするおれに向かって、男はこんどははっきりと言い聞かせるように告げた。

「坊や……まず一つ、このことは誰にも言うな」

 同時に足下に一万円札が二枚、はらりと落ちた。ハイライトをくわえなおしてからそいつを急いで拾い、倒れそうになった男の体をささえた。その瞬間、ぬるりとする感触が手のひらに広がる。もうこっちも血まみれだが、体が勝手に動いて男の体を両手でしっかりと抱きかかえる。

 店の裏口の弱々しい防犯灯が男の顔を照らしだす。腫れあがった口の端から血が滴り、目の周りが十二ラウンド目のボクサーさながらに膨張してそこからも出血していた。

「だいじょうぶですか」

「痛ぇよ、体中が破裂しちまったみたいだ」

 とっさにおれは路地を見回す。男の体をこんなふうに変えたやつらがまだ居残っているかもしれなかった。

「この店に勤めてるのか」

「はい、ちょうど閉めようかと思っていたところです」

「ちょっとだけなかで休めるか。ちょっとでいい」

 ここまで手のこんだ演出をしてなかに入って来る強盗もいないだろう。だいいち今夜の売上金は店長が持って帰ったからカネなんて残っちゃいない。男に肩を貸してなかに入るのを手伝って楽屋のシャワー室に連れて行く。

 服を脱ぐのを手伝い、へたりこんだ背中に熱い湯を流してやる。男はうめき声をあげながら傷口を手でこすり、ユニットバスの床がたちまち真っ赤になっていく。あとでちゃんときれいにしとかないと。

「生き返るぜ」干してあったバスタオルで体を拭きながら男は楽屋を見回す。「キャバレーか」

「そうです。でももう誰もいないですから」

「いい匂いがするな」タオルを腰に巻きつけて楽屋に出て来ると、がまんできなくなったのか男はその場にしゃがみこむ。下は畳敷きだった。あわててべつのバスタオルをつかんで足もとに広げた。筋肉質の体が自然とそこに倒れこみ、大の字になる。「ちくしょうめ……絶対に許さねえからな」男は苦々しくつぶやいた。

「このあたりのやつらにやられたんですか」救急箱を抱えたまま、ストレートに訊ねた。

「まあ、いろいろとな」

「消毒ぐらいしかできませんけど」

 マキロンとバンドエイドで応急処置をした。その程度なら自分にだってできた。

「頭を守るのでせいいっぱいだった。こっちはたぶん何本か折れてるだろうな」男は左右のあばら骨を指さし、自分で救急箱を探ってバファリンを見つけ、残っていた四錠をぜんぶ口に含んだ。

「これ、やってください」おれはグラスに注いだVSOPを差しだした。

「悪いな」

「売るほどありますから」

「おもしろいこと言うな、坊主」男は痛みに顔をしかめるようにウインクし、苦しそうに体を起こしてグラスをあおった。「きくな、こいつ。いい消毒になる。しみるぜ、まったく、ちくしょう」

 もう一杯、こんどはもっとたくさん注いでやった。男はそれを水のように飲み干し、脱いだズボンから財布を取りだした。

「ただ酒ほど恐ろしいものはないからな」

「だいじょうぶです、これくらい。サービスです。それに誰も気付きやしませんから」

 それが土橋修司、シュウさんとの出会いだ。

 おれは十七歳だった。アイドルを中心とした歌謡界にポップバンドやテクノが新たなカネを生みだしはじめた時期だった。アーティストなんていう言葉がもてはやされだしたのもこのころだ。そのなかでシュウさんが目をつけたバンドが六人組のバランズだった。欧米系のロックミュージックに独特の歌い回しのボーカルが絡んで若者の心をわしづかみにしていた。シュウさんは四年ほど前、レコード会社のプロデューサーからバランズを紹介され、はじめて曲を聴いたときは首をかしげたそうだが、それまでの経験からすると、そういうものこそが新しい時代を切り拓いてきたという。すぐにブリッジに所属させ、マネジメントという名の包括的指揮のもとに置いた。彼らにしてみればカネの心配をすることなく、逆に頑張れば頑張ったぶんだけ収入となるシステムだったから断るわけがなかった。たとえ全収益のなかでの配分がごくわずかだったとしても。

 全収益――。

 神のみぞ知るだ。

 しかしじっさいのライブ、つまり興行となると、昔ながらの連中がまだそっと忍び寄ってくる時代だった。シュウさんはバランズ人気が高まるにつけ、アリーナクラスでの公演に限定するようになり、それまでの中堅ライブハウスにとっては高嶺の花となってしまった。そのなかの一つに高円寺のBOMBがあった。名前こそ横文字だが歌舞伎町を拠点とする組織の資金源の一つだった。シュウさんだってそれくらいのことはわかっている。これまでもつかず離れずで関係をつづけてきた。だがそれが時代に合わない束縛であるのは自明だった。いつか仕組みを変えないことには、この国のエンタメ界は本当に国民からそっぽを向かれてしまう。腹の底にずっとその思いがあったから、あえてそのタイミングで英断をくだしたのだ。

 もちろんしかるべき相手には筋を通した。彼らはそれまで通りか、それ以上の見返りがあればなにも文句はない。シュウさんはそれが新しい形で合法的に流れるように段取りも整えた。だがそこからこぼれる連中だっている。それは先方の問題なのだが、現実と折り合いをつけるのが難しいこともある。

 BOMBの経営権と土地建物の所有権を握る地元組織の幹部にとってはすこぶるおもしろくない話だったし、上に睨まれる恐れがあった。それで若いのを仕向けて歌舞伎町にいたシュウさんを襲撃させたのだ。

 シュウさんはおれのことをしげしげと見た。「汚れちまったな」

「だいじょうっす、これくらい。洗えば落ちますから。それに上着羽織ったらわからないし。今夜はここでこのまま寝て、朝になったらべつのバイトに行くんです」

「ほんとか。すげえな。なんのバイトだい」

「目黒の清掃工場です。割がいいんですよ」

「それでまたこっちにもどって来るのか」

「はい」

「体力あるんだな」

「それだけが取り柄っす。バカですから、おれ。明るいバカ」

「そうか」シュウさんは畳にあぐらをかいた。「坊や……歌は好きか」

「歌ですか……」いきなり訊ねられ、まだこの男が何者か知らないから戸惑った。それでも休みの日はテレビにかじりついていた。「ドラマの主題歌とかですかね。たとえば――」いくつか適当に思いつくものを口にしてみた。ちゃんと歌えるものは一つもない。サビしか知らなかった。そうか、じゃあ歌ってみろって言われたらおしまいだったが、シュウさんはうんうんとうなずくのみだった。きっと体の痛みをほんのすこしでも忘れたい。ただそれだけだったのだろう。

「でも一番好きなのは、小暮健太郎の『西海挽歌』ですね」二年ほど前に出た演歌だ。ある男が苦労してカネを稼いだものの、妻子を失い、呆然自失のなかで世間の冷たい荒波にもまれ、堕ちるところへと堕ちていく。それでも希望を失うまいという決意の歌だった。中年世代以上を狙った作品だったが、両親が突然亡くなり、途方に暮れながら働きだした当時の虚ろな心境には突き刺さるものがあった。「とってもいい歌だと思うんですよ。ちょっとジジ臭いかな」

「そんなことないさ。その歌はおれも大好きだ」

 当然だ。そのときは知る由もなかったが、シュウさんが自ら見いだし、いっしょに日本中を営業で回って育てたのが小暮健太郎で、十年ほどかかってようやくヒットしたのが「西海挽歌」だったのだ。

「もう一つ頼みを聞いてくれるか」そう言ってシュウさんはまた一万円札を取りだし、楽屋の端に目をやった。「そこの電話を貸してくれ」

 聞いてはならない話だと思い、「片付けがまだありますから」とおれはホールのほうへ消えた。だがそんなに広い店じゃないし、人気がないと声がやけに響く。それにシュウさんも気に留めていないようだった。痛みをこらえながらぼそぼそと誰かに相談する低い声が聞こえてきた。もし相手が警察ならある意味、ほっとできたかもしれない。暴行されたのなら通報し、犯人を捕まえてもらう。それがふつうだろう。しかしこの界隈の話だ。シュウさんは自分を見舞った状況について、かいつまんで説明したのち「もうそろそろいいころかと思うんですよ」と告げた。今夜の出来事について、なんらかの強硬措置をもとめている雰囲気だった。

 それからもう一本、べつのところへ電話を入れた。おなじように状況を伝えてから「出ないわけにいかないからな」と言って切った。先方はひどく心配しているようすだったが、シュウさんは「だいじょうぶだから」と何度も繰り返した。

 一時間ほど休んだ後、シュウさんは楽屋のクロークにかかっていたよれよれのウィンドブレーカーを羽織り、タクシーを拾って消えた。約束通り、おれはこの話は誰にもしなかった。へたにしゃべると身の危険を覚えたのだが、それ以上に奇妙な縁のようなものを感じていた。

 あとで聞いた話だが、翌日は音楽業界の重鎮たちがそろう会合だった。その主催者であるシュウさんは、全身の痛みと腫れをおして出席し、顔にはどうらんを塗って傷と腫れを隠した。そのうえで「ちょっと飲みすぎて階段ですっ転んじまった」と説明した。レコードの売り上げからテレビ出演まで事細かに利益配分を決め、権利をやり取りすることにより億単位のカネが動く重要な会議だった。大けがをものともせずにそこに出席し、議事を取り仕切る姿をライバルたちに見せつけることには、大きな意味があった。ある意味、己の体を張っての恫喝、この程度は屁でもない、おれをなめるんじゃないぞ、というシュウさん流の睨みだった。

 当然、バランズの興行が話題となった。「アーティストの意向だからしかたないさ。演奏しやすい環境を作るのがうちらの仕事だから」そう言ってシュウさんはライブ会場を限定する方針に変わりないことを確認した。

「そうか。シュウさんが言うならしかたないね」言葉とは裏腹に苦々しさが顔に表れた男がいた。かつてのバンド仲間の海藤二朗だ。ブリッジの系列事務所で社長をしていた。「時代は変わるからね」

「ああ、そうだな」シュウさんは御しがたい感情を必死に抑えつつ言った。「変わっちゃいけないものもあるけどな」

 会議のあと、シュウさんは策を練った。仲間にはなめるんじゃないぞ、とすごんでみせたが、現実的な落とし前をつけさせる相手はべつにいた。BOMBの売上を吸いあげる地元組織の幹部、条辺幸広だ。ヤクザの知り合いならシュウさんだっていくらもいた。だがそんな連中は結果的に百害あって一利なしだ。あの晩、店の楽屋から最初に電話を入れたのは、やっぱり捜査関係者だった。でもたんなる通報なんかではなかった。こういう場合に備えて念入りにかけていた保険の発動要請だった。

 東京地検だって下準備はしていたという。三か月後、与党の幹部がパーティーで集めた政治資金の一部を裏金化して右翼団体に還流していたとして摘発された。事件自体は秘書が書類送検されただけで終わったが以後、与党幹部からその団体には一銭も入らなくなった。事実上、無一文になった団体は当然ながら協力者たちにカネを回すことができない。そのなかの一人に条辺がいたのだ。バランズ興行の件ですでに歌舞伎町の組織から問題視されていた条辺にとっては、最後の頼みの綱だった。それが途絶え、配下の若い連中にも見放された条辺は文字通り路頭に迷った。

 まさかシュウさんが仕掛けた復讐だとは思いもしない条辺には、恥も外聞もなかった。鉄面皮をさげてブリッジの事務所を訪れ、土下座をしてバランズの興行を頼みこんだ。もうそのころにはおれはシュウさんのもとで下働きをはじめていたので、すぐそばで一部始終を目にしていた。

 条辺のねがいはかなえられた。だがいくつか条件があった。一週間、バランズの特別ライブを行うかわりに、BOMBの土地建物、経営権の一切をブリッジの系列会社に二束三文で譲渡させたのだ。ホール支配人との肩書きは条辺に残してやり、食いつなぐすべだけはあたえてやった。

 不動産バブルが始まりつつある時期だ。半年もしないうちに、BOMBに関する一切の権利は、周辺の再開発を手がける狡猾なデベロッパーに売却され、巨額の対価がブリッジにもたらされた。その時点でホール支配人は解雇された。条辺はふたたび路頭に迷ったが、よほどBOMBが気に入ったとみえて、その跡地をふくむ再開発地域で始まった大型マンション建設の作業員として働きはじめた。

 やがて条辺は姿を消した。風のうわさで聞こえてきた。家族もいなかったから失踪人届も出しようがなかったらしい。新しいマンションの現場では、人間の一人や二人、へいきで飲みこみそうな大量のコンクリートを流しこんだ基礎工事が終わり、上物がにょきにょきと伸びだしていた。木枯らしの吹きすさぶあの夜からちょうど一年がたとうという時期だった。


 十五

「失われた三十年だか、四十年だかって言われますけど、その時々ではみんな、懸命に働いていたんだと思いますよ」最後に残ったカンパチのひと切れを口にふくみ、浪男はじっくりと味わった。「わたしもやつも、とにかく死に物狂いだった。夢なんて見ているひまはない。毎日毎日、稼ぐことに精いっぱいでした。それに先代がやり手だったから救われた部分も大きい。だって十代ですよ。右も左もわからないどころか、真っ暗な森のなかを明かりひとつつけずに自転車で猛スピードで突き進んでいるようなもんですからね」

「そりゃ、たしかに危険ですね。いつ目の前に崖が現れるかわかったものじゃない。谷底まで真っ逆さまだ」

「でしょ」浪男はすっきりとした白ワインを空けて名残惜しそうにグラスを見つめ、ため息をつく。「だからちゃんとした現場監督がいないとね。バブルのころだから、そりゃ、仕事には事欠かなかったですよ。人材派遣なんてとくにそうでした。けど、一歩まちがえれば本当に奈落の底に一直線。そんなような感じでした。たとえば、そうだな……工事現場だって、ほんのちょっと足が滑っただけでとんでもない事故につながる。高層階から転落とかそんなんじゃなくても、足を滑らせて目の前のコンクリートの沼にはまって、誰にも気付かれぬまま沈んでしまうこともあったと聞きます。わたしもやつもそういう危険といつも隣り合わせだった」

「恐ろしいですね」

 たしかに恐ろしい。でもそれが条辺の末路に関する浪男の見立てだった。しかも条辺は足を滑らせたわけではないだろう。背後に忍び寄り、ちょいと背中を押すだけの手合いなら、シュウさんにもつてがあった。

「だから手探りでしたよ、十代のころは。失敗して怒られたり、叩かれたりなんていうのを繰り返しながら、すこしずつね」

 男は皿に残ったブラックオリーブを口に放りこむ。「普通に学校に通って、普通に勤めて。自分では苦労したようでいても、あれこれとお話をうかがうと、いかに自分が恵まれていたか痛感しますね。わたしなんて、なにかと言うと他人のことを妬むばかりでして。ほんのささいな話であっても、自分が到達できない世界の出来事を聞かされると、悔しくなって、ついやけを起こしてしまう。でもダメなんですよね、そんなんじゃ。歯を食いしばらないと」

「すみません。えらそうなことばかり言ってしまって。だけどそちらもご就職されたあと、いったん辞められて三年も放浪の旅に出たんでしょう。やっぱりわたしなんかにはうかがい知れないたいへんなご苦労、ご心労があったんじゃないですか」くわしく訊ねるつもりなんて毛頭なかったが、話の流れでつい口走ってしまった。

 すると男は顔色一つ変えずに話してくれた。まるでいつも誰かに話しているかのように。明るい調子で。

「若いころによくある話です。なんて言うかな、人間関係のひどいトラブルがありまして、生意気なことを言えば、この先の人生に迷いが生じたってやつですかね。だけど、しばらくして吹っ切れました。いたずらに時間ばかりがすぎていくんじゃ、こっちのほうがやられてしまう。それよりも自分自身をもっと強くしないといけない。そう思って勤めてみることにしたんです。結構、きつい仕事でしたから思い悩んでいるひまなんてなかった。毎日毎日、くたくたになるまで働いて、あっという間に十年がすぎましたよ。でもね、それでもやっぱり心のどこかに引っかかっていた。それでもっと自分を追いこもうと旅に出ることにしたんです。旅といってもあちこちで仕事をしながらですけどね」

「アルバイトしながらの放浪の旅だったんですか」

「そんなようなものです。肉体労働だったから余計なことを考えるひまはなかった。かなり過酷なこともやりましたけど、なんて言うかな、若かったんですよ。そのなかでいろんなものを目にすることができました。人間の醜さと愛情、命の尊さとはかなさ、本当の意味での思慮深さと愚かさ……そう、たとえばコロンビアの農園で灼熱の太陽と猛烈な湿気のなかで一日十五時間以上、何か月も畑仕事をしたときのことなんですが」そう言って男はグラスワインのメニューを書きこんだ黒板を見あげた。「こんな話、すこし濃いめのやつがないと話せないな」

 すばやく近づいてきたウェイトレスに向かって注文する。プーリアのネグロアマーロだった。「好みなんですよ、南イタリアの赤って」

 ここでちがうものを注文するほど浪男は付き合いが悪くない。こちらを向いた彼女に小さくうなずいてやった。

「アヒージョなんていかがですか」ツボを心得たかのように彼女がすすめてくる。「フレッシュなポルチーニとズッキーニが入ったばかりなんです」

 二人そろってそれも注文した。それから男は農園で働いたときの出来事を一つひとつ思いだすように声を潜めて語りだした。

 見た目は人里離れた熱帯雨林のなかの広大なプランテーションだという。たしかにトウモロコシや野菜を作っていたが、じっさいに最も作付面積が広いのはコカだった。そこで働く者たちの誰もがそれが違法薬物の原料であることはもちろん、大統領にも手だしできないマフィアに吸いあげられる絶対的な資金源であることも知っていた。だが周囲の村々は失業による貧困にあえいでいたし、農園にはマフィアが経営する病院もあった。背に腹は代えられず、そのうち余計なことは考えないよう笑顔を見せながら彼らは毎日、農園に通い、朝から晩まできつい仕事に従事した。

「国家が機能しないとどういうことになるか、まざまざと見せつけられました。暴力と理不尽な仕打ちがまかり通るのですが、誰にもとめられやしない。見て見ぬふりをすることにもそのうち慣れてしまった」

 NHKの「世界のドキュメンタリー」で紹介されるような話だった。それがこの男には実体験としてあるらしい。浪男は訊ねた。「本当にそういう世界があるんですか」

 返事はせずに男はただ小さくうなずき、ちょうど目の前に運ばれてきた赤ワインに口をつけ、満足げに左右の口角をあげた。まるで皮肉そのものの世界に乾杯しているかのようだった。

「警察官の仕事を解雇されて飲んだくれになった父親に愛想を尽かし、家出した十五歳の少年がいたんです。一家はほかに母親と四人の幼い兄弟がいた。母親は村の口利き役に頼んで農園で働くようになりました。一年ほどしたある日、母親は賃金のことで現場監督ともめて騒ぎになった。そこに農園が雇っている用心棒たち、つまりマフィアの連中がやって来て、辞めてもらってかまわないが、もう二度と雇わないぞと脅したんです。それでも母親はあきらめず、逆におまえたちがピンはねしているぶんを寄こさないと争議を起こすとすごんだのです。もちろん彼女と手を組もうなんて仲間は一人もいないはずですが、現場監督は激怒して用心棒たちに向かって『なめられてるのか、腰抜けどもめ』と叱責し、後ろのほうにいた一人を指さして『おまえがやれ』と命じました」

 命じられた若者はその場で彼女を射殺した。

「わたしは目の前でその光景をぜんぶ見ていました。息子が自分の母親のこめかみに銃口を押しつけ、引き金を絞るところを。息子は家出したあと、カネの魔力に憑りつかれて組織の下っ端として雇われていたんです」

「なんてことだ……」思わず声に力が入り、店内の客やカウンターの向こうにいたシェフまでもがこちらを見た。浪男は大きく息を吸い、口に手をあててもう一度口にした。「なんていう不条理なんだ。それを目の前で」

 男は浪男のほうに顔を近づけ、さらに声を潜めて言う。「いまでもはっきりと覚えています。かれこれ四半世紀以上前の話じゃないでしょうか。あんな衝撃的な体験、ほかにないですね」

「息子はわかっていたんですよね」

「もちろん。殺す相手が自分の母親であると認識していましたし、母親のほうも銃を向けてきたのが家出した長男だとわかっていた。でも長男は撃てないとは言えなかった。それで逡巡していたらまちがいなく自分が殺されてしまう」

「そんな世界が本当にあるなんて……」

「あとで聞いた話ですが、父親が警察官をクビになったのは、そのマフィア関連の捜査担当者だったからなんです。どうやら深入りしすぎたらしく、マフィアの息がかかった署長の勝手な忖度で解雇されてしまった。勤務態度が悪いとかなんとか、理由はいくらでもつけられますから」

「ひどい……ひどすぎる」

「頭を撃ち抜いたとき、母親の血とか肉とかいっさいが、息子の体に飛び散った。それでも息子はその場にじっと立ちつくし、まるで自分の成果をアピールするかのように現場監督のほうに胸を張っていました。さすがにわたしもメンタルをやられましたよ。だけどこれを乗り越えられたら、不条理だらけのこの世界をなんとか生きていけるんじゃないか。そのうちそんなふうにも思えるようになりましてね。だってそうでしょう」

 もうひと口、香りだけで酔いそうな深い味わいのワインをすする。

「わたしが抱えていたものなんて、それにくらべたらあまりにちっぽけでしょう。なんか吹っ切れたんです。世のなかには底知れぬ非道がある。自分はまだそんなのには巻きこまれちゃいないぞ、まだまだだいじょうぶだって。すくなくともそのときはそう思えたんです。放浪の旅って、そういう真実に気付くのが大きな目的なんでしょうね。人間、誰しも自分がこの世で一番不幸だって思いがちだ。でも遠くから俯瞰して眺めてみたら、いろんなもののなかに紛れてしまって、もうなにがなんだかわからないぐらい霞んだ存在なんだってわかってくる。それに気付くと、それまでずっと避けていた厳しい現実も受け容れられるようになると思うんです。いかがですか、ご自身を俯瞰してみたことはございますか」

 男はじっと浪男の目を見つめてきた。まるで浪男がひた隠しにするなにかを探ろうとするかのように。

 ぐつぐつと煮立ったアヒージョは、ポルチーニが馥郁たる香りを放っている。浪男はつけあわせのバゲットをそっとオイルにくぐらせ、男の視線から逃れるようにがつっと食らいついた。

 ガーリックのパンチがきいていたが、口の奥にいつまでも苦みが残った。南米の農園で起きた惨劇ほどではないが、どこかそれと似た運命の皮肉を思い起こしたからだ。それは決していまの自分と無縁ではない。細い糸でつながっている。そんな気がしてならなかった。


 十六

 1984年7月

「きょう、あの子も来るかと思ったんだ」

 FM局の洋楽番組が流れるジャガーのバックシートで渚がつぶやいた。台風の接近で風雨の強い真夏の夜だった。今夜はボイストレーニングのあと、渚はいつものようにシュウさんの買い物に付き合わされ、スイス製のブーツを買ってもらってから赤坂にできた新しいディスコに連れて行かれた。VIPルームでの接待で、シュウさんはその後、二次会に繰りだしたため、おれが渚を鎌倉の自宅まで送ることになったのだ。

「あの子って」フロントグラスを洗う雨と高速ワイパーで格闘しながらぼそっと訊ねた。

「ひとみちゃん」

「ああ、そうか。いっしょだったか」

「レッスンはいっしょじゃないわ。隣のスタジオ。先生もちがうし。けど、自販機の前でいっしょになった」

 おない年ということもあり、渚はおれとはいつの間にかタメ口になっていた。二人で話していると、中学の同級生どうしのような気もしたが、自分の学校にこんな輝くような美人はいなかった。だがシュウさんのそばに二年もいれば、自然と慣れてくる。だいじな売り物。商品。それ以外の何者とも感じなかった。

「なんか話したの?」

「うぅん、ちょっとだけ。どこから通ってるのとか、どういう歌を練習してるのとか。でもこっちが聞くばっかりで、あんまりしゃべってくれなかった。結構、シャイなんだと思う。年下なんだよね」

「そうだよ」

 梶原ひとみは高校二年。渚同様、デビューに向けてボイストレーニングの真っ最中だ。アップにまとめた艶やかな黒髪がエキゾチックな顔だちを際立たせている。街ですれちがったら誰もが振り返る。その点は渚と変わらなかった。

「シュウさんがスカウトしたの?」

 FMのチャンネルを切り替える。デュラン・デュランの新曲が流れていた。ラッキーだ。ひそかにレコードを買っていた。休みの日はアパートにこもってヘッドホンでずっと聴いている。先行きの見えないいまの暮らしから、ほんのちょっとだけ解放してくれた。

「いや、海藤さんだ。だから所属もK—TEAM。まあ、うちの系列だけど」

「だったら来ればいいのに」

「用事があったんだろ。それに一応、事務所ちがうからさ」

「デビューとかはシュウさんが決めるのかな」

「決めるのは海藤さんだろ。そっちの所属なんだし。でもシュウさんも意見ぐらい言うと思うけど」

「いつごろスカウトされたんだろう」

「この春、渚ちゃんとおなじころだよ。その意味じゃ、同期生だよな」

「同期って、デビューシングル出した年がおなじってことでしょ。レッスンなんて誰だって受けられるし」

「歌は聴いたかい? あの子の」

「聴かないわよ、スタジオ入ってじゃまするわけにいかないじゃない。だけど高校生にしては落ち着いているっていうか、大人びてる感じがする」

「まだまだレッスン中だから」梶原ひとみにはたしかに光るものがある。声質うんぬんというより、周囲の多くが息をのむような空気をまとっている。シュウさんや海藤に言われたわけでなく、おれ自身が感じ取っていた。その一端に渚も触れたのだろう。焦りを覚えているようだったから、先回りして言ってやった。「なんのスケジュールも立っていないと思うよ。渚ちゃんのことはシュウさんがちゃんとやるから、心配ないよ」

「そうよね」ほっとしたように口にすると渚はバックシートの背もたれに深々と沈んだ。「でもときどき考えちゃうの、いつごろテレビとかに出られるのかなって。こういうのって何か月も時間がかかるものなのかしら」

「人によると思うよ。けど、まだ三か月かそこらだし、あわてることないさ」

「でもね、ナミちゃん、こないだ、インサイドの収録を見学したとき、あたし、絶対ここに出なくちゃいけないって思ったの。だって、みんな、すっごく親しくしてくれて、ほんとにいっしょに仕事をするのを楽しみにしてるって感じだった。そりゃ、頑張らなきゃいけないでしょう」渚は興奮ぎみに言うと、デュラン・デュランの曲のサビをラジオに合わせて繰り返した。

 バックミラー越しにそれを見ながら、彼女の夢がかなう日が来ることを祈った。あの日、司会の反町鶴夫をはじめ、インサイド・ミュージックの収録参加者たちが入れ替わり立ち替わり渚とシュウさんのところへやって来たのは、業界を牛耳る男への本能的な畏怖と媚びでしかなかったが、それをまだ十九歳の小娘が真に受けたとしても罪はないだろう。ただ、おなじく十九歳の小僧っ子でしかない男にはそれが歯がゆく、すこしばかり不安であった。

「ところでさ」ふいに渚が話を変えてきた。「あれって警察の人たちだったの?」

 今夜の接待相手のことだった。

 シュウさんと同年代のダークスーツの男たちが三人、はじめは緊張した面持ちでそれぞれ渚たち女の子の隣に座った。ディスコははじめてのようで、ぎこちなく踊ったあと、すぐにパーティーとなった。仕事の話はほとんどせず、上着を脱いだ男たちはしだいに鼻の下をのばし、女の子たちを相手に学生時代の自慢話でご機嫌となったそうだ。

「そうみたいだね。おれもよくわかんないけど」

「すごいんだね、シュウさん。なんかみんな、ペコペコしてる感じだった」

「そうかな」

 渚の言うとおりだった。去年のいまごろも警察官僚相手の接待をした。赤坂の老舗イタリアンだった。今回の三人のうち、二人がそのときもやって来た。だからシュウさんは趣向を変えたのだ。

「今年度おねがいしたいのは十六人ですって。なんだろうね」

「よくわかんないな」

 知らないふりをした。じっさいおれはずっとVIPルームの裏で待機していたから、どんな話が出たか知りようがない。でも接待の理由はわかっている。むしろ向こうがシュウさんをもてなさないといけないんじゃないかな。素朴な経済観念からは首をかしげるような話だったが、そこはあうんの呼吸というやつなのだろう。

 警視庁を定年退職する幹部たちの天下り先のあっせんだった。シュウさんはそれを一手に引き受け、ブリッジランドの系列だけでなく、同業者にも役員や顧問として散らせていた。そうやって恩を売ることが、いつか役に立つ。それもまた最終的には経済の話だった。

 シュウさんが相手にするのは警察だけでない。ほかの官庁の役人から民間企業まで幅広い。なかには検察の幹部もいる。みんな、ろうそくの火に群がる虫のようにシュウさんのところへやって来る。それをシュウさんはうまいことさばく。つまりカネの分配だった。官僚も企業のお偉いさんも定年後に安定した高額収入を手に入れたい。シュウさんはこの業界が稼ぎだすカネを見事に吸いあげ、息のかかった事務所やライバルたちに都合よく分配する。それらのごく一部が新たに役員として名を連ねることになる定年者たちの懐に還流されるのだ。

 まったくもって合法的な話なのだが、ひどいことを言えば、これはヤクザのみかじめ料と変わらない。成長産業へのたかり行為以外のなにものでもなかった。おれにだってわかる醜悪な話だった。だが土橋修司はそれを保険として逆手に取っていた。口ではいつも「尻尾だけはつかまれないようにしろ」とおれに言って聞かせていたが、じっさいには真逆だ。今夜のような話にかぎらず、シュウさんはなんでも記録を取っていた。たとえば接待相手が宴席でいっしょになった女の子と興がのってそのまま一線を越えてしまったようなときだって、発端から後始末までじつに詳細に記録を残し、きちんと整理したうえで、いつの日か役に立つときまで事務所の上階に入る自室の金庫にそっと隠しておいた。それこそがおれがこの男から学んだ最大の知恵かもしれない。だがそんなことは彼女に話せるわけがない。

「うちの事務所、警察のイベントとかにタレント出してるから。ふつうの取引先だと思うよ。だけどそんな話、ほかでしないでよ。おれが困るから」

「わかってるって。けど、すごいなあ、シュウさん」

 サイドウィンドーの向こうを猛然と流れ去る夜景に目をやりながら、渚は繰り返した。なんだか心のなかを読まれているようで落ち着かぬ気分になった。話を変えようとこっちから聞いてみた。

「短大って女の子だけなんだよね」

「そうよ、あたりまえじゃない」くすくす笑いながら渚が運転席のヘッドレストをぽんと叩いた。「けど、先生たちは男ばっかりだけど」

「いいな、なんかそういうの。女の子たちに囲まれて」

「バカね。みんな、結構まじめに勉強してるのよ。でもこんど紹介しようか」

「え、いいよ、そんなヒマないから」

「ねえ、ナミちゃん、彼女とかいるの?」

 首筋がぞっとした。吐息がかかったような気がしたのだ。

「いるわけないじゃん」

「そうなんだ。わりとカッコよさそうだけどね」すでに渚はバックシートにもたれて腕組みしている。まるで同い年の運転手を値踏みしているかのようだった。

「忙しくてデートもできないよ。シュウさん、人使い荒いし」

 それは本当だった。朝は七時には出社して車でスタンバイしてないといけない。事務所の上の自宅から、シュウさんはふらりと寝間着みたいな格好で降りてくる。それからサウナに行き、ホテルで朝飯を食う。もちろんお客さんといっしょにだ。ゴルフで早いときは五時だ。夜も毎日遅いから、いくら十代とはいっても疲れが抜けない。土日もどちらか一日は出勤しないといけないから、週に一度の休みの日は、中野のアパートで死んだように眠り、気が付けば夕方になっていた。

「ねえ、将来とかどうするの?」

「どうするって?」

「だってもし大学生なら就職活動して会社員になったり、公務員になったりするわけでしょ。でもナミちゃんは、もう勤めてるじゃない。このまま誰かのマネージャーさんとかになるの?」

「わかんないよ。てゆうか、そこまでまだ考えてないから。中学卒業して、これまでもいろいろと仕事してきたんだよ。そのなかの一つで、わりとつづいている仕事って感じかな。あと何年かはいまのままでもいいよ。きついけど、家でぶらぶらしてるのは性に合わないからさ」

 渚にこんなふうにプライベートを明かすのははじめてだった。ふと妄想がよぎる。おれだってふつうに高校に通っていたら、もしかすると大学に進んでいたかもしれない。うちはオヤジもおふくろも頭より体を使って働くタイプだったけど、可能性がないわけじゃないだろう。そうしたら上京して、こんなふうに女の子とナイトクルージングを愉しんでいたんじゃないか――。

「子どものころ、なりたいものとかなかったの?」

「オヤジが漁師だったから、ふつうに自分もそうなるのかと思ってた」それはまちがいない。「だけど野球部だったんだよ」

「へえ、はじめて聞いた」

「だって話すのはじめてだもん。シュウさんにも言ってないから」

「なに、秘密なの?」渚はヘッドレストの真横に顔を突きだしてきた。

「そんなことないよ。たんに言いそびれてるだけ。訊ねられもしないし」

「じゃあ、野球選手とかになりたかったの?」

「野球選手……そうねえ、かもしれないね」

「ピッチャーとかだった?」

「よくわかるね。そうだよ。四番でエース」

「うわ、カッコいい!」

「けど、地区大会はいつも一回戦負け。ノーコンだったんだ、おれ。それでまともにコースに入ったかと思うと打たれる」

「なんかわかるような気がする」

「なんだよ、それ」

「なんて言うかな、単純って言うか真っすぐなんだろうね。ナミちゃん、曲がったこととか嫌いでしょ」

「……まあ、どちらかと言えばね」

 自分で口にして苦笑いした。中学まではたしかにそうだったかもしれない。けど、両親があんなふうになって進学を断念してからは、勤め先でひどい目に遭ったことも手伝って、いつの間にか世渡りのためなら、白いものでも黒とへいきで言えるようになってしまった。とくにシュウさんといっしょにいるなら、黙っていてもそれがもとめられる。すくなくともそれが察知できるぐらいには、おれは成長していた。

「根っこの部分って変わらないんだよね」まるで心理学の教科書でも読んできたかのように渚は言う。

 おれはふんと鼻を鳴らして話を変えた。「サークルとかって、ほかの大学の男子といっしょなんだろ」

「あら、気になる? アナウンス研究会はうちの大学のメンバーだけ。テニスのほうは近くの大学といっしょで男女半々ぐらいかな」

「渚ちゃん、モテるだろ」つい本音が飛びだした。

「そんなことないって。かわいい子なんていくらでもいるよ。それに勉強ができるすごい美人も」

「サークル内でカップルとかもできちゃうんだろ」

「たくさんいるわ、そういうの」

「けどさ」大事なことを告げる。シュウさんからそのうち伝えるようにと言われていたことだった。「みんなに言ってることなんだけど、一応、こっちの仕事しているうちはさ、付き合ったりするのは控えといてね。べつに強制とかじゃないけど、やっぱりイメージ産業だからさ」

 サイドウィンドーに向かって顔をそむけるのがバックミラーに映った。それからしばらくして渚は返事をした。

「だいじょうぶよ、その点は。心配ご無用。それに母親のことがあるから」

「おかあさん、どうだい」

「あんまりよくないかな」

「入院してるの?」

「そうじゃないんだ。家でずっと寝てる。前に手術してからずっと」

「前っていつ?」

「去年の十二月」

「それってもしかして入試直前ってこと?」

「そうよ。結構バタバタしたの。うち、父親いないから」

 薄々わかっていたが、父親のことを聞いたのははじめてだった。

「そうなんだ」

「あたしが小さいころに離婚してる。浮気したんだって。サイテーの父親でしょ。でもほとんど記憶にないんだ」

「じゃあ、あれだね、暮らしがたいへんだったんだ」

「貯金切り崩してなんとか……あたし、ほんとは早く働きたいんだよね。この仕事やれるなら絶対やってみたいし。だから恋愛なんてとんでもないし、特定の相手なんてそもそもいないから」

「すいませんね、いろいろうるさくて」

「マネージャーさんって、やっぱりそんな感じなの? その名のごとく、あれこれ管理する?」

「どうだろう。おれはただの下っ端だから。マネージャーが誰かって言えば、いまはシュウさんだろうね。でもシュウさんは見てのとおり、おおらかで豪快なタイプだから」

「いいよね、シュウさん。ああいう感じの大人の男性って魅力的だと思う。ちょっと怖いけど、ほんとはやさしそう」

「その点はまちがいないよ。あの人は根が本当にやさしい。それに人たらしだ。どんな相手でも引き寄せられる。磁石みたいな人だよ」

「夢がある男の人って好き。自分がすっごくおカネのことで苦労してきて夢なんかなかったぶん、それをちゃんと語れる人って、昔からなんかひかれちゃうの。人生に余裕があるみたいで」

「昔からって、高校時代とかはやっぱり彼氏がいたんでしょ」

 車は信号でとまった。いつの間にか高速を降りていた。闇のなかに車一台、ぽつんと取り残されたみたいだった。

「仲のいい友だち程度よ。誰か一人ってわけじゃなかった。みんな、いい子ばっかりだった。ただ、すごく理想が高くて、自分なりの夢がある人はいたわね。そういう話されると、あたし、ほんとに弱いのよ」

 信号が変わり、ジャガーはそろそろと動きだす。車体が風にあおられるが、雨はもう弱まっていた。

「要は好きだったんでしょ、そいつのことが」

「ほんと単純ね、ナミちゃん。そういうんじゃないんだって」

「まあ、なんでもいいさ。もうこのあたり、鎌倉だろ。そいつもこのへんに住んでるの?」

「このへんじゃない。うちの高校、市外から通って来る子も多かったから。近所に住んでるのは、中学までの同級生がちらほらいるだけ。もう口もきかないけどね。やっぱり大人になると、ちがいって出てくるよね。子どものころは、みんないっしょだと思っていてもさ。いろんなものが見えてきちゃうから。自然と友だち関係も変わってくる」

「成長したってことでしょ。おれだってガキのころの友だちなんて連絡も取ってないし。成長って多少の痛みも伴うものでしょ」

「お、なんかカッコいいじゃん、ナミちゃん」

「まあな。だけど、夢のあるそいつはいま大学生?」

「うぅん、浪人中。現役のときは高望みしちゃって入試、全滅だった。いま予備校通ってる。多いよ、そういう子」

「連絡取ったりしてるの?」軽いジャブのつもりで訊ねてみる。

「一か月ぐらい前だったかな。向こうから電話かかってきて、すこしだけ話したよ」

 強烈なジェラシーのようなものがこみあげ、つい苦々しく口にしてしまった。「浪人生のくせにちゃんと勉強しろよって」

「ほんとよね」さっきまでとは打って変わって渚の言葉にいらだちが混じった。「こっちも忙しいんだから」

「もしかしてレッスンのこととか話したの」

「いけなかった?」

「いや、そんなことないさ」

「研修みたいなものって言っといたわ」なるほど。言うなれば、こちらも芸能予備校のようなもので、彼女はそこの特待生といったところか。それで交通費とレッスン代を事務所が負担しているのだ。「でもさ、うちの親といっしょで頭が固いっていうか、こういう世界のことが好きじゃないみたいでさ。『危ないからダメだ』って。ダメってなによ。親でもないのに」

「芸能界なんて、たいていそういう目で見られると思うよ。ミーハーで怪しくて、ヤクザっぽくて……危ない世界。ほんとはちがうのに。知恵を絞って毎日戦わないといけない。きびしくて、意外とまじめな業界だよ」

「けどさ、母親が心配するのはわかるけど、そうじゃないんだから」だんだんと渚はヒートアップしてきた。「母親はすこしずつ理解してくれるようになってるの。そういう仕事もあるよねって言ってくれてるのよ、いまは」

「子どもが好きな道に進むのを否定する親なんていないんだろうね」

「でもその子とはケンカになっちゃって。なんか縛りつけようとするのよ。まるで自分のものであるかのようにして」

「男ってどうしても女の子を独占しようとするんだよな」

「ナミちゃんもそうなの?」

「いや……わかんない。でも動物だって、メスをめぐって争うじゃん」

「でもそれは子孫を残すためでしょ」

「人間はちがうの?」

「……人間はさ、それだけじゃないじゃん」

 それだけでしょ。そう思ったが口にはしない。「まあそうだよね。束縛するのはいけないかな」

「そういうのあたし、よくないと思うの」

「そのとおり。よくないよ」

 きれいごとに付き合ってやった。もう渚の家の前まで来ていた。おれのふるさとでも見かけたタイプの市営団地だ。車をとめてからも彼女はとまらない。

「だってあたしの可能性を否定するわけでしょ。懸命に頑張ってるのはこっちだっていうのに。なんにもわからないくせに。腹が立つわ」

 それからしばらく彼女の話に耳を傾けた。この子を独り占めしたいと思うのは非難されるものではない。それこそが男のさがだ。おれはうるさい男友だちに同情した。なにしろおれ自身、むくむくとわきあがるその衝動に苦しみだしているのだから。


 十七

「へんな話をしてしまって申し訳ありません」

 南米の農園での体験を語り終えると男は首をすくめ、額に手をあてた。

「衝撃的な話でしたね。驚いたな」

 とはいえ、自分のなかでなんとか飲みくだし、アヒージョのうまみもようやく味わえるようになった。それでわかった。このひと皿、これまで食べたアヒージョのなかでもとびきりだった。

「こいつはうまいな」男もおなじことを感じているようだ。「はじめて注文したんです。こんなにうまいとは思わなかった。なんだろうな」

「アンチョビと……ナンプラーだ」浪男はようやく味の源を発見する。

「ですね。隠し味で入っていて、それでコクが増している。いくらでもいけそうですね」

 いましがたの話を忘れようとするかのように、おっさん二人がたっぷりのオイルに浸したバゲットを次から次へと口に運び、指と口元がみるみるてらてらと輝いていく。

「肉のたぐいがまったく入っていないのに、これだけの味が出せるなんて」

「まったくです。逆に肉が入っていないぶん、さらっとしてへんに重たくない。心を奪われるとのはこのことですよ。高級店なんかじゃなくても、芸術品を提供できる。それを見事に証明していますね」

 濃厚な赤ワインで流しこみ、満足して浪男は大きくうなずく。「仕事でもこんな成果を出してみたいものですよ。人材派遣なんてある意味、シェフのようなものですから」

「と言いますと?」

「クライアントの要望に応じた最適解をいつだって探っている。まわりはライバル業者だらけで、向こうは向こうで必死ですからね。できるだけたくさんの人材をかき集めて、その無数の砂粒のなかから、ダイヤの原石を見つけて送りだす。人間、決して外見だけでは判断できませんからね。ある種、ギャンブルのようなところがあるわけです。でもそれはまさに経験値によって補正することができる」

「なるほど。その意味では超絶グルメを作りだすプロの料理人とおなじというわけですか」

 その通り。返事をするかわりに大ぶりのグラスを掲げる。

「もしかすると人材派遣といっても、ヘッドハンティングのような幹部や役員クラスのハイレベルな人材の仲介ということでしょうか」

 それには苦笑しながら顔の前で手を振るしかなかった。「そこまではいきませんけどね。ただ、ある種、専門性は必要とされる職種が多いんですよ」

「それでもライバルが多いんですか」

「そりゃもう。山ほどいますよ。いわば目利きのような仕事ですが、原資がほとんど不要ですからね。自力でなんとかなる仕事ですから、そういうのに長けている連中が勇んで業界に参入してくるわけですよ」それは事実だ。そうした輩を長年かけて管理し、統制してきた。

 この手で。

「厳しい世界なんですね。たとえばクライアントの案件を一つ逃すと、痛手もそれなりに大きいわけですか」

「そうなんです。それなりの対価が動くわけですから、業者どうし必死ですよ。でも先ほどうかがったような命の危険はさすがにないですね。先代の社長はたしかに命がけでして、じっさい危ない目にも遭ってきました。わたしはそういうのはないんですが、それに近い緊張感はやはりありますよ。だからリスクはできるだけ減らすようにしています。発想を変えると言いますか」

 男は紙ナプキンで口元をぬぐうと、こちらに身を乗りだして興味をしめしてきた。「なんだかおもしろそうですね。どう発想を変えるんですか」

「これも先代から教わった手法なんですけどね」浪男はこれまでブリッジがどうやって業界に網を張ることができたか、他人事として話しだした。「たとえばどこかでダイヤの原石が見つかったとしますよ。といってもそれを見つけたのはライバルだった。さてどうするか。その輝きを上回る宝石をこちらが見つけて磨いていけばそれでいいのですが、なかなかそううまくはいかない。そういうときは投資するんです」

「投資?」

「同業者の成果をねたむんじゃなくて、きちんと評価して労をねぎらってやるんです。そこに至るまで長い道のりだったのだろうし、人知れぬ出費もあったでしょう。だからほんのわずかですがお祝いしてあげるのです」

 男はちょっと首をかしげたが、すぐに合点したらしい。「お祝いとは資金投資のことなんですね」

「まあそんなようなものです。おたがいさまですからね。もしこちらに遊休資金があるのだったら、それを必要とする人に使ってもらえばいい」

「それで投資額に応じたいくばくかの歩合を手に入れるというわけですね」

「いや、それほどシステマティックなわけでもないんですよ。人材育成なんて時間がかかるものです。長い目で見ていかないと。いまはなんでもコスパでしょ。AIなんてものを導入するのもそのためでしょう。だけどそうした技術を開発する人間こそ、きちんと育てなきゃいけない。じつにアナログな世界ですよ」

 そこから先の具体的な話まではしなかった。する必要もない。たとえばある女優の卵を他社が見つけたとする。もし彼女に可能性を感じたのなら、シュウさんは黙ってそこの社長に現金百万円を封筒で送りつける。

 毎月だ。

 シュウさんと面識なんてないから先方は驚くが、シュウさんは「好きに使ってください」とだけ言ってニコニコしている。するとどうだろう。はじめはどぎまぎしていた相手の社長もそのうちこういうものかと、それを運転資金に繰り入れて事業をつづける。

 やがてその女優がブレイクする。そのときになってシュウさんは投資資金の引き揚げを開始する。すでにそのときには投資総額は数千万円におよんでいるが、たいてい相手方の懐にはそのカネが残っていない。人間なんてそんなものだ。日本人は貯蓄性向が高いというが、それは自分のカネにかぎっての話だ。望外の収入があれば、急に誰もが高揚し、江戸っ子ぶって宵越しのカネは持たなくなる。でもシュウさんから送られた現金が純粋なプレゼントだと思うほうがおかしい。言わずもがなでいつかは返さねばならない貸付金なのだ。せいぜい利息がつかないところが旨味だと思うほかない。

 だがシュウさんは鬼じゃない。マネジメントを行う女優への出演依頼が急増したにもかかわらず、死人のような顔をしてブリッジランドの事務所に呼びだされた社長は、ある提案を持ちかけられる。

 系列に入るのだ。

 それで借金はチャラ。女優も仕事をつづけられるし、社長は社長のままだ。ただ、テレビ局や代理店から入るカネは一度、ブリッジを経由することになる。その先、何%が傘下となった事務所に落ちるかは、これこそ神のみぞ知るだ。

「でもそのやり方に抵抗をしめすライバルだっているんじゃないですか」

「いないわけじゃないですよ。それはそれで仕方ない。ただ、できるだけリスクを減らすための発想ですから。なんだってそうだと思いますけど、一〇〇%なんて無理ですからね。ないものねだりをしたところで意味はない」

「するとそういう相手とは対立せざるを得ないというわけですか」

「残念ながらそういうことになりますね」

「レッセ・フェール、なすがままとはいかないんですね」

「そんなふうにうまく回ればいいんですけど、どうしたって軋轢が生じる。ある程度の統制というか、介入は必然ですよ。それが全体の利益にかなうわけですから」

 じっさい歯向かう相手に対する“統制”は容赦なかった。具体的なやり方は現場にまかされたが、ゴーサインは上が出す。たとえばあるとき、どこかの家が火事になったとする。警察と消防が入念に調べ、電気系統のトラブルによる失火だと結論づけられる。そして、そこのあるじは業界関係者だったことがあとでわかる。

 この世界は自由競争であるべきだ。

 一つ離れたテーブルで浪男の職業について興味津々で訊ねてくる銀髪の客とおなじく、この業界関係者も生前、あっちこっちでそう主張していたかもしれない。だからって自由競争に励んだ結果、自ら誤って火を出したのなら、それは仕方ない。かわいそうだが自己責任だ。

「そういう相手を何人も力づくで倒してきた。どろどろした修羅場をいくつもくぐってこられた。そんな感じなのでしょうか」

 まんざらでもない。ポトスなんて最たるものだ。ルールを守らないからああいう目に遭うのだ。「結果的にそうなりましたね。こちらが望んだわけではまったくないのですが」

「わたしの場合、ライバルと呼べる相手がいつもいるわけじゃないんです。そのぶん、自分の才覚だけが頼りになる」

「うらやましいですよ。競争なんてはっきり言えば、ないに越したことはない。なんだってそうですけどね」

「男と女の関係だってそうでしょうね」

「まったくです。つねに一対一ならなんの問題も起きない。一本の雌しべに一本の雄しべなら、世のなかすべてうまく回るわけですよ」

「雌しべのまわりに無数の雄しべが群がりますからね。争いも起きるでしょう。記憶にあるかぎり、わたしの場合はそっち方面ですね。まだ若いころのね」

「若さゆえですよ。色恋沙汰なんて。つい無茶なこともしてしまう」

「まったくです。お恥ずかしいかぎりです。いまにして思えば、純情だったぶん、ひどいこと、姑息なこともしていましたから」苦い記憶でも思いだしたのか、それをうっちゃるように男はかぶりを振り、オイルの染みたバゲットをそれこそ人間を食い殺すようにバリバリとむさぼった。

 その姿にはどこかぞっとするものがあった。まるで羊が毛皮を脱いで狼の本性を表したかのようで、浪男は顔をしかめる。かつて狼は自分のそばをうろついていた。底知れぬ闇を抱えたあちらの世界で自分は身動きが取れない……そんな不安が突如胸をよぎる。たまらずカウンターのほうへ目をやった。

 カウンター席の上にある二つの大画面テレビは、大リーグと海外サッカーを映しだしていたが、野球中継は終了し、いまはアイドルグループ――ブリッジとは別系列が売り出し中のガキの集まり――が踊っていた。それが目にとまるなり、反射的に浪男は大きくため息をついた。これが現実だ。いくら網を張っても一〇〇%うまくいくことなんて絶対にない。他社の動向に歯ぎしりし、仲間内の不満というか反抗にいらだちを覚えながらも前に進まねばならない。いや、もはやそれも過去形だ。時代はどんどん変わっている。おれはもう疲れ果てた。清算して完全リタイア。あとはお気楽に過ごさせてもらう。

「ああいうのはご興味ありますか」男が訊ねてきた。こっちの内心が読まれているかのようだった。きっとうんざりした気分が顔に出てしまったのだろう。「わたしはああいうのはてんでダメでして。ぜんぜん、わからないですよ。歌手なんて、もう四十年前ぐらいの記憶しかありませんから。梶原ひとみぐらいでとまってしまっていますよ」

「え……」浪男はうろたえた。「梶原ひとみ……ごぞんじですか……いやあ……その名前はわたしも懐かしいですね」因縁浅からぬ相手だったが、この場はなんとか取り繕った。

「あのころ、かなり人気でしたよね。ぼくもレコードを持っていた」

 グラスを大きく傾け、残りのワインを一気に飲みほして気持ちを落ち着かせる。「ですね。若いころ、わたしも聴いていましたよ。なんだっけな――」とぼけるのもひと芝居だ。もう一杯、おなじプーリアの赤を男のぶんも合わせて注文してから空々しく告げる。「そうだ。『影の季節』だったかな。デビュー曲だったような」

「そう、それだ。『影の季節』若いのにずいぶん大人っぽい歌い方をするなって思った記憶があります。いまどうしてるんでしょうね」

「ずいぶん前に引退したんじゃなかったかな。アイドルなんてそんなものでしょう」

「最近はネット情報でもぜんぜん見ないですね」

 知るもんか。

 消えていったやつのことなんて誰が気にかける。こっちはそんなにひまじゃないんだぞ。あの女の周りであのとき起きた出来事がいやでも思い起こされ、浪男は中野のあの狭苦しいアパートに引きもどされたような、途方もなくやるせない気分になった。そんなことなど露知らず、男は話しつづける。

「あのころはSNSなんてないから、テレビとラジオと雑誌が情報源。でもアイドルの引退話なんてそうそう出るものじゃない。ファンはやきもきしたでしょうね」

 ファンとなるとまた話がちがう。レコードやコンサートチケットを買ってくれる人々への敬意は、浪男は誰よりも持っているつもりだ。ブリッジランドグループの最大の収益源だからだ。熱烈な信者さえ作っておけば、作品の出来にかかわらず、とりあえずは買ってもらえる。そしていまも昔も、彼らの熱量はつねにこちらの想像の上をいく。ひとみのときもそうだった。表舞台に出て二年ほどで自然といなくなったのだが、その後も事務所に消息を訊ねる手紙が届いたし、事務所の下で何時間も立ちつくす若者には事欠かなかった。もちろんひとみのファンにかぎらない。ファンというのは、じつにありがたく、けなげな存在だ。

 できるだけ他人事のように取り繕って浪男は話す。「いまもそうですが、追っかけとかして、自力で情報をつかむしかなかったんじゃないかな」

「アイドルの追っかけなんてやって、なにか情報が得られるんですかね」

「難しいでしょうね」つい真実が漏れる。事務所側は肝心な情報は完璧にシャットアウトする。「だけどそういう人たちはすごくピュアだと思いますよ。悪く言う人もいますけどね」

「気持ちは理解できないでもないですね。当時はそうやって足で稼いだ情報をほかのファンに話して盛りあがった。それがたのしかったんでしょうね。だから追っかけがエスカレートするし、情報だって捏造される」

「捏造はよくないな」浪男は顔をしかめる。

「だけど彼らの目的は、仲間うちで自慢して自分が気持ちよくなれればいいだけなんでしょう。いまでいえば、承認欲求を満たしたい。ただそれだけですよ。だから捏造だろうとなんだろうとかまわない。そんなニセ情報に踊らされて追っかけにさらに拍車がかかる」

「プライバシーもなにもあったもんじゃない」つい本音が漏れる。「自分たちの行動がつまるところ誰に迷惑かけてるかわかっていないんだ」

 ファンには厳しい現実が見えないのだ。湖を優雅に泳ぐ白鳥が水面下で必死にもがきつづけるように、彼らが幸福な夢に浸っている間にも、醜くおぞましい争いが繰り広げられている。それが真実だった。

 それを察してくれたのか男が口にする。「だけど芸能界なんて、やっぱりたいへんなんだろうなあ。ある意味、生き馬の目をくり抜く感じなんじゃないかな」

「たしかに。想像するだけで恐ろしいですね」二杯目の赤に救いをもとめるようにグラスに口をつけ、浪男は落ち着きを取りもどす。「でもどうでしょう。最後はやっぱり本人の才能なんじゃないですか。こればっかりはどうしようもないものなのかもしれない」

「やっぱり厳しい世界ですね。安定したサラリーマンとか、わたしのような気楽な自営業とはわけがちがう。ものすごいハングリー精神がないとダメなんだ。よくアイドルの子たちは家が貧乏だった人が多いなんて話を聞きますが、あれって本当なのかもしれないですね」

「きっとそうなんでしょうね」浪男はさらりと言った。裕福でなに不自由ない家庭からはハングリー精神は生まれない。それは事実だ。「でもね、苦労を重ねる家庭の出身で努力家だからといって、多くの人々の心をわしづかみにできるってものでもないかもしれませんよ。逆に難関をいともたやすく乗り越え、その上にふわりと浮上できる人もいるんじゃないかな。それこそが本当の才能なんでしょう。そんな気がします」そこに投資し、感動という成果を国民全体に還元し、アガリを収奪する。

 それがシュウさん、そして浪男の仕事だった。

「人材派遣の仕事をされていると、そういう才能を持ち合わせた人に遭遇するなんてこともあるのではないですか」

「ありますよ。そういうときは衝撃を受けますね。本当に」

 はっきり言えば、四十年前、デビュー直前の梶原ひとみがそうだったのだから。

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