第三話 道:忘れた場所ではなく、覚えた歩き方
第三話「道」です。
記憶を失った子猫ユキ。
けれど、忘れたはずの道を、足が覚えていました。
今回は、ハルたちが過去に残された秘密へ近づいていきます。
小さな猫たちが辿る「道」の先に、何が待っているのか。
ゆっくり見守っていただけると嬉しいです。
その夜、ハルはユキを連れて、もう一度橋の下を訪ねた。
ユキの足を見ていて気づいたことがあった。肉球の擦れ方が、子猫のものにしては妙だった。一晩二晩歩いた跡ではない。何度も同じ道を、長い間歩いてきた猫の足だった。
「ここを、前にも歩いたことがある?」
「ない」
「でも、足がそう言ってる」
ユキは自分の前足を見た。しばらく黙っていた。
「わからない。でも――歩き方を、知ってる気がする」
覚えているのは場所ではなく、歩き方そのものだった。それは記憶の消し方として、何かが歪んでいる印だった。
*
橋を抜けたところで、それが現れた。
大きな影が、向こうの暗がりを横切った。一瞬だけ、月明かりに体の輪郭が浮いた。ハルの知っている体つきだった。後ろ足を少し引いて歩く癖も、変わっていなかった。
「ロク」
名前を呼んだが、答えはなかった。影は塀の向こうに消えた。声だけが、風のように残った。
「まだ、終わってない」
それだけだった。ハルは追わなかった。追えば何かが壊れる気がした。
*
集会で、テンが地図を広げるように前足を動かした。
「ユキが運ばれてきた場所、特定した」
「どこだ」
ゴロが聞いた。
「東の、取り壊し予定の倉庫だ」
ジジが眉を寄せた。
「取り壊し? なぜそんな場所に子猫が」
「避難路の起点だったからだ」
クマが言った。一拍遅れて、いつもより長い間を置いてから。
「昔、取り壊しの前に猫を逃がす道があった。ロクは、その道を管理していた」
集会が静まった。リンが小さく聞いた。
「逃がす道、というのは……今はもう、ないんですか?」
「ある」
ゴロが言った。
「だが、十年前に一度、使い方を間違えた」
*
ハルは知っていた。
十年前、隣の縄張りにいた一匹が、取り壊し直前の建物に取り残された。ロクが道を作っていたが、ハルはその夜、別の縄張り争いに気を取られていた。呼ばれたことに気づいたのは、翌朝だった。
誰にも、そのことを話さなかった。話さなければ、なかったことにできると思っていた。
「今回も、同じことが起きている」
ハルが言った。声が掠れた。
「同じことが」
もう一度言った。柄にもなく。誰も突っ込まなかった。
「同じじゃない」
ゴロが言った。
「今回は、お前が気づいた」
*
その夜、ハルたちは東の倉庫に向かった。
ユキは初めて、自分から先を歩いた。記憶のない足が、迷いなく角を折れていく。
「なんで道がわかるんだ?」
「わからない。でも、足が、止まれと言わない」
倉庫の前で、ユキは足を止めた。
中から、別の声が聞こえた。か細い、もう一匹の子猫の声だった。
「もう一匹いる」
ユキが言った。初めて、はっきりした声だった。
「私が、ここにいたとき――誰かと一緒だった」
断片が、少しだけ繋がった。全部ではない。だが、足が止まれと言わなかった理由が、その瞬間だけわかった。
*
倉庫の奥で見つけたのは、ロクの匂いがついた古い箱と、その中で震えるもう一匹の子猫だった。
箱の隅には、小さな魚の骨が並べてあった。一つではない。同じ向きに、几帳面に。誰かが、毎晩同じ時間に運んでいた跡だった。
その子猫は、ユキを見ても鳴かなかった。怖がっているはずなのに、声を出す力がないのではなく、声を出すことを忘れている目だった。
ユキはその子猫の前に座った。何も言わなかった。子猫も、何も言わなかった。
ただ、二匹の尾が、同じ速さで動いていた。
*
明け方、橋の下に戻ると、ロクの匂いはもう薄くなっていた。
「ロクは、また道を作ってたのか」
ハルが言うと、クマが一拍置いて答えた。
「さあな。聞いても、答える猫じゃない」
ゴロが言った。
「だが、今度はお前が気づいた。それで足りる」
ハルは橋の下を見上げた。十年前と同じ場所、同じ夜明け前の空だった。違うのは、隣にユキがいることだけだった。
「名前、決めた?」
ハルが聞くと、ユキは少し考えた。
「まだ、わからない」
「それでいい」
ハルは答えた。それ以上の約束はしなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第三話「道」では、ユキが失った記憶ではなく、体に残った感覚を頼りに進んでいく姿を描きました。
忘れてしまったことと、消えていないもの。
そして、過去の後悔を抱えながらも、もう一度誰かを救おうとするハルの姿。
猫たちにも、それぞれ歩いてきた道があります。
その道が重なることで、新しいつながりが生まれていきます。
次回も、ハルたちの物語を見守っていただけると嬉しいです。




