第二話 匂い:消えた記憶は、古い匂いの中に残っていた
第二話「匂い」をお届けします。
ハルが見つけたのは、子猫の痕跡だけではありませんでした。
古い匂いの中に残っていた、十年前の名前。
そして、少しずつ明らかになっていくユキの過去。
小さな手がかりが、どこへ繋がっていくのか。
今回も静かな物語をお楽しみください。
橋の下の毛布を、ハルはもう一度確かめた。
昨夜は子猫の匂いしかわからなかった。だが今、鼻を近づけると、もう一つ別の匂いが沈んでいる。古い。何年も前の匂いだ。
それでも、わかった。
「……ロクか」
声に出してから、ハルは自分でも驚いた。十年は会っていない名前だった。
*
集会で報告すると、ゴロが短く言った。
「ロクは知っているのか」
「昔、隣の縄張りにいた。引っ越しと一緒にいなくなった」
「それだけか」
「それだけだ」
ゴロはそれ以上聞かなかった。だが、聞かなかった、という事実が、ハルの中に残った。
ここで止めることもできる、とハルは思った。ロクの名前を出さずに、匂いだけ報告すればよかった。なぜそうしなかったのか、自分でもよくわからなかった。
ジジが首をかしげた。
「引っ越した猫の匂いが、十年経って毛布に残るか?」
「残らない」
テンが言った。
「匂いは霧みたいなものだ。十年も漂ってはいない。これは——置いていったものだ。最近、ここに」
「最近?」
リンが小さく前のめりになった。
「ロクさんって方が、最近ここにいた、ということでしょうか」
「いた、というより」
テンが続けた。
「通った。風みたいに」
*
ハルはその夜、一匹で橋の下に戻った。
毛布の下を探ると、小さな布の切れ端が出てきた。子猫の首に巻かれていたであろう、色の褪せた布だった。
ユキはまだそこにいた。布を見せても、何の反応もなかった。
「これ、知ってる?」
「知らない」
「触ってみて」
ユキは布に鼻を寄せた。一瞬、体が固くなった。それから、何も言わずに離れた。
「わからない」
声がさっきより小さかった。ハルは黙って頷いた。
*
クマの縄張りに寄ると、クマは一拍置いてから口を開いた。
「……来たか」
「あの布、見てもらえるか」
クマはまた一拍置いた。布の匂いを嗅ぎ、目を閉じた。長い沈黙のあとで、ようやく言った。
「これは、首輪じゃない」
「何だ」
「印だ。誰かが、誰かを覚えておくための」
クマは布から目を逸らさなかった。
「いいものじゃない。それだけは言える」
ハルは黙ってクマを見た。クマは続けなかった。聞いても、もう何も出てこない様子だった。
*
翌晩の集会で、テンが地図の話を持ち出した。
「ロクの匂いは、東から来て、橋の下で止まっている。だが——」
「だが、何だ」
ジジが聞いた。
「その先、匂いが切れている。歩いて消えたんじゃない。途切れ方が、不自然だ」
ゴロが目を細めた。
「不自然、とは」
「運ばれた、ということだ」
集会が静かになった。ジジが小さく言った。
「猫を、運ぶ理由があるか?」
誰も答えなかった。リンだけが、ユキの方をちらりと見た。ユキは集会の隅で、布の切れ端の匂いを、また確かめていた。
ロクの話は、そこで止まった。だが、ユキの記憶が消えた理由は、まだ何も見えていなかった。
第二話「匂い」を読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、ハルが過去の気配に触れる回でした。
匂いは、目には見えません。
けれど、時には記憶よりも強く、そこにあった時間を残しているものだと思います。
ロクの存在、残された布切れ、そしてユキの失われた記憶。
まだすべての答えは見えていませんが、少しずつ過去へ近づいていきます。
次話も、ハルたちの小さな旅を見守っていただければ嬉しいです。




