第一話 出会い:名前も帰る場所もない子猫を、ハルが導く
はじめまして、またはいつも読んでいただきありがとうございます。
新作「迷い猫」をお届けします。
夜の街には、人間の知らない猫たちの世界があります。
塀の上の道、屋根の上の約束、誰にも見えない小さなルール。
そんな場所で、ハルは記憶を失った白い子猫と出会います。
名前も、帰る場所もわからない子猫。
その小さな存在をめぐって、猫たちの静かな旅が始まります。
少し不思議で、温かい物語を楽しんでいただければ幸いです。
夜十時を過ぎると、奥田の家の庭は別の場所になる。
ハルは塀の上に座り、自分の縄張りを見下ろした。今夜は静かだった。静かすぎる、とハルは思った。
物置の裏で物音がした。風ではない。猫の足音とも違う、もっと不安定な動きだった。
覗くと、白い子猫が段ボールの隙間に体を押し込んでいた。
「どこから来た?」
子猫は答えなかった。震えていて、目だけがハルを見ていた。毛には泥がついていて、片方の耳の先が少し欠けていた。
「名前は?」
子猫は首を振った。それから、何かを思い出そうとするように、しばらく動きを止めた。
「わからない」
声は小さかった。ハルはそれ以上聞かなかった。
*
集会は深夜零時、神社の床下で開かれる。
ハルが子猫を連れて現れたとき、すでに四匹が集まっていた。年長のゴロ、気の短いジジ、足の速いテン、そして新入りのリン。
「迷い猫か」
ゴロが言った。子猫を一度だけ見て、それ以上見なかった。
「縄張りの匂いがしない。どこの子でもない」
「記憶もないようだ」
ハルが言った。
ジジが鼻を鳴らした。
「面倒な話を持ち込むな。明日には飼い主が見つかるような子じゃないだろう」
「協力してくれるのか、しないのか」
「するとも言ってない」
リンが身を乗り出した。新入りらしく、まだ集会の作法をよく知らない。
「耳の欠け方、見ました? あれ、喧嘩じゃないですよね。何かに引っかけた跡だ」
全員が子猫を見た。子猫は段ボールの中で、また体を縮めた。
「どこかから、逃げてきたのかも」
リンが言った。ジジがその勢いを目で制したが、止めはしなかった。
*
集会の決定は単純だった。
街には猫だけが知る道がある。塀の上、排水溝の中、商店街の屋根の連なり。人間には見えない地図だ。テンがその地図を一晩で頭に入れている猫として、子猫の匂いの出どころを探ることになった。
「東から来た匂いがする」
テンが言った。
「ただ、薄い。何日も歩いたあとの匂いだ」
「じゃあ、東から始めよう」
ハルが言った。
「お前が行くのか」
ジジが聞いた。
「他に誰が行く」
ジジは何も言わなかった。ゴロが一度だけ目を細めた。それが許可だった。
*
夜の街には、人間が知らないルールがある。
商店街のシャッターの下を通るときは、必ず右から入る。左から入ると、シャッターの中で寝ている猫を起こす。コンビニの裏は、廃棄の時間まで誰も近づかない。これは縄張りではなく、礼儀だった。
ハルは子猫を連れて、塀を一つずつ越えた。子猫はうまく歩けず、何度か落ちた。
「歩けないなら、無理しなくていい」
「歩ける」
子猫は起き上がった。落ちた拍子に、また少し泥がついた。
月極駐車場を抜けたところで、テンが先に止まった。
「ここから先は、別の縄張りだ」
「誰の?」
「クマの。無愛想だ」
ハルは少し考えて、先に進んだ。
*
クマは思った通り、最初は警戒した。
「断りもなく入ってくるな」
「迷い猫を探している。協力してほしい」
クマは子猫を見た。それから、長く見た。
「その耳」
「知っているのか?」
クマは答えなかった。代わりに、もう一度子猫の顔を覗き込んだ。
「いや。似た傷を見た気がしただけだ」
それ以上は何も言わなかった。
子猫だけが、何か言いたそうにクマを見ていた。何かを覚えていそうな目だった。だが、それが何かは、子猫自身にもわからないようだった。
*
東の空が白くなる前に、ハルたちは橋の下まで来た。
子猫が足を止めた。
「ここ」
「ここがどうした?」
「知ってる、気がする」
橋の下には、誰も使わなくなった段ボールの小屋があった。古い毛布が一枚、敷かれたままになっている。
子猫はその毛布に顔を埋めた。長い間、そうしていた。
ハルは黙ってそれを見ていた。テンも、何も言わなかった。
空が完全に明るくなる前に、引き返さなければならない。ハルは橋の下を見上げた。
「今夜はここまでだ」
子猫は毛布から顔を上げなかった。
「また来る?」
「来る」
ハルは答えた。それ以上の約束はしなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第一話では、ハルと記憶を失った白い子猫の出会いを書きました。
迷子になるということは、ただ道に迷うだけではなく、自分がどこから来たのか、どこへ帰ればいいのかわからなくなることなのかもしれません。
そんな子猫に、ハルたちがどんな場所を見つけてあげられるのか。
そして、子猫が失ったものとは何なのか。
これから少しずつ明らかになっていきます。
猫たちの小さな旅を、温かく見守っていただけるとうれしいです。
次話もよろしくお願いいたします。




