スピンオフ 骨:名前のない猫が、待っていた夜のこと。
「迷い猫」スピンオフです。本編未読でも読めます。ロクという猫の、十年前の話。
その猫は、名前を呼ばれたことがなかった。
隣の縄張りの連中は、ただ「お前」と言った。それで十分だった。呼ばれる理由がなかったから、名前もなかった。
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取り壊しの貼り紙が出たのは、夏の終わりだった。赤い印が、壁の高いところに貼られていた。読める者はいなかったが、印の色が知らせていた。
「道は、もう作ってある」
灰色の大きな猫が言った。後ろ足を少し引いて歩く癖のある猫だった。
「いつ通ればいい?」
「呼ぶ。来たら、迷わず歩け」
それだけだった。約束というほどの言葉ではなかった。それでも、十分だった。
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待つ夜は、長かった。
倉庫の隙間から見える月は、毎晩少しずつ形を変えた。変わらないのは、隅に積んだ魚の骨だけだった。灰色の猫が運んでくるものを、その猫は几帳面に並べた。同じ向きに。一つずつ。
誰に見せるためでもなかった。ただ、並べていないと、何か大事なものが崩れる気がした。
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その夜、機械の音が、いつもより近かった。
「来るぞ」
声がしたのは、塀の外からだった。灰色の猫の声だった。いつもより、かすれていた。
その猫は立ち上がった。骨を並べ直す時間はなかった。
穴の前に着いたとき、灰色の猫はそこにいなかった。
待った。
機械の音が、また近づいた。
まだ待った。
声は、来なかった。
*
次に灰色の猫が穴の前に戻ってきたとき、もうそこに、その猫の姿はなかった。
灰色の猫は、しばらく穴の前に立っていた。それから、隅に並んだ骨を見た。
崩れていなかった。誰も、それに触れていなかった。
灰色の猫は、骨を一つ、向きを変えずに、そのまま残した。
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十年後、別の倉庫の隅で、同じ向きに並んだ骨が見つかったとき、それを見つけた者は、誰もそのことを知らなかった。
灰色の猫だけが、その並べ方を覚えていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
本編「迷い猫」では匂わせるだけだったロクの過去を、当事者側から描きました。名前のない猫の話なので、名前はつけませんでした。




