外伝 橋:名前を渡した猫と、名前を受け取った猫の話。
「迷い猫」本編完結後のスピンオフです。
ロクと、五番目と呼ばれていた猫の、ある夜の話を書きました。
本編未読の方にも楽しんでいただけると思います。
倉庫が消えた場所に、しばらく何も建たなかった。
空き地には、重機の跡が四角く残っていた。雨が降ると、その四角だけ水が溜まった。
*
ロクは、その四角を見に通うようになった。
「何しに来てるんだ?」
ハルが聞くと、ロクは水溜りから目を離さなかった。
「何も。ただ、なくなったのを確かめたい」
「なくなったのは、もう知ってるだろ」
「知ってるのと、確かめるのは、違う」
ハルは、それ以上聞かなかった。
*
五番目は、橋の下に残っていた。
名前はまだなかった。誰かが呼ぶときは、そのまま「五番目」だった。本人も、それで構わないようだった。
「呼びにくくないか?」
リンが聞いたことがある。
「呼びにくいのは、呼ぶ方の問題でしょう?」
五番目はそう答えた。それきり、誰もその話をしなくなった。
*
ロクが橋の下に来るのは、夜が深くなってからだった。
五番目は、いつもロクが来る少し前に目を覚ました。足音より先に、何かで気づくようだった。
「来るの、わかるの?」
ユキが聞くと、五番目は首を振った。
「わからない。でも、目が開く」
*
ある晩、ロクが魚を運んできた。いつものように、何も言わず置いて、帰ろうとした。
「待って」
五番目が言った。ロクが初めて、足を止めた。
「名前、つけてくれる?」
ロクは長く黙っていた。
「俺がつけていい名前じゃない」
「じゃあ、誰のなら、いい?」
ロクは答えなかった。前足の爪が、土を一度引っ掻いた。それだけだった。
*
翌晩、ロクは来なかった。
その次の晩も。
「逃げたのか?」
ジジが言った。
「逃げたんじゃない」
ゴロが言った。
「考えてるんだ。あの猫の考える時間は、長い」
*
十日目の夜、ロクが現れた。
前足には、何も持っていなかった。魚も、布も。
「名前、まだいいか?」
「いいよ」
五番目が言った。
「ロクだ」
ロクが言った。それだけだった。
「自分の名前を、くれるの?」
「俺の名前は、もう要らない」
*
五番目――いや、もう五番目ではなくなった猫は、しばらく黙っていた。
それから、初めて、自分から名乗るように言った。
「ロク」
声に出して、自分の名前を確かめるように。
ロクは、その響きを聞いて、何も言わなかった。だが、橋の下を出ていくとき、足取りが、いつもより軽かった。
*
空き地の水溜りは、次の雨でまた満ちた。
誰かが、そこに小さな魚の骨を一つ、几帳面に置いていった。
その置き方を知っている猫は、もう、橋の下にいた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ロクがどこへ向かうのか、自分でもまだわかっていません。




