下劣な支配者・キーア
バルディがゆっくりと振り向く。
時間が迫っているのは分かっているが、それでも先に済ませておかなければならない。
ハイーラは懐から、小瓶を取り出した。そこには、赤い液体が入っている。その小瓶を、バルディへと手渡した。
「…これは?」
「淫魔の幻惑への、中和剤のようなものです」
バルディは訝しげに小瓶を眺めた。
確かに、これを飲め、というには少し勇気のいる見た目だ。だが、ハイーラとて、何の理由もなしにバルディに渡したわけではない。
「これから乗り込むのは、淫魔の拠点。淫魔特有の魔力…というか、フェロモンのようなものが充満しています。私は同族ですし、イアノさんも女性ですからさほど問題にはなりませんが、バルディさんは男性ですから…」
「なるほど。幻惑されても惑わされぬように、ということですか」
「そういうことです。ここで、飲んでおいてください」
自身の魔力から即興で作ったものであったため、味には自信がない。
にも関わらず、バルディは小瓶の中身を、一息で飲み干した。
「…お気遣い、感謝します」
「ありがとうございます」
バルディは表情一つ変えることなく、ハイーラへ小瓶を返した。
恐らく、マール親族程度の魔力では、格上のバルディ相手に幻惑は通じないだろう。しかし、万が一、というものがある。不安の芽はつぶしておくに限る。
そして、バルディはついに、屋敷の呼び鈴を鳴らす。
屋敷の音に見合わない、軽い音が鳴り響いた。
「は〜い」
扉の向こう側から、艷やかな、しかしどこか老成したような女の声が聞こえる。
もう、2度と聞くことはないと思っていた、忌まわしい声。
ーーーマール一家の、トップを務める女の声だ。
「先日アポを頂きました、魔界災害調査管理部部長、バルディと申します」
「お待ちしておりました」
その声と共に、目の前の大きな扉が、ゆっくりと開く。扉の隙間から、淫魔特有の、濃厚な魔力の香りが漂ってくる。
自分も同族だが、どうもこの濃縮された淫魔の魔力の感覚は、好きになれない。
屋敷中に高密度なフェロモンを充満させてる淫魔など、この一家くらいのものだろう。
扉が開ききり、ハイーラ達は中へと足を踏み入れた。
外見もピンク一色で下品だったが、中も負けず劣らずだった。
あらゆる場所が、パステルカラーでド派手にペイントされている。壁には、キスマークや大きなピンクのハートなどがあちこちに貼り付けられていた。見てるだけで、目が痛い。
「…はぁ…相変わらずだわ…」
あたりを見回しながら、ハイーラは静かに呟いた。
そして、正面に目を向ける。そこには、和装の淫魔が一人立っている。どうやら、案内人のようだ。
「バルディ様ですね。キーア様がお待ちです。ご案内します」
その淫魔は、頭を下げることなく、そのまま背を向けて歩き始めた。
ーーーこんなに態度が悪かっただろうか。自分が離れてる間に、相当に思い上がったものだ。
そして、キーアという名前。この家の、支配者の名前だ。
マールの人生を狂わせた、すべての元凶。一度、マールのことを巡って大喧嘩をしたこともある。
そんな者と、また会うことになるとは。
だが、今回はあの時とは違う。
バルディと、イアノ。高濃度の淫魔の魔力を受けても、平然としている二人。頼もしすぎる味方がいる。
「…こちらです」
案内人は、とある部屋の前まで来て、止まった。
普通なら、ドアを開けて、客人を中に招くだろう。 しかし、案内人は平然と、自分が先に入り、そのまま戻ってこなかった。
「失礼します」
だが、バルディもイアノも、そこに触れることなく、部屋の中へと入る。ハイーラも、その後に続いた。
部屋の中も、悪趣味だった。
目がチカチカするパステルカラーは変わらず、追加で趣味の悪い絵や、裸婦像等の彫刻が置いてある。それらも、全てショッキングピンクに塗り上げられている。
その中央に、大きな円卓があった。サトゥニアにも似たようなものはあったが、あの時よりも質が悪い円卓だ。一目で、分かってしまう。
サトゥニアと比べたら、こちらのものはもはや張りぼてだ。
部屋の中には、十はくだらない数の淫魔達がいる。どいつもこいつも、マールを徹底的に見下し、排除しようとした連中だ。ハイーラには、その全てに見覚えがあった。
その中央に、すでに座っている老婆がいた。その老婆は、留袖を身に纏っており、背筋は伸びている。
キーアだ。昔よりも多少は老けたが、その腹立たしい顔付きだけは変わっていなかった。
「どうぞ、おかけになって?」
キーアは手を差し出すでもなく、顎で座る席を指定してくる。どこまで、礼節がないのか。
「…失礼します」
バルディ達は、そこにも何も言わず、キーアに向き合うように腰かける。ハイーラも、バルディの隣へ腰かけた。
無意識に机の下で拳を握りしめてしまう。
再びここへ、舞い戻ってきた。マールを、大切な友人を、救うために。
そして、いよいよキーアと向かい合った。




