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21話

 朝の柔らかな陽射しがリビングの窓から差し込んでくる。いつものようにレオナード様がキッチンに立ち、エプロン姿で朝食を作っていた。いつも通りレオナード様へ声をかける。


「おはようございます」


レオナード様が、湯気を立てるスープをテーブルに置きながら言った。


「本日は買い物に行かれるご予定でしたね」


「はい! 今日は、ついにパン作りに挑戦しようと思います。ずっと作りたいと思っていたんです」


前々から気になっていたパン作りを今日挑戦してみるつもりだ。村の商店で見た新鮮な小麦粉や近くの農家さんが作ったバター。どれも魅力的で、これを使ったパンが食べられたらどんなに美味しいだろうと考えていた。


「小麦粉とかイーストとか、必要なものを買いに行かないといけません」

「では、私もご一緒いたします」

「えっ、でも今日は村までの買い物ですし、特に危険は……」

「いえ、私も同行いたします」


レオナード様はすぐに言い切った。


「村の中ならともかく、道中は油断しない方がいいです。今は、少し慎重に行動しましょう」


彼の言葉に、私はハッとさせられた。情報ギルドのことは、頭の片隅にはあったけれど、最近は何の気配もなく、つい気が緩んでいたのかもしれない。


「分かりました。それじゃあ、レオナード様も一緒にお願いします」

「かしこまりました」


彼は小さな笑みを浮かべながら、手を合わせて、自分の分のスープを一口飲んだ。



 朝食を終え、食器を片付けると、私はリビングで買い物カゴや財布の準備を始めた。


「お忘れ物はございませんか?」


「大丈夫です。カゴも財布もちゃんと持ちましたから!」


「それでは参りましょう」


彼が先に扉を開け、心地よい朝の風が吹き込んでくる。青い空がどこまでも広がり、雲ひとつない晴天だった。


「ついに、挑戦なさるのですね」

「はい! 絶対に成功させますよ!」


パン作りは、聖女としての生活では考えられなかった挑戦だ。これまでの私は毎日追われるように仕事をしていたから、こんな風に『新たな試み』をする時間なんて一度もなかった。


2人で一歩ずつ、村の道を歩き始める。爽やかな風が頬をなで、空の青さが心を軽くしてくれた。


(……この時間が、ずっと続けばいいのにな)


そう思いながら、私はしっかりと買い物カゴを抱えた。



 村の中でもお店多く並ぶ通りに着いた時、商店の前に何やら人だかりができているのが見えた。


「……あれ?」


立ち止まると、子どもから大人まで、村の住人たちが集まっているのが見えた。子供たちは不安そうに大人の背後から様子をうかがっている。村長の姿も見えるし、商店のご主人も外に出られている。


(……何かあったの?)


胸騒ぎを覚え、私は急いで足を速めた。


「セシリア様、気をつけてください」


レオナード様がすぐ後ろについてくる。その落ち着いた声が、かえって不安を増幅させた。村の人々の輪の外にいた女性に声をかけた。


「す、すみません、どうしたんですか?」


おばさんがこちらを見て、震える声で答えた。


「……農家のご主人が……倒れたんですよ……」

「えっ……!?」


驚いて、思わず彼女の視線を追う。その先には、地面に横たわる農家の旦那さんの姿があった。


「……お隣さん、そんな」


私は息を飲んだ。お隣に住む農家の旦那さんが頭から血を流しており、その下には赤黒い血だまりが広がっていた。奥さんが彼の体を抱きかかえ、すすり泣きながら名前を何度も呼び続けている。


「しっかりして! あなた! 目を開けて……お願いだから!」


奥さんの声がかすれ、涙がぽたぽたとご主人の顔に落ちていく。周りの村人たちは誰一人として手を出せないまま、ただその場を見守っていた。


「……突然倒れたんだ、その時に頭を」


私の横に立っていた男性が低く呟く。


「こんな場所で、これだけの出血……医者が到着する頃には……」


(助からない……? そんな……)


信じられなかった。昨日も元気に畑仕事をしていた彼が、今は命の危機に瀕している。


(助けられる……)


胸の奥が熱くなる。


(私なら助けられる……!)


聖女の力があれば、頭の傷を治せる。出血も止められるし、彼を苦しみから解放できる。だけど、ここで力を使えば……。


村人たちはこの場にいる。誰もが、私が『聖女』であると気づくだろう。せっかく築いたこの平穏な日々。村の人たちと一緒に野菜を育て、フランツさんやレオナード様の支えを受けて、やっと手に入れたこの『普通の生活』。


さっきまで、パン作りで頭がいっぱいでレオナード様との穏やかな日常があったはずの村に居られなくなる?

ふと、隣にいるレオナード様を見た。彼はすでに私の視線に気づいていたのだろう。


「……」


彼は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに真剣な表情になり、首を横に振った。


(しない方がいい……そう言いたいのね)


その意図はすぐにわかった。彼は私のことを第一に考えてくれている。あの地獄の日々を知っているからだろう。フランツさんも、レオナード様も、私の自由な生活のために動いてくれていた。聖女であることがばれたら、彼らの努力を無駄にしてしまう。


聖女であっても全ての命を助けられる訳ではない。今回だってその一つなのかもしれない。


(それでも……それでも……)


ご主人の血のにおいが風に乗って流れ込んでくる。奥さんの叫び声が耳を離れない。


(目の前の人が……死ぬかもしれないのに……私は……)


一歩、前に出た。


(私は……聖女、なんだ)


奥さんの隣に膝をつき、静かに彼女の肩に手を置いた。


「……少し、離れてください」


彼女は一瞬私を見つめ、怯えたような目をしたが、すぐに察してくれた。


「……お願いします、どうか、どうか……」


彼女は涙を拭いながら、ご主人の体から手を離した。私はそっと両手を彼の頭にかざし、目を閉じた。


(お願いします……)


心の中で祈るように言葉を紡ぐ。


(どうか、私に力を貸してください……)


静かに、心の奥底から、温かな光が生まれるのを感じた。聖女の力。久しぶりにその感覚が蘇った。


私の手から淡い金色の光が生まれた。周囲の村人たちが息を呑むのが分かった。


光はご主人の頭を包み込み、血のにじむ傷口が少しずつ消えていく。赤黒い血の跡も徐々に薄れていき、やがて、何事もなかったかのような滑らかな肌が現れた。


「……っ、あ……」


奥さんが小さく声を上げる。光が消えると、ご主人は深い安らかな眠りについているかのようだった。


「……これで、大丈夫です」


私はその言葉をようやく口にした。奥さんは一瞬、信じられないという顔をしていたが、すぐにご主人の体にすがりつき、涙を流しながら叫んだ。


「ありがとうございます! 本当に、ありがとうございます……!」


彼女の感謝の声が村中に響き渡る。周りの村人たちは誰一人声を上げなかった。いや、声を上げられなかったのだろう。その代わりに、皆の視線が私に集中している。


村長が前に進み出て、私の目の前にしゃがみ込んだ。


「……あんたは、もしかして……聖女様、なんですか?」


その問いに、私の胸がぎゅっと締め付けられる。村長の目は、どこまでも真っ直ぐだった。嘘をつくことはできなかった。


「……はい」


私は小さく頷いた。その瞬間、村の人たちがざわめき始めた。


(……もう、ここにはいられない)


やっぱり、こうなってしまった。わかっていた事なのに目の前が滲んだ。涙があふれ出て、止まらなかった。楽しかった生活が壊れていく。決して旦那さんを助けた事を後悔する事はない。だけど、野菜を収穫する喜び、村の人たちの優しさ、レオナード様と一緒に過ごした日々。全部、全部、失われてしまう。


(せっかく……幸せだったのに……!)


目をこすろうとしたその時、レオナード様の腕が私を包み込んだ。


「……よく、やりましたね」


彼の低い声が、耳元で囁かれた。


「あなたが、旦那さんを救ったのです。悲しいことではないですよ」


温かな声に、涙がますます止まらなくなった。

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